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【完結】そのケーキのレシピ、俺が本物にするよ ~不器用な天才パティシエと、私だけの夢の設計図~  作者: 坂道 昇


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13/22

約束 〜茨の道の先に〜

4月の下旬。


高校生活、最初で最後の挑戦が、静かに幕を開けた。


全国高校生パティシエ選手権、通称『ケーキ甲子園』。その分厚い募集要項を、放課後の家庭科準備室のテーブルに広げた時、夏山桃香の心は、春の日差しのように明るい期待で満ち溢れていた。


「見て、樹くん!今年のテーマ、『約束』だって!」


弾む声で、桃香が指し示す。その文字を見た樹の表情は、桃香とは対照的に、どこまでも真剣で、硬質だった。

書類の提出締め切りは、5月の第二週金曜日。残された時間は、約二週間。その間に、テーマに沿ったオリジナルのケーキのデザイン画、詳細なレシピ、そしてチームの紹介文を完成させなければならない。


「まずは、アイデア出しだね!」


桃香は、いつも持ち歩いているクロッキー帳と、カラフルなペンをテーブルに広げた。その日の彼女は、制服のブレザーを脱ぎ、袖をまくった白いシャツの上に、柔らかなレモンイエローのカーディガンを羽織っている。指先には、春らしいミントグリーンのネイルが控えめに光っていた。新しい季節の始まりを、全身で楽しんでいるかのようだ。


「『約束』か……。やっぱり、一番に思い浮かぶのは、結婚、かな?」


桃香が、さらさらと指輪のモチーフを描いてみる。


「指輪の形のケーキとか?それとも、リボンで結んだプレゼントボックスみたいな……」


「……ありきたり、だな」


樹が、ぼそりと呟いた。彼の言葉には、棘はない。ただ、純粋な事実として、そう感じただけだ。


「だよねー……」


桃香もあっさりと同意する。そんな安直なアイデアで、全国の猛者たちが集うコンテストの書類選考を突破できるはずがないことくらい、分かっていた。



その週末。二人は春石家のキッチンにいた。


樹は、キッチンの隅々まで磨き上げられたステンレスの作業台に、専門書を何冊も広げている。桃香は、ダイニングテーブルで、クロッキー帳とにらめっこを続けていた。


今日の桃香は、白いコットンレースのブラウスに、ふわりと揺れるラベンダー色のロングスカート。髪はゆるく一つに結ばれ、数本のくれ毛が春の光の中で柔らかく踊っている。デートの時とは違う、少しだけリラックスした、でも特別な作業に臨むための、彼女なりの「戦闘服」だった。


「『約束』を味で表現するなら、どうなると思う?」


樹が、専門書のページをめくりながら尋ねた。


「うーん……。甘くて、ずっと後を引くような余韻がある感じ?例えば、キャラメルのほろ苦さと、バニラの甘さとか」


「悪くない。だが、それだけだとインパクトに欠ける。審査員を驚かせるような、意外性のある組み合わせが必要だ」


樹の言葉は、常に的確で、論理的だ。桃香は、彼のその思考の鋭さに感心しながらも、自分の感性がなかなか追いつかないことにもどかしさを感じ始めていた。


時間は、容赦なく過ぎていく。

放課後の図書室、休日のカフェ。場所を変え、時間を変え、二人はアイデアを出し合った。

しかし、クロッキー帳に描かれては消されていくデザインは、どれもこれも、どこかで見たことがあるようなものばかりだった。


『赤い糸』をモチーフにした飴細工。

『永遠』を意味する円環状のムースケーキ。

『未来への扉』をイメージしたチョコレート細工。


どれも悪くはない。けれど、魂が、震えない。これだ、という確信が、どうしても持てなかった。


締め切りを一週間後に控えた、金曜日の放課後。

図書室の一番奥の席で、二人の間には、重たい沈黙が支配していた。

窓の外では、運動部の掛け声が遠くに聞こえる。春の夕暮れの光が、埃っぽい空気の中で静かに揺れていた。


桃香のクロッキー帳は、ここ数日、ほとんど真っ白なままだった。デザイナーとしての自信が、少しずつ、音を立てて削られていくのを感じる。


(どうしよう……。樹くんは、私のデザインを信じて、出場するって言ってくれたのに。私が、しっかりしなくちゃいけないのに……)


