第3章 figurehead
<1>
威勢よく入っていったのはいいが、やっぱりやべえし怖い。すぐに引き返して集会所の裏手へ逃げ込む。こんなに騒がしくしていると他の連中もやってくるだろう。急がねば。
正直、エルフたちを説得するのも、彼らから何か『いい感じ』の情報を得るのも難しいだろう。そう考えて、シャイアさんに教えてもらった、風を発生させる『だけ』の魔法を使って、自分の臭いを消して、集会所の様子見だけで終わろうと思っていたんだが。
「貴様がーっ、貴様がシャイアをたぶらかしたァ!」
シャーラブーラやサンシチの顔を見て、初日のことを思い出して、ふつふつとした怒りが湧いてきてしまった。
理不尽な話だ。俺は何もしていなかったのに、エルフたちに散々やられた形になったのだから。俺は理不尽が嫌いだ。借りは返す。きっちりと。
そんなわけで、ラッキーにもサンシチという爺のエルフを仕留めた(訓練用の短剣なのでちょっと気を失った程度だろうが)後は、我ながら執念深いような気もするが、シャーラブーラに借りを返してトンズラだ。
そうしてドリスやアニスたちにこのことを話せば、大きな戦いになる前にことを収められるかもしれない。いや、収めてもらわないと困る。
「いたぞっ」
「裏だ! こっちから回り込め!」
見つかったか!
エルフたちが二手に分かれようとしている。俺は木剣を鞘に納め、メニューから槍を呼び出した。そいつを引っ掴み、物陰から飛び出す。
俺を認めたエルフが三人、彼らが驚いたのは一秒にも満たない時間で、すぐに矢を番えて放った。
矢が掠める。腹、頭、脇。致命傷はない。恐れず前へ。
彼我の距離は数歩で縮まる。その間、矢はまだ放たれる。一歩。風を切る音。二歩。しゃらりとした剣を抜く音。三歩。俺は槍で目の前にいるエルフを払った。
訓練用の槍は長い棒と変わらないが、遠心力をもって振るえば、エルフたちに重たい一撃を与えることも不可能ではない。まずは一人、動きが止まった。
二人のエルフは槍のリーチ外に逃れたが、俺は残った一人の腹を突き、それだけでは足りないだろうから、こめかみに裏拳を当てておく。死にはしないが意識は飛ぶはず。
「おおっ……!」
槍を手放す。今の俺にとって、こいつは接近すれば無用の長物だ。フェネルのように攻撃を捌ける自信はない。
エルフたちも弓ではなく、剣を抜いて俺に切りかかってくる。そいつは拳で防ぐ。剣の腹に俺のパンチをぶち当てれば、バランスを崩したエルフが後ろへ下がった。
飛び込むようにして追撃。翻ったマントがわずかな間だけ俺の姿を隠す。俺はエルフの足を払い、右のストレートを放った。確かな手応えと低い呻き声。
俺は殴ったエルフがどうなったのかを確認しないで木剣を抜く。こちらの脇腹を狙った切り払いを躱し、振り向きざまに得物を振る。両者ともに攻撃が空ぶった。
牽制代わりの短剣を投げると、エルフは反射的にかそれを斬り落とす。その隙を衝いて俺は距離を詰める。返す刀は拳で弾く。
「くそっ」
悪態を吐いたエルフが風の魔法を使い、後退を試みる。俺はある呪文を呟いた。エルフの表情が歪む。
「貴様、何故それを」
「逃がさねえぞ!」
俺もまた、風の魔法を使ってエルフを追う。やつは木の上に逃れようとしたが、足を引っ張って地面に叩き落とした。
エルフの体から自由が失われる。馬乗りになったところで、俺は右に体をずらす。風の刃が、先まで俺の頭があった位置を通り抜けていった。あぶねえ。
《見切りⅡ》→《カウンター》のコンボでエルフを気絶に追い込む。すぐさまこいつから飛び退き、別のエルフたちをねめつけながら後ずさりする。
「三人もやられたのか……?」
伸びた仲間を見て、他のエルフが苦しげな表情を浮かべる。
