第79話:聖女様は、ついにエンカウントする
元日の冷たい冬晴れの空の下。
先ほどまでいたカフェから少し離れた、閑静な住宅街。その一角にあるマンションに向かって、最高級の純白の着物を身に纏った天ヶ瀬 陽葵は、息を切らして全力で走っていた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
普段なら絶対にしないような、着物の裾を乱しての全力疾走。
すれ違う晴れ着姿の通行人たちが、その常軌を逸した美少女の形相に驚いて道を空けるが、今の陽葵の目にはそんな周囲の景色など一切映っていなかった。
頭の中を占めているのは、ただ一人。
大晦日からずっと、冷たい部屋で、たった一人の家族であるお姉様と二人きりで過ごしているはずの、不器用で優しすぎる少年の顔だけだった。
「(……私は、なんて愚かなことをしてしまったんでしょう……!)」
走るたびに、冷たい空気が肺を焼き、後悔が胸を締め付ける。
親に放置され、姉に育てられたという、あまりにも重くて孤独な生い立ち。
獣医師になるという姉の夢を守るため、あの皇 志遠の脅迫にすらたった一人で屈しようとした、自己犠牲の塊のような優しさ。
湊は、その重すぎる荷物を、陽葵の心に背負わせまいとして隠してくれたのだ。
それなのに自分は、それを「泥棒猫の影」だと勘違いし、激昂し、彼の最も大切で神聖な家族の時間を、土足で踏み躙ろうとしてしまった。
「(嫌われて当然ですわ……。あんなにも私の重い愛を受け入れてくれた湊くんを、私は……っ)」
目から溢れそうになる涙を、陽葵はグッと堪えた。
泣いている暇はない。美月や春香が言ってくれた通りだ。彼が背負っているものごと全てを愛し抜くと決めたのなら、こんなところで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
やがて、見慣れた――とはいえ、いつもは黒塗りのリムジンの中から遠巻きに眺め、彼を降ろすだけだった――レンガ造りのマンションが見えてきた。(一度最上階の湊の部屋の天井に降り立ち、窓から覗いたことを除いては)
エントランスのオートロックは、事前にSPに調べさせておいた暗証番号(※天ヶ瀬グループの力による合法的な情報収集)で難なく突破する。
エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。
ウィィィン、という無機質な駆動音とともに、箱が上昇していく。
階数表示のランプが『3』に点灯し、チンッ、と扉が開いた。
冬特有の、身を切るような冷たい風が吹き抜ける外廊下。
陽葵は、その廊下の一番奥にある『302号室』の表札を見据え、一歩、また一歩と着物の草履の音を響かせて歩み寄った。
そして。
冷たい鉄の扉の前に立ち、インターホンのボタンへ指を伸ばし――。
「…………っ」
ピタリ、と。
陽葵の指が、ボタンの数ミリ手前で、完全に硬直した。
カフェを飛び出した時のあの燃え盛るような勢いと決意が、湊の部屋のドアという『現実』を前にして、急速に萎縮してしまったのだ。
「(だ、ダメですわ……!いざドアの前に立ったら、心臓が口から飛び出そうですわ……っ!)」
陽葵は顔を真っ赤にして、インターホンから手を引っ込め、廊下の壁に背中を預けてズルズルとしゃがみ込んだ。
怖い。
もし、ドアが開いて、湊に「今更なんの用だ」と冷たい目を向けられたら?
もし、本当に愛想を尽かされていて、「お前のその重い愛にはもうウンザリだ」と拒絶されてしまったら?