プレッシャーで、胸が押しつぶされそうだった。隣に座る樹の横顔を、盗み見る。彼もまた、難しい顔で腕を組み、専門書の一点を見つめたまま、微動だにしなかった。

彼のグレーのパーカーのフードが、少しだけよれている。きっと、彼も同じように、焦り、悩んでいるのだろう。


樹もまた、技術者としての行き詰まりを感じていた。

頭の中には、無数のルセット(レシピ)の断片が浮かんでいる。最新の調理技術、希少な食材の組み合わせ。引き出しは、いくらでもある。

だが、肝心の「何を表現したいのか」という核がなければ、それらはただの知識の羅列に過ぎない。


(アイデアさえあれば……。桃香の、あのクリスマスのような、誰も思いつかないようなアイデアさえあれば、俺はそれを完璧に形にできる自信がある。なのに……)


互いに、相手の才能を信じている。だが、その歯車が、今は全く噛み合っていなかった。

その日の帰り道。駅までの道を、二人は黙って歩いていた。

夕暮れの風が、少しだけ肌寒い。桃香は、無意識にカーディガンの前を合わせた。いつもなら、何か楽しい話をしてくれる樹も、今日は口数が少ない。その沈黙が、桃香の不安をさらに掻き立てた。


「……今日も、だめだったか」


駅の改札が見えてきた頃、樹が、ぽつりと呟いた。その声には、諦めにも似た響きが混じっていた。


「う、うん……。ごめんね、私、全然良いアイデアが出なくて……」


桃香が、消え入りそうな声で謝る。違う、彼のせいじゃない。全部、私のせいだ。


「……いや、俺もだ」


樹は、短くそう言うと、少しだけ逡巡した後、言葉を続けた。


「……また、明日も頑張らなくちゃな」


その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあり、桃香を励まそうとしているようでもあった。そして、最後に、自嘲するように、ふっと笑った。


「これも、約束、だからな」


二人でてっぺんを目指すと決めた、あの日の約束。それを違えるわけにはいかない。

その、何気ない一言だった。

樹にとっては、ただの決意表明。


だが、その言葉が桃香の耳に届いた瞬間。

彼女の世界に、まるで雷が落ちたかのような、閃光が走った。

思考が、止まる。

周りの喧騒が、遠くなる。

スローモーションのように、人々が流れていく。


彼女の頭の中で、今までバラバラだったパズルのピースが、凄まじい勢いで一つに組み合わさっていく。


「……そっか」


桃香が、顔を上げた。

その瞳は、先程までの不安の色が嘘のように消え、確信に満ちた、強い光を宿していた。


「え……?」


樹が、戸惑ったように彼女を見る。


「樹くん、今、なんて言った?」


「え?……約束、だからなって……」


「その前」


「……明日も、頑張らなくちゃなって……」


「そう!それだよ!」


桃香の声が、興奮に上擦る。


「約束って、キラキラした、楽しいものだけじゃないんだよ。きっと」


彼女は、堰を切ったように話し始めた。その勢いに、樹はただ、圧倒される。


「今、私たち、すごく苦しいよね。アイデアが出なくて、焦ってて、情けなくて……。今日もダメだったって、落ち込んでる。明日もまた、この苦しい時間が続くのかもしれない。でも、それでも、『明日も一緒に頑張ろう』って、そう言い合える。この、苦しい時間も、二人で乗り越えようっていう、それこそが……!」


桃香は、一度言葉を切り、樹の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「それこそが、『約束』なんじゃないかな」


