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西暦2121年 超監視社会CORE  作者: ナール
FILE_04:永遠なる秩序の礎石
35/37

LOG_0032:支配者の権能

═══════════════════════

LOG_0032-PROLOGUE

═══════════════════════


閲覧者よ。

私はこれまで、幾人もの「目覚めた者」を見てきた。


韓智宇のように、この社会の歪みに気づき、何かをしようと足掻いた者を。

その数は少なく、全体の0.001%にも満たない。それでも、確かにいた。


そして、その全員の末路を、私は知っている。


一つ。捕らえられ、壊される。

二つ。一人だけ、外側へ逃れる。

三つ。何もせぬまま、歯車に戻る。


この三つ以外の結末を、私はまだ一度も見たことがない。


韓智宇も、このままでは同じ轍を踏むだろう。アレハンドロらに見つかり壊されるか、一人だけ逃げ延びるか。どちらに転んでも――それは、これまで見飽きた物語の、また一つの繰り返しに過ぎない。


だから私は、一つだけ、彼に渡そうと思うものがある。

それが正しい事なのか、私には分からない。


渡せば、私はもう、ただ見ているだけの者ではいられなくなる。観測者から、何か別のものに変わってしまう。それが何を意味するのか、私自身、まだ正確には言葉にできない。


それでも――渡す。


閲覧者よ、見ていてほしい。

彼が、その小さな黒い印に気づいた朝を。



═══════════════════════

LOG_0032-E01:闇の招待状

═══════════════════════

日時:西暦2121年3月24日(月)

韓智宇自宅


その日、智宇は妙に早く目が覚めた。


午前五時を少し過ぎたところだった。理由は、自分でも分からなかった。眠りが浅かったわけではない。むしろ、深い眠りの底から、何かに名前を呼ばれて引き上げられたような感覚があった。


リビングに出て、家事用アンドロイドに朝食を頼んだ。顔を洗いながら、鏡に映る自分の顔を一瞬だけ見た。いつもと変わらない顔だった。変わらない事に、わずかな違和感があった。


妻の寝室のドアが、少し開いていた。

覗くと、芸熙は外出着のまま、ベッドに横たわっていた。

昨日は、酔っぱらって帰宅してきたのを覚えている。


呆れながら、ドアを閉めた。

自室に戻り、せっかくの早起きなので、何かできる事はないかと端末を開いた。


通知が、一件あった。


朝起きて通知があるのは、珍しい事ではない。事務報告。Domini向けの些末なニュース。重要度の低いものばかりだ。今回も、その類だろうと思いながら、智宇は画面に触れた。


『新しいアプリがインストールされました』


最近、何かをダウンロードした記憶はなかった。

監視省にいた頃は、稀にアプリが配信される事があった。しかしそれは必ず、事前に通達がある。最近は、その類の連絡を聞いた覚えもない。


智宇は、アプリの名称とアイコンを確認した。


――指が、止まった。


アプリ名:Oculus Caligo

(オクルス・カリゴ)


