第2章 耳が長けりゃえらいのかⅢ
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飯を平らげた後、俺はゆっくりとストレッチして体をほぐしていた。
「シャーラブーラたちに、俺の動きはばれてるかな」
「どうじゃろうな。じゃが、あやつらにもプライドはある。今朝の諍いで『お前を仕留める』と啖呵を切ったのじゃ。であるなら、今更夜討ち朝駆けなど仕掛けんとは思うがな」
「そっか」
「……ヴェロッジの中央には集会所代わりに使っておる建物がある。逃げるならそこを避けるといい。恐らくじゃが、シャーラブーラたちがそこにおるからの」
エルフは人間を下に見ている節がある。舐めてかかってくれてるならありがたい。
正直なところ、俺が彼らに勝てる可能性は低い。シャーラブーラと平坦な場所で一対一ならともかく、ヴェロッジ、あるいはグァムシロの森はエルフのフィールドだ。俺に利はないし、恐らくだが数の上でも不利になる。
そこまで考えて、すっかり戦う方向に意識がいっていることに気づいた。どうしてだか、大人しく逃げてはならないと考えている。これは、俺があくまで冒険者である証左か。エルフたちの言うところの風の影響か。あるいは――――。
「キリハリリハさんには言っておくよ。前に、俺の身内がしでかした、とか言ってたじゃないか」
「具体的な内容は聞かなかったがの」
「柱にいた神を追い出したのは俺の兄貴だ。もしかすると、そのせいで亜人と人間が戦うことになるのかもしれない」
やけにひんやりとした空間に、俺の声が吸い込まれていった。
俺は答えが返ってこないことを苦しく思って、無言で身支度を始める。初めて装備するベルトやウェストバッグ。戦う為のものばかりが俺の体を重くしていく。
「そうかもしれんな」
キリハリリハはそう言って、グラスの中身を飲み干す。酒、だろうか。
「じゃが、そうではないかもしれぬ。元々、そうなるさだめにあったかもしれん。戦いは起こった。過去にもあったのじゃ。主がどうとか、主の兄御がどうとか、関係なくな」
「でも、神様がいなくなるなんてことはなかっただろ」
「ハシラサマはあくまで神よ。この世界で起こった戦いを見やり、悲しんでいるのかもしれんし、怒っているのかもしれん。笑っているのかもしれんのじゃ。大事なのは神の存在ではなく、神を信じるという自分の心じゃ。……ライアシャイアは精霊を重んじているようじゃが、今の世に心底から精霊を敬っているものは、そうはおらん。人間はもとよりヴェロッジのエルフでさえな。『だから気にするな』。そう言ってやれば主の心は穏やかになるのかえ」
いや、ならないだろうな。
兄貴がどうとか、それは俺の中の問題だ。俺が『そうだ』と思って、信じている限りはどうにもならない。
「主は自分の兄を追っているのじゃな」
「ああ」
「そうか。……血の繋がりのあるものを追うのは、何ら不思議なことではないよ。家族か。わしにはもう、遠く、古い記憶しかないが、主の思いが成就されることを祈っておる」
「ありがとう。でもさ」
俺は少しだけ言いよどむ。こういうことを言ったら、キリハリリハが気を悪くするんじゃないかと思ったからだ。だけど、彼女にお礼を、俺の思いを伝えるのは今しかない。
「キリハリリハさんには、その、家族がいないかもしれない。でも、俺はあなたからあなたのことを教わったよ。短い間だったし、俺は出来が悪いから全然覚えられなかったけど。けど、あなたの技や魔法は俺の血と肉になる。あなたからもらったもので新しい俺が出来上がるんだとしたら、俺はそいつを血の繋がりだと思ってる」
何せ、俺は誰かにものを教わったという経験がない。
俺はいつだって見ていただけだ。
誰かが教わっているのを見て、そいつの成果を盗み見て、真似ていただけに過ぎない。
「あなたと出会えてよかった。ありがとう、キリハリリハ」
「……主」
「それじゃあ、」
俺はマントを羽織り、彼女に背を向けた。後は行くのみ。前を向くだけ。その結果、俺の身にどのようなことが起ころうとも、俺には俺の信念があり、そいつが俺の道を作るはずだ。
「いってきます」
<6>
ホワイトルートという大陸には、一つの、巨大な柱が聳えていた。
柱は地上を睥睨し、見下ろされる人々はその柱を尊んでいた。
ストトストンの住人のほとんどは知らなかったが、柱には《シナツヒコ》という神がいた。その神は、自分が見下ろす人々の為に、自分を見上げる人々の為に、悪い気が入ってこないようにと風を吹かせた。シナツヒコは、ホワイトルートを確かに守っていたのである。
そこに差はない。
神は人間も動物も区別なく守っていた。耳が長い、肌が黒い、そのようなことを神は気にしていなかった。この大陸の生きとし生けるものを愛おしんでいたのだ。
「じゃが……」
ヴェロッジの大樹の枝に、一人の老エルフがいた。彼は『星詠み』と呼ばれ、様々な吉兆を占ってきた人物だ。
その星詠みは空を見上げ、風を感じ、震えていた。
今、この地によくないことが起ころうとしている。黒い風が吹き荒れて、大陸を包み込もうとしている。ヴェロッジのエルフもキャラウェイの人間たちも同じだ。逃れる術はない。風はただ吹くだけ。風は何をも区別せず、一切合切を飲み込むだけ。
星詠みの目には何も見えない。見えるのは漆黒色の、どろどろとした塊だけだ。
――――果たして。本当にそうなのか?
