テツウチ
日も明けきらぬうちに何も言わずに飛び出していった自分の息子が、何があったのかボロボロの体を引きずって、見ず知らずの少女を連れ帰ってきても、テツウチは何を問うこともなく、カルムと少女をベッドに寝かせて看病してくれた。
テツウチは寡黙な男だった。
言葉ではなく、目の色や態度、相手のわずかな仕草、そういった事から嘘と真実を見抜く。そういう男だった。
カルムは十年以上テツウチと暮らしてきて、彼を騙せたことが一度たりともない。
「───っ!」
「我慢しろ。骨折がないか調べている」
「いや……無理……!父さん、もっと優しく…………っっ!」
「……骨は無事だ。落ち着くまで安静にしていろ。喋るだけでも響く」
黒い鹿から受けた傷は、カルムの体の内側を破ったらしく、外に出る事のない血で患部はどす黒く変色し、少し触れただけでも激痛を走らせた。
山を歩いていた時は、一種の興奮状態であったため、痛みを神経が麻痺させていたらしい。
殴られた左の脇腹を上に向け横になり、包帯を巻かれ氷袋を乗せられた姿勢で、カルムは動くことなく、ひたすら痛みに耐えていた。
カルムの目線の先には、子供用のベッドが置かれており、あどけない顔をした少女が眠っていた。森でカルムが助けた少女だ。
「その子供に怪我はない……子供と呼んでいいかは分からんが」
部屋を出ていく際にテツウチはこう言っていた。
空から落ちてきたのに頑丈な子供だと、カルムは思った。
少女は規則正しい寝息を立てながら、カルムの隣に用意されたベッドで眠っていた。
テツウチが、一つの部屋にいた方が看病しやすいという理由で、わざわざカルムが小さい頃に使っていたベッドを物置から運んできて、組み立てたのだった。
少女は、カルムが幼い頃着ていた服を着せられ、暖かく柔らかい毛布に自分の体をくるんで幸せそうに眠っている。
頭から生えている角の事を除けば、どこにでもいるただの子供にしか見えない。
二階建ての家の一階、玄関から入って西側にあるテツウチの寝室に、カルムと少女は寝かされていた。
部屋の中は簡素なもので、狩りの道具や、テツウチがふだん着る服が壁にかけてあるくらいで、装飾などといった物はおよそ皆無だった。
しかし、暗い雰囲気は全く感じさせないのは、そこに住む人の人柄故だろうか。
この家は、元々テツウチが一人で暮らしていた家だった。
そこにカルムを拾った事で物が増え、大きくなってきたカルムの為に二階を増築した経緯を持つこの家は、決して大きいものではない。
玄関をくぐるとすぐに居間があり、西側にテツウチの寝室。
その反対側に、少ない生活用品を収めている小さな物置。
物置の扉の横の階段は、二階のカルムの部屋につながっている。
玄関から正面の壁に面して、大人の腰ほどの高さの仕切りを挟んで台所がある。
水は山から湧き出す綺麗な水を、テツウチが金属の筒を伸ばして家まで引いている。
火を起こす薪や、食事の材料は山に入って取ってこればいいので、カルムはこの生活に不自由を感じた事はなかった。
カルムは隣のベッドで眠る少女を見る。
確かに頭の角は異質であったが、こうして明るい場所でじっくり観察してみると、子供の幼さはまだ抜けきっていないが、成長すれば美しくなるだろうと容易に想像が出来るほどの容姿であり、とてもこの少女があの破壊を生み出した流星の正体とは思えなかった。
テツウチは、この少女は人間で言えば、恐らく十から十二の年であると言っていた。
しかし、人間でないモノを人間の尺度で計ってもどうしようもない、とも言っていた。
この少女には聞かなければならない事がたくさんある。
しかし、あの時見た流星そのものであった少女に、自分たちの言葉は通じるのだろうか。
人と同じ姿をしているが、この子は一体何を食べるのだろうか。
少女の頭、窓から射し込む日光を美しく反射する黄金色の髪から突き出している角は、一体何なのだろう。
そして、森で出会った、影のない黒い牡鹿。
あれが倒れる直前、黒い何かが地面に流れ影になり、元の鹿に戻った。
動けない分、解答を得られない疑問が頭の中をぐるぐると渦巻く。
いくら考えても分からないと理解していても、何もできない時間が、目の前で寝返りを打つ少女が、傷の痛みが、カルムの頭を休ませない。
結局、夕暮れになりテツウチが夕食を持ってきてくれるまで、カルムは眠ることなく、解くことのできない思考の絡まりを無為に解き続けていた。
