シグネイター
荒れ果てた砂漠の中心に、その研究所はあった。地上に出ている部分はこぢんまりとした研究所ではあったが、その地下には広く続く研究施設があり、怪しげに光る宝石やホルマリン漬けの肉塊などが所狭しと並んでいた。その研究所の長く伸びた廊下を、二人の職員が歩いていた。軋む廊下が鈍い音を立てる。
「なあ、聞いたか?」
重い静寂を破り、片方がそっと言った。
「この先の地下牢にいるやつも……シグネイターらしいぜ」
「ああ。聞いたよ」
男は鼻で笑った。
「だがあの検査では不適合と出ていたはずだ。処分はいつだ?」
「処分はなくなった。お前、知らないのか?」
「…なにを?」
足音が、廊下に重く反響する。
「あいつはただのシグネイターじゃない。」
___300年だ。
ぽつりと、男がつぶやいた。
「300年もの間、この大地にただの一度も現れなかった……」
ゴクリと唾を飲む。
「……“水素”の、シグネイターだ。」
その廊下の先。何重にも施錠された重い扉の奥に、ひとりの少年が捕らわれていた。
「ふぁ〜……よく寝た!」
大きなあくびとともに、ハイド・ヒュードルは目を覚ます。鉄格子に囲まれ、薄暗い蛍光灯がじんわりと光る部屋で、ハイドは手櫛で寝癖を直し、硬いベッドから気怠そうに足を下ろした。
この研究所に囚われてしばらくは、恐怖で眠れない日々が続いた。扉の向こうから聞こえてくる足音に怯え、誰かが部屋の前で立ち止まるたびに、次は自分が何をされるのかと身構えた。夜になっても目を閉じることができず、壁にもたれたまま、薄暗い天井を何時間も眺めていたこともあった。
それが今ではどうだ。最近はぐっすりと“いい睡眠”がとれるようになってしまっていた。つくづく自分の危機感のなさにあきれる。夜になれば眠くなるし、腹が減れば飯を食う。そのあたり前を、彼は取り戻しつつあった。ハイドはふーっと息を吐き、この何度目かもわからない退屈な一日をどう乗り越えるかについてぼんやり考えた。今日は南側の壁のひび割れでも数えるか。
彼がここに囚われてから、もう二か月もの時間が流れようとしている。しかし彼はいまだに、この状況について何も知らなかった。なぜ自分は監禁されているのか。なぜ、何もせずに生かされ続けているのか。
「……特別?」
職員がよく口にするその言葉を、ハイドは聞き逃してはいなかった。ふと、左手の甲に目を落とす。そこには、肌に焼き付いたように消えない「H」の刻印があった。心当たりがあるとすればこれしかなかった。
この文字に、彼らはいったい何を期待しているのだろう。考えれば思い当たる節がないこともない。ハイドには、ある特殊な能力があったのだ。それは間違いなく、この刻印からくるものだ。でも何のために?この力はただ___。
――ふいに、忘れもしないあの日の記憶が、まぶたの裏に流れた。
“アクウス族”という部族に属する彼は、いつ、だれが作ったともわからない小さな遺跡に、たった一人で暮らしていた。無限に広がる大地の中でその遺跡を選んだ理由は、「雨風がしのげるから」のみであった。その遺跡周りは自然豊かで、食べ物には困らなかった。だからハイドは、日中暇を持て余し、よく散歩に出かけていた。
目的地のない、自由な散歩……のはずだったのだが、彼がたどり着くところは結局、いつも同じ場所であった。何もない草原。でもその中央では確かに、左手の刻印が熱を帯びる気がするのだ。
あの日もそうだった。いつものように散歩を楽しみ、いつもの場所に差し掛かった時。 ふと、視界の端で鮮やかな「青」が跳ねた。
ひとりの少年――鮮やかな青髪の子どもが、空高く伸びた枝に向かって、懸命に手を振り上げている。この周辺に子供なんていたのか、と戸惑いつつも、ハイドは声をかけた。
「どうしたんだい?」
不意の問いかけに、少年は顔を上げた。
「ぼくのおもちゃ、あの木に引っかかっちゃったの」
視線を追えば、遥か高い枝の先に、小さなおもちゃが引っかかっていた。気まぐれな風に吹かれ、それはきらりと光を跳ね返している。
「なるほど。それならあの飛行機、僕が取ってあげよう」
「ほんとに? でも……あんなに高いのに、届くの?」
見上げる枝は、大人の背丈を優に超えている。少年の声の端で、驚きと不安がほんの少し揺れた。
「大丈夫。任せて」
ハイドは静かに目を閉じ、深く息を吐き出す。全身の細胞が、ほんの少し熱を帯びる感覚。これが、僕の能力。
ハイドは地面を強く蹴る。すると彼の体は
羽のようにふわりと地面を離れ、宙へと浮かび上がった___。
驚きに目を見開く少年を眼下に、ハイドは風を切り、軽やかな動作で枝先の宝物を掴み取った。
帰り道、ハイドの胸は喜びに満たされていた。
ありがとう__!