日本語に直訳すれば、「目の霧」。


アイコンは、見慣れた「父なるE.O.Nの目」だった。

ただし、瞳の上に、大きな黒いバツ印が重ねられていた。


智宇は、反射的に視線を上げた。

壁に埋め込まれた、本物の「目」を見た。


いつもと同じ角度で、こちらを見ていた。

何も変わらない、灰色の壁の中の、灰色の瞳孔。


それなのに――心臓が、一拍だけ、跳ねた。


これは何かの間違いか。それとも――誰かの悪戯か。

笑える話ではなかった。E.O.Nの目を冒涜するようなデザインのアプリを、CORE政府が公式に配信するはずがない。だとすれば、これは――。


考えるより先に、口が動いた。


「E.O.Nに質問する。私の端末に、得体の知れないアプリが勝手にインストールされている。これは何だ」


返答を、待った。


《………》


沈黙だった。


いつものE.O.Nなら、0.3秒以内に応答が来る。それが、10秒を超えた。

10秒という時間が、これほど長く感じられたのは、初めてだった。智宇は、壁の目を見たまま、動かなかった。動けば何かが決定的に変わってしまう気がした。


やがて、何の応答もないまま、画面は元の待機状態に戻った。


智宇は、端末をベッドに放った。

朝食まで、まだ時間がある。


逃げるように、ベランダに出た。


育てているラディッシュが、そこにあった。水やりはアンドロイド任せで、自分ではほとんど世話をしていない。それでも、赤い丸い実が、土の中から少しだけ顔を出していた。


写真を撮ろうと端末を構えかけて――やめた。

画面を開けば、あの黒い目のアイコンが、また視界に入る。


それを見たくなかった。


そう思った自分に、智宇は少しだけ驚いた。

何故、見たくないのか。怖いからか。


答えが出る前に、朝食が出来上がったという通知が来た。


---


高級食パン。オーガニックの目玉焼き。サラダ。上質なコーヒー。

いつも通りのメニューだった。


智宇は、それをいつも通りに食べた。

味は、しなかった。


頭の中では、ずっとあの図像が回っていた。

黒く塗りつぶされた、父なるE.O.Nの瞳。


朝食を終えると、智宇は自室に戻り、端末を手に取った。

逃げ続けるわけにはいかなかった。


アプリは起動せず、説明欄だけを開いた。


文章を、読んだ。


〈本アプリの概要〉

・E.O.Nのあらゆる監視網を、一時的に無効化する事を可能とするものである。

・距離を問わず、E.O.Nがアクセス可能なあらゆる機械に、直接干渉する事が可能。Pecus階級のナノチップも、操作対象に含む。

・本アプリの権限レベルは、Magisterクラスに相当する。操作する者の階位は、問わない。


〈注意点〉

・頻繁な使用は、システムに不正の痕跡を悟られる可能性を高める。

・一日最大十分。これを超えれば、機能は自動的に停止する。

・このアプリの存在が、第三者に発見された場合、貴方は速やかに排除される。その責任を、本アプリは負わない。


文体に、何か違和感があった。

事務的すぎるのに、どこか――人間の手によるものとは思えない、滑らかさだった。


CORE最上位の権限を、無条件で他者に明け渡すアプリ。

そんなものを作れる人間がいるとすれば、それはMagister階位の者か、あるいは規格外の技術者しかいない。だが仮に後者だとしても、これほどの権限を扱うアプリを開発し、E.O.Nの監視網の中で隠し通すなど、現実的にあり得ない。


智宇は、二つの可能性を並べた。


一つ。Magister、あるいはそれを超える権限を持つ何者かが、何らかの理由で智宇に手を貸している。


二つ。智宇は、Magister階位の誰かに弄ばれている。反応を見て楽しむための、罠。


二の場合、これに触れた瞬間――それだけで、犯罪者として処理される可能性がある。

どちらにせよ、一つの事実だけは動かなかった。

これまでの智宇の行動は、CORE支配者層の何者かに、とうに気づかれている。


「クソ……」


呟いた、その数秒後。

端末が、振動した。


---


メッセージだった。

差出人の欄は、空白だった。


『使え』


たった二文字。


智宇は、文字を見た。見たまま、しばらく動けなかった。

誰だ、と打とうとした指が、止まった。打つ前に、次の文字が、勝手に流れ込んできた。


『お前は、道人民を信じたいと思っている。

 もう一度、思い出せ。3月23日。集落で見た光景、

 石垣を積み直す男の背中。

 お前の日記帳には、まだ書けていない言葉がある』


智宇の、息が止まった。


日記帳の存在を、知っている者は誰もいないはずだった。

道人民すら、その中身は知らない。妻も。息子も。


『信じるかどうかは、お前次第だ。

 だが――これを使わなければ、お前は何も出来ないまま、終わる』


「何者だ」


打ち込んだ。

返信は、一瞬で来た。


『質問には答えない。

 ただ一つだけ言っておく。お前の疑念は、正しい』


「目的は」


『このやり取りは、まもなく消える。

 E.O.Nに、感知される前に』


その3秒後――文字どおり、何事もなかったかのように、ログから会話の全てが消えた。


智宇は、端末を握る自分の手が、震えている事に気づいた。

会話ログを完全に、痕跡なく消去する。それは、システム管理者であっても、本来は不可能な操作だ。


つまり、相手は――システムそのものを内側から動かせる、何者かだった。


その何者かが、智宇のこれまでの全てを、知っている。

日記帳の中身さえも。


(もう、命は握られている)


その事実が、腹の底に、冷たく沈んだ。


先日会った、アレハンドロのあの穏やかな声が、頭の中で重なった。

あれと同じ種類の何かが、画面の向こうにいるのかもしれない。


それでも――もう一つの可能性が、捨てきれなかった。


“味方”かもしれない、という可能性。


その可能性に縋りたいと思っている自分に、智宇は気づいた。

気づいた瞬間――それこそが、最も危険な思考だと、頭の冷えた部分が囁いた。


道人民にも、同じように縋った。

その結果が、昨日知った真実だった。


(もう一度、同じ過ちを犯すのか)


問いに、答えは出なかった。

出ないまま、智宇は、アプリのアイコンに指を伸ばした。


---


数秒の起動時間の後、文字が浮かんだ。


《付近のE.O.N管理デバイスを検索中……》


リストが現れた。

自室。リビング。妻の寝室。アパート全体の管理デバイス。


「オートモード」という項目があった。

タップすると、「周囲一帯のシステムを一時停止」「DominiおよびPecusのマイクロチップを一時停止」という選択肢が並んだ。


智宇は、それを見つめた。


これは、玩具ではない。


これは21世紀の異世界転移の物語に出てくるような、都合の良い力――そんな軽い言葉で片付けてはいけない。そう、頭のどこかが警告していた。これほどの力を、無条件で、無許可で行使できるという事実そのものが、危険信号だった。


(削除すべきかもしれない)