樹は、言葉を失っていた。

頭を、鈍器で殴られたような衝撃。


『約束』という言葉の、甘く、美しいイメージ。その固定観念が、彼女の一言で、粉々に打ち砕かれた。

苦しい時間。報われない努力。先の見えない不安。それすらも、二人で分ち合うと決めた、尊い約束。


なんて、発想だ。


「私たちのケーキのテーマは、それだよ」


桃香の瞳は、デザイナーのそれに変わっていた。彼女の頭の中には、もう、完成されたケーキの姿が、鮮やかに映し出されている。


「ケーキの土台は、カカオ分の高い、ビターなチョコレートサブレ。ほろ苦くて、少しだけ塩気があって……これが、私たちの今の、この苦しい時間を表現するの」


樹は、ゴクリと喉を鳴らした。そのアイデアは、技術的にも、非常に興味深い。


「でも、その上には、優しい甘さのピスタチオのムースを乗せる。これは、樹くんの優しさ。そして、二人で過ごした、穏やかな時間」


「……ピスタチオ」


樹の脳裏に、ホワイトデーのケーキが蘇る。


「そして、そのムースの中心には、真っ赤なベリーのジュレを隠すの。甘酸っぱくて、鮮烈な味。これは、私たちの『情熱』。絶対に諦めないっていう、心の炎の色だよ」


桃香の言葉は、まるで魔法のように、樹の頭の中に、味と食感のイメージを具体的に描き出していく。


「そして、一番上。ケーキ全体を覆うのは、純白の、雲みたいな、ふわふわのフロマージュブランのクリーム。これは、まだ何も描かれていない、私たちの未来。希望そのものなの」


彼女は、興奮で少しだけ赤くなった頬で、続けた。


「デコレーションは、すごくシンプルにする。ただ、チョコレートで作った、いばらの蔓を、ケーキの側面にそっと這わせるの。いばらは、今の私たちの試練。でもね、その蔓の終点、ケーキのトップには、一輪だけ、飴細工の、小さな白い花を咲かせるんだ」


苦難の先にある、たった一つの希望。


「どう、かな……?私たちの、今の、この気持ち。伝わる、かな……?」


不安そうに、桃香が尋ねる。

樹は、しばらくの間、黙っていた。

そして、ゆっくりと顔を上げると、今まで桃香が見たこともないような、深く、そして穏やかな笑みを浮かべた。


「……ああ」


彼の声は、確信に満ちていた。


「伝わる。それ以外、ない。……それ、俺に作らせてくれ、桃香」


それは、最高のデザイナーへの、最高のパティシエからの、最大限の賛辞だった。

二人の間にあった、重くよどんだ空気は、嘘のように消え去っていた。


「明後日の日曜日、朝からやろう。一日あれば、形にできる」


樹が、力強く言った。


「うん!わかった!」


桃香は、満面の笑みで頷いた。


「土曜日は、お互いに、もっと細部を詰めておこう」


「任せて!」


別れ際の二人の足取りは、驚くほど軽やかだった。



そして、約束の日曜日。


春石家のキッチンは、朝の清々しい光に満たされていた。


桃香は、白いコットンのブラウスの上に、動きやすいネイビーのカーディガンを羽織り、ベージュのチノパンという、少しだけボーイッシュなスタイルで現れた。髪はきゅっとポニーテールに結ばれ、その瞳には決意の光が宿っている。


「おはよう、樹くん!」


「……おはよう」


迎える樹も、黒いTシャツにグレーのスウェットというラフな格好ながら、その目はいつになく鋭い。ステンレスの作業台には、オーブンやミキサーではなく、専門書やノート、そして真っ白な製図用紙が完璧にセッティングされていた。


