二人で、てっぺんを
桜の花びらが、春の風に舞う4月。
春石樹と夏山桃香は、高校三年生になった。
始業式の日、校舎の廊下に張り出されたクラス分けの表に、二人はそれぞれの胸の内を悟られないよう、細心の注意を払いながら自分の名前を探す。
―――3年3組 春石樹
―――3年3組 夏山桃香
その、隣り合った名前を見つけた瞬間、二人の間に、誰にも気づかれない、ごく短い視線が交わされた。安堵と、照れくささと、そして、隠しきれない喜び。言葉にしなくても、お互いの気持ちは、痛いほどに伝わっていた。高校最後の年も、また、隣にいられる。
◇
新学期が始まって数日後。昼休みの教室。
親友の七海は、お弁当の卵焼きを箸でつまみながら、目の前で幸せそうに頬を緩ませている桃香に、ニヤニヤと笑いかけた。
「はい、正直に白状しなさい」
「え、何を?」
「とぼけないの。春休みの初デート、どうだったのよって聞いてんの!映画の後、どうせ甘酸っぱい展開があったんでしょ!」
その一言に、桃香の肩が分かりやすく跳ねる。顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「べ、別に……何も……」
「嘘おっしゃい。その顔が何よりの証拠よ。さあ、洗いざらい吐くのね!じゃないと、この卵焼き、あんたの口に無理やりねじ込むわよ!」
七海の、愛情のこもった脅しに、桃香は観念したように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。映画のこと、七海がバイトしていたカフェでのこと、そして、臨港パークでの、あの瞬間のことを。
「……それでね、海のそばを歩いてたら、風が強くなってきて……」
桃香の声が、だんだんと小さくなっていく。
「私が、寒いねって、自分の腕をさすったら……樹くんが……」
「樹くんが!?」
七海は、身を乗り出して次の言葉を待つ。
「……そっと、手を……」
「手を!?」
「……繋いで、くれたの」
言った瞬間、桃香は羞恥心で顔を覆った。七海は、一瞬きょとんとした後、次の瞬間、声にならない悲鳴を上げて机に突っ伏した。
「きゃーーーーーっ!進展!超進展じゃない!」
「し、静かにしてよ七海!」
「無理!で、どっちから!?樹くんから!?あの朴念仁が!?」
「うん……。すごく、びっくりしたけど……でも……」
桃香は、自分の右手を見つめた。まだ、あの時の感触が、そこに残っているような気がする。
「樹くんの手、大きくて、骨張ってて……でも、すっごく温かくて……。何も言わないんだけど、耳が、夕焼けみたいに真っ赤になってて……。私も、何も言えなくて、ただ、握り返すことしかできなかったんだけど……でも、それで、全部伝わった気がしたの」
言葉にしなくても、繋がれた手のひらを通して、「好き」という気持ちが、痛いほどに伝わってきた、あの瞬間。桃香は、うっとりとした表情で、その時の情景を思い出していた。
「……で?」
恍惚とした表情の桃香に、七海が冷静な声で尋ねる。
「で、って?」
「だから、その手はいつまで繋いでたわけ?駅まで?改札まで?」
「う、うん。駅の改札で、離すまで、ずっと……」
「よし!上出来!それで、最後に彼が言ったわけね。『俺たち、付き合おう』って!」
七海の瞳が、期待に満ちてキラキラと輝く。
しかし、その期待は、次の桃香の一言で、無残にも打ち砕かれた。
「……ううん、それは、言われてない……」
「は?」
「『また、学校で』って……」
「はああああああ!?」
七海は、天を仰いで深いため息をつく。
「手を繋いでおいて、告白なし!?何やってんのよ、あの鈍感男は!あんたもあんたよ!そこで『私たちの関係って、何?』くらい、聞きなさいよ!」
「む、無理だよ、そんなこと!」
「あんたたち、あと一歩どころか、あと0.1ミリくらいのところにいるのに!」
二人の距離は、春休みの間に、ほんの少しだけ、けれど確実に縮まっていた。
『新作の苺デザートの研究』
そんな、いかにも二人らしい名目で、横浜のホテルで催されているストロベリービュッフェに出かけたりもした。キラキラと輝く苺のパフェを前に、真剣な顔でメモを取りながらも、時折目が合っては、どちらからともなく笑ってしまう。そんな、穏やかで、甘い時間。
けれど、一番大切な言葉だけが、春の霞の中に溶けてしまったかのように、まだ、二人の間には存在していなかった。
