越境
「えっ……。」
私は、息をのんだきり、言葉を失いました。
彼は、
「おいで。」
と私に言いました。その優しくも支配的な言葉を受けて、私は、なぜだが、彼のもとに歩き出してしまいました。彼は、
「こんなもの、もういらない。」
と、私のポーチを雨に濡れた道に、落としました。投げつけるのでもなく、捨てるのでもなく、ただ、手の力を抜いて、落としたのです。
「おいで。」
彼に言われるまま、私は下った山を、また登り始めました。そして、「もしもし。」という声が最初に聞こえた場所まで戻りました。
彼は、また、「おいで。」と言いました。そこには、古い家が建っていました。私は、おかしい、と思ってはいました。ですが…。ですが…私は進んでしまいました。手には光の消えたスマートフォンと、狐のストラップだけ。今、考えてみれば、私と彼はどうやって、あの暗い道を歩いたのでしょうか。スマートフォンの光は消えていたのです。
彼は、「何か食べる?」と聞きました。
「いいえ、大丈夫です。」
私は、不思議と普通に答えてしまいました。
「そう。じゃあ、もう寝ようか?」
「はい。」
「お風呂は、沸かしてあるよ。」
「ありがとうございます。いただきます。」
「うん。」
私は、おかしい、おかしいと思いつつ、まるで、夢の中にいるかのように、その家での自分の役割に徹してしまいました。何が役割かも分かっていないのに…です。
私の手には、まだ、スマートフォンとストラップが握られていました。
「あっ、そんなものまだ、持ってたの。」
彼は、手を差し出して、私にそれらを渡すよう促しました。ついに、私は、スマートフォンを彼に手渡してしまいました。それも、変なのです。私は彼に、膝をついて、跪くようにして渡したのです。
「早く風呂へ。」
「はい。」
私は、洗面所で服を脱ぎました。鏡に自分が映ります。下着を脱ぐ時、生理のナプキンに血がついているかも、と、私は変に慌てました。しかし、そこには、一滴の血もついていません。私は、ポーチを落とされたこともその時には忘れて、早く風呂に、と思い、下着と服を畳んで風呂に入りました。
私は念入りに体を洗いました。そこには、石鹸しかなく、髪も身体も全て石鹸で洗います。私は、いくら洗っても足りないように感じます。しかし、外から、
「早く。」「早く。」
と言う声がするので、私は身体を流しました。
外に出ると彼が、掛け布団を持って、待っていました。私は、裸のまま、掛け布団に包まれ、担がれて、布団に運ばれました。




