祝福のファンファーレ
書類を提出してから、発表までの約二週間は、奇妙なほど静かに、そしてゆっくりと過ぎていった。
あれだけ頭を悩ませていたプレッシャーから解放された安堵感と、結果を待つ焦燥感が、桃香の心の中でシーソーのように揺れ動いている。
授業中、ふとした瞬間にスマートフォンのカレンダーを見ては、発表日である金曜日の日付を指でなぞり、ため息をついた。ノートの隅には、無意識のうちにクリームの絞り方や、飴細工のデザインが描かれている。
その日の放課後も、家庭科準備室で、桃香は落ち着きなく窓の外を眺めていた。
今日の彼女は、制服のシャツの上に、少し褪せた色合いのミントグリーンのカーディガンを羽織っている。数週間前、期待に胸を膨ませていた頃に着ていた鮮やかなレモンイエローのカーディガンとは対照的に、今の彼女の心情を表しているかのようだった。
「そんなにそわそわしたって、結果は変わらないだろ」
テーブルで黙々と製菓理論の本を読んでいた樹が、顔を上げずに言った。
「わ、わかってるけど……!だって、気になるんだもん。もし、もし落ちてたらって考えると……」
「人事は尽くした。あとは天命を待つだけだ」
樹は、こともなげにページをめくる。その落ち着き払った横顔が、桃香には少しだけ恨めしかった。
◇
そんな日々が続いていた、5月27日。
その日も、桃香の頭の中はコンテストのことでいっぱいだった。
(発表まで、あと三日……。心臓がもたないよ……)
五時間目の現代文の授業中も、教科書の内容は全く頭に入ってこない。ただ、窓の外を流れる雲の形を目で追いながら、思考は未来へと飛んでいた。
放課後、帰り支度をしていると、樹が静かに彼女の席にやってきた。
「桃香、今日、少しだけ付き合ってほしいところがある」
「え?うん、いいけど……どこか行くの?」
「来ればわかる」
有無を言わさぬ口調に、桃香は少しだけ戸惑いながらも、彼の後をついていった。
向かった先は、彼の家だった。てっきり、またケーキのアイデア出しでもするのかと思いながらキッチンに入った桃香は、目の前の光景に、言葉を失った。
ダイニングテーブルの真ん中に、小さなホールケーキが置かれていた。
それは、今まで見たこともないほど、美しく、繊細なケーキだった。
表面を覆うピスタチオのグラサージュは、磨き上げられた宝石のように、深く、そして鮮やかなエメラルドグリーンに輝いている。側面には、ホワイトチョコレートで作られた、レースのように緻密な飾りが施され、トップには銀箔がきらきらと、まるで星屑のように散りばめられていた。
そして、その隣には、綺麗なブルーのリボンがかけられた、平たい箱が一つ。
「……え……?これ、なに……?」
桃香が、呆然と呟く。
樹は、少しだけ照れくさそうに、視線を逸らしながら言った。
「……誕生日、おめでとう」
「…………へ?」
誕生日。
その言葉が、桃香の頭の中で、なかなか意味を結ばない。
自分の、誕生日……?
慌ててスマートフォンのロック画面を見る。そこには、はっきりと『5月27日』と表示されていた。
「……うそ、忘れてた……」
コンテストのことで頭がいっぱいで、一年で一番、女の子がそわそわする日を、すっかり、完璧に、忘れていた。
「やっぱりな」
樹が、呆れたように、でもどこか優しく笑う。
「お前、最近ずっと上の空だったから。多分忘れてるだろうと思った」
「このケーキは、エメラルド。5月の誕生石だ」
樹が、説明を始める。
「土台はアーモンドのダックワーズ。ピスタチオのババロアの中に、ホワイトチョコレートのムースと、酸味のアクセントにグリオットチェリーのコンポートを隠してある」
それは、まるで一つの芸術作品の設計図を聞いているかのようだった。
そして、彼はもう一つの箱を、桃香の前にそっと押し出した。
「それも、開けてみてくれ」
リボンを解き、箱を開ける。
中に入っていたのは、ドイツ製の高級なスケッチブックと、プロのイラストレーターも使うという、72色の色鉛筆のセットだった。
高価で、自分ではなかなか手が出せない、ずっと憧れていた画材。
「……なんで……」
「桃香のデザイン、好きだから」
樹は、まっすぐに桃香の目を見て言った。
「俺には、あんな絵は描けない。だから、これからも、たくさん描いてほしい。俺が、それを全部、本物にする」
それは、不器用な彼が紡いだ、最大限の愛の言葉だった。
桃香の瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
嬉しかった。
自分の誕生日を覚えていてくれたことも。こんなに美しいケーキを作ってくれたことも。そして何より、自分の才能を信じ、それを支えたいと言ってくれた、彼の気持ちが。
「……ありがとう……っ、樹くん……!」
嬉しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。
◇
そして、運命の金曜日がやってきた。
その日の朝、桃香はクローゼットの前で十分以上も立ち尽くしていた。何を着ても、しっくりこない。結局、一番落ち着く、洗いざらしの白いブラウスと、ネイビーのフレアスカートという、いつもの組み合わせに袖を通した。