俺はその間、背面にあるウェストバッグに手を伸ばし、回復薬の入った小瓶を掴む。そいつの栓を空け、エルフの様子を見ながら一息に飲み干す。減ったHPを補充して、呼吸を一つ。少しだけ落ち着いた。
エルフたちは俺を囲もうとするような動きを見せる。心の中で数を数える。……集会所にはエルフが九人いた。サンシチはまだ建物から出てこない。三人は飛ばした。残りは五人。五人とも、ここにいて俺を囲んでいる。
「助けは呼ばないのか?」
「黙れッ!」
俺がそう聞くと、シャーラブーラはぎりぎりと歯を食い縛る。
だったらまだ望みはあるか。色々と話を聞いたが、王都攻めの主導権を握ってんのはここのエルフだ。他の亜人をヴェロッジに呼び寄せているのがその証拠だろう。なるほど。エルフにもメンツ、プライドがある。ここでよそ様に助けを求めると舐められるかもしれないってことで、自分たちだけで俺を始末したいってところか。
俺はメニューで投げ捨てた槍を呼び戻し、手斧も取り出しておく。両手に武器を持ち、
「おおぉおらああああ!」
シャーラブーラに向けて手斧をぶん投げる。やつは横っ飛びでそれを回避。俺は大股で走る。後ろからエルフが迫るが無視した。
起き上がろうとしていたシャーラブーラの肩を蹴り、その反動を使って体を捻じり振り返る。手には槍。前にはエルフ。
「《閃光菖蒲》!」
グラディウスから得たスキルを発動する。発動を宣言するや槍の切っ先に淡い光が灯った。その槍でもってエルフの胸を突く。流石に肉を貫くことはなかったが、手応えはあった。何せ訓練用とはいえ、槍の柄が砕けるほどの衝撃だ。
血を吐きながらエルフが倒れる。あと四人。這うようにしてその場から脱し、他のエルフの追撃に備える。背中で魔法を喰らい、側面から矢を受ける。まだ平気だ。まだいける。
俺は木の幹に体を隠し、小瓶を二つ掴んだ。HPとSPを回復し、息を整える。
息だ。呼吸だ。乱すな。無駄に吸うな。無駄に吐くな。俺に出来るのは精々それくらい。ぜいぜいと荒れる呼吸を元通りにするだけ。
「出てこい卑怯者め!」
あちこちに散らばっているであろう武器を、メニューを使うことで回収する。短剣を二つ、指の間に挟んだ。柄がひしゃげた槍も掴んで、木の陰から躍り出る。
短剣を投擲。エルフの射た矢が迫る。そいつを壊れかけた槍で受け止めた。俺はエルフの言葉を叫ぶ。風がぶわりと巻き起こり、短剣を乗せて真正面へと飛翔する。
エルフたちは木の枝や、建物の屋根に陣取っていた。俺の覚えた魔法では、俺自身をどうにかできるほどの風は起こせない。走りながら、身を隠せる場所を探す。
上からは矢が降り注ぐ。新しく買ったマントに穴が開き、俺の肩に矢が刺さる。
「卑怯者か、そうかもな!」
俺は集会所を目指した。エルフたちはあっと声を上げる。射掛けられながらも、俺は集会所の中へと滑り込んだ。そこには気を失ったままのサンシチがいる。
「爺をぶっ殺すぞ!」
もちろん俺にそんなつもりはないが、エルフたちも長をやられてはまずいと思ったのだろう、木から降りてのこのことこっちにやってきた。
息を殺し、出入口の傍に身構える。
「長を離せっ」
一人釣れた。
エルフが集会所の中へと足を踏み入れたと同時、俺はそいつの細腕を引っ張って体勢を崩す。
まず腰に一撃。相手がぐらりと揺れる。訓練用とは違い、俺の左手にはめたドーンナックルの攻撃は強烈だろう。動きが止まったところで、腹にもう一撃。気絶したのを確認し、そいつを外に放り出す。
俺は集会所の窓を開け、窓枠を伝って屋根を目指す。屋根に上ると、なるべく物音を立てないようにして移動してこっそりと下を見た。集会所の近くには残りのエルフが固まっていた。
「こっちだコノヤロウ!」
