ファリナと買い物
黄金に光り輝く流星が落ちた場所に倒れていた不思議な少女、ミーティアをカルムが拾って来てから、一ヶ月が経過した。
山もすっかり鮮やかな春の装いになり、木や草は色とりどりの花をつけ、厳しい冬を乗り越えた動物達が野山を走り回り、鳥は喜びの歌を歌った。
ミーティアはカルムと共に、そんな命溢れる山の中を自由に駆け、様々な事を学んだ。
獣の影はあの晩から一度も見る事は無かったが、カルムはどんな時もミーティアの傍を離れず、常に警戒していた。
ミーティアを狙っているという事しか分かっていない、あの化け物に対しての、カルム達の出来る精一杯の対策手段だった。
カルムはミーティアにあの化け物の事を尋ねてみたが、カゲツキという言葉を自分が言った事も覚えていないようだった。
寝ぼけていたのかとも思ったが、森で出会った黒い鹿の姿と共に、カゲツキという単語はカルムの頭から離れる事は無かった。
ミーティアは、まるで乾いた地面が貪欲に水を吸収するように、この世界の知識を蓄えていった。
文字を教えればすぐに理解し自分で紙に書いて見せ、花や動物の事を教えれば、同じ種族の微妙な違いまで一度見ただけで完全に理解した。
ミーティアはたった一月で、カルムとテツウチが暮らす山の事なら何でも答えられるようになった。カルムは単純にその知能の高さに驚き、テツウチは無言で少女の成長を喜んだ。
時にミーティアは、この世界の事柄について、カルムに容赦のない質問を投げかけてくる事があった。
太陽が沈むのを、二人で二階の窓から眺めていたかと思うと「どうして夜になるの?」と問われ、カルムが答えに窮していると「明るい方がいいのに~」と、歌を歌うように駆け足で一階に下りて行ったこともある。
また、川で魚の事を教えていた時は「この水はどこから流れてきてるの?」と聞いてきたので「山の一番上に、水が地面から湧き出してくる場所があるんだ」と答えると「どうして土から水が出てくるの?」と返された。カルムは帰った後にテツウチに聞いてみたが、テツウチもよくは知らないらしかった。
ある日、山で罠にかかった兎をミーティアに持たせ、自分は弓を使い射った鹿を背に背負い、家に帰る途中の事だった。
「この子はまだ生きてる」と、耳を掴んだまま、目の高さまで掲げジロジロと兎を観察していたかと思うと「そっちの子は死んでる」と、まだ暖かさの残る鹿の頭を撫でながら「ねえカルム、命って何?」と純粋な瞳で見つめてくる。
カルムも動物を狩り生きている者なので、その疑問は何度か考えた事はあったが、その問題について、自分の満足する答えを見つける事は未だ出来ていなかった。
なので「俺もまだ分からない」と答え「だから、一緒に考えていこう」と日に光る金髪を優しく撫でた。
ミーティアに質問され、それに答えられない度にカルムは、自分が生きているこの世界に対して、自分はあまりにも無知なのだという事に、何度も気付かされた。
カルムはテツウチに出会う以前の記憶を持たない。だから、この山以外の場所はふもとの農村くらいしか知らないし、山以外の場所の事など興味もなかった。
テツウチのように、山に生き、いつかは山で死ぬのだと、漠然と思っていた。
しかし、自分はそれでもいいが、ミーティアはそうはいかない。
少なくともカルムが知っている限り、頭に角が生えている人間などいないし、流星のように空を駆ける事が出来る人間などいない。恐らく、この世界の誰も知らない場所から、ミーティアはやって来たのだ。
カルムとテツウチだけが、この世界でミーティアの知る唯一の人間だ。
この二人に守られながら、この山で暮らしているうちは、その異常さが誰かに知られる事は無いが、いつかこの子が記憶を取り戻した時。
ミーティアの故郷がどこにあるかカルムは知らないが、彼女が故郷に帰る事を望んだ場合、確実にこの山を下りなければならない。
来た時のように飛んでいけるのであれば、カルムの心配はまったくの杞憂で終わるのだが、自分の足で帰らなければならない場合、今のミーティアを一人で山の外に行かせる訳にはいかなかった。自分もついて行き、ミーティアを安全にその場所まで送り届けなければならない。その為の知識を得る必要があった。
カルムの隣で、美味しそうに焼かれた肉を頬張るミーティアの頬に付いている、果汁で作ったソースを指で拭ってやりながら、カルムは、そう遠くない未来にやってくるだろう過酷な旅の光景を頭に思い浮かべていた。
ある日のことだった。
季節や天気によるが、大体月に二度程の頻度でカルムは山を下り、ふもとの村で主食になる米やパンを買っている。
しかし、ミーティアに出会ってから彼女の世話とテツウチとの剣の鍛錬に追われていたので、村に行く機会を逃し続けていたのだ。
そして、今日はテツウチが一日ミーティアを見ていてくれると言ってくれたので、久しぶりに村まで買い物に来ていたのである。
去年、雪が降る前にこの村で、肉や武器を売って稼いだ銅貨銀貨を丈夫な革の袋に詰めて山を下り、久しぶりに会った友人と談笑を楽しんでいた。
「久しぶりじゃあねえかカルム。雪が降る前に俺が言ったこと、覚えてるか?」
浅黒い肌に豊かな髭を蓄えた、この村で一番初めにカルムと打ち解けた村人である。