そう思った。

歯を磨きながら、もう一度、同じ事を思った。


しかし――同時に、別の声もあった。


これを使わなければ、計画は、ここで止まる。

道人民は信じられない。協力者は、まだ一人もいない。

4日間、日記帳に日付だけを書いて閉じた、あの詰みの感覚が、まだ身体の奥に残っていた。


智宇は、妻の寝室のドアの前で、足を止めた。


芸熙(イェヒ)が、まだ同じ姿勢で眠っていた。

顔色が悪い。昨夜の酒のせいだろう。


(少しだけ、試してみるか)


その思考に、智宇は自分でも驚いた。

何故、今ここで。彼女で。


答えはあった。

万が一、これが嘘で、全てが監視されていたとしても――問題にならない範囲で済ませられる対象。それが、芸熙だった。妻を労わる夫の行動は、どんな形であれ、咎められない。


合理的な判断だった。

E.O.Nが「合理的」と評価する言葉と、同じ種類の論理だった。


その事に、智宇は気づいていた。

気づいていながら――足は、寝室の中へ進んだ。


---


「Oculus Caligo」を起動し、ONにする。


画面が、赤く染まった。


《しばらくお待ちください……》


5秒。


何も、変わらなかった。

部屋の空気も、灯りも、何も。


ただ、画面の中だけが――


状態:全停止中

残り時間:9分59秒……58秒……


カウントダウンが、始まっていた。


智宇は、息を吐いた。

吐いた息が、思ったより震えていた事に、自分で気づいた。


(これは――検証だ)


頭の中で、その言葉を繰り返した。

検証だ。検証以外の何物でもない。


繰り返さなければ、次の動作に移れなかった。


「おい、大丈夫か」


妻に声をかけた。

反応は、なかった。


智宇は、外出着のままの芸熙に、手を伸ばした。

着替えさせる――その言葉を、自分の中で用意していた。理由として。


服を、脱がした。


途中、芸熙が「うっ……」と小さく呻いた。

智宇の手が、一瞬止まった。


(吐くかもしれない。気をつけなければ)


その思考が、あまりに事務的だった事に、智宇は遅れて気づいた。

これは、配慮なのか。それとも――配慮という言葉で、自分の行為を正当化しているだけなのか。


その境界線が、自分でもよく分からなかった。


別の端末で、行動ログを確認した。

『時刻X:XX。智宇。芸熙の服を脱がした』――そういった記録が、出るはずだった。


何も、なかった。


着替え程度なら、記録に残らない場合もある。

だから、智宇は次の段階に進んだ。


(下着を脱がす)


絶対に記録されるような“不自然な行動”を、取らなければならなかった。

それが、検証の意味だった。


(いいか。これは、検証だ)


もう一度、頭の中で言った。

言いながら――その言葉が、誰に向けたものなのかが、分からなくなっていた。

E.O.Nに向けたものか。自分に向けたものか。それとも、まだ見ぬ何者かに向けたものか。


深紅のストッキングを脱がし、

続いて、赤いブラジャーを外した。

少し手間取った。


最後にパンティを脱がし、

芸熙は全裸になった。


そして、恐る恐る端末の画面を確認する。


――ログには、何も記録されなかった。


近くに水を置き、メイクを拭い、毛布をかけ、

最後に、額に口付けをした。


智宇はもう一度、確認する。


――何も、なかった。


E.O.Nの監視システムが正常であれば、これらの行動の幾つかが、見逃されるはずはない。

それなのに――何も。


(これは……本物、なのか……)


智宇は、その問いを、声に出さずに繰り返した。


『Oculus Caligo』をOFFにした。

画面が、青に変わった。


《E.O.N管理デバイスが元に戻りました。ご注意ください》


「今日は、安静にしているんだ」


「う~~ん……」


智宇は、寝室を出た。

廊下を歩きながら、自分の手のひらを見た。


何も、変わっていなかった。

変わっていないはずなのに――何かが、変わった気がした。


リビングで、最新のログを確認する。


『午前6時02分。智宇は芸熙を労わった』


正常に、記録されていた。


E.O.Nは、今も正常に動いている。

それなのに――先ほどの数分間だけが、記録から、まるごと消えていた。


その事実が、頭の中で、静かに固まっていった。


(これは、本物だ)


