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第3章 剣には剣をⅡ

<1>



 HPは。俺の体力はあとどれくらいだ。

 毒か。麻痺か。俺の体はどうして鈍くなっている。手が。足が。少しずつ固まっていくような感覚。


「ころっ、らるおおおお」

「はっは、何言ってっか分からねえぜ兄ちゃん」


 それでも負けられないし、負けたくなかった。

 グラディウスを振り、突き続ける。チャンプの斧が怖いとか、そういうのは吹っ飛んだ。目が回って腹が痛くて余計なことは考えられない。やる前にやるだけだ。


「そぉら!」


 声が出なかった。

 自分の得物で相手の攻撃を受け止めたと思った瞬間、意識が一瞬間飛んだ。

 立たなくてはならない。戦わなくてはならない。まだ死ぬわけにはいかない。


「どうしたよ兄ちゃん。足がふらふらじゃねえか」


 俺はもっと、先に進まなければならない。


「ひ、はは」

「……こいつ。その目をやめねえか!」


 斧が横薙ぎに振るわれる。俺はグラディウスを構えたが、下半身から力が抜けた。それで、自分がどうなったかはもう分からなかった。



<2>



 今日行われる一部リーグの最後の試合が終わった。勝者は誰もが待ち望み、そうであろうと信じられていたチャンプ。ナガオは試合の途中で意識を失ったが、命までは取られなかった。

 チャンプは頭に血が上っており、ナガオが冒険者であることも手伝ってとどめを刺そうとしていたが、観客がナガオを『殺すな』と、助命を嘆願した。ナガオの戦いぶりが観客の心を掴んだのだ。闘技場の王者と言えども観客の声には逆らえなかった。

 ナガオは係の者によって運ばれようとしていたが、一人の少女が彼らを阻んだ。スィランである。二部リーグの試合が始まるからか、彼女は地下の控え室にいたのだ。そうして、兵士からナガオがチャンプに負けたことを聞き、アリーナに出てきた次第であった。


「スィランが運ぶ。誰もこいつに触るな」


 スィランはナガオを軽々と背負い、アリーナを立ち去ろうとした。


「……エスカ?」

「? スィランはスィランだ」


 スィランは、チャンプに間違った名前で呼ばれて振り向く。


「スィランは急いでいる。じゃあなチャンプ」

「ま、待て」


 チャンプはスィランの前に回り込み、彼女の行く手を塞いだ。


「お前、俺に買われちゃくれねえか?」

「奴隷が奴隷を買うのか?」

「俺は奴隷じゃねえ、この闘技場の……」

「奴隷に変わりはない。スィランは王になら買われるが、奴隷の王に買われるつもりはない」


 チャンプは一人の少女を前にして言葉に詰まる。しかし彼はスィランが欲しかった。……否、チャンプは今、失ったものを取り戻そうとしていることに気づいた。欲しているのはスィランではない。その面影であり、昔日だ。


「ああ……」


 ふと、スィランがチャンプの目を見て、何かに気づいたかのように息を吐き出す。


「その目は、親が子を見る目だ。だがスィランは親子ごっこをするつもりはない。娘が欲しいなら自分で子を成すのだな、チャンプ」


 それだけ言うと、スィランはアリーナを後にする。残されたチャンプの目には光が宿りつつあった。



<3>



『ナっくんはさ、弱いものいじめをしないよね』

『いつも助けてくれてありがとうね、ナっくん』


 違う。

 俺は別に、弱いものいじめとか、そういうことをしなかったわけじゃない。ただ、俺はお前が――――。いや、俺は兄貴に負けたくなかっただけなんだ。



<4>



 目が覚めると、知らない場所に寝かされているのだと気づいた。だから、俺は自分がまだ生きているのだと分かった。

 ここは収容所の小部屋ではない。造りは悪いが、俺はベッドの上で寝かされていたようだ。血や砂の臭いが薄い。闘技場の施設であることに間違いはなさそうだな。


「……毛布が、一枚」

「起きたかね」


 仕切りのようなものが誰かの手によって開かれた。俺は何となく、ここが保健室ではないかと錯覚する。

 俺の顔を見ているのは、三十代くらいの男だ。奴隷や、兵士って感じには見えない優男である。


「自分のことが分かるか?」

「何となくは。試合の途中で気ぃ失ったところまでは覚えてます」

「君は試合に負けたが、観客に命を救われたのだ」


 ……そうか、やっぱり負けちまったのか。だが、死ななくても済んだのは僥倖だ。


「どれくらい落ちてました、俺は」

「もうじき二部リーグの試合が終わる。数時間は眠っていたよ」


 体調は先よりかは悪くない。俺は上半身を起こしてメニューを呼び出す。試合中に付与されたバッドステータスがきっちりなくなっていた。


「俺、たぶん薬か何か盛られたんですよ」

「だろうな。私の作った薬による症状そっくりだった。対処も楽だったよ」

「……あなたの、作った?」

「ああ」


 男は悪びれもせずに言う。まあ、そうか。この人はあくまで薬を作るだけ。その薬がどこでどう使われているのかは関知していないんだろう。助かったんだし、余計なことは言わないでおこうか。


