11
真夏の青すぎる空のしたに、荒涼とした風景が広がっていた。
ようやくたどり着いたネの国のかつての王都は、静まり返っていた。ふもとの老婆から聞いた人の影はどこにもなく、おれとカナンは黙ったまま街を見上げた。
王都ウィルカは、ビルカの中でも突出した山の頂を斜めに切り落としたような地形に造られた都市だった。急な山肌を段々に刻み、家や畑を造ったのだと推し量られた。
しかし、家屋のあとは壁の一部がかすかな四角の升目となり幾つも地面に残っているのでそれと知れるが、その輪郭もあやふやになりつつある。畑の作物はあらかた野性化してしまったようで、荒れ放題だ。そのくせ生活に使われていた陶器の破片や布切れが地面からのぞいていたりする。まるで突然ここでの暮らしをなにもかも捨てていったようにも感じられる。
カナンはフードをかなぐり捨て、坂道を上り始めた。時折足を止めるときは、誰かがカナンに宿っていた。
「ここは私の家……」
そして初めての場所だろうに、いかにも懐かしげな視線をその場に注ぐのだ。
ようやくたどり着いた、という安堵をおれは幾分か感じた。ここまでなんとか無事にカナンを送り届けられたと。重い荷物が半分になったようだ。
ただひとつ気にかかるのは、来る途中のあの老婆の情報だけだ。彼女がみた山に向かう人々とはついぞ出会わなかった。カナンのほかにもビルカを目指している尖耳族がいるのではという期待をカナンもおれも持っていたのだ。
「ここに我らは生きていた。第一の船が来たとき、居残るものたちにひとつ条件が出された。それはこの都を捨てることだ。いにしえのあしき情熱で造りあげた地に住むことはまかりならないとな。そしてわしは残った。司祭としてただ一人」
いまカシャスの胸中にはどんなことが去来しているのだろうか。一氏族の盛衰をみつめてきたカシャスにはこの静寂に包まれた帝都の跡はきっともっと別のものに見えるに違いない。カシャスは瞬きもせずに佇んだ。
「あのときは、再びこの地を訪れるこの日がこんな結果になろうとは思いもしなかった。もっと多くの民を引き連れてこられると楽観しておったのにな」
のびた髪の毛を邪魔そうにかきあげながらつぶやいた。
「カシャスは偉いな。他の司祭らは船で行ってしまったのだろう。どんなやつが残ると言ったか知れないが、よく決意したな」
「わしはおまえが思うほど善人ではない」
カシャスは自分を卑下するように顔を歪め、おれを見た。
「司祭で残る者には、法皇の地位を授けると言うからだ。司祭の頂点である法皇の位につける機会はそのときしかなかった。そうでもなければ捨子として神殿で養育されたわしが法皇の地位をのぞむべくもなかったのでな」
そういいながらもカシャスは正面のひときわ高い土くれを指さしいて言った。
「あの場所には王宮とわしが仕えていた神殿が並び立っていたのだよ」
目を細めたカシャスは目の前の荒涼とした景色は見えていないかのようだ。そう、過去の風景を反芻しているのだ。自らの体と共に生きていたころのことを思い出しているのだ。
突然景色が歪みだした。まるで眩暈をおこしたときのように、風景が回りだす。ついで強い吐き気にも襲われる。まるで船酔いのようだ。耐えきれずにその場にうずくまり、回復するのを待った。なんども深呼吸を繰り返すうちに、揺れと吐き気はなんとか収まった。ゆっくりと目をあけ立ち上がると光景は一変していた。
なんということだ。華やかな町並がそこにあった。
崩れた建物などひとつもみあたらない。堅牢な石で丁寧に組まれた建造物ばかりだ。そればかりではない。通りはいつの間にか人で溢れていた。
みな同じ姿をしている。赤い髪に金の瞳、そして尖った耳。尖耳族たち!