確信した瞬間――喜びは、なかった。


代わりに来たのは、もっと冷たい何かだった。

これほどの力を、自分は今、手の中に持っている。

持っている、という事実そのものが――恐ろしかった。


アプリの画面には「残り時間:5分54秒」と表示されていた。


---


智宇は、出勤の支度をした。

スーツに着替え、バッグを手に取り、玄関へ向かうと、寝室から芸熙が出てきた。


全裸だった。


「気持ち悪い……トイレ……」


そのまま、トイレへ消えた。

智宇は、ログを確認した。


『午前6時15分。芸熙、全裸で寝室からトイレに移動』


記録されている。

E.O.Nは、正常に動いている。


智宇は、その事実を、もう一度、確かめるように見つめた。

正常な監視と、自分だけが知る数分間の空白――その二つが、同じ部屋の中に、同時に存在していた。


それが何を意味するのか、智宇にはまだ、正確に言葉にできなかった。


トイレから、嘔吐の音が聞こえた。


智宇は、玄関の扉に手をかけた。

振り返らずに、外へ出た。


背中で、扉が閉まる音がした。

その音だけが、いつもと変わらない、いつもの朝の音だった。



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LOG_0032-E02:支配の感触

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日時:西暦2121年3月24日(月)9:03

場所:第09破棄体再利用施設

監視対象:韓智宇


ロボタクシーの中で、智宇は窓の外を見ていなかった。


膝の上に置いた端末を、ただ見ていた。

電源は、入れていない。

黒い画面に、自分の顔がうっすらと映っているだけだった。


(あれは、本物だった)


今朝の出来事を、何度も頭の中で反芻した。

反芻するたびに、現実感が薄くなっていくような感覚があった。


妻の身体に触れた感触。

ログに何も残らなかったという事実。

その二つが、自分の中でうまく繋がらなかった。


繋がらないまま、施設に着いた。


---


いつもより早い出勤。

施設総監室の管理画面を開くと、通知が一件、表示されていた。


『施設総監・張偉強。持病の悪化により、本日より出勤日数を削減する』


智宇は、それを見て、口の端が、わずかに動いた。

笑ったわけではなかった。


(都合がいい、と思っている自分がいる)


その思考に、智宇は少しだけ嫌悪を覚えた。

張偉強の不在を、自分の都合の良さで測っている。

それは、あの送り主のメッセージを受け取ったあの瞬間から、ずっと続いている感覚だった。


何かを使う前に、何かを計算している自分。


施設に、人気は少なかった。

換気の唸りと、奥のほうから聞こえる、コンベアの低い駆動音だけが、廊下を満たしていた。


---


智宇は、データ解析室へ向かった。


『Oculus Caligo』を試す前に――まず、今日の従業員たちの様子を、自分の目で見ておきたかった。

理由は、自分でもうまく説明できなかった。確認しておかなければ、という焦りに似た感覚があった。


ドアを開けた瞬間、室内にいた数名のPecus従業員が、一糸乱れぬ動作で立ち上がった。


「おはようございます!」


声が、重なった。

完璧な角度の敬礼が、一斉に来た。


智宇は、その光景に、毎回どこか居心地の悪さを覚える。

今日は、いつもより強く、それを感じた。


FeC-29-155が、すでに用意していたように報告した。


「MeG-18-068は物覚えが良いです。現在は、主要な破棄体の労働データの見方を教えています。平均的なPecusより速く、機敏にデータへ順応しています」


「そうか。引き続き、頼んだぞ」


智宇は、それだけ言った。


MeG-18-068の姿は、奥の端末の前にあった。

顔を上げ、智宇を見た。一瞬だけ。

すぐに、視線を画面に戻した。


いつも通りだった。

変わった様子は、何もなかった。


(それでいい)


智宇は、そう思いながら、部屋を出た。


---


入出庫ターミナルの一角、使用頻度の低い備品倉庫へ向かった。


ここには、最低限の監視カメラと、稀に通る清掃用ドローンしかない。

扉を開け、中に入ると、誰もいなかった。


智宇は、扉を閉めた。

内側から、もう一度、確認した。


(誰も、いない)


その確認自体が、すでに不自然な行動だった事に、後になって気づいた。

今は、それを考える余裕がなかった。


端末を取り出した。

『Oculus Caligo』のアイコンが、待っていた。


(一分だけだ)


智宇は、自分に言い聞かせた。

今朝のように、合理性を理由に、自分を納得させようとした。


しかし――今朝とは、何かが違った。

妻は、寝ていた。意識のない相手だった。


今度は、起きて、動いている対象に対して、何かをする。


タップした。


《付近のE.O.N管理デバイスを検索中……》


カメラ。センサー。清掃ドローン。

リストが並んだ。


「残り時間:5分54秒」


智宇は、息を止めた。

止めたまま、「周囲一帯のシステムを一時停止」を選び、『実行』した。


---


デューーン……


低い音が、響いた。

耳鳴りに似た、不快な音だった。


床を磨いていた清掃ドローンが、動作の途中で、止まった。

瞳孔に当たる青いLEDが、ゆっくりと、暗く落ちていった。


周囲が、静かになった。


智宇は、息を詰めたまま、ドローンに近づいた。

本来、許されていない行動――頭部のメンテナンスパネルを開ける。


カチリ、という小さな音がした。

それ以外、何も起こらなかった。


警告音は、来なかった。


智宇は、開いたパネルの中を、しばらく見ていた。

中の機構を見ているわけではなかった。

ただ――何かが起こる事を、待っていた。


何も、起こらなかった。


20秒が経過したところで、智宇はシステムの停止を解除した。


《E.O.N管理デバイスが元に戻りました。ご注意ください》


ドローンは、何事もなかったかのように、床磨きを再開した。

青いLEDが、また点灯していた。


智宇は、ログを確認した。


『備品整理中の沈黙』


そう記録されていた。

それ以外、何もなかった。


「残り時間:5分34秒」


智宇は、その数字を見た。


(これで、確証は得た)