「ここはどこですか」

「闘技場の医療室だ。とはいえ、ここでは軽い処置しかできない。更に言えば、それ以上の処置は必要とされていない」


 どういう意味かは聞かない方が気が楽だな。

 とりあえず、何とか動けそうだし、控え室にでも戻ろうかな。そう思ってベッドから降りた時、スィランとイシトラが顔を見せた。


「……ああ、来てくれたのか」

「もういいのか?」


 スィランが近づいてきて、俺の頬っぺたに手を当てた。


「何だよ珍しいな。心配してくれてんのか?」

「だいぶ顔色がマシになってきたな。メシでも食おうぜ、ヤサカ」

「お前の試合は?」

「勝った」


 当然だろうとでも言わんばかりである。

 俺は医療室の男に礼を言い、部屋を出た。どうやらここは地下らしい。


「坊主」


 医療室を出て廊下に誰もいないのを確認すると、イシトラが口を開いた。スィランが俺を引っ張ってくるが、俺は彼女の手をやんわりと解く。


「すんません、約束は守れなかったです」

「いや、悪くねえ。悪くなかったんだ、坊主」

「どういう意味っすか」


 イシトラは難しそうな顔になり、顎鬚を扱く。


「チャンプが試合をする。今からな」

「今からって……誰と?」

「相手は分からねえ。だが、あいつは遂に決めやがったのよ。……この闘技場を出るには幾つかの方法がある。まず、死ぬことだ。死ねば闘技場から運び出されて土に還られるからな」

「あとは、誰かに買われるとか?」

「ああ。そうやって奴隷の身分から解放されたやつも大勢いる」


 だが、どちらも俺では不可能に近い方法だ。


「闘技場から逃げ出す方法もあるが、こいつはそう上手くはいかねえ。見張りは兵士だけじゃなく、ロムレムの市民もだからな。不甲斐ねえやつをロムレムの町が見逃さねえのさ。だがな、方法はまだある。たとえば引退だ。強いやつは闘技場に貢献したと見做されて恩赦をもらえる。そこから市民になるのもいい。大概のやつは訓練所の教官になったりするんだがな」

「しかし、そこまで勝ち残り、生き残るものは少ないだろう。五体満足で闘技場を去れるやつなどそういない」


 冷めた口調でスィランが言う。イシトラが頷いて答えた。


「もう一つ方法がある。一部リーグの王者、この闘技場で一番強い男だけにできる方法がな」

「それは?」

下剋上クーデターだ」


 物騒な言葉が出てきたぞ。


「大それたもんじゃねえがな。チャンプは試合の相手を指名できる。その相手に、この闘技場の支配者オーナーを指名するんだ」

「……そんなことできるんですか?」

「もちろん、指名された方は代役を立てる。それに一対一じゃなくてもいい。とにかくオーナーは何をしてでもいい、勝ちゃあいいのさ。チャンプはそれを真っ向から打ち破る」

「それで、チャンプが勝ったらどうなるんですか」

「チャンプがオーナーになるのさ」


 なんだその大逆転ルールは。


「この方法は廃れててな、ほとんどのやつが忘れてたもんだ。おれたちが生まれるよりも昔、奴隷たちが反乱を起こしたらしい。そいつを鎮める為に『せめて正式な手順で奪え』ってルールを作ったんだろうな」

「……それじゃあ、チャンプはそのルールを持ち出してきたってことなんですか?」


 イシトラは頷くが、彼もまだ実感が湧いていないのか、何とも言えない表情であった。


「昨日の今日みたいな話だぜ。坊主、お前さんが何かしたのか?」

「いや、たぶん、俺じゃないです。チャンプは、自分がチャンプであることを大切に思ってたみたいですし」


 だが、チャンプは実際に下剋上とやらを起こした。その相手はフェネル・セラセラで間違いないだろう。

 誰が、何がチャンプを動かしたのかは分からない。ただ、彼は闘技場から解放されたいわけではないのだと思う。チャンプが『こうしたい』と言えば大抵のことは通るだろう。わざわざ下剋上なんてものを持ち出してきたのには、チャンプなりの理由があるはずだ。


