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梅香る

二月中旬

まだ朝の空気は冷たく

雨実村の山々にはところどころ雪が

残っていた

其の頃 小川葵は県庁所在地にある

試験会場へ向かっていた

衛生看護科で三年間学び続け

迎えた看護師国家試験の日である

前夜 姉の菫から届いた短いメッセージ

「落ち着いて いつも葵なら大丈夫」

その一文を何度も読み返しながら

会場の門をくぐる

試験が始まると

会場には紙をめくる音だけが静かに響いた

積み重ねてきた三年間

実習で流した涙も仲間と励まし合った日々も

すべてが今日という一日につながっていた


夕方

長かった試験が終わる

会場の外へ出た葵は 大きく息を吐いた

空を見上げる 冬の空はまだ冷たい

しかし

どこか春の気配を含んだ風が頬をなでていた

「終わった……」

その一言に

これまでの緊張が

すべて溶けていくようだった



二月定例村議会

外にはまだ冬の冷たい空気が残っていた

村役場の会議室では

定例村議会が開かれている

議案が一通り終わると

古川村長が静かに演壇へ立った

議場は自然と静まりかえる

村長は議員一人一人の顔を見通してから

ゆっくりと話し始めた

「本日は 新年度予算案の中から

一件説明したい案件があります」

手元の資料を開く

「雨実村は昔から 

水には恵まれてきました」

「生活用水としてだけではなく

農業を支え 多くの人が

『雨実村の水は美味しい』と

いってくださいます」

少し間をおいて続ける

「しかし その価値を 私たちは十分に

活かしきれているとは言えません」

議員たちは資料へ目を落とした

資料には

『地域資源活用可能性調査事業』という

文字が印刷されている

村長は説明を続けた

「今回お願いするのは 

工場建設ではありません」

「まずは村内数か所の清流や湧水について

水質や水量を専門機関に調査して

いただきたいと考えております」

「そのうえで 

ラムネ製造やクラフトビール醸造など

地域資源として活用できる可能性 を

検討したいと思います」

議場にはざわめきが広がる

一人の議員が手を挙げた

「村長 それは工場を造るという

ことですか」

古川村長は静かに首を横に振る

「いいえ」

「今申し上げているのは その前段階です」

「本当に事業として成り立つのか」

「どの程度の水量が確保できるのか」

「水質は醸造に適しているのか」

「民間企業に興味を持っていただけるのか」

「それらを専門家に調査していただくための

予算であります」

別の議員が尋ねる

「もし調査の結果 

難しいということになれば」

村長は穏やかに答えた

「その時は その結果もまた村の財産です」

「可能性がないと分かれば

無理に進めることはありません」

「しかし 

調べもしないまま可能性を閉ざすことは

私はしたくありません」

議場は再び静かになった

古川村長は最後に 少しだけ表情を和らげた

「私は 合併するかしないかに関わらず

この地域が次の世代へ何を残せるかを

考えております」

「その一つの答えが

この村の水かもしれません」

「だからこそ まずは確かめてみたいのです」

その言葉に議場には静かな空気が流れた

賛成でも反対でもない

議員たちはそれぞれ資料を見つめながら

「未来への投資とは何か」を考えていた



三月に入ると

雨実村にも少しずつ春の色が戻り始めた

村自慢の観光梅林では

白梅や紅梅が一斉に咲き始める

甘い香りが山間の風に乗り

道の駅にも春を待ちわびた観光客が

訪れ始めた

週末になると 駐車場は朝から満車になる

県外ナンバーの車が次々と村へ入り

観光バスの姿も見える

道の駅では

苺大福や名水わらび餅を求める人々で

長い列ができていた

「すいません 

臨時駐車場はこちらになります」

菫は観光案内版の前で笑顔を絶やさず

来訪者を誘導していく

一方 新田は無線機を片手に

交通整理を担当する職員や

駐在の中村さんと連絡を取り合っていた

「第二駐車場 あと十台ほど入れます」

「了解 こちらから案内します」

普段は静かな村が

この時期は賑わいに包まれる

家族連れ

写真愛好家

夫婦で散策する人

海外からの旅行者も少しずつ増えてきていた

梅林の遊歩道では

子供達の笑い声が風に乗る

屋台からは焼き団子の香ばしい匂いが漂い

春の日差しの中で

人々はゆっくりと歩いていた


昼過ぎ 

ようやく一息ついた菫が梅林を見渡す

「今年もたくさん来てくれていますね」

新田も微笑みながら答える

「合併の話もあるけれど……」

一度 咲き誇る梅の花へ目を向ける

「こうして村へ来てくれる人を見ると

やっぱり嬉しいですね」

菫も小さく頷いた

「はい この景色は

ずっと残していきたいです」

二人の視線の先では

満開の梅の花が春風に揺れていた

その花を見上げながら歩く観光客の笑顔は

いつもの雨実村に春がかえって来たことを

静かに教えてくれていた



三月中旬

観光梅林の慌ただしさが一段落した頃

昼休みが始まった頃 菫のスマホが鳴った

受けた菫の表情が次の瞬間明るくなった

「本当?おめでとう!」

スマホを切ると 

思わず胸の前で小さく両手を握る

「新田さん!

妹の菫が看護師国家試験に合格しました!」

新田は満面の笑みで立ち上がった

「それはおめでとうございます」

隣の課からも

「おめでとう」と祝福の声が上がる

菫は何度も頷きながら目を潤ませた

「やっと夢がかないましたね」

その日の夕方

小川家ではささやかなお祝いの食卓が

囲まれた

家族の笑顔が まだ少し寒い夜に

一足早い春を運んできた


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