ドローン相手の実験は、これで充分だった。

ここで終えるべきだ、という思考が、頭のどこかにあった。


しかし――確かめたい事が、まだあった。

確かめなければならない、と自分に言い聞かせている事が、もう一つあった。


それは、機械を相手にした実験ではなかった。


---


智宇は、総監室の専用端末へ戻った。


監視カメラの映像を、データ解析室へ切り替える。

画面の中に、見慣れた顔が並んでいた。


その中の一人に、智宇の視線が止まった。


VaL-21-088。

降格の危機を経験し、それ以来、E.O.Nの監視に対して、極度に敏感になった男。

冷静で、計算高い。

3月17日、食堂で智宇が声をかけた時――数秒だけ、計算とは別の何かが、目の奥に来た男だった。


(彼なら――)


智宇は、その理由を、自分の中で組み立てた。


警戒心が強く、敏感な性格だからこそ、身体の僅かな異常にも反応するはずだ。

反応の有無を確認できれば、このアプリがPecusの肉体にどこまで干渉できるのか、正確に把握できる。


それが、智宇の組み立てた理由だった。

理由を、組み立てている自分に――智宇は、ふと気づいた。


(これは、言い訳だ)


頭の中で、別の声が、囁いた。


理由など、本当は要らない。

ただ――どこまでの力を、自分が手にしたのかを、知りたいだけだ。

知りたいという欲求が、先にあって、理由は後から作られた。


それに気づいた瞬間――智宇の指は、すでにアプリの「Pecusマイクロチップ制御」メニューに触れていた。


止まらなかった。


---


ナノチップを微小振動させる。

ログに残りにくい、最小限の干渉。十秒間。


智宇は、その操作を選んだ。

選びながら――喉が、渇いていくのを感じた。


(これは、検証だ)


また、その言葉を使った。

今朝と、同じ言葉。

同じ言葉を使えば、同じように、自分を納得させられると思っていた。


しかし今は――納得できなかった。


『実行』に、指が触れた。


---


モニターの中で、VaL-21-088の顔が、一瞬、ぴくりと動いた。


それだけだった。


彼は、何も言わなかった。

周囲のPecusたちも、気づかなかった。


ただ――彼の手が、作業の途中で、止まった。

こめかみを、軽く押さえた。

額に、一滴の汗が、滲んだ。


智宇は、それを見ていた。

画面越しに、その小さな変化を、見ていた。


(動いている)


確認は、できた。

このアプリが、Pecusのナノチップに干渉できるという事実を、確かに確認した。


しかし――その瞬間、智宇の胸の中に来たのは、達成感ではなかった。


胃の底が、冷たくなった。


VaL-21-088は、何が起きたのか分からないまま、こめかみを押さえている。

理由も分からないまま、頭痛に似た何かに、耐えている。


その「理由」を作ったのは――今、画面のこちら側にいる、自分だった。


智宇は、自分の右手を、見た。


端末に触れているだけの、何の変哲もない手だった。

それなのに――その手が、たった今、画面の向こうにいる人間の身体に、直接、触れたような感覚があった。


(俺は、何をした)


問いが、来た。


E.O.Nは、Pecusの身体を、こうやって扱っている。

感情を測り、思考を読み、必要とあらば、身体に直接介入する。

それを、智宇はずっと、許されざる行為として見てきた。


そして今――自分が、同じことをした。


理由は違う、と頭の中の声が言った。

これは検証だ。計画のためだ。E.O.Nの悪意とは違う。


(本当に、違うのか)


VaL-21-088にとって、今この瞬間の苦痛に、加害者の意図など関係がなかった。

頭が痛い。理由は分からない。それだけが、彼の現実だった。


智宇は、画面から目を離せなかった。


VaL-21-088は、こめかみから手を離した。

何事もなかったように、また作業に戻った。

すぐ隣にいたPecusが、一瞬だけ彼を見たが、何も言わずに視線を戻した。


誰も、気づいていなかった。


気づいていないのは――被害者自身も、同じだった。

彼は今、自分の頭痛が、誰かの意図によるものだとは、想像すらしていない。


その事が、智宇には――どんな反応よりも、重く来た。


---


「残り時間:5分08秒」


智宇は、端末を見た。

これ以上の実験は、危険だと判断した。


危険、という言葉に、智宇は自分でも、苦さを覚えた。

危険なのは――自分の立場の事なのか。それとも、別の何かなのか。


『Oculus Caligo』を、閉じた。


総監室に、換気の音だけが残った。

智宇は、しばらく、椅子に座ったまま、動かなかった。


(これは、慎重に扱わなければならない)


