1.とある時 とある場所で(certain time. certain place.)
サラはもう長いこと自分の部屋から出ていなかった。
以前は母親が食事を持って来る度に部屋を出て学校に行くように懇願されていたけれど、いつの頃か母親は無言で部屋の前に食事を置いて行くだけになっていた。
それをいいことにサラはベッドの上で丸くなっている日々がずっと続いていたのだ。
もうどうだっていいし、なんだっていい。
サラはそう思い、ベッドの上でいっそう体を丸める。
どうせ明日なんてもうこないのだから。自分はもう永遠にこのままなんだ。
そう信じたサラはもはや考えることも悩むことも放棄していた。
このまどろみの中で、ただ消えてしまいたい、とただそれだけを念じていたのだ。
部屋に引きこもってからどのくらいたった頃だろうか。
ある日の午後、サラは人の気配にベッドの上で半身を起こした。
ベッドサイドに見知らぬ女性が佇んでいたのだ。
まっすぐな黒髪の、黒い瞳の年齢のよく分からない女性。白い肌に口紅だけが毒々しい赤だった。そして上から下まで黒一色の服を纏っていた。
いつの間に部屋に入ってきたのだろう。その女性は冷ややかと言っていいくらい静かにサラを見つめていた。
驚くサラにその女性は口を開いた。真っ赤な唇がなまめかしく動き、落ち着いた優しい声音が聞こえた。
「こんにちはサラさん」
その声に麻痺したようにサラは動けなくなった。
「勝手にお部屋に入ってごめんなさい。お母様に頼まれたの」
「頼まれたってなにを」
「あなたがお部屋から出られるように、て」
ああそうか、とサラは納得した。きっと母が手配したカウンセラーか何かなのだ、と思ったのだ
「私はマリア。あなたとお話がしたいの」
黒衣のマリアさまだ、そう思うとサラはなんだかおかしくなってクスリとわらった。
「ああ、笑ってくれた」
女性――マリアはそう言うと微笑んだ。
「ねえサラさん、もしよかったらだけど」
心に染み入るような不思議な声。そしてまつ毛の長い印象的な黒い瞳。
サラはその声と瞳に魅入られてしまった。ずっとその声を聞いていたい、その瞳に見つめられていたい、と思う。
「私とお友達になってもらえるとうれしいわ」
マリアのそんな言葉に、サラは無意識のままコクリとうなずいていた。
「よかった」
マリアはそう言うと、真っ赤な唇を横に引いて微笑んだ。けれどその瞳は笑っていなかった。相変わらず冷ややかな目でサラを見ている。
けれどサラは彼女の美しい顔に心を奪われていた。その笑みをうっとりと見つめていた。
「ね、教えてサラさん」
ねっとりとした口調で尋ねる。
「あなたはどうしてお部屋から出られなくなったのかしら」
サラはふるふると頭を振った。
「言いたくない?」
そう優しく尋ねる。サラは重ねて頭を振ると、
「違うの」
「うん?」
小首を傾げるマリア。サラは半ば夢見心地で答えた。
「サラ、て呼んで欲しいの」
「あらあら」
そう聞くとマリアは口を大きく開けて笑った。
「うふふ、かわいい子ね、あなた」
そして、座っていい? と尋ねた。サラがうなずくと、ベッドの端に座り、上半身を捻ってサラの方を向いた。細い腰と豊かな胸が強調されて見えた。サラはその美しさに陶然となった。
「じゃあサラ」
呼び捨てにされたことに何故だかしびれるような快感を感じる。
「私のことはマリア先生、と呼んでもらえるかしら」
「はい・・・・・・マリアせんせい」
やっぱりカウンセラーの先生なんだ、とサラは素直に納得した。
「それで、あのマリアせんせい」
その名を呼ぶだけで何故だかうれしいような恥ずかしいような気持になる。
「マリアせんせいのことも教えて欲しいの」
えっ、と怪訝な表情で小首を傾げるマリア。けれどすぐにその顔に笑みが戻る。張り付いたような形だけの笑みが。
「いいわ。何が知りたい?」
「せんせいって結婚してるの?」
その無邪気な問いにマリアはやや苦笑して、
「してないわ」
「恋人はいないの?」
マリアは言い淀み、けれどこう答えた。