エルフたちが頭上を見上げる。注意を引いてから《直視不可曙光》を発動。やつらが無灯状態になったところで飛び降り、めちゃめちゃに暴れ回った。
キリハリリハから借りた武器のほとんどは壊れていた。俺の手元には短剣が一つだけになっていたが、シャーラブーラ以外のエルフをぶっ倒すことは出来た。
最後に残った俺とシャーラブーラは、お互いが踏み込めばぶつかるくらいの距離を維持し、ぜえはあと息を荒らげる。
「き、貴様はァ……!」
「やっと二人きりになれたな」
「よくもこんなっ、やはり殺しておくべきだったのだ!」
ぎちぎちとぶつかる殺意。真正面から受ける憎しみの込められた視線は、俺を震わせる。
「俺一人にここまでされるくらいなんだ。王都攻めは諦めてくれよ」
「諦めるかっ。貴様一人ではここまでだ、我らが結束すればセラセラの血など容易く吹き飛ぶ!」
説得の方法もタイミングも間違った気がするが、後には引けない。
「俺に負けたら諦めてくれるか?」
「ほざけェ!」
シャーラブーラが剣を抜いた。見切り……たいけどこの距離だと難しいし、はええ! やっぱりこいつが一番強いのか!
俺は後ろへ退き、短剣を構えた。そいつで防ごうとしたが、
「きぃいいいいえええええ!」
奇声と共に振るわれた剣によって、前にちょこんと出しておいた短剣が真っ二つにされる。やっぱダメだ。もう手持ちの武器はない。
目の前には真っ赤な顔をして俺をねめつけるシャーラブーラ。既に彼は剣を大きく振りかぶっている。当たれば大ダメージ。下手すりゃ死ぬ。……? だけど、不思議と絶望感はない。
短く息を吐き出す。視界はクリアに。俺は、シャーラブーラの腕を蹴り上げた。
「……っ!?」
後ろへ下がるシャーラブーラ。
見ろ。ようく見ろ。
赤ら顔じゃねえか。酒が回ってるんだ。
大きく振りかぶってたってことは、でかい一撃を狙ってるってことだ。
こいつは俺を嫌って、憎んで、殺そうとしている。冷静じゃない。だったら俺には勝機がある。
「殺してみろよ」
腰を落として、低く構える。シャーラブーラはブチ切れたのか、目を大きく見開いて剣を振った。俺の首を一発で落とすつもりだったのだろう、鋭い一撃だった。それ故に読み易かった。
更に姿勢を低くすると、頭上を剣の形に凝った殺意が通り過ぎていくのが分かった。ふ、と、息を吐く。見上げると、憤怒から驚愕に変化していくシャーラブーラの表情を認められた。
腹に蹴りを見舞う。シャーラブーラがくの字に折れ曲がる。足りない。《連撃》を発動すると、自分の体が羽根のように軽くなったのを感じた。相手が態勢を整えるより早く、俺はやつの足の甲を踏みつけ、顎に掌底を放つ。まだ足りない。再度《連撃》を発動。
「きさま、アァ……!」
その場で立ち止まった俺は、シャーラブーラの反撃を待つ。やつはふらふらのままで剣を振るった。カウンターしてくれと言わんばかりの攻撃だった。
顔面に拳を二度、三度叩き込むと、シャーラブーラは糸が切れたかのように仰向けになって倒れ込む。最後の最後まで武器を手放さなかったのは、戦士としての矜持か。
俺は息を整えて周囲を見回す。足元に矢が突き刺さった。上から撃たれたのだ。急いでそちらに目を向けると、ぐるりと、俺の周りをエルフたちが取り囲んでいるのが分かった。
「やってくれたな……!」
「よくも長を」
「よくも隊長を」
「セラセラの狗め」
「穢れた人間め」
騒ぎ過ぎてしまったか。他の亜人はともかく、武装したエルフたちが援護に来たらしい。恐らくだが、その数は十や二十ではきかない。
「待ってくれ! 俺は今、シャーラブーラと約束をした!」
「黙れ!」
「だから言ったのだ!」
「人間を入れてはならぬと!」
長いくせに聞く耳持ってくれなそうだ。そもそも約束もクソもないしな。