目を太陽のように輝かせ、そう言った彼の顔が忘れられない。
「これね、だいじな“おもちゃ”だったの!だからほんとうにありがとう!」
そういって彼は“おもちゃ“をかかえ、足早に駆けていった。ハイドは自分の左手の刻印を見て、そっと撫でた。
「この力は……今日みたいに、困っている誰かのために使うんだ。誰に与えられたのかも、どこまでできるのかも、わからないけれど」
歩きながら、ハイドの心には小さな、でも力のある誓いの炎が灯った。
その瞬間。
気づけば、背後に影が立っていた。鈍器を握りしめ、息を潜めて近づく人影。その影はハイドの後ろに立ち、その手を大きく振りかぶった。
ゴッッ___。
自分の頭蓋に響いたはずの音は、しかしもうハイドには届かない。世界が瞬く間に遠のき、視界はゆっくりと闇に沈んでいった。
「いってて……」
頭に残る鈍い痛みは、あの日の襲撃の痕だった。殴打された瞬間の閃光のような痛みこそ薄れたが、まだ時折、傷は脈打つように疼く。そろそろ、食事の時間だろうか。耳をすませば、静まり返った廊下を、硬質なブーツ音が近づいてくるのが分かる。
「ほらよ。ありがたく食え」
重装備の職員が、鉄皿を投げ置くように台へ滑らせた。湯気ひとつ立たない、冷え切った朝食。でもハイドはこの食事が、決して嫌いではなかった。
__栄養のバランスがいい。
そのことに気づいたのは、囚われて間もないころだった。自給自足生活の中で、自分の栄養管理には自信があった。そんな彼が認めるほどに、それは考え抜かれた献立だった。
「ありがたく、いただきます」
そう呟き、口を開いた瞬間——
ゴゴゴゴ……ドカンッ!!
爆裂音とともに、閉ざされた天井に穴が穿たれ、眩い陽光がなだれ込む。何が起きたかわからないが、とりあえず急いで朝食をかきこむ。舌をかまないように細心の注意を払った。限界まで詰め込み、口を大きく膨らませた彼はやっと、天井の穴をのぞいてみた。濃い砂埃の向こう、穿たれた穴の縁から、少年の顔がひょいと覗いていた。
「おー、発見じゃね!?やっぱ一発でいける俺、天才?」
「派手にやりすぎなのよ。目的の子は無事?」
今度は少女が肩を並べるように顔を出す。状況は理解不能だが、吹き込む風の匂いは、確かに“外”だった。
「今ロープ垂らすから、掴んで上がってきてー。」
言葉半分のまま、ハイドはロープに手をかけた。繊維が軋むほど力を込め、身体を持ち上げると、待っていたのは先ほどの二人と、金属で組まれた黒光りする奇妙な車体だった。
「___車?」
頑丈そうだが背は低く、屋根もなければ座席もない。おまけに運転席もない。
かっこいいけど……なんだこれ?どうやって走るんだ?__。
そんなことを一人で思っていたとき、二人のうち少年のほうが、ハイドに手を差し伸べながら、声をかけた。
「さ、行こうか。君を——“自由に”しに来た」
それは救済の宣言なのか、それとも別の拘束の始まりなのか。
ハイドはいきなり、外の空気の中へ引きずり出された。
しばらくの後、車体は地面を滑るように疾走していた。外見は鈍重な戦闘車両そのものだが、実際の走りは驚くほど軽く、乾いた風が頬を打つ。太陽の光も、肌をかすめる風も、ハイドにとっては久しぶりの感覚だった。
背丈が低く、刈り込んだ髪に快活さを漂わせる少年は「キスラ・オキシーノ」。高い位置で一つ結びにした少女は「フェルミ・カナタ」。ふたりは軽く名乗り、左手の甲に刻まれた刻印を見せてくれた。「O」と「Fe」。初めて見る他人の刻印。1人じゃなかった。そのうちのフェルミの能力で、この車は走っているらしい。さっき理屈をはなしてくれたんだけど……
「私はね、この車に“私の20メートル前方”に向かうように指示しているの、つまり目的地が私の位置に依存している。だから、私がこの車に乗っている限り、この車には到着という概念が存在しないんだ。これは追跡者が被追跡者と同期して………」
意味不明。まったくわからなかった。
しかし、それはキスラも同じなようで、彼は途中でフェルミの話をさえぎってハイドに向き直った。
「とりあえず、これを持っておくといい」
キスラが差し出したのは、銃に似た金属器。重さはないが、異様な手触りが掌に残る。護身用の武器──その説明は理に適う。試しに車外へ向けて照準を定める。
狙いはそうだ、あの木にしよう。ハイドは少し離れた木を照準の真ん中に置き、呼吸を整える。もしかして、研究所を突き破った爆発は、この銃からのものなのだろうか?期待で胸が躍る。