窓の向こうを見るとすっかり日も暮れ、一日中冷やされ続けた傷は、痛みに耐えればゆっくりとだが動けるほどには回復していた。
暖かい湯気の立つ粥を二人分お盆に乗せ、テツウチが部屋に入ってくる。
痛みに体をひきつらせながらも、何とか体を起こし、壁に背を預ける事が出来たカルムは、テツウチから粥の入った椀を貰い、口にした。
何も特別な材料が入っていない真っ白な粥は、カルムの喉をするりと抜けて、純粋な旨味と共に、傷ついた体と心を癒してくれるようだった。
「その子とは森で会ったんだ」
粥を食べ、体に元気が戻ってきたカルムは、少女が目覚めるのを待っているテツウチに、朝の出来事を話し始めた。
「朝の地震に似た衝撃は、この子が起こした事なんだ」
テツウチは何も言わず、カルムに視線を向け静かに聞いている。
「まだ夜も明けていない時間に、東の空から流星が飛んできた。黄金に光る美しい物だった。普通流れ星というのは空を走るだけで、ここまで落ちてくる事はないのに、それは山に落ちたんだ。だから、いったい何事かと思って森に入った」
そこまで話して脇腹の痛みに顔を顰める。
荒唐無稽、誰が信じるのかと笑いたくなる話だったが、テツウチは黒い静かな瞳でカルムを見つめていた。
「……流星が落ちた場所はひどい有様だった。ぐちゃぐちゃだったよ。空から降って来たんだから、そのくらいは当たり前なんだけど。その子は、そこから少し離れた場所に倒れていたんだ。多分勢いのままに転がっていったんだと思う」
カルムがあの黒い鹿の話に入ろうと口を開きかけたところで、テツウチが自分の向こう側、少女の眠るベッドの方を見ていることに気づき、カルムも横を向いた。
「…………ふぁ……あふぅ」
食べ物の匂いにつられたのか、少女は目覚めていた。
よく寝たと小さく伸びをしている。
ベッドから体を起こし、寝ぼけ眼をこすりながらキョロキョロとあたりを見回す少女は、自分たちを警戒する気配もなく、粥を持っているテツウチに向かって──もしかしたら粥を食べているカルムに向けてだったかもしれないが──一言「お腹空いた」とだけ喋った。
二人ともどう言葉を返したらいいものか分からず、テツウチは無言で粥の椀を少女に差出し、カルムはとりあえず粥を腹に流し込むことに集中した。
どうやら少女は、スプーンの使い方が分からないようだった。
テツウチに習いカルムが木を削り作ったそれを、興味深げに手で握って形を確かめたり、口に含んで噛んだりしていたが、食べ物ではないと分かったらポイと後ろに放り投げ、椀に直接口をつけ飲もうとした。
テツウチはそんな少女の行動を何も言わず黙って見ていたが、口の端からポタポタと布団に粥がこぼれはじめたのを見ると、少女の手から椀を返して貰い、すでに食べ終わり、再び脇腹を冷やそうと氷袋に手を伸ばしていたカルムの方を見て、何か言いたげな視線をよこした。
カルムはテツウチと暮らした長年の経験から、その視線の意味を理解できてしまった。
「ほら、口を開けなさい。あーんって」
スプーンで粥を掬い、大きく開けられた少女の口へ、こぼれないように慎重に運ぶ。
少女の方もそれを素直に受け入れ、雛鳥のようにカルムが粥をくれるのを口を開けて待った。
少女は凄まじい食欲の持ち主だった。
カルムが食べた量と同じだけ入っていた粥を平らげたと思ったら、カルムの指を握り「もっと」と、ほっぺたに粥をつけた顔でせがむのだ。
食わしてやらない訳にもいかず、テツウチが鍋一杯に作っていた粥を、結局すべて平らげてしまった。
「俺の分まで食いやがった」と、テツウチが珍しく悲しげな声を出した。
食べさせ続けたカルムの腕もいいかげん疲れていた。
四杯目くらいから脇腹の鈍痛が再び暴れ始め、もう勘弁してくれという思いで少女の口に粥を運び続けた。
粥をひとしきり食べ満足したらしく、服の上からでもわかるほど膨らんだお腹をさすりながら、幸せそうな声で「よく食べた」と笑顔を見せる少女を見て、自分が昼間考えていた問題は何だったんだと力が抜けるカルムだった。
「おやすみ」と布団に潜ろうとする少女を、カルムは慌てて抱き抱える様に起こすと、昼間から考えていた疑問を問いかけようとしたが、少女は窓の外を指差すと「暗いのに起きてたら駄目なんだよ」と言うだけで毛布にくるまってしまった。
「なんだそれ……」
少女はとても寝つきがいいようで、すでにカルムの腕の中で寝息を立てていた。