そんなネガティブな想像が、頭の中でぐるぐると渦巻く。
それに、ドアの向こうには今、湊が世界で一番大切にしている『お姉様』がいるかもしれないのだ。
弟を脅して付きまとっている「(という建前の)」異常な女が、元日のめでたい日に突然押しかけてきたら、お姉様はどう思うだろうか。間違いなく、警察か警備会社を呼ばれる案件である。
「(い、いえ、弱気になってはダメですわ、天ヶ瀬 陽葵!ここは誠心誠意、謝罪をするのです。……そうです、第一声が肝心ですわ。ドアが開いた瞬間の、私の態度で全てが決まりますのよ!)」
陽葵は立ち上がり、パンッ!と両手で自分の頬を叩いて気合を入れ直した。
そして、扉に向かってブツブツと、一人で『謝罪のシミュレーション』を開始した。
「(パターンA)……湊くん、ごめんなさい!私がすべて悪かったですわ!どうかお許しを!……いえ、これでは私の愛の重さが伝わりませんわね。軽すぎますわ」
陽葵は首を横に振る。
「(パターンB)……湊くん!貴方の孤独も、お姉様の学費も、私が天ヶ瀬グループの総力を挙げて一生面倒を見ますわ!だから私を捨てないで!……ダメですわ、春香さんにも言われた通り、これではただの成金女の脅迫になってしまいますわ……っ」
陽葵は廊下をウロウロと歩き回り、着物の袖を噛んで必死に思考を巡らせる。
湊の優しさに寄り添い、自分の罪を悔い改め、かつ、お姉様にも失礼のない、完璧で究極の謝罪の言葉。
「(……そうですわ。変に飾る必要はありませんの。ただ、私のありったけの誠意と、湊くんへの想いを、身も心も全て投げ出す覚悟で伝えるのですわ!)」
数分間の悶絶の末、陽葵はようやく『これしかない』という完璧なセリフを導き出した。
よし、と小さく頷き、インターホンの前に真っ直ぐに立つ。
緊張で、手足が震える。
でも、やらなければならない。彼を失うことに比べれば、自分のプライドなどチリ芥と同義なのだから。
陽葵は、深く、深く深呼吸をした。
そして、恐怖を振り払うようにギュッと両目を強くつむり、インターホンに指を伸ばそうとした――まさにその瞬間だった。
ガチャリ。
「えっ……?」
陽葵がインターホンを押すよりも一瞬早く。
目の前の冷たい鉄の扉が、内側から開け放たれたのだ。
パニック。
想定外のタイミングでのドアの開放に、陽葵の脳内コンピューターは完全にショートした。
だが、限界まで張り詰めていた緊張の糸が切れたことで、陽葵の体は『先ほど脳内で決定した完璧なシミュレーション』を、完全なるオートマティックで実行に移してしまった。
陽葵は目をギュッとつむったまま、その場に手をついて90度の完璧な土下座(最上級の謝罪フォーム)の姿勢をとり、廊下に響き渡る特大のボリュームで叫んだ。
「――湊くんっ!!この度は、貴方の大切なご家族の時間を踏み躙り、本当に申し訳ありませんでしたわ!!私は愚かで醜い嫉妬に狂った最低の女です!!どうかこの命に代えても償わせてください!!貴方のお姉様へのご奉仕も、天ヶ瀬家の全財産を投げ打ってでもお引き受けいたしますから、どうか私を捨てないでくださいませぇぇぇぇっ!!!」
一息で言い切った。
冷たい外廊下に、陽葵の悲痛な絶叫が木霊する。
…………。
…………。
しかし。
10秒経っても、20秒経っても、頭上からは何の声も降ってこない。
怒声も、呆れ声も、扉が冷たく閉められる音もしない。
「(み、湊くん……?まさか、私の重すぎる謝罪に引いて、言葉を失って……?)」
陽葵は恐る恐る、ギュッとつむっていた目をうっすらと開け、顔を上げた。
そして、そこに立っていた人物を見て、完全に息を呑んだ。
「…………あら?」
そこにいたのは、湊ではなく、一人の女性が立っていた。
年齢は……十代の半ばくらいだろうか。二十代といえばうそになる、少し幼い顔をしている。
でも、湊によく似た、少しだけ色素の薄いサラサラの髪。だが、湊のようにどこか影のある目つきではなく、柔らかく、それでいて芯の強さを感じさせる、とても知的なアーモンドアイ。
部屋着のゆったりとしたニットカーディガンを羽織っているだけのラフな格好で、守ってあげたくなる温かいオーラを纏っていた。
彼女は、突然自分の家の前で純白の着物を着た絶世の美少女が土下座をして絶叫しているという、あまりにもカオスな状況を前にしても。
全く取り乱すことなく、ただ少しだけ不思議そうに目を丸くして、陽葵を見下ろしていた。
「……えっと。ずいぶんと威勢のいい新年のご挨拶だけど。……あなたは、もしかして……?」
「あ……、あ、えっと……」
陽葵の思考が、完全にフリーズする。
間違いない。あの写真と同じ顔。
「(こ、この方が……湊くんの実の、お姉様……!!『夜凪 夏花』様……!!)