「試合はまだ始まってないんですね」

「ああ。だが、もうじきだ。闘技場が満杯だぜ。一部リーグの席だって埋まっちまうだろうよ」

「……見に行きますか」

「おう、もちろんだ」


 俺とイシトラは観客席に向かおうとしたが、スィランが俺たちを止めた。


「待て。スィランは二部リーグの戦奴だ。あんたらと同じように見られねえじゃねえか」

「とりあえずついてこいよ。何だったら適当に誤魔化してやるって」

「どうやってだ」

「……こいつは俺の奴隷だ、とか言うよ」

「てめえぶちのめすぞ」


 スィランに襟首を掴まれてしまう。やめて、俺は病み上がりなんだ。


「やめねえか坊主ども。おれの弟子だと言ってやるから、それでいいだろう」

「……ヤサカの奴隷扱いされるよりはマシだな。よし。じゃあメシも試合を見ながら食おうぜ」


 すっかり観客気分である。

 しかし、俺も気にはなる。あんなに自分の地位に執着していたっぽいチャンプが下剋上を起こした理由も、そいつを受けたフェネルがどう捌くのかも。



<5>



 闘技場は異様な熱気に包まれていたように思う。二部リーグや、一部リーグの強者たちの試合でさえも、ここまで観客を昂らせることは不可能だろう。

 チャンプだけだ。彼がここを、こんな風にしている。

 俺たちは少しの間、ここの空気に飲まれていたが、運よく空いていた席を見つけてそこに座った。そうして試合が始まるのを待っていると、隣に医療室で俺を看てくれた男が座った。


「……あ、どうもです」

「『ティボリ』だ。試合を見るのは久しぶりだよ」


 ティボリと名乗った男は、アリーナをじっと見つめる。もしかすると、この人も昔は戦奴だったのかもしれないって何となく思った。


「体の調子はいいのかね」

「ええ、まあ、お陰様で」

「ならばいい」


 俺もアリーナを見ようとしたが、隣のスィランが串焼きのようなものを押しつけてくる。


「中々美味いぞ。さすがは一部リーグの戦奴だな、いいものを食べている」


 イシトラは溜め息を吐いていた。スィランにだいぶ買わされていたからな。まあ、こうしているとじいちゃんと孫娘にしか見えない。微笑ましい。

 俺も串焼きをもらい、そいつを口に頬張った。


「チャンプはどうだったかね」

「え? ……ああ、強かったですよ」


 ティボリは腕を組み、椅子に座り直す。


「そうか。……イシトラ」

「おれぁ知ってるよ。あいつはそんなこと認めやしなかったがな」


 ティボリとイシトラは少しだけ目を合わせた後は、もう話すことはなくなったようだった。この二人も長い付き合いって感じがするな。


「チャンプの体は病魔に蝕まれている」


 ティボリがふと、そんなことを言った。


「……病魔?」

「不摂生が祟ったのかもしれん。これ以上放置していれば、先は長くない」


 嘘だろ?

 あの戦いぶりで?


「まさか、それで下剋上を……?」

「さあな、分からん」


 そんな状態で、オーナーに有利な試合をやろうってのか。

 俺にはチャンプの考えていることが分からない。そして、彼の真意を推し量る暇すら観客の歓声に掻き消されてしまう。もう、試合の開始はすぐそこまでに迫っていた。


「……始まるぞ」


 観客席の中央、一階席。そこにアナウンサーらしきおっさんが現れる。彼は熱のこもった口調で何事かを叫ぶが、よく聞こえなかった。

 東門からチャンプが登場し、次に、オーナー側の対戦相手が姿を見せた時、俺は思わず立ち上がりかけた。

 西門から現れたのはフェネルだった。彼女は供も連れず、ただ一振りの槍だけを持ってアリーナへやってきたのだ。

 俺たちもそうだが、観客もチャンプも戸惑っているらしい。


「なんだ? セラセラの姫さまが戦うのかよ」


 スィランはくだらねえと吐き捨てる。イシトラとティボリは目を丸くさせていた。


「どういうことだ?」

「一対一でやろうってわけでもあるめえ。あの姫さまもちったあやるとは聞いてるが、相手はチャンプだぞ?」


 観客は沸きに沸く。

 いけるんじゃねえかって。

 下剋上が成功するんじゃないのかって。

 俺は拳を握った。いやがうえにも力が入る。どうせなら、チャンプがあの女を倒してくれと。

 だが、嫌な予感がする。どうしても、嫌な想像が頭の中から拭えなかった。



<6>



 チャンプは、西門から現れたフェネルを認めて期待感を抱いた。が、すぐにそれを押し殺す。


「オーナー自ら出てくるとは思いもしなかったぜ」

「そうですか」


 フェネルは何の気負いもないようだった。彼女は槍を軽く素振りし、右手で柄を軽く握る。


「あんたが相手なのかい」

「ええ」

「……試合を受けてくれてありがとうよ」

「話は聞いています。自由が欲しいのですね」


 チャンプは苦笑した。


「いいや、どうだろうな」

「戦いの中での死を望んでいるのですか?」

「そいつはすぐに分かるだろうぜ。しかしよう、どういう風の吹き回しだ。サービスでもしてくれるってのかい」

「それはすぐに分かることです」


 そう言うと、フェネルは観客席を見遣り、口元を緩めた。



<7>



 気味が悪くて総毛立つ。

 俺とフェネルの目が合った。それだけで、俺は死を感じた。デカドロス島でヘリオスと戦っていた時に感じたような息苦しさだ。


 ダメだ。


 俺はそう思った。

 楽隊が仕事を開始する。いつもよりも大きく、熱の入った音が鳴る。試合が始まったと同時、フェネルの槍がチャンプの右膝を貫いた。

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