「いないわ。けど“好きなひと”ならいるけど」
「そうなんだ・・・・・・」
正直な答えだ、とサラは思った。この人は誠実であろうとしている。この人は信じられる。そう思ったのだ。
それが始まりの日の出来事だった。
マリア先生は毎日のようにサラの部屋を訪れた。
花を持って来てくれる時もあった。お香を焚いてくれる時もあった。不思議な香りはサラを無我の境地に誘ってくれた。
「特別なお香なの」
マリアが持ち込んだ青磁の香炉からは幾筋もの煙りが薄くたなびいていた。
カウンセラーのはずなのに、マリアは引きこもりの事を積極的に尋ねることはなかった。好きな歌や好きな食べ物、なにが心地よいのかなど他愛のない話題に終始していた。
むしろ積極的だったのはサラの方で、特にマリアせんせいの“好きなひと”のことを何度も尋ねていた。そしてその度にマリアは少しずつ“そのひと”のことを教えてくれた。
いわく、とても社交的で友達が幾人もいるとか、その凛とした佇まいに惹かれたのだとか、いくら親しくなっても、心の奥底までは容易に見せないとか、それなのに微笑みかけられるだけで幸せな気持ちになれるだとか、いわば“恋の話”を少しだけしてくれるのだった。
何度目かの来訪の時、興味津々のサラに、マリアはそのお相手が同性なのだとさらりと明かした。
それを聞いたサラは喜びに打ち震えて、
「やっぱり、やっぱりそうなの。そうだと思っていた」と叫ぶように言った。
マリアは片目を閉じて、唇に人差し指をあてて、
「しいっ。これはナイショだからね。あなただから話すの」
サラは興奮気味に、
「うん、わかってる。“そういう”のを知られると“たいへん”だものね」
「ええそう。特にあなたのお母様にはね」
そういわれてサラははっとした。
「仕事とはいえ、娘の部屋に“そういう”ひとが入るなんて嫌がるでしょうから」
「そう・・・そうだよね、うん」
サラは視線を泳がせて、しばし沈黙した。
「わたしね、」
とサラは意を決したように語り始めた。
「わたしもなの。好きな女の子がいたの」
マリアは優しい瞳でサラを見つめていた。
けれど瞳の下の赤い唇は、舌なめずりせんばかりの妖しい笑みを湛えていた。してやったり、とでも言うような性質の良くない笑み。けれど、そのことにサラはまったく気づいていなかった・・・。
「だけどね、その子は、わたしのことを」
一瞬絶句する。そして続けた。
「裏切ったの、わたしのことを」
それは大人から見れば他愛もない話かも知れなかった。
友達以上の存在だと思っていたその子が、彼女の知らないところで彼女のことを悪く言っていたのだ。あなたを愛している、という神聖な秘密を打ち明けたのに、そのことを他の子たちに話して、陰で笑いものにしていたのだという。
「わたし、それを聞いて死にたくなったの」
半身を起こして、同じベッドの端に横座りしているマリアを見つめながら話し続ける。
「だから、わたし、わたし」
いくつものイメージがサラの胸中を去来する。
ナイフの刃の煌めき、滴り落ちる血潮の赤さ。泣き叫ぶ母の姿。
サラはうつむき、膝を抱えてすすり泣いていた。
マリアはその真っ赤な唇の端を軽く歪めた。奇妙な笑みを浮かべながらこんなことを言う。
「その女の子に会いたい?」
首を横に振り否定するサラ。
そう聞くとマリアはさらに唇を歪めた。グロテスクな、猛禽じみた笑み。
「そう。その子のことはもういいのね?」
うなずくサラ。マリアは畳みかけるように聴いた。
「どうして」
「だって」
サラは顔を上げてマリアを見た。マリアは先ほどの笑みとは似ても似つかない慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべていた。
「今はマリアせんせいがいるもの」
マリアは聖母の笑みのまま頷いて見せた。それを見たサラは感極まって、自分の両手をまるで祈るかのように握りしめてつぶやいた。
「わたしのマリアせんせい・・・」
それは少女の魂が堕ちた瞬間だった。