全身の血液が、一気に沸騰するような感覚に陥る。
陽葵の超高速回転する脳内のヤンデレモードが、目の前の状況を瞬時に再計算し始めた。
「(お姉様……。湊くんを女手一つ(?)で育て上げ、獣医学部で命と向き合い、湊くんが何よりも大切にしている絶対不可侵の存在……!ということはつまり!もし私が将来、湊くんと籍を入れて嫁入りした場合……この方が、私にとっての『義理の姉』……!!)」
義姉。
それはつまり、愛する湊の命の恩人であり、夜凪家の絶対的な権力者であり、自分と湊の結婚の最大の鍵を握る『最強の門番』に他ならないだろう。
「(や、やらかしましたわ……!!未来の義姉様とのエンカウントを、いきなり土下座からの全財産譲渡宣言という、最高にイカれたメンヘラ女のムーブで迎えてしまいましたわーーーっ!!!)」
陽葵は心の中で血の涙を流し、絶叫した。
だが、ここで取り乱しては、ただのヤバい女で終わってしまう。天ヶ瀬の誇りにかけて、未来の義姉からの第一印象を、これ以上下げるわけにはいかない。
陽葵は土下座の姿勢から、バネ仕掛けの人形のようにスッと立ち上がった。
そして、純白の着物の乱れを瞬時に直し、両手を前で上品に重ね、これまで生きてきた中で最も美しく、最も完璧な『聖女』の微笑みを顔に貼り付けた。ただし、超絶猫かぶりモードである。
「……初めまして、お姉様」
ピンと張り詰めた、美しいソプラノの声。
「私、夜凪 湊くんと、同じ大学で親しく(物理的に隔離して)お付き合い(監視)をさせていただいております、天ヶ瀬 陽葵と申します。……本日は新年のご挨拶と、少しばかりの『命を懸けた謝罪』に伺わせていただきましたわ」
陽葵は、深々と、それはもう見事な角度で、完璧な一礼をして見せた。
その堂々たる、しかしくるっている内容の挨拶を聞いて、夏花は瞬きを数回繰り返した。
そして、ふわりと、湊に似た優しい笑顔を浮かべた。
「……ああ。あなたが、湊がいつも電話で照れてる、噂の『ヤバい聖女様』ね。……ふふっ、話に聞いてた以上に、面白くて可愛い子じゃない」
「なっ……!ヤ、ヤバい聖女様……!?」
陽葵の完璧な猫かぶりの仮面が、ピシリと音を立ててヒビ割れた。
「立ち話もなんだし、外、寒いでしょ?……上がって、陽葵ちゃん。湊も、ずっとスマホ握りしめてソワソワしてたから」
あっさりと。
全く警戒する様子もなく、未来の義姉は、自分のテリトリーへと陽葵を招き入れた。
絶対に敵わない。
陽葵の野生の勘が、そう告げていた。
この落ち着き、この余裕、そして湊を育て上げたという絶対的な事実。あのチョコミントの同級生など比にならないほどの、圧倒的な『強者のオーラ』がそこにはあった。
「……し、失礼いたしますわ、お姉様……っ!」
陽葵はガチガチに緊張しながら、未来の義姉が率いる要塞の中へと、おずおずと足を踏み入れるのだった。




