16.「ベロニカ!」
「そろそろお行き。あの窓は開いているし、君たちなら届くだろう?」
教皇が指を向けたのは、奥側の一番上にある窓だ。天井の高い部屋の一番上ともなると、梯子でもなければ絶対に届かない位置である。個人的にはもっと話していたいのだがそういうわけにもいかない、と残念そうに肩を竦めた教皇は、再び胸に手を当てて微笑んだまま呟いた。
「君たちの旅路に幸多からんことを」
一礼して、クリスはベロニカの手を取った。靴の調子を確かめ、一気に踏み込む。ととんっ、と二つの靴音を残して窓へと跳び上がり、先にベロニカを窓の外へ誘導しながら振り返る。教皇は眩しいものでも見るかのように目を細めていたが、クリスが問いかけたことですぐに表情を変えた。
「……聖者を求めるんじゃなければ、あなたはどうして私たちを集める?」
きょとん。にやり。ころころと表情を二転させた教皇がおもむろに口を開いた瞬間、勢いよくベロニカが腕を引いた。
「人の発展、進化のためだよ」
平然と言ってのける姿に、背筋が凍る。その隙にベロニカに引っ張られて空を飛ぶ。クリスほど上手く空気を蹴ることが出来ないベロニカは少しずつ高度を落としていたので、クリスはベロニカの腰を引き寄せて勢いよく宙を踏みしめた。
「何やってくれてるんだよ!」
「あら、駄目でした?」
「まだ話してただろう!?」
「でも、もう時間ですもの」
何を言っているのか、と思ったクリスの耳に聞き慣れてしまった足音が聞こえた。少し離れてもよく出来た耳には、まだ室内の音が聞こえてくる。澱みないジョンの靴音と、それに続く沢山の金属音は聖騎士たちの足音だろうか。今の今まで聞こえなかったのは、あの部屋が特別な作りになっているのだろうか。
肩越しに振り返ったクリスの目には既に何も見えなかったが、気配や音から状況は察せられた。騎士たちが部屋に戻ってきていたのだ。今度はクリスとベロニカを捕らえるために。
「もうちょっといてくれたら、保護することも出来たのになぁ」
冷たい手で背筋を撫でられたような気分になりつつも、教皇の言葉は聞かなかったことにしておいた。そのまま足で空気を踏みしめて、一気に蹴る。最高速度に近い速さで神殿から離れようとするクリスの耳には、既にベロニカの楽しげな声しか聞こえてこなかった。
「クリス、クリス! 次はどこに逃げるのですっ?」
「どこでもいいよ」
溜め息をつきながら言った台詞に、ベロニカはきゃっきゃと楽しそうな声を上げて喜んだ。
*
結局フェラルに戻った二人は、司教のことを住民に伝えてからしばらくこの街に留まることを選んだ。住民たちは司教の末路に手を叩いて喜んでいたのだが、聞くところによればあの司教はこの辺りでも結構有名だったらしい。悪名が知れ渡った司教がこの街にやってきたら、もしも万が一第二種の階級を維持出来ていたとしても真っ赤な雨が降ることは間違いなかっただろう。
子どもたちの分も含めて大量の洗濯を終え、ようやく落ち着いた昼下がり。カウンターで人心地ついているクリスとは裏腹に、ベロニカはくるくると忙しそうにテーブルを拭いている。客は夜からしか来ないのだからもう少しゆっくりしてもいいだろうに、本人が楽しそうだからいいかとクリスも声を上げるようなことはしなかった。
「あんたも見習ったらどうだい」
けらけら笑うマヤには肩を竦めてみせて、自分は無駄に動き回る趣味はないと主張する。どうせ子どもたちが帰ってきたら、夕飯の支度から店の手伝いまでやることは多いのだ。せめてもの休憩時間を謳歌してもいいだろう。
そう思っていたのに、現実とはかくも残酷なものなのか。
からんからん、と音を立てて開けられた扉。開店はまだだと主張しようと顔を向けるが、クリスの動きはぴたりと止まった。入店した男に、見覚えがあったからだ。
「まあ。ジョニーさん!」
ジョンである。唐突な登場にももはや慣れたものだが、完全に自宅と言っていいここまで来るとは思わなかった。げえ、と声を出して反射的に身を引くと、ジョンは涼しい顔で扉を閉める。砂が入ってくると困るのでそれはいいのだが、どうして普通に入ってきているのか。開店はまだだと言って追い返しそびれた所為なのだが、クリスは残念ながら気付いていない。
「何……もう、諦めたんじゃなかったの……?」
「いつ誰がそんなことを言った」
馬鹿め、という余計な言葉がついてきそうな態度にぐっと言葉を飲み込む。その隙を縫うようにして言葉を続けたジョンは、いつもの平然とした顔と姿勢を崩さずに言ってのけた。
「教皇様はお前たちをいたく気に入ったそうだ。まだ迎え入れは続く。勿論、お前も含めて」
じっと見つめてくるジョンの視線を受け流そうと視線を反らすが、お前というのは紛れもなくクリスを指している。嘘だ、嫌だ、認めない。そんな考えを読んだのか、いつの間にやら隣にやってきていたベロニカがぎゅっとクリスの手を握りながら嬉しそうに笑った。
「お断りします」
「何故ですか。そちらの第六種も共に、同じ待遇で受け入れますが」
「嫌なのですもの、仕方ないです。ご注文は?」
あまりの衝撃にはくはくと口を開閉させるだけのクリスは、断りながらも席を勧めて注文を取るベロニカが理解できない。というか、この状況を正しく理解できる人間がいたら教えてほしい。そいつは紛れもなく変人だ。
何故か自然な流れでクリスの隣の席へ案内されたジョンが、素直に料理を頼もうとしている。何を飲むか、それとも食べるか、と教わった通りに接客するベロニカに、そういう場面じゃないだろ、と全力でツッコミを入れた。勿論、心の中で。
一通り接客が終わってマヤが厨房に向かう頃合いになり、ようやくクリスの脳味噌が働き始める。流されてはいけない、と心の中で念じながらも既に手遅れなのだとは、本人以外のみぞ知る。
そうしてクリスは異様な現状を打破するために、そんなことしてる暇ないだろ、という気持ちを込めて声を上げた。どうせ楽しそうな顔をして、元気のいい返事を返されることは判っていたから、その声に澱みなど一切なかった。
「ベロニカ!」
(終)