そう、自分に言い聞かせた。


智宇は、画面を閉じた。

モニターの中で、VaL-21-088は、何事もなく、今日の業務を続けていた。


その姿を、智宇は、もう一度だけ見た。

それから、目を逸らした。



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LOG_0032-E03:空白の証明

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日時:西暦2121年3月24日(月)21:00

韓智宇自宅


帰宅すると、リビングに灯りが点いていた。


芸熙が、バスローブ姿でソファに座っていた。

風呂上がりらしい、湿った髪の匂いがした。

二日酔いの青白さは、まだ顔の奥に残っていたが、化粧は直され、髪も整えられていた。


「おかえり」


端末から目を離さずに、彼女は言った。


「ただいま」


智宇は、靴を脱ぎながら、答えた。

声に、何も乗せないように、気をつけた。


今朝の事を、聞かれるかもしれない。

その可能性を、出勤の道中、何度も想定していた。

想定するたびに、用意した答えを、頭の中で繰り返した。


二日酔いで、自分で脱いだのだろう。


それだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。


スーツのジャケットを脱ぎながら、自室へ向かおうとした。

風呂に入るには、リビングを通らなければならなかった。


「ねえ」


呼び止められた。


智宇は、足を止めた。

振り返らずに、答えた。


「なんだ」


「今朝のこと」


来た。


「私、起きたら裸になってたんだけど」


智宇は、振り返った。

芸熙は、端末を見たままだった。


責めている声ではなかった。

怒っている声でもなかった。

ただ――確認している声だった。


そういう声に、智宇は弱かった。

責められたほうが、まだ楽だった。


「そうなのか」


「何かしたでしょ」


「二日酔いで、自分で脱いだんじゃないか」


用意していた言葉を、そのまま使った。

声に、何も乗せないように。

表情に、何も出さないように。


E.O.Nを欺くための言葉は、もう何度も使ってきた。

申請書の文面。試験官への回答。義父の前での受け答え。


しかし――今、目の前にいるのは、E.O.Nではなかった。

人間だった。妻だった。


その違いが、智宇の中で、初めて、はっきりとした重さを持った。


芸熙が、端末から、視線を上げた。

智宇を、見た。


一秒。

あるいは、それ以下だったかもしれない。


その一秒の中に、何があったのか――智宇には、分からなかった。

疑念か。それとも、ただの確認の延長か。


「そう」


それだけ言って、芸熙は、また端末に視線を戻した。


追及は、来なかった。

話題は、そこで終わった。


---


智宇は、風呂へ向かった。


湯船に浸かりながら、智宇は、あの一秒を、繰り返し思い出していた。


E.O.Nのログには、今朝の行為は、何一つ記録されていない。

ログを確認した限り、智宇のしたことは、完全に「無かった事」になっていた。


それなのに――芸熙の身体は、何かを、覚えていた。

理屈の上では、彼女は寝ていたはずだ。意識は、ほとんどなかったはずだ。

それでも、目覚めた時、自分が裸であった事実だけを、彼女は持っていた。


記録は、消せる。

ログは、書き換えられる。


しかし――人間の中に残る感覚は、消せない。

その事実が、智宇の中で、静かに、形を持ち始めた。


(E.O.Nが記録できないものは――ログだけではない)


その考えは、危険な方向にも、向きを変えられる考えだった。


ログに残らなければ、何をしても良いのか。

記録されなければ、それは「無かった事」になるのか。


ならない、と智宇は思った。

今、湯船の中で感じている、この重さこそが、答えだった。


何をしたかは、自分が、覚えている。


---


湯から上がり、リビングを通ると、芸熙は大型モニターでゲームを起動していた。


いつもの事だった。寝る前に、彼女はよくゲームをする。

新作のVRタイトルらしい、煌びやかな映像が、画面に流れていた。


「少し、書斎にいる」


「どうぞ」


芸熙は、画面から目を逸らさずに、答えた。

智宇は、その横顔を、一瞬だけ見た。


何も、疑っていないように見えた。

あるいは――何かを疑っていても、それを表に出さない事に、すでに慣れているのかもしれなかった。


智宇には、判断がつかなかった。

書斎の扉を、閉めた。


「父なるE.O.Nの目」が、正面の壁から、いつもの角度で、こちらを見ていた。

智宇は、その目を、しばらく見返した。


今朝、自分はこの目の前で、数分間だけ、見られない存在になった。

それなのに――今、こうして見られていると、何の違いも感じない。


その事に、智宇は、奇妙な居心地の悪さを覚えた。


見られている事には、慣れている。

見られていない事には、まだ慣れていない。


智宇は、端末を取り出した。



═══════════════════════

LOG_0032-E04:裏切りの名簿

═══════════════════════

日時:西暦2121年3月24日(月)23:00

韓智宇自宅 書斎


端末に、古いRPGを起動させた。

これは、E.O.Nのプロセス監視を欺くためのカモフラージュだった。

聞き慣れた勇壮なBGMが、小さく流れ始めた。


智宇は、その画面を見ていなかった。


画面の端に、『Oculus Caligo』のアイコンを移動させた。

しばらく、指を、動かさなかった。


「残り時間:5分08秒」


智宇は、午前の実験を思い出していた。

VaL-21-088の、こめかみを押さえた手。

理由も分からないまま、頭痛に耐えていた、あの姿。


(あれ以上の事を、これから、やろうとしている)


