12.「行こうか」
裏口からこっそり脱出したクリスは、目立たない路地を選んで歩きつつ、人気のないところで黒い外套をすっぽりと身に纏った。宿に戻っている暇はなさそうだと判断し、メモを書きつつ情報屋へと向かう。いつもの隠し場所に宿の名前と部屋番号だけ書いたメモを挟み込み、その足で真っ直ぐに外を目指した。
金を残してきたのはジョンに借りを作りたくなかったからである。ジョンはそういったことに拘るようには見えないが、金に関しては話が別だ。金銭は人を狂わせるのである。水の価格高騰に怒りを覚えたクリスしかり、だ。通常運転だろうというツッコミは現在受け付けていないのであしからず。
先ほどの手配書には間違いなくベロニカのことが書いてあっただろう。しかもこの値段、と言われていたことから考えるに、犯罪者だと考えれば少々高い程度で、ただの女だと考えれば破格の報酬という具合のはずだ。まさかそこまで強硬手段に出るとは、と思ったが先ほどジョンが語った内容を考えると、これが強硬派と言われる所以なのだろう。何の罪もないと言えば嘘になるが、目立って大きな罪を犯したわけでもないベロニカを簡単にお尋ね者に出来る。これが教会の力である。
現在地からフェラルまでの道のりを考える。クリスの最高速度で向かえば半日もかからないだろう。全力を出して逃げるのは、幼い日に鬼の形相のマヤに追われたとき以来だろうか。苦笑しつつ道の端で靴をしっかりと履き直し、手荷物をしっかり背負ってそちらの紐も結び直す。一度とんとんと爪先を路面に打ちつけて肩と首を回し、問題がないことを確認してから助走を三歩。
「……よ、っと」
四歩目は勢いよく踏み込んで上空へ。何もない空間を階段のように踏みしめる度に加速する。流石に久々だから脚がぎしりと軋む感覚を抱くが、それでも止まるわけにはいかない。どうか自分が戻るまでに、フェラルに何も起きていませんように。そう祈ったクリスだが、教会を真っ向から否定している身で祈りを捧げる神は残念ながら思いつかなかった。
*
両手を挙げてホールドアップ。乾いた笑みを浮かべつつ足に力を込めようとしたが、ばしりと長い槍の柄で叩かれて仕方なしに力を抜いた。器用に肩を竦めて見せれば、こんな状況だというのにフェラルの見張り番はニタニタと下卑た笑みを浮かべていた。良くも悪くも第五種なだけはある。
「……まあ、そうなりますよねー」
はあ、とついた溜め息は砂漠の乾いた風に紛れてくれただろうか。
案の定というか何というか、結論を言えばクリスは後をつけられていたらしい。フェラルが見えるか見えないかといったところでいきなり矢を射かけられ、慌てて高度を下げつつ避けたら槍を持った騎士たちに取り囲まれたのである。人間だけではなく馬ですら追えるような速度で飛んできたつもりはないので、場所を突き止められたのはベロニカを伴ってここへやってきたときだろうか。
クリスも万能ではない上に旅の供があのベロニカだ。いつかは捕まるだろうとは思っていたが、今ここでとは。はーあ、と再度大きな溜め息をついて相手の出方を待てば、そのまま押し立てられるようにフェラルへと進まされた。当然だ。彼らの目的はベロニカの保護なのだから。
目も耳も勘もいい見張り番のことだから、きっと何があったかは既に察しているに違いない。住人たちには避難の前に地下を上手く塞ぐよう通達が出ているはずだ。それに乗じてベロニカが逃げてくれた方がいいのか、はたまた残っていてもらった方がいいのかはクリスには判断できなかった。けれどもきっと、逃げていないのだろうことは容易に想像できる。彼女に逃げている自覚はなく、ただ好きなところにいるだけなのだから。
「悪いね仰々しくて、っつ」
すれ違い様に見張り番に話しかければ後ろから槍の柄で足を殴られた。顔をしかめると見張り番がげらげら笑い出す。勝手に通れよ、と言い残して砂に紛れるように見張り番は去っていった。騎士に目をつけられる前に姿を消そうという魂胆だろう。それにしては逃げるのが遅すぎないかと思わないでもないが。
余計な道草を食っているといつ槍先を向けられるか判ったものではない。やれやれと思いつつ周りに合わせた速度で歩く。左右に一人ずつ、その後ろに三人の列がぞろぞろと続く様は圧巻というよりどこかしら間抜けでしかない。何せ先頭を歩くクリスは両手を挙げて困ったように笑ったままなのだ。もっと怯えろとは言われていない、というか何も言われないまま前へ前へと押されているため、わざわざ表情を作ったりとぼけたりもしていない。いつ彼らの気が変わって殺されても文句は言えない立場なのである、第六種という階級は。
「ただいまー」
真っ直ぐにバーへと向かってドアを開け、自然と下に降りていた視線を上げた。営業時間外だからか、店内に客は一人も見当たらない。その代わりと言っては何だが、カウンター内でグラスを拭いていた人物がいた。出来ることなら会いたくなかったと、クリスは心底そう思った。
「おかえり」
「……げ」
「何だいその声。ひどいなぁ、久々に会ったお兄ちゃんだっていうのに」
けらけら笑いながらクリスを出迎えたのはコネホである。ばちりと目が合った瞬間、彼の六能で状況は判断できただろうにこの言い草。流石である。ちなみにコネホの六能は、目が合った他人の心を読む能力だ。今何を考えているかなどは容易に察せるため、それを使って余所の街で占い師として日銭を稼いでいるのは余談である。
「ロニー、クリスが帰ってきたよ」