「吹き飛べ!」
小さくそう言いながらハイドは引き金を引いた__。
「カチッ………。」
___え?
乾いた音だけが虚しく響いた。世界は何も変わってない。ど派手な爆発も、すべてを破壊する銃弾もない。
「え? これ、壊れてる?」
「壊れてちゃいない。小さい鉄の塊を二つぶっ飛ばして、それがぶつかるときに、火花がボン!ってな。」
「え? 火花って攻撃力あるの?」
「ねえだろ」
「え? でもこれ武器なんだよね?」
「ああ。最強のな」
聞けば聞くほどわからない。説明が空回りしている。このメンバーには程よい説明をしてくれる人はいないのか?ハイドはやけに力んで、何度か引き金を引く。カチッ、カチッ。乾いた音だけが響く。何も起きない。
しかし言われてみれば確かに、視界の端、遠くの空間で、微かに“なにか”が弾けている気が___しないこともない。しかしそれは頼りなく、すぐに風にさらわれ、そして消えた。
「……?」
胸の疑問を拭えないままのハイドよそ目に、フェルミが小さく呟く。
「まずい、追っ手が来たみたいね」
フェルミの声音が一段低くなった。振り返ると、この車と同様に黒光りする車体がたしかに少しずつ、しかし確実に、ハイドたちに向かってその距離を縮めていた。
そのころ、ハイドたちを追いかける車には、研究所の所長であるスカディウス・ヴェルネが、腕を組み、静かに立っていた。静かな外見とは裏腹に、彼の“はらわた”は煮えくり返っていた。
「シグネイターだろうがガキはガキ。調子に乗るなよ?」
そう言いながら、スカディウスはこぶしを強く握る。血管の浮かび上がるこぶしから、骨が軋む音が漏れる。その左手には、「Sc」の刻印が宿っていた。
「こっちは何十年も修行してきた本物のシグネイターなんだよ」
そう言いながら、スカディウスが怪しげな印を結ぶと、大きな球に無数の棘がついたような武器が現れた。重く、歪んだそれの独特な光沢が揺れる。スカディウスがその棘のうち一本の先に指を軽く触れると、その指先から血があふれ、車体に落ちた。
「見せてやるよ。本物のシグネイターの力を……Scメイス!」
そう言いながらスカディウスが腕を振ると、その塊は一直線にハイドたちの車へ向けて飛び出した。
ハイドは振り返り、背後からの攻撃を見てぞっとした。あんなものが当たったら僕たちは車ごと潰される!急いでフェルミに叫ぶ
「後ろから攻撃!」
「わかってる!!」
フェルミが急いで車の進行方向を変えると、Scメイスは車のすぐ横の地面をえぐった。低く鈍い音とともに、大量の土が舞い上げられる。車は大きく傾いたが、かろうじて体勢を立て直し走り続ける。しかし、攻撃はそれでは終わらない。すぐに地面から浮かび上がったScメイスは、もう一度車へ向けて飛来する。フェルミはまたしても間一髪でかわす。
「どうするの!?あんなの当たったら、ただじゃすまないよ!」
ハイドは叫ぶ。冷たいご飯、太い檻、くらい部屋。つい先程までの辛く、苦しい日々がハイドの頭でぐるぐると回った。
「そうだね……どうしよっか!キスラ!」
フェルミはキスラに呼び掛けた。
「仕方ないんじゃないか?こんな状況だし。」
キスラはのんびりとそういった。
はあ!?仕方ない?なんだそれ!今、僕らが殺されそうになっているこの状況で、いったい何が仕方ないっていうんだ!