胸をざわつかせているのは絶望の渦ではなく、希望の熾り火ではないのか。
長い時を生きた自分ですら見誤ることはある。ああ、そうだ。星詠みはぐっと閉じていた目を開く。
体にまとわりつくような、妙に粘り気のある風。その中に感じる微かな清らかさ。
「まだ、風は……」
星は未だ天にある。
柱の伸びていく先に星はある。綺羅に飾られた夜の幕。それが地上を映す鏡だと断ずるならば、地上にもまだ星はある。
風はまだ吹いている。シナツヒコの意志はまだ、この地に残っている。
<7>
ヴェロッジのエルフたちは、明日に控えた王都攻めの打ち合わせをするべく、集会所でひざを突き合わせていた。
車座になって鍋を囲み、煮えた肉や野菜を突きながら、人間は悪いものだとか、エルフは尊いものだとかを肴にして騒がしくしていた。
「この大陸中におる、亜人の氏族が味方してくれるとはな」
「ああ、心強いものだ」
ヴェロッジにはホワイトルート中から様々な亜人が集まってきていた。団結し、怨敵を打ち滅ぼす為に。エルフたちはそう信じている。
「プロシィの森のオウガたちも間もなく来るらしい」
「おお、一騎当千と謳われる彼らが」
「カルディア周辺のイア族なら、もう見えるぞ」
「では宴を開かねばならんな」
がこん、と、集会所が揺れた。強い風が吹いたのだろう。古い建物にはあちこちにガタがきているし、最近では珍しくもないことだと、エルフたちは気にも留めなかった。
そうして、がらりと開いた扉から覗いた人影にも大した注意を払わなかった。大方、どこぞの氏族が挨拶にでも来たのだろうと思っていた。
「王都を攻める作戦会議かよ。お前ら、殺し合いするのにそんなに楽しそうなのか」
誰かが鼻を鳴らした。エルフや亜人の臭いではない。人間のそれだ。何故誰も気づかなかったのかと、忸怩たる思いを噛み殺す。
場にいたエルフたちは、自分の近くにあった、壁に立てかけておいたそれぞれの得物を引っ掴んだ。
誰かが叫んだ、貴様、と。その声に反応し、出入口にいたものが現れる。
「ご隠居様のところにいたやつか」
「あの時の冒険者かっ」
キリハリリハは何をしているのだと詰るものもいた。宴と酒気で茹った頭と浮かれた気分。それらを引き連れたまま、エルフたちは得物を構える。
冒険者。エルフの敵――――八坂長緒が鞘から剣を抜いた。それを見たエルフたちの頭に血が上る。ナガオが抜いたのは訓練用の木剣だったからだ。
「舐めているのかっ!」
「構わん、射殺せ」
エルフたちの罵声と怒号に晒されながらも、ナガオは怯まなかった。
「逃げるのはやっぱりやめだ。お前らを止めてから、それから考えることにしたからな」
「止めるだとォ」
「どうせ俺の言うことなんて聞いちゃくれないんだろうし、あんたらは人間の言葉を受け入れやしないんだろ。叩きのめして、話はそれからだ」
エルフたちは一瞬間、押し黙った。目の前の人間の言葉が耳に入っていても、脳で理解出来なかったからだ。
誰が、誰を、叩きのめす?
「放て!」
矢が、一斉にナガオへ向かう。だが、その矢は、突如として吹いた風に巻き上げられ、軌道を変えられて、一本たりとも彼に届かなかった。
ナガオは翻ったマントを元の位置に戻すと、剣の切っ先を一人の男に対して擬す。
「あの夜の続きだって言ってんだ。やっぱりさ、よくよく考えたらおかしいし、ムカつくよな。急に呼ばれていきなり襲われて。俺にだって都合があるし用事だってあったんだ。いいかよ、俺はなあっ、先へ行かなきゃいけなかったんだ! こんなよくも分からねえ森に呼び出しやがって! こっから兄貴たちのところまでどんだけかかると思ってんだよ! すげえ遠回りじゃねえか!」
「知るか! 何言ってるんだお前は!」
「続きだって言ってんだって、言ってんだろうが!」
ナガオが、体の前面部のベルトから短剣を抜く(これもまた訓練用だった)。彼はそれを、出入口に最も近いところに座っていたものへと投げつけた。
短剣はまたもや吹いた風に乗って勢いを増し、
「あっ、ああ!」
「長が!」
速度と距離を見誤った、ヴェロッジの長サンシチの額にどすんと命中した。
サンシチはうーんと唸りながら、仰向けになって倒れる。そうして彼は天井を見上げたまま、短い手足をぴくぴくと痙攣させていた。
「貴様ァ!」
「八つ裂きにして鍋に突っ込んでやる!」
「長の仇だ!」
「いや、長はまだ死んでねえ」
エルフたちが再び矢を番えると、ナガオは外へ逃げ出してしまう。呆気にとられたエルフたちだったが、気を取り直してすぐに後を追いかけた。たかが人間一人、兎よりも仕留めるのは簡単なはずだった。