悪いのは俺なのかもしれないが、人を襲う算段してるのを見過ごすのも気味が悪いんだ。
「人を殺すのか! セラセラ家以外の人も!」
「この大陸の人間はセラセラに与しているではないかっ」
「しかり! 王都の人間も同罪だ!」
エルフたちは今までの恨み辛みをぶつけるようにして叫んでいた。
「我らの森を奪ったのは人間だ!」
「違う! 人間みんながあんたたちの敵じゃないはずだ!」
「人であるということが罪なのだ!」
そんな馬鹿な話があるか。
生まれた時点で罪を背負わされてたまるか。
「あんたらだって、生まれに負い目を持つことはないだろう! エルフは罪なのかっ。エルフだからって人間を敵に思うなよ! やり方は他にもあるはずだ!」
「あってたまるか! 話し合う機会などとうの昔に失せている!」
俺は、怒っている。
セラセラの人ではない、人間ではない、エルフや亜人に対してでもない。もっと大きな、理不尽さを押しつけてくる何かだ。
たぶん、俺は色々と重ねているんだろう。生まれによって自分の道が決まるのなんてごめんだ。少し先に生まれたからって、どうして誰かの尻拭いをしなけりゃならない。俺はどうして、兄貴の背中を見続けなけりゃあならないんだ!
「今は今じゃないか! 昔はそうだったからって諦めるのか!」
「口の減らない人間め!」
構わない。
撃て。
殺してしまえ。
怨嗟が俺の身にのしかかる。
俺は部外者かもしれない。本当はストトストンの人間ではない。けれど、こんなにもこの人たちは苦しそうじゃないか。このまま王都に攻め込んだって、誰にもいいことなんか起こらない。風がなんだ。そんな目に見えないものに踊らされる必要なんかどこにもないだろうに。
「どうにもならないのかよ!」
俺はきっと、無意味なのだろう。こうして叫んで変わることなんか、ない。独りきりなのだ。エルフたちは俺の声を雑音としか捉えておらず、俺が理解されることはない。胸の内から沸き立つ思いは誰にも届かない。何故ならこれは俺のわがままだからだ。俺が嫌なだけだからだ。俺だってちゃんとエルフのことを知りもしないから、結局、押しつけでしかない。
矢が降り注ぐ。拳で防ぎ、躱しても、次から次へときりがない。
HPを回復させようと小瓶を取り出せば、射られて割られる。零れ落ちた中身を見下ろす。背中に矢が刺さるのも大して気にならない。
俺は、この世界で斬られても、射られても、HPが減るだけだ。血も出ないし、苦痛もじきに掻き消える。0か1なのだ。間に感じられる本当の傷の痛みを知らない。だからたぶん、俺はロムレムで諦めておくべきだった。フェネルの言葉にもっと打ちのめされておけばよかったのだ。ストトストンの人たちと真に分かり合えるなんて、ハナっからあり得ない。
この世界で俺は独りだ。それでいいとあの時に思ったはずなのに、弱い心が首を振る。嫌だ嫌だと喚くのだ。
「ごめん。鶴子」
お前をまた一人にしてしまう。
また、寂しい思いをさせてしまう。
だけど、いいだろ。どうせ俺は、二番目なんだから。
<2>
エルフの長、サンシチは目を覚ました。闖入者に昏倒させられていたのだが、彼は怒りよりも先に悲しさを覚えた。
奇襲を受けたのは事実だが、それでも全盛期の自分なら容易に防げたはずの攻撃だった。老いと衰えを顕著に感じ、サンシチは重たい息を吐いた。
「……まだ、戦っておるのか」
外からは戦いの音が聞こえてくる。同胞の悲しみのこもった叫び声。
サンシチはヴェロッジのエルフの中では穏健派というやつだった。しかし、比較的若いシャーラブーラたちは人間との戦いを強く望んでいる。今のサンシチには若い彼らを押しとどめられるほどの気力も体力も残されていない。波はうねり、大きくなれば個人の意思など容易く飲み込んでしまう。彼は仕方なく王都攻めの計画に乗っていた。