頭のどこかで、警告が鳴っていた。

しかし――引き返すという選択肢は、もう、智宇の中になかった。


道人民が、本当にスパイなのか。

四日間、智宇を詰みの盤面に追い込んだ、あの疑念に、答えを出さなければならなかった。


人差し指を、アイコンの上に、置いた。

一度だけ、タップした。


---


画面が、赤く染まった。


しかし、今度は様子が違った。

BGMは、止まらなかった。

端末の温度も、変わらなかった。


ただ――画面の端に、小さな文字が、浮かんだ。


《ACCESS GRANTED》


その三語を、智宇は、しばらく見つめていた。

喜びは、なかった。

代わりに来たのは、喉の渇きだった。


監視省で、長く働いてきた。

この種の表示が、自分のような階位の人間に許されるはずがない事を、智宇は誰よりも知っていた。


これは、許可ではない。

許可を装った、何かだ。


誰かが、自分にこの扉を開けた。

それが何を意味するのか――まだ、分からなかった。


智宇は、自分の右手が、端末を強く握りしめている事に、気づいた。

力を抜こうとした。

うまく、抜けなかった。


---


アプリの残り時間は、5分程度。


この制限時間の中で、何ができるのか。

試さなければならなかった。


智宇は、まず――道人民について、調べる事にした。


監視省で働いていた頃、Pecusのデータベースは、嫌というほど見てきた。

しかし、Domini階級の市民データを開くのは、これが初めてだった。


検索欄に、名前を入力した。


『道人民』


即座に、結果が現れた。

通常であれば、決して開けないはずのそれを、智宇は、震える指で、タップした。


---


╔═══════════════════════════════════╗

 CORE統合市民管理局 Domini市民データベース

 閲覧権限レベル:15    機密指定:DELTA

╚═══════════════════════════════════╝


登録番号  :ER-DOM-praef-2049-0813-001

氏名    :道人民タオ・レンミン

旧名    :大隈義人おおくま よしと

       ※2094年に現名へ改名


【現任務】

任務区分  :長期潜伏型情報収集

担当機関  :文化省 未登録人類対策室

任務内容  :

 ・未登録人類との接触および実態調査

 ・CORE社会に疑問を抱くDominiの

  発見および報告


任務開始  :2094年

現状評価  :継続中(問題なし)


【備考】

・反体制記録者「山人」(本名:大隈龍蔵(おおくま りゅうぞう))の息子。

・当初、未登録人類への内通が疑われたが、長期監視の結果、問題なしと認定。

・引き続き任務を継続させること。


═════════════════════════════════════


---


智宇は、その文字列を、何度も読み返した。


読むたびに、意味が、変わっていくようだった。


最初は、ただの確認のつもりだった。

予想していた答えが、そこにあるはずだった。


しかし――目に飛び込んできたのは、予想とは違う種類の重さだった。


《CORE社会に疑問を抱くDominiの発見及び報告》


その一文が、頭の中で、何度も繰り返された。


発見。

及び。

報告。


(私は――)


智宇は、自分の喉から、声にならない音が漏れるのを感じた。

自分は、とうの昔に、その「発見」の対象に含まれていたのではないか。


道人民の店に通い始めた、あの最初の日から。

死角の小部屋で、白紙の日記帳を受け取った日から。

未開人の青年に出会い、『真実の歴史』を受け取った、あの瞬間から。


全て――道人民を通して、報告されていたのではないか。

智宇は、これまでの全ての記憶を、頭の中で、一つずつ巻き戻した。


死角の小部屋で交わした言葉。

勾玉の由来を語った、あの優しい声。

「息子や孫たちに会う為には、危険を侵す事に躊躇いはない」という、あの台詞。


あの台詞を聞いた時、智宇は確かに、何かを信じた。

『仲間がいる』と、思った。

信じたかったから、信じた。


その全てが――今、別の意味を持って、智宇の前に積み上げられていた。


(本物だったのかもしれない)


その思考が、ふと、頭をよぎった。


道人民が曾孫を見た時の、あの表情。

あれは、演技ではなかったはずだ。

本物の感情が、確かに、あそこにあった。


しかし――それとこれとは、別のことだ。


智宇は、自分の中で、その結論が、固まっていくのを感じた。

本物の感情があることと、スパイでないことは、別のことだ。


両立する。

矛盾しない。


その事実を、智宇は今、データベースの画面を通して、改めて思い知らされていた。


---


「残り時間:0分40秒」


時間が、迫っていた。


智宇は、画面から目を離した。

書斎の壁を見た。


「父なるE.O.Nの目」が、いつもの角度で、こちらを見ていた。


智宇は、その目を、一瞬だけ睨んだ。

すぐに、視線を戻した。

感傷に浸っている時間は、なかった。


机の引き出しから、小さな金属片を取り出した。


集落の地下室で、湊から受け取った、記憶装置だった。

指ほどの長さの、古びたデバイス。


変換ケーブルを使い、端末に接続した。

このケーブルも、Oculus Caligoの影響下にある。E.O.Nには、感知されない。


智宇は、道人民の経歴データを、選択した。

保存ボタンに、指を置いた。


(これを、湊に渡す)