誰もが、二人の恋の行方を、じれったい思いで見守っていた。
◇
そんな、穏やかで、少しだけむず痒い日常が続いていた、ある日の放課後。
「夏山さん、春石くん、ちょっといいかしら」
二人は、家庭科担当の藤沢先生に呼び出され、家庭科準備室へと向かった。
「あなたたちのこと、噂で聞いてるわ。去年のクリスマスやバレンタイン、すごかったんですってね」
にこやかに笑う藤沢先生が、ノートパソコンの画面を二人に向ける。そこに表示されていたのは、きらびやかなコンテストの募集ページだった。
『第15回 全国高校生パティシエ選手権』
通称、ケーキ甲子園。
高校生パティシエたちの、甲子園とも呼ばれる、夢の舞台。
「二人なら、いいところまで行けるんじゃないかと思って。どうかしら、出てみない?」
その画面を見た瞬間、桃香の瞳が、ぱあっと輝いた。
「やります!」
食い気味に、即答だった。
「高校最後の年だし、樹くんと一緒なら、最高の思い出作りになると思うんです!」
その、あまりにも純粋で、前向きな光に満たた横顔。樹は、その眩しさに、一瞬、目を細めた。
そして、自分の心に目を落とす。
(……大会)
人前に立つこと。審査されること。勝敗がつくこと。その一つ一つの言葉が、彼の胸の奥に刺さっていた棘が、古傷をじくじくと刺激する。
「……すみません。少し、考えさせてください」
そう答えるのが、精一杯だった。
その日の帰り道。二人は、駅前の喫茶店にいた。
テーブルの上には、手付かずのコーヒーカップが二つ。沈黙が、重くのしかかる。
先に口を開いたのは、樹だった。
「……別に、桃香と出るのが嫌なわけじゃない」
「うん、分かってる」
桃香は、静かに頷いた。
「ただ……怖いんだ」
樹は、ぽつり、ぽつりと、自分の心の内の、一番柔らかくて、弱い部分を、言葉にし始めた。
「大会って、大勢の人が見るだろ。審査員もいる。俺は、ずっと、一人で、自分のキッチンだけで作ってきた。そこが、俺の唯一の、安全な場所だったから。……もし、大勢の前で失敗したら?また、笑われたら?そう考えたら、足がすくむ」
今まで、誰にも見せたことのない、弱音だった。姉の碧にすら、ここまで素直な気持ちを吐露したことはない。
(なんだ、これ。なんで俺、こんなこと、こいつに話してるんだ……?)
自分でも不思議に感じながら、樹は、心の内にある澱を、全て吐き出した。
桃香は、その全てを、ただ黙って、真剣な眼差しで受け止めていた。
そして、樹が話し終えるのを待って、ゆっくりと口を開いた。
「……樹くん。聞いてくれて、ありがとう。正直に、話してくれて」
彼女は、テーブルの上に置かれていた樹の拳に、そっと自分の手を重ねた。
「樹くんは、怖いって言ったよね。でも、一つだけ、勘違いしてる」
「え……?」
「もう、樹くんは、一人でキッチンにいるんじゃないよ」
桃香は、真っ直ぐに、樹の瞳を見つめて言った。
「クリスマスケーキの時、樹くんは一人じゃなかった。私がいた。バレンタインの時、クラスのみんなが、樹くんを頼ってた。樹くんの周りには、もう、 バカにしたり、笑う人なんて、一人もいないよ」
そして、重ねた手に、きゅっと力を込める。
「もし、コンテストに出るなら、舞台に立つのは、樹くん一人じゃない。私も、隣にいる。私がデザインを考えて、樹くんが形にする。私が司令塔で、樹くんが最高のパティシエ。私たちは、二人で一つのチームだよ。審査されるのは、樹くんじゃない。『私たち』、だよ」
その言葉は、まるで魔法のように、樹の心に絡みついていた恐怖の鎖を、はらりと解いていった。
そうだ。俺は、もう、一人じゃない。
隣には、誰よりも俺の技術を信じてくれる、最高のデザイナーがいる。
樹は、重ねられた手の温かさと、桃香の、どこまでも真っ直ぐな瞳を見つめ返す。
心の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
やがて、彼の口元に、吹っ切れたような、穏やかな笑みが浮かぶ。
「……分かった」
樹は、力強く、頷いた。
「頑張ろう、桃香。二人で、てっぺん、目指してみるか」
それは、高校最後の年に始まる、二人の、最も甘くて、最も熱い挑戦の、始まりの合図だった。
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