「よし、始めようか」


樹のその一言を合図に、二人の、長く、そして濃密な一日が始まった。

まず、桃香がクロッキー帳に、金曜日の夜に閃いたイメージを具体的な線として描き起こしていく。鉛筆を走らせる、さらさらという心地よい音だけが響く。


「ここの、フロマージュブランのクリームなんだけど、もっと雲みたいに、軽やかな質感が欲しいんだ。角が立つんじゃなくて、ふわりと丸い感じ」


「それなら、イタリアンメレンゲの比率を上げて、気泡を安定させよう。ゼラチンの量も、ギリギリまで減らすことで口溶けが良くなるはずだ」


樹が、即座にレシピ帳に数値を書き込んでいく。実際に作るわけではない。だが、彼の頭の中では、すでにはっきりと完成品の食感がシミュレーションされているのだ。


「チョコレートの蔓はね、もっと有機的なラインにしたい。ただの飾りじゃなくて、本当に苦しみを乗り越えて伸びていく、生命力みたいなものが欲しいの」


「それなら、テンパリングの温度を少しだけ変えて、粘度を調整すれば、そのラインは出せる。カカオバターの結晶化をコントロールするんだ。やってみせる」


二人の間に交わされるのは、恋人たちの甘い会話ではない。デザイナーとパティシエ。それぞれの領域のプロフェッショナルとしての、真剣で、刺激的な対話だった。


桃香が感性で描く世界を、樹が技術という名の翻訳機で、寸分の狂いもなく現実の設計図へと落とし込んでいく。その作業は、まるで息の合った二重奏のようだった。


キッチンに、コーヒーの香ばしい香りと、鉛筆が紙を擦る音だけが響く。

昼食は、樹の母親が作ってくれたサンドイッチを、作業台の隅で作業をしながら食べた。


「あらあら、二人ともすごい集中力ねえ」


「母さん、邪魔しないでくれ」


「はいはい。でも、桃香ちゃん、無理しちゃだめよ」


「ありがとうございます!」


家族の温かい視線に見守られながら、午後の作業が再開される。

夕日がキッチンをオレンジ色に染め始める頃、ついに、その一枚の紙が完成した。


精密な線で描かれたデザイン画と、グラム単位まで計算され尽くした完璧なレシピ。

ケーキの名前は、自然と決まっていた。


『約束 〜茨の道の先に〜』


「……できた」


桃香が、ため息のような声を漏らす。


「ああ、できたな」


樹も、満足げに頷いた。

疲れているはずなのに、二人の表情は、不思議なほどの達成感と、高揚感に満ち溢れていた。



翌日の月曜日。


二人は、完成したデザイン画とレシピを手に、放課後の家庭科準備室を訪れた。


「藤沢先生、できました!」


二人のただならぬ気迫に、藤沢先生は驚きながらも、差し出された紙を受け取った。そして、そこに描かれた世界に目を通した瞬間、彼女は息を呑んだ。


「……すごいわ、これ」


先生の声は、心からの感嘆に満ちていた。


「『約束』というテーマを、ここまで深く、そして美しく表現するなんて……。苦しみを乗り越えた先にある希望。素晴らしいわ、二人とも」


その言葉に、桃香と樹は、顔を見合わせてはにかんだ。


「このデザインなら、書類選考は間違いなく通る。あとは、この想いを、審査員に伝わる言葉で、しっかり書類にまとめるだけよ。手伝うわ」


先生は、そう言うと、コンテストの正式な応募用紙を取り出した。

専門的な用語の確認、アピールポイントを強調するための文章表現。ベテラン教師の的確なアドバイスを受けながら、二人の想いの結晶は、完璧な応募書類へと姿を変えていった。


すべての書類を丁寧に封筒に入れ、封をする。


その日の帰り道。二人は、学校近くの郵便局へと向かった。

夕暮れの光が、差し出す樹の手を、そしてそれを見守る桃香の横顔を、優しく照らしている。

がちゃんと、少しだけ重い音を立てて、封筒がポストに吸い込まれていく。


その音は、高校最後の夏へ向かう、二人の挑戦の始まりを告げる、ファンファーレのように、街の喧騒の中に響き渡った。

ご一読いただきありがとうございます!

思った以上に読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。

もっと楽しんでもらえるように頑張りたいと思います。

今後の励みになりますので、ぜひページ下のいいねボタンで応援してください。

よろしくお願いします(^O^)/

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