ある者は篭を頭にのせながら、独特の節回しで野菜を売り歩いている。美しい衣装をまとった若い娘が従者を連れてしずしずと道を行く。辻には神官らしいものが人々になにやら熱心に語りかけている。子どもらは路地を駆け回り、小さないたずらをしては母親から叱られている。軒下の椅子に腰かけたばこをくゆらしながら談笑する老人。猟から帰ったばかりなのか、足を縛った鳥の束を肩にかけた男もいる。
なかにはおれのように異国の民人も二・三人、目についた。さも珍しげにきょろきょろとあたりを見まわし、互いの肩をつつきあいながら小声でなにやらささやきあっている。
路上で開かれた市には豊かな品物が並んでいる。食べ物、着る物、薬に装飾品。ありとあらゆるもの、足りないものなどありはしないといった具合だ。この国は豊かなのだ。
どこからか妙なる楽の音が聞こえる。耳を澄ませるとそれはカナンもよく口ずさむ歌、神に捧げる歌だ。神殿から風にのって聞こえて来るのだ。耳になじんだその曲は、ほんらい男の声でー神官たちによってー歌われていたものだということを知った。
目も眩むほどの大都市。これほど豊かで美しい都を見たことがない……。ここは尖耳族の国。かつての、いや、こうしておれの目の前にある……。
突然目の前で手がひとつ鳴らされ我にかえった。
「トール……」
都は消えた。カシャスは穏やかな顔でおれに問いかけた。
「美しい幻だったろう? わしの故郷はかくも馨しき都だった」
「今のはおまえが見せたのか? カシャス、いやカナン」
自然と膝から力が抜けてきた。カナンは座りこんだおれの肩に手をおき首を横にふった。
「それは過去視のなせるわざ。私にはできない。彼女の力がトールの右目からもれているのだわ、たぶん……。置いては行けないのに、こんなトールをひとりにできない」
静かにカナンは唇を重ねた。まるで母親が幼い我が子を慈しむような口づけだ。半ば目をとじたままおれはカナンの温かい唇をうけた。体が温かいものに包まれるようなそれはどれほどの長さだったのだろうか。やがてカナンは唇を離し、立ち上がった。
「船を呼ぶために祈らなければならないけれど、トールはそこから動いてはだめだよ」
そう言い残すと、カナンはおれに背を向け天に祈りを捧げ始めた。カナンの背中を見ながら、今の口づけは誰だったのだろうかとぼんやりと考えたりしていた。そのまま目をつぶると、瞼の裏に幻の都がまだ見えるような気がした。
かすかに澄んだ鈴の音が聞こえる……これもまた幻、空耳だろうか。わずかに目をあけると、急な坂道を何かがのぼって来るのが見えた。驚き目を見開くと、それは杖にすがり体を大きく左右にゆらしながら歩いて来る老人だった。
おぼつかない足取りだ。初めて出会ったときのカナンよりもさらに貧しい身なりの老人。頭はすっぽりと布で隠されていてよくわからないが、おそらく尖耳族だ。
すぐに立ち上がり、老人に駆け寄りたい衝動に駆られたがカナンの言葉が胸をかすめた。『動いてはだめ』と。けれど、当のカナンは祈りが佳境にさしかかったのか、おれのいる背後には全く神経が向いそうもない。それに、忘我の境地に到達しているだろうカナンの祈りを中断させるのも気が引ける。おれはそのままカナンに声をかけずに老人を出迎えることにした。
カイン以来の尖耳族だ。カナンもきっと喜ぶ。カシャスも少しは心が晴れるだろう。はやる気持ちを押えておれは道を下った。なんと声をかけようか……そればかりを考えながら。
不意に老人は、石に足をとられ前によろめき倒れ込んだ。
「大丈夫ですか」
おれは手を貸そうと駆けより膝まずき、倒れたままの老人の顔をのぞきこんだ。枯枝のような細い腕がおれの肩に触れ、老人はゆっくりとおもてを上げた。
見えたのは薄い唇を吊り上げるようにしてつくる笑顔……どこかで見たことがあったはずだ。そう感じた瞬間、みぞおちに鋭いものがつき立てられた。途端に息がつまり汗が滲み出す。
なにが起こったのかわからず、のろのろと頭を動かし痛みのところをみた。老人の手にしっかりと握られた短剣が深々と腹に刺さったままだった。老人の唇から低い笑いが漏れ出した。いつしかそれは耳障りな甲高い笑に変わり、老人は激しく頭をゆらした。
何故、という思いと、誰という思いが交錯する。体を突き放したいが、力がわかない。こんな気味の悪いものなど、さっさと畳んでしまいたいのに。いつしか老人の顔を覆っていた布がなくなっていた。
その下にあったものは白いもののまざった艶をなくした黒髪に濁った沼のような瞳は、どこから見ても尖耳族ではない。しかしどこかで見た風貌なのだ。頬には傷がひとつ。それすらも皺にうもれて確かではない。だがひとつの顔が浮かんだ。