戦うことは恐ろしくない。恐ろしいのは戦った先に何も残らないのではないかという、虚無だ。
ヴェロッジに住むエルフで人間との戦いを経験しているものは少ない。シャーラブーラの世代は人間どころか、相手にしたのは森の獣くらいのものだ。だから人の恐ろしさを知らない。人間は一人では弱い。しかし彼らは弱さを知っている。だから彼らは強いものと戦える。
長く生き過ぎるのだ。
エルフや亜人は人間と比べて寿命が長い。この世に留まり続けているから感情が膨らんでいく。
人間ならば、親の受けた傷を、傷つけられた記憶を、子は覚えているだろう。しかし孫の世代はどうだ。その下の世代は。……傷は薄れていく。時の流れが忘れさせる。くるくる回る世代という名のサイクルが移り変われば、いずれ受けたはずの傷もなかったことになる。人間という種はそうして古いものを削ぎ落して新しい環境に適応してきたのだ。
しかしエルフは違う。寝物語に聞かされる『人間とはどういう生き物なのか』。これを語るのが傷つけられた当の本人なのだ。憎しみ、怒り、悲しみ、情感たっぷりに謳い上げられる物語を聞かされれば話に聞いただけなのに、まるで自分もそうされたかのように錯覚してしまう。実際、ヴェロッジにいるエルフで人間と戦ったものはほとんどいないのだ。だのにシャーラブーラのようなものもいる。
長く生きるから傷は残る。傷つけられた記憶が褪せることはない。種全体がその記憶を自らの脳裏に焼きつけ続ける。そうしてまた下の世代に語るのだ。『人間とは』と。
森の奥で長く生きたからか、エルフは排他的だ。新しいものを好まない。外からやってくる異物を酷く嫌う。中にはそうした閉じた世界を嫌うものもいて、ヴェロッジから出て行ったものもいる。だが、彼は外の世界へ行ったものを悪く思えなかった。残された自分たちが、この世界の大きな流れに取り残されたような気さえした。
誰が正しく、誰が間違っているのか。
サンシチには分からなかった。分からないが、彼はヴェロッジに住む同胞を守らねばならなかった。叶うなら、誰の血も見ずにこのまま、この緑豊かな地に骨を埋めたかった。穏やかで、春の陽だまりのような時間を過ごしたかったが。
「――――ッ!」
ハッとする。
同胞と戦っているのは、ヤサカ・ナガオとかいう冒険者の少年だろう。大人しくしていて欲しかったが仕方ない。彼は、亜人たちが王都に攻め込もうとしているのを知っている。このままヴェロッジから逃がすわけにはいかない。せめて無残に殺されないよう、同胞に呼びかけるのが自分の役目だ。
サンシチは集会所から顔を出し、そこで、懐かしい匂いが薫ったことに気づく。久しく嗅いでいなかった本当の戦いの匂いだ。匂いは記憶を呼び起こす。
「あ、ああ……」
記憶は、恐怖をも呼び起こした。
「ならぬ! ならぬぞ!」
サンシチは同胞たちに警告する。この世には、決して戦ってはならない相手がいるのだと。たとえ彼女が自分と同じように老い、衰えたのだとしても、決して勝てないのだと。
<3>
目の前にあった矢が、強い風で全て流れていった。
強風に煽られたエルフたちは腕で顔を庇った後、皆、同じ方を向く。俺もその視線につられた。
視線の先には一人のエルフがいた。手足は短く、頼りなげなシルエット。しかし誰もがそいつから目を離せない。
「ようもやってくれたのう、主ら。その矢で射殺そうとしたものが、わしのものなのだとは知らなんだか? ん?」
キリハリリハ。なんで、ここに。
エルフたちも不思議そうに彼女を見て、ざわついている。
「ご隠居様、今はあなたの出る幕ではありません」
「あなたは過去の人だ。今は我らの時代です」
「お下がりください!」
「あなたが防衛隊長であったのは昔だ!」
