第12話:聖女様の最終手段は、物理的なマーキング
◇◆◇◆◇
「……負けた。人生で初めて、敗北という名の泥を舐めたわ」
放課後、いつもの図書準備室。陽葵はソファにぐったりと横たわり、天井を見つめながら虚空を掴むような仕草をしていた。
「…何に負けたんだよ。というか、ミカン一個ででそんなに世の終わりみたいな顔をするな」
俺が呆れながら椅子に座ると、陽葵はバネ仕掛けの人形のように跳ね起き、重力を無視した速さで俺の膝の間に割り込んできた。
「ミカンじゃないわ!私の聖なる威圧を、あんなキラキラした笑顔で無効化されたのが許せないの!あの辻岡 春香……あれは人間じゃない。人類の理性滅ぼしに来た、天然記念物的なモンスターよ!」
「お前も十分、学校の生態系を壊してるモンスターだけどな」
陽葵は俺の言葉を完全に黙殺し、恭しく、漆黒の箱を取り出した。
「いい?湊くん。ルールが通じない蛮族には、もう物理的視覚効果で対抗するしかないの。……これを、今すぐつけなさい」
「……なんだ、これ」
箱の中に収まっていたのは、光沢のある黒い本革製のネックストラップだった。だが、カードホルダーの中に踊っているのは、生徒証ではなく信じられない文言だった。
『所有者:天ヶ瀬 陽葵(連絡先:内線001)
特記事項:許可なく餌を与えないでください』
「……これ、生徒証を入れるやつじゃないよね?所有者ってでかでかと書いてあるし、特記事項が完全に野良猫扱いなんだけど」
「特注の『湊くん専用・不可視の檻(可視化重装版)』よ。これを明日から、全校生徒の前でつけて登校しなさい。……いい?これで湊くんが誰の所有物か、脳筋バスケ部員にも一目でわかるはずよ!」
「断る。恥ずかしすぎて社会的死を迎えるだろ。あと不可視と可視は矛盾してる」
俺が全力で拒否すると、陽葵は急に静かになり、俺のシャツの裾をギュッと握りしめて、今にも泣き出しそうな目で俺を見上げてきた。
「……湊くん。君がこれをつけてくれないなら、私……明日から辻岡さんの部活動中に、体育館のスピーカーをジャックして般若心経を爆音でエンドレスに流し続けるわよ?」
「……。わかった。つければいいんだろ、つければ」
放送事故を未然に防ぐため、俺は仕方なくそのマーキングを受け入れた。
◇◆◇◆◇
翌朝。俺は首から「所有者:天ヶ瀬 陽葵」と書かれたストラップをぶら下げ、死んだ魚の目をさらに虚無にしながら登校した。廊下を通る生徒たちが、明らかに俺を避けるか、あるいは指を差して失笑している。
「(死にたい…もはやいっそ楽にしてくれ………)」
大抵の不遇には耐えてきたつもりだったが、この精神的凌辱だけは、さすがに堪えた。
「おい、見ろよ……ついにあんな物までつけられたぞ」
「聖女様、管理が徹底しすぎだろ……。もはや飼育じゃん」
「いや、飼育を超えて信仰じゃね?」
そんな嘲笑の中、案の定あの光が現れた。
「おはよー!夜凪!……って、何それ!スタイリッシュでかっこいいじゃん!」
辻岡 春香だ。今日も今日とて、陽葵の意図を1ミリも理解していない。
「かっこよくないだろ。……これ、見ろ。所有者って書いてあるんだぞ。お前、これを見ても俺に話しかけるのか?」
俺が自嘲気味にストラップを提示すると、春香はそれを手に取り、宝石鑑定士のような真剣さでまじまじと見つめた。
「へー、天ヶ瀬さんって、落とし物センターもやってるんだ!夜凪を拾ってくれてありがとうってことだよね!さすが聖女様、親切ー!」
俺はその言葉を聞いて、心底戦慄した。世の中にこれほどまでに物事をプラスに、かつ致命的に誤認できる生き物が存在したのか。天然という言葉では片付けられない、種の断絶を感じた。
すると、背後から「ドォォォォォン……」という、物理的な地響きを伴うプレッシャーが迫ってきた。殺気という名の異常気象を身に纏い、そこに仁王立ちしていたのは陽葵だった。
「……辻岡さん。そのストラップに触れていいのは、この惑星で私だけですわ。今すぐその不浄な手を、夜凪くんの所有境界線から引き離しなさい。……さもなくば、その手を永久にバスケができない形状に、慈悲を持って整えて差し上げますわよ?」
「あ、天ヶ瀬さん!おはよう!これ、いいアイディアだね!私も美月につけてもらおうかな、よく遠征先でもはぐれるし!」
「な………っ!!」
陽葵の麗しい額に、ド派手な青筋が浮かび上がる。所有権の誇示という名の威圧すらはぐれ防止の迷子札というボランティア活動として解釈されてしまった。
陽葵はプルプルと震えながら、俺の肩を背後からガシッと抱きかかえた。
「……もういいわ。夜凪くん。明日からは、ストラップなんて生易しいものじゃないわ。……私の家の家紋を、あなたの首筋にタトゥーとして彫ってあげる。それも特大のを。……いいわね?」
「(極道かよ……)」
聖女様の独占欲は、天然の光に焼かれ、いよいよ常人の理解を超えた領域へと突入し始めていた。