「……え、おまえは!」
まさか! しかし……。やつでないとしたら、誰だというのだ。
「トール……!!」
山々にカナンの悲鳴がこだました。
その声を待っていたとでもいうように、奴は体とは不釣り合いな力強さで刃を上に引き上げるようにして短剣をおれの腹から抜き、おれに襲いかかってきた。
無理に上体をよじり、剣から身をかわす。傷付けられた臓物がさらに傷を深めたのは確かだ。生暖かいものが足のほうにまで伝わって来ている。
遅れをとってはいけない。わずかの隙に鞘から剣を抜き去ると、おれは体勢を立て直した。刃のかけた剣でどこまで戦えるかわからない。けれどこいつをカナンに近付けてはならない。
「トール……」
カナンが駆け寄る気配がする。奴は薄笑いをうかべたまま剣を握り直した。思ったとおりだ。その指は先がかけている。
「来るな、じっとしていろ」
振り向かずおれはカナンを制した。そうしている間にも血はとどまることなく溢れてくる。腹だけの熱さとは逆に体は急速に体温を失っていくようだ。傷口を押えながら震えずに立っているのがやっとだ。
「久し振りだな……イリアーズ・シン。ずいぶん面変わりしたからすぐには分からなかったぞ」
ともすれば、痛みで意識が遠のきそうになるのをこらえておれはイリアーズをねめつけた。イリアーズの眉がぴくりとはねあがり、濁った瞳に鋭い光が宿った。
「誰のせいでこのような醜い姿になり果てたと思う。すべてはお前のせいだ。お前を取り逃がしたことに王はひどく立腹なさったからだ」
「王が腹を立てただけでそのように老いさらばえるのか」
おれの言葉にイリアーズは視線を落とした。
「お前に王の真の恐ろしさなぞ分かるはずがない」
背中を冷たいものが流れた。王の筋ばった冷たい指を思い出してしまったからだ。
「けれどタティアさまはもう一度だけ機会を与えるとおっしゃった。そして成功したあかつきには、もとの若さと美貌を与えよう、と。そうだ、お前さえ始末すれば私は元に戻るのだ! そうすればきっと王のご寵愛も戻るはず」
イリアーズは剣を逆手にもち棒立ちのおれに突進してくる。好機はただ一度だ。おれの力も剣の刃も。
なにかを叫びながらイリアーズはおれに向かってくる。その皺の一本一本を見極められるほど近付いたとき、おれは剣をイリアーズの頭めがけて降りおろした。
手におぼえのある鈍い感触とともにイリアーズの頭は割れ、勢いよく血が噴き出す。返り血を浴びながらおれはしかし、とてつもない恐怖にとらわれた。
イリアーズは倒れなかった。すさまじいまでの出血、間違いなく頭の骨を砕き脳まで達する傷のはずだ。なのにイリアーズは両手をだらりとさせたものの倒れる気配がないのだ。それどころか、まだ唇がかすかに動いている。
ざっくりと額まで割れた顔がゆるゆるとおれの方を見た。血で濡れた顔はあの不快な笑顔をたたえたままで、これ以上は無理と思われるほど目を見開いている。そこには狂気だけがあった。きっとイリアーズはかつての己の若さと美貌に固執している。それが奴の体をつき動かしているのだ。おれの体はおこりのように震え、まるで蛇に睨まれた蛙のように身動きがとれない。
再びイリアーズの剣を握った腕が高々と持ち上がった。
「トール、離れて! それはもうイリアーズではない」
カナンはおれとイリアーズの間に割って入ると、おれから剣をもぎとり構えた。
いましも降りおろされたイリアーズの短剣とカナンの剣がぶつかった。
無理だ、カナンにおれの剣を扱えるはずがない。もつだけでも重い。短剣といえどもいまの奴の力は尋常ではない。夢中でおれは叫んだ。
「カナーン!!」
金属どうしがぶつかる音が響き、互いの剣は砕けて折れた。その衝撃の強さのせいではあるまいが、イリアーズの体は後ろに飛びすさった。
肩で息をしながらカナンは半分も残っていない刀身の剣をなおも構えながら、イリアーズにむかって声を張り上げた。
「卑怯者! そいつの体に隠れなきゃ、何もできないのね。あんたが同じ氏族だなんて思いたくもない。正体を現したらどう? それとも私が怖いの?」
くくっという忍び笑う声と、きっと戻るはずという呪咀めいた声が重なる。わずかながらイリアーズの体が宙に浮かび、徐々に首が巨大な手で捩られるように回り始めた。
「誰が恐れていると? 小娘」
聞き覚えのある声だ。いや忘れることのなかった声。声の主は今にも捩切れそうになったイリアーズの顔の真後ろにあった。