流石に後ろから槍を持った騎士たちが見えているのだからコネホでなくとも状況は理解できるだろうが、すぐにクリスが思っていた通りの状況を作るために動いてくれた。カウンターから動かないまま階段へと呼びかけている。
ところでロニーというのはベロニカのことだろうか。いつの間に愛称で呼ぶようになったのか、と考えている内に二階がどたばたと煩くなる。子どもたちの声が聞こえるから、今まで子ども部屋で遊んでいたのだろうか。ベロニカにも子どものようなところがあるからすぐ仲良くなれたのだろうなと、そう考えるクリスは苦笑している。背中にぴたりと槍を突きつけられていても、その笑みが崩れることはないだろうと思った。
すぐに階段を駆け降りる音が続いて、見覚えのない服を身に纏ったベロニカが降りてくる。どこかで見たことがあるような、とクリスが考えている間にカウンターを超えてきたベロニカは、その勢いのままクリスにぶつかってきた。正確に言えば抱きついてきたのだが、背中に刃物を突きつけられている状況なのである。コネホほどとは言わないが察せ、と出かかった小言はどうにか堪えた。
「クリス!」
「……ただいま、ベロニカ」
お帰りなさい、と言いかけたベロニカが、きょとりと大きな瞳を丸くした。両手を挙げたままへらりと笑うクリスを見て、胴に回った腕の力が強くなる。ぐえ、と唸りそうになったのも堪えてじっと目を合わせる前に、砂まみれだから放してくれと言ってみた。その主張は見事に無視されたが、腕の力は少しだけ緩めてもらえた。
「ねえ、クリス?」
こてん、と小首を傾げられる。子どもたちと接する内に動作も幼くなってしまったのではないだろうか。庇護欲を掻き立てられる小動物のような動きだったが、生憎クリスはそこまで動物愛護運動に目覚めていないので無視だ。これでイーブンだろうという目を向ければ、ベロニカは顔を戻して抱きつくのをやめた。
折角空いた手を再び伸ばして、ベロニカはクリスの手に触れる。向けたままの手の平は別に彼女にハイタッチしてもらうために挙げていたわけではないのだが、程よい体温の柔らかい手の平は砂まみれの手によく馴染んだ。
「一度、お会いしてみません?」
そっと囁くように言われて、クリスは少しだけ目を細める。ベロニカらしくもない言い方だ。何か心境の変化でもあったのだろうか。自分より年下の子どもたちに囲まれたおかげで、自分の年齢をようやく自覚したのであれば万々歳だ。他愛もないことを考えながら、クリスは平素の声を心がけながら問いかける。
「誰と?」
「教皇様と」
すぐに返ってきた声は、クリスのよく知るベロニカのものだった。はきはきと澱みなく、いつでもすっぱりと自分の意見を言ってのける。それが、クリスの知っているベロニカである。時にそれが面倒な事件を呼びこんでこようとも、クリスは案外そんなベロニカを気に入っていた。確かにこれはもう、厄介事の星の下に生まれたと言われてもおかしくはない。
「んー……まあ、それもいいかもね」
仕方ないなぁと苦笑しながら、クリスは合わされたままのベロニカの手を握る。微動だにせず成り行きを見守っているような騎士たちを意識の外に追い出して、ベロニカの頭越しにコネホと目を合わせた。きっとそれだけで要件は判っただろうが、あえて口に出しておく。珍しいと言われる第六種がまさかこの場に三人も集まっているとは万に一つも疑われないだろうが、億が一があっては困るのだ。コネホの六能を知られないためにも、口に出しておいた方が良い。
「その内サイモンから荷物が届くはずだから、受け取っといてもらってもいいかな」
「ああ、構わないよ。落とし物にはお礼一割だからね」
「いやいや、落としてないからね!」
「まあ、落としてしまったのです?」
それはご愁傷様でした、と頭を下げたベロニカへのフォローも面倒になってしまって、クリスは何度目になるか判らない溜め息をつきながら、手を握り返してくるベロニカに従った。
「行こうか」
「はい、クリス」
にっこりと満面の笑みを浮かべるベロニカに手を引かれる形で、クリスは店の外へ出た。今度は前後左右を騎士たちに囲まれながら、来た道をその通りに辿っていく。怪しまれてバーに到着する前に刺される可能性はあったが、もう少し蛇行して帰り道が判らなくなるように歩いてくれば意趣返しになったのかもしれないと考えてしまったクリスであった。
*
ぞろぞろと外へ向かう大所帯の背を見送りながら、マヤはくつくつと喉を鳴らしていた。彼女の部屋は店の入り口の真上にあるから、出ていく様子はばっちり見えただろう。この様子だと来る様子も見ていたに違いない。両手を挙げて連行されるクリスの姿はさぞ見物だっただろう。
「何だい、ニヤニヤして」
母さんこそ、と返しながらコネホは足を引きずるようにしてマヤの部屋に入る。クリスとベロニカが出ていってすぐに階段を上がったが、第六欠損のある足を抱えて早く上がれるはずもない。結局既に一行は街の出口付近まで進んでしまっている。いい見世物だと思っていたのに残念だ、とコネホは小さく溜め息をついた。
「挨拶していけば良かったのに」
こちらを振り返らないマヤに対して、愚痴でも言うかのような声色で投げかける。喉を鳴らして笑いながら、ようやく視線だけをコネホに向けたマヤは、皺が目立つようになってきた目を弧にして言い放った。
「アレの家はここだよ?」
必要ないに決まっているじゃあないか、という空気をふんだんに含んだ言葉に対して、コネホも苦笑しつつ肩を竦めるしかなかった。