カルムはこの男が嫌いではなかった。頑固で、人の領域に土足で上がりこむ様な大胆な性格を持っており、問題を起こすことも多い男だが、カルムにはその馴れ馴れしさが心地良かった。
「言った事って?」
手を横に振りとぼけるカルム。男はそんなカルムの態度を見て
「いつんなったら、山下りて俺ん家に婿に入るのかって話だよ」
こんにゃろうめ、と、カルムの頭を乱暴に撫でながら吐き捨てる。
「娘は今年で十六だ。お前があの脂ぎったクソ貴族から俺の娘を守ってから二年以上経つ。娘は毎日お前の事を考えているんだぜ?」
父親としては悲しいよ、とあからさまに肩を落とし、棚から掴んだパンを小さく千切って口に運ぶ男。この店の店主である。
「前にも言った事だけど、俺は山を下りる気はないんだ。俺がこの村に上手く馴染めるか分からないし、何より父さんを放って置けない」
「なんだとう!じゃあ俺の娘はどうなるんだ!?貰ってやれよ!俺の可愛い娘に失恋なんてさせやがったら承知しねえぞ!」
酒でも飲んでいたのか、いきなり声を荒げてカルムを非難する男。その大声を聞いたのか、店の奥の階段から、慌てた足音を鳴らして人が下りてきた。
白いエプロンを肩から掛け、肩甲骨の辺りまで伸ばした赤い髪を二つに分ける様に後ろで結んだ、可愛らしい少女であった。健康に焼けた綺麗な肌に映える大きな赤い瞳が、少女の美しさを増している様だ。
少女は自分の父親が自分の想い人に絡んでいるのを見て、額に青筋を浮かばせながら大股で二人の前までやって来ると、父親の腕を取り、無言で玄関まで引きずっていき、尻を蹴って、店から追い出してしまった。
後ろ手で店の扉を閉め、疲れたように肩を落とし息を吐き出す。カルムはその一連の流れを、相変わらず仲が良いな、といつもの事のように流していた。扉の向こうでは、男が謝罪の言葉を叫んでいる。
「お……お…久し、ぶりですね……」
今初めて会いましたよ。父さんを追い出したりなんてしてませんよ。という風にカルムに駆け寄り、手を胸の前でいじりながら、林檎のように赤くなった頬を隠そうと、下を見ながら挨拶する少女。
名前をファリナと言い、先程蹴り出されたこの店の店主の一人娘である。
カルムとは二年ほど前にある出来事から親しくなり、村の男たちとは違うカルムの姿に次第に心惹かれて行き、今ではすっかり恋する乙女になってしまっている。
「久しぶり、ファリナ。今日はパンと麦の粉を買いに来たんだ。久しぶりに、パンでも焼こうかと思って」
「は、はい……こっちです」
年の割に細く小さな体をさらに小さく丸めながら、ぎこちなく店を案内するファリナ。
カルムはそんなファリナの姿を見て、いつもの事ながらどうしたものか、と思った。
傍から見たら、想い人に久しぶりに出会えたことで照れているのだ、というのは一目瞭然なのだが、山であの寡黙なテツウチと二人でずっと暮らしていたカルムは、こういった年頃の女性の心の機微というのを、相手の感情を理解できても、どう扱ったらいいか分からない。
ファリナが選んでくれたパンと小麦粉を買い、持ってきた大きな袋に入れる。
これでこの店にいる理由はなくなったのだが、ファリナは頬を赤く染めたまま、チラチラとカルムの方を見てくるので「まだ米とかも買わなきゃいけないんだ。良かったら、買い物に付き合ってくれないか」と誘ってみると、赤い顔がさらに赤く染まり、俯いたまま、か細い声で了承の返事が返ってきた。
未だ扉の向こうで娘の名を呼んでいる男に店を任せると、カルムとファリナは買い物をしながら村を回ることにした。店を出る際、男がファリナの顔が赤いのをからかったので、ファリナは男の尻を平手で叩いて黙らせた。
村は春の陽気に包まれ、穏やかな風に癒されながら畑や田を耕す村人の姿が見える。
柵で囲った中、涎を撒き散らしながら牧草を食む牛たちの毛に、丁寧にブラシをかけて機嫌を取ってやっている者。
赤ん坊を背に背負い、川で服を洗っている母親。その周りには母親の子供であろう、まだ小さい少年たちが思い思いに遊んでいる。
およそ平和という言葉が最も似合うであろう村の中を、カルムとファリナは歩いていた。
カルムは隣を歩くファリナに、冬の間の村の様子だとか、ファリナの家族の事などを尋ねたが、ファリナはその度に小さな声で同意の返事を返すだけで、二人の間の空気はいいものとは言えなかった。このまま買い物を続けるのもどうかと思ったので、カルムはいつものファリナに戻ってもらおうと、少し悪戯を考えた。
先程買った小麦粉の袋を開き、片手で握れるほどの量を取り出す。それをファリナに見えないように顔にまぶすと、色白の肌が奇妙な斑の白に染まった。用意が出来たので、ファリナの肩を指で叩いて、こちらを振り向かせた。
「ファリナ、こっちを向いてくれ」
真っ白に染まったカルムの顔を見たファリナは、思わず口から息を吹き出した。
そして、何処かツボに入ったのか、両手で顔を覆って、必死に笑いを堪えているようだったので、カルムはファリナの小さな手を掴んで開かせると、顔を鼻先がこすれる位に近づけた。
もう一度、今度はカルムの顔の小麦粉が吹き飛ぶくらいの勢いで、ファリナは吹き出した。