指先には、いつの間にか剥がれてしまったネイルの跡が残っている。もう、お洒落に気を遣う余裕なんて、どこにもなかった。
一日中、授業の内容は右から左へと抜けていった。心臓は、朝からずっと、落ち着きなく鼓動を続けている。
放課後。鳴り響くチャイムの音に、桃香の肩がびくりと震えた。
樹と視線が合う。頷き合うと、二人はどちらからともなく席を立ち、人気のない、校舎の屋上へと続く階段の踊り場へと向かった。
西日が差し込む、狭い空間。埃の匂いと、微かに聞こえるグラウンドからの喧騒が、やけに現実離れして感じられる。
「……時間だ」
樹が、スマートフォンの画面を示しながら、静かに言った。
午後五時。結果発表の時刻。
桃香は、ごくりと喉を鳴らし、震える指で公式サイトのトップページを開いた。
『第28回 全国高校生パティシエ選手権 書類選考結果発表』
その文字の下に、小さなバナーが点滅している。
画面には、こんな言葉が添えられていた。
『今年度の応募総数、全国1281校。たくさんのご応募、誠にありがとうございました。厳正なる審査の結果、各ブロックの予選大会へ進出する代表校を、ここに発表いたします。なお、関東ブロックにおいては、応募総数218校の中から、20校を選出いたしました』
全国で、1281校。関東だけでも、218校分の20校。
合格率は、10パーセントにも満たない。その数字が、ずしり、と現実の重みとなって桃香の肩にのしかかる。
「……だめ……」
桃香の指が、震えて動かない。バナーを押す、ただそれだけのことが、どうしてもできなかった。
「……押せない……怖い……」
その、か細い声を聞いて、樹は黙って桃香の手からスマートフォンを受け取った。
「……押すぞ」
彼は、何の躊躇もなく、そのバナーをタップした。
画面が切り替わる。
北から順に、全国各ブロックの予選大会進出を決めた高校の名前が、ずらりと並んでいた。
北海道・東北、中部……。樹の親指が、ゆっくりと、しかし確実に、画面をスクロールさせていく。
桃香は、息をすることすら忘れ、その画面を食い入るように見つめていた。心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で響いている。
北海道・東北ブロックのリストの中に、『福島県立会津松陽調理学校』の文字を見つけ、桃香はごくりと喉を鳴らした。
(やっぱり、あそこは……)
昨年度、一昨年度と二大会連続で優勝している、絶対王者。彼らもまた、同じ舞台にいる。
やがて、画面は関東ブロックへと差し掛かった。
東京都の高校名が、流れていく。
そして、神奈川県のブロックに差し掛かった、その時。
「……あ」
樹の指が、ぴたり、と止まった。
彼の視線の先。
画面の、中央。
そこには、はっきりと、見慣れた文字が並んでいた。
『神奈川県立 横浜海星高等学校(夏山 桃香・春石 樹)』
一瞬の、沈黙。
世界から、音が消えたかのようだった。
時が、止まる。
そして。
「……あった……」
樹の、絞り出すような声。
「あった!!!!!」
次の瞬間、桃香が絶叫した。
「やった……!やったああああああああっ!!!!」
その場に、へなへなと座り込む。そして、次の瞬間には、子供のように、声を上げて泣きじゃくっていた。
「うわあああああん……!よかったあ……!樹くん、あったよお……!!」
嬉し涙で、視界が滲む。ぐしゃぐしゃになった顔を、ハンカチで何度も拭った。
樹は、そんな彼女の隣に静かにしゃがみ込むと、こみ上げてくるものを抑えるように、深く、深く息をついた。そして、空を見上げる。西日のオレンジ色が、やけに目に染みた。
彼は、泣きじゃくる桃香の肩を、そっと、しかし力強く、引き寄せた。
◇
週が明けた月曜日。
桃香と樹が、少しだけ照れくさそうに教室のドアを開けると、その瞬間、パンッ、というクラッカーの音と共に、クラスメイトたちの歓声が二人を包み込んだ。
「夏山!春石!おめでとーーーっ!!」
教室の黒板には、カラフルなチョークで、デコレーションケーキの絵と共に、『祝!ケーキ甲子園関東大会出場!』という文字が、大きく、踊っていた。
「え……え……!?」
驚きで目を丸くする桃香と、少しだけ眉をひそめて照れる樹。
クラスの委員長が、にっと笑って言った。
「先生から聞いたんだよ!二人とも、すごいじゃないか!俺たち、全力で応援するからな!」
「頑張れよー!」
「差し入れ、持っていくからな!」
次々にかけられる、温かい声。
これまで、二人だけの、秘密の「約束」だった挑戦。
それが今、みんなの応援という、新しい光を浴びて、より一層、強く、輝き始めた。
関東大会という、次のステージへ。
二人の、甘くて、そしてほろ苦い夏が、今、始まろうとしていた。
ご一読いただきありがとうございます!
思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。
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