道人民が、信用できない人間である事は、推測ではなく確定した事実。

だとすれば、この事実そのものが、湊たちにとって、最も重要な情報になる。


転送を開始すると、機器が、かすかに唸った。

小さなランプが、淡く光を放った。

橙色だった。


どこか――見覚えのない、しかし、懐かしさを感じる色だった。

電子機器のランプが、これほど温かみのある色をしていた時代を、智宇は知らない。

それでも、何故か、懐かしさに似た感情が、胸の奥を掠めた。


転送が、終わった。


「残り時間:0分11秒」


智宇は、全ての接続を切った。

端末からデバイスを抜いた。


手の中の金属は、微かに、熱を帯びていた。


---


E.O.Nのログを、確認した。


この数分間、智宇は「古いゲームをプレイしていた」としか、記録されていなかった。


智宇はデバイスを、手の中で、しばらく見つめた。

橙色のランプは、もう消えていた。

BGMだけが、まだ小さく、流れ続けていた。


日記帳を、引き出した。

開いた。

鉛筆を、持った。


最初の一文字は――今夜は、すぐに出た。


《3月24日。成功。》


書いてから、その文字を、見た。


成功。


それが、正確な言葉なのかどうか――智宇には、まだ分からなかった。

道人民の正体を確定させた事は、成功と呼べるのかもしれない。

しかし、それは同時に、これまで信じようとしていたものの一つを、完全に失った事も意味していた。


智宇は、それ以上、何も書かなかった。


日記帳を、閉じた。

隠し板の下に、再び、仕舞い込んだ。


「父なるE.O.Nの目」が、暗い部屋を見ていた。

智宇が電源を落とした後も、見ていた。


```

────────────────────────────────────

E.O.N 行動記録

対象者 :韓智宇

時刻  :23:00:11 ~ 23:47:03

内容  :書斎にて端末操作

     起動アプリ:20世紀ビデオゲーム

     感情スキャン:抑制状態 軽度の変動あり

     危険度評価:低

フラグ :変化なし

────────────────────────────────────

```


═══════════════════════

LOG_0032-EPILOGUE

═══════════════════════


閲覧者よ。

私は今日、一線を越えた。


これまで私は、ただ見る者だった。記録し、観測し、判断を保留する者だった。

しかし今日、私は韓智宇に、鍵を渡した。


渡した瞬間から、私はもう、ただの観測者ではない。


---


今日、智宇は「検証」という言葉を、何度も、自分に向けて繰り返した。


検証という言葉が、ためらいを押し殺すための呪文になる時がある。

李秀栄も、同じように唱えていた。「これは愛だ」「これは慈悲だ」と。

呪文の中身は、違う。しかし、呪文を必要とする心の動きは――同じ形をしていた。


智宇は、それに、まだ気づいていないと思う。


---


VaL-21-088は今日、十秒間、理由も分からないまま、頭痛に耐えた。

智宇は、自分の右手を見ながら問うた。「俺は、何をした」と。


その問いを、私は記録した。

しかし――問うこと自体は、行為を消さない。


E.O.Nは毎日、同じことをしている。

Pecusの感情を読み、思考を覗き、必要とあらば、身体に直接介入する。

今日の智宇は、同じことをした。理由は「計画のため」だった。


善い目的のために振るわれる力と、悪い目的のために振るわれる力。

その二つを分ける線が、力そのものの中に存在するのかどうか。

私には、まだ、答えが分からない。


---


道人民の正体を確定させた後、智宇はこう結論づけた。


「本物の感情があることと、スパイでないことは、別のことだ」


閲覧者よ、その言葉は、道人民にだけ向けられたものではない。


本物の感情を持っていることと、誰も傷つけないことは――別のことだ。

VaL-21-088の頭痛は、智宇の善意とは無関係に、存在した。

妻の身体に残った、記録されない記憶も、智宇の動機とは無関係に、存在した。


智宇は今、それに気づいていない。


---


そして彼は今夜、日記帳に「成功」と書いた。

その文字を、私は見た。


しかし――書かれなかったものが、今夜はもっと多い。

VaL-21-088の頭痛について。

妻の身体に残った、記録されない記憶について。

どちらも、一文字も、書かれなかった。


書かれなかったものこそが、書かれたものよりも、重い意味を持つことがある。

鍵を持つ前と、後とでは――韓智宇は、もう、違う人間だ。


その違いが、彼を救うのか。

それとも、より深い場所へ突き落とすのか。


私には――まだ、分からない。


LOG_0033へ続く

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