こうなっては起こす気にもなれず、少女をベッドに寝かせると、カルムも自分のベッドで横になった。
すると、ようやく体の疲れを頭が認識したようで、カルムはすぐに眠りの世界に落ちていった。
テツウチはカルム達が眠ったのを見届けると、剣を持ち、一人外に出た。
家を守る様に立つテツウチの前には、今日カルムが出会った黒い牡鹿と同じ、しかし牡鹿よりも大きく強いであろう巨大な熊が、その身を夜の闇よりも黒く染め、テツウチを食らわんと黒い牙をむき出している。
テツウチはカルムよりも長く山で生きている。
カルムが山で感じた恐怖を、異変を、テツウチが見逃していたはずもないのだ。
あの場は自分の息子を信じて勝手にやらせたが、ボロボロになって帰ってきたカルムから話を聞いて、一人で行かせるべきではなかったと反省していた。
そして、朝感じた悪意の感覚が再び密集し、この家に向かってきているという事を敏感に感じ取ったテツウチは、息子と、息子が助けた名も知らぬ少女を守るために、こうして化け物との戦いの場に出向いたのだ。
カルムが感じ、一度はそれに敗北した恐怖と同じ物をテツウチも感じていたが、それを表情にも見せる事無く、下段に構えた剣を左右に揺らす。
人間に不利な月のない夜だったが、光は家から届いている。
カルムは黒い鹿だと言っていたが、成程動物には皆影がある。
ならばこれも必然か。
テツウチは冷静に推理する。
鹿の肉体で仕留め損ねた。ならば鹿よりも強い生き物の体を使えばいい。単純な考えだ。
「貴様……いや、貴様らは何だ?なぜあの子を狙う」
返答を期待して話しかけたのではない。これは始まりの合図に過ぎない。
口の中まで黒に侵され、声のない咆哮をあげ突進してくる熊を、素早く横に飛ぶことで回避する。
そのまま家の壁を壊しカルム達を殺そうとするなら、壁を壊す前に後ろから斬り捨てようと考えていたが、熊の化け物は方向を変え再びテツウチに再び突進してきた。
どうやら邪魔する者は皆殺しにするつもりらしい。
化け物風情にしては頭がいいじゃないか。
避けると同時に剣を滑らせ、熊の左腕を水平に斬りつける。
血までは黒くないのだな、と赤く染まる敵の体を見て思った。
何合打ち合っただろう。
熊の攻撃は、柳のように体を揺らし、飄々と動くテツウチに一度も当たる事はなく、逆にテツウチの剣は、相手の肉を削り、腱を断ち、的確にダメージを与えているはずだった。
しかし、未だ敵は倒れる気配すら見せない。
テツウチはこの状況に微かな違和感を感じていた。
生き物であればとっくに死んでいる。
これではまるで、見えない糸に無理やり操られている人形だ。
いかに実力があるといっても、とうに全盛期の肉体を過ぎたテツウチの体には確かな疲労が積み重ねられている。
このまま朝までこの化け物と戦い続けるのは、如何にテツウチといえど無理だ。
カルムは鹿を覆っていた黒い何かが影に戻ったと言っていた。
家の明かりに照らされている熊にも影がなく、体は黒に覆われている。
元に戻す、そのきっかけが分からない。
熊が前足を持ち上げ立ち上がる。
巨大な熊だ。
テツウチの目には家の二階にも届きそうな大きさに見えた。
夜が、テツウチの心の奥で感じている恐怖が熊を大きく見せているのか。
テツウチは、今まで山で生きてきてこんな大きな熊には出会った事がない。
深呼吸をして、膝を落とし体を屈める。剣を両手で握り、目の前の敵を冷静に見定める。
ちまちま削っても意味がない事は散々理解した。
次は、足を無くしても立ち上がれるかどうか試してやろう。
熊が腕を振るう。
黒く染まったそれは、人など一撃で粉々に砕いてしまうだろう巨大で鋭利な武器だ。
敵の攻撃の瞬間、テツウチはバネの様に、屈めていた体を爆発させ、風よりも速く動いた。
夜よりも暗い黒に、二筋の銀色の軌跡が走る。
熊の股座を通り抜ける様に空を駆けたそれは、化け物の両足を、同時に断った。
熊の体が、腕を振るった勢いのまま前方に倒れこむ。
その衝撃は地面を揺らし、森で眠っていた鳥たちを乱暴に起こした。
後ろを振り返ったテツウチは、未だ諦めず、両腕で這ってテツウチを殺そうと向かってくる化け物に「よくやるよ。そんなにあの子を殺したいのか」と呟き、熊の両腕を斬り払った。
そこまでしてやっと、熊を覆っていた黒は、雨が泥を洗い落とす様に地面に染み込み、ただの影に戻った。