「口出しも手出しも無用と言ったはずではないか!」
キリハリリハはエルフたちを見回して、矢だらけになった俺を見つめる。
「だから言うたじゃろう。半端な真似をすればそうなるとな」
「……面目ない」
「よい。弟子の不肖は師の不肖よ。……ナガオ。主はわしの教えが、主の血肉になると言うたな。阿呆め。あれしきのことで血とか肉とか言われても困るわい。まだよ。まだまだ足らぬ。主にはまだ教えることが多過ぎる」
だから。
キリハリリハはそう言って、俺の前に立った。その背中はこの場にいる誰よりも小さいが、俺の目には頼もしく映っていた。
「修行の続きと行こうかの。のう、主ら? ナガオは、わしの指示通りにきちんと戦ってくれたじゃろ」
エルフたちの時が止まる。こいつ何言ってんだって顔でキリハリリハを見下ろす。
「修行ですと……?」
「ふざけないでいただきたいっ。こちらが何人倒れたと思っているのですか!」
「こやつは訓練用の武器しか使っておらんかったはずじゃ。実戦形式というのは実に分かりやすい鍛錬であろ?」
憤るエルフたちを、キリハリリハがぴしゃりと黙らせる。
「しかし主らは修行の相手としては、ちと、やり過ぎたな。ほれ、こやつを見よ。射殺されんばかりの矢を浴びておるではないか」
エルフたちはキリハリリハの上から、ぎゃあぎゃあと声を浴びせかける。
「もうよい。明日は王都を攻めるんじゃろ。最後にわしが主らに稽古をつけてやる。ただし死ぬ気でかかってこい。気ぃ張りや、わしのやり方は少しばかり荒っぽいぞ」
「そこまで、そこまでおっしゃられるならば!」
「あなたの身勝手もここまでです!」
「ご隠居! 覚悟ォ!」
うわー。キリハリリハって俺が来る前は何をしてたんだ。戦い前日ってこともあるだろうけど、エルフたちはめちゃめちゃやる気じゃないか。
しかし、キリハリリハはふふんと満足げに笑っている。
「やばいんじゃないのか……?」
「よう見ておれよナガオ。今から見せるのはな、主が、わしを家族と、自分の身内も同然と言うてくれた礼じゃ。そしてな、あやつらに見せつけるのは、付き合いこそ短い、それでも、わしの可愛い弟子を傷つけた報いじゃ」
キリハリリハが一歩前に出る。その瞬間、エルフたちは躊躇いもなく、二十を超える矢を同時に放った。
「キリハリリハっ!」
俺は叫んだ。その声はより強い風によって飲み込まれて掻き消える。
キリハリリハの起こした風は、彼女に迫っていた矢を一つ残らず中空に押しとどめた。
「な、なんだ……?」
「馬鹿な」
その時、集会所から『やめろ』という声がした。気絶していたはずのサンシチが、俺たちに向かって叫んでいる。
「その方に手を出してはいかん!」
サンシチは戦いを止めようとしていたが、もう遅かった。
「あ、ああ……! 知らん、わしは知らんぞ! 寝た子を起こしたのはお主らじゃ! その方は簡単には収まらんっ、主らは身をもって知るしかないぞ! 《八つ手》の、《荒絹》の恐ろしさを!」
<4>
その昔。
ヴェロッジには一人のエルフがいた。
この町は大陸の北方から逃れてきたエルフの作ったものだが、そこでも人間に立ち退きを迫られていた。時には武力を以て威圧されることもあったが、件のエルフは同胞の暮らす町を女だてらによく守った。
そのエルフは《八つ手》という異名を持っていた。人間すらも恐れるたった一人のエルフ。
八つ手は町に押し寄せる人間の兵士をたった一人で追い返した。その戦いぶりを見たものは、アレには手が八つも生えていた、矢が勝手に避けていった、敵の武器を自らのものとしたなどと語った。
今はもう、誰も覚えていない。遠い昔の話だ。彼女の活躍によって、セラセラ家が唯一手を出さないのがヴェロッジの町だけということすらも。




