第10話:聖女様の檻は、強度を高める
「夜凪ー?バスケ部の顧問から、用具室の鍵を返してほしいって言われたんだけどー。あ、天ヶ瀬さんも一緒?」
ここ最近、図書準備室で管理という名の指導を天ヶ瀬 陽葵が夜凪 湊に施しているという話はもっぱら有名だ。春香がここを迷わず訪れたのも、それが理由だろう。どうやら、俺が担任に押し付けられた仕事で、ここに来る前に用具室にいたことを聞きつけ、追いかけてきたらしい。
扉の向こうから聞こえる、春香の屈託のない声。その瞬間、図書準備室の空気は一瞬でマイナス200度まで氷結した。
陽葵は俺の膝の間に挟まったまま、表情を怪物のそれに変えゆっくりと、首だけをドアの方へ向けた。
「(フクロウかよ……)」
「……湊くん。無視して。あんな泥棒猫の声、聞いちゃダメ」
「いや、鍵は返さないとまずいだろ。あと泥棒猫って、俺は別に誰のものでも――」
「黙って。私の指、噛んでていいから。ね?」
陽葵は俺の口を自分の指で塞ぎ、もう片方の手でスカートのポケットから自分のスマホを取り出した。画面には、学校の理事会や有力者の連絡先がずらりと並んでいる。こいつ、マジで春香の推薦を潰す準備を始めやがった。
「夜凪ー?返事してよー。中にいるんでしょー?鍵、開いてないし」
春香がドアノブをガチャガチャと回す。その音が陽葵の神経を逆撫でする。
「……あ、そうだ。美月ー!ちょっと肩貸して!上の窓の隙間から中覗いてみるから!」
春香の突拍子もない提案に、廊下から美月の気だるげな「えー、めんどくさい……。いいけど、見えたらすぐ降りてよ」という声が続く。
「……っ!」
陽葵の顔から、ついに聖女の余裕が消えた。もし、窓から「学校の聖女が、嫌われ者の男の膝の間に潜り込んでいる姿」を見られたら――。
陽葵は素早く俺から離れると、一瞬で乱れた制服を整え、鏡も見ずに髪を完璧にセットし直した。その神業のような洗練ぶりは、もはや特殊部隊だ。
「……夜凪君。あなたはそこで、いつものように『死んだ魚の目』で座っていなさい」
陽葵はそう言い捨てると、凍りつくような冷笑を顔に貼り付け、勢いよくドアを開けた。
「騒々しいですわね。図書準備室は、あなたの部室ではありませんわよ。辻岡さん」
「あ、天ヶ瀬さん!ごめん、鍵が閉まってたから。夜凪に用具室の鍵を返してもらおうと思って」
春香は、陽葵から放たれる凄まじい拒絶の覇気を、あろうことか天然の笑顔で無効化した。
「夜凪ー!なんだ!いるじゃん!鍵、そこの机の上にあるやつだよね?もらっていくよ!」
「お、おう」
春香が陽葵の横をすり抜け、室内へ踏み込んでくる。陽葵の眉間が、耐え難い屈辱にピクリと跳ねる。
「ちょっと。勝手に入らないでくださる……?」
「いいじゃん、減るもんじゃないし!それより夜凪、さっき美月と話してたんだけどさ。夜凪って意外といい奴だよね。昨日ノート踏まれた時も、怒んないし、嫌な顔一つもせずに片付けてたし」
春香が俺の肩をポンと叩く。その瞬間、陽葵の手がドアの枠をメリッと音を立てて握りつぶした。
「……辻岡さん。その手を、私の――いや、学校の不浄物から離してくださる?あなたまで腐敗してしまいますわ」
「え?汚くないよ!ほら!夜凪、天ヶ瀬さん!また明日ね!」
両手を広げて見せると、春香は嵐のように去っていった。廊下では美月が「……あんた今の目、見てなかったの?マジで消されるよ?」と呆れ顔で春香と共に走り去っていった。
静まり返った図書準備室。陽葵は、春香が触れた俺の肩のあたりを、親の仇のようにハンカチでゴシゴシと拭き始めた。
「……消毒。消毒しなきゃ。湊くん、あの女に触られたところ、今すぐ皮が剥けるまで洗ってきて。それか脱皮しなさい」
「爬虫類かよ」
「……ああ、もう、我慢できない。明日、バスケ部の部室に火を放とうかしら。一緒に薪を焚べに行きましょう」
髪を搔きむしりながらそう呟く陽葵。
「物騒な冗談はやめろ。……おい、ハンカチが破れるぞ」
「冗談じゃないよ!湊くんは私の檻……じゃなくて、私の管理下にいるんだから!他の光が当たっちゃダメなの!私だけの暗闇にずっといて……っ!」
陽葵は俺を後ろから抱きしめ、子供のように泣きじゃくりながら、より深く、俺の背中に顔を埋めた。聖女様の独占欲という名の檻は、外敵の登場によって、より一層その強度を増していく。