するとフェルミもゆっくりと関節を伸ばしながら言った。
「戦うなって言われたんだけどなぁ……ああ!もう知らない!!キスラ、言い訳頼むね!」
「なんで俺!?」
「さあ、一気に片付けるよ!」
突然のことだった___。何が起きたかわからないが、いきなりフェルミの前方に、巨大な“剣”がいくつも出現した。その剣はフェルミの腕を振る動きに合わせて縦横無尽に動き回り、飛来した金属の塊をことごとく粉砕した。金属同士がぶつかる大きな音に、目を見開く。
Scメイスがバラバラになり動かなくなったのを見て、フェルミは振り返り、ぱあっと大きく笑った。
「じゃあ、キスラ?次は君の番だ」
「ああ、わかってるよ。ハイド見てろ?これがこの銃の使い方だ。」
キスラが背を向けながら、自分の後ろに向けて引き金を引く。
―――爆発!
その爆風を踏み台にして、キスラは追っ手の乗る車へと一直線に飛んだ。激しい爆風に、ハイドは思わず目を閉じた。
次の瞬間――
キスラの姿は、もうそこにはなかった。
食事を妨げた爆発音を、俺は決して許しはしない。あの短髪の男とお下げの女、、おかげで最後に残しておいたソーセージも食べれずに1人でここまで追ってきてしまったではないか、、本当にむかつく奴らだ、、
先ほどのScメイスは奴らに弾かれてしまった。ガキとはいえ訓練されている。さすがになめすぎたな。もっとサイズも密度も大きなものを作らなければ__。
もう一度印を結ぼうとしたその時、突然耳を突き破るような爆発音が炸裂した。見ると前方を走る車から爆煙が立ち込める。熱風と共に、物が焦げる匂いが鼻をつく
「ちっ、爆発系のシグネイターまでいるのかよ、厄介だな」
小さく、独り言をつぶやく。するとすぐ隣から声が返ってきた。
「そうだよ、大正解。酸素のシグネイターのキスラだ。よろしくな」
____は?
いつのまに俺の隣まで来たと言うのだ?さっきの爆発は彼の移動手段だったのか?胸に浮かぶ数多の疑問を押さえつけ、戦闘体制に入る。しかし咄嗟のことに反応が遅れる。この車に乗り込む準備をしていた彼の方に、かなりの分があったことは言うまでもない。彼が手のひらを俺の腹に添え、そしてもう一方の手で引き金を引く。
「じゃあな。またどこかで」
「おいっ、まてっ!!」
ドオオオォォォォォン!!!
急いで盾を作り致命傷は免れたが、スカディウスは爆風と共に空高く打ち上がった。彼にはもう、遠ざかっていく車を見送ることしかできなかった___。
しばらくの後、ハイドたち一行は森を抜け、青く茂った草原の上を駆けていた。
「もうメタルガ族の領土を過ぎて、アクウス族の領土に帰ってきたから、追手の心配はないね」
とフェルミが言ったが、いまいちよくわからなかった。でも、“もう追っ手の心配がない”という事実は、ハイドに安心をもたらした。そのおかげか、さっきよりも強く、青々しい香りが鼻をくすぐった。
「これから、どこに向かうんだっけ?」
ハイドは床に大の字に寝ているキスラに問いかける。しかし返ってきたのは小さな寝息だけだった。先の戦闘での消耗もあるのかもしれない。起こそうか迷っていると、前を向き、背を向けたままでフェルミが答えた。
「青鱗の砦。私たちアクウス族の本部。サーヤのいる青鱗の塔を中心にした、大きな町。」
「サーヤ?」
「え?知らないの!?」
フェルミは大きくのけぞる。その瞳は今にも飛び出そうなほど見開いていた。人をひとり知らないだけで、そんなに驚くことなのだろうか?
「サーヤはね、私たちの部族で一番の…いや、ちがうな…なんて言えばいいんだろう」
「“シグネイターそのもの“、だろ」
いつのまにか目を覚ましたキスラが仰向けで、空を見たまま答えた。
「あの人自身は刻印を持っていない。でもな、あの人がいるから俺たちは、シグネイターなんだ。」
その声には、ふざけている様子も、下手に誇張している様子もなかった。ハイドはきょとんとする。いまいち意味がわからない。
「そうこう言ってるうちに、ほら、ついたよ!」
フェルミの声に、ハイドは顔を上げた。そして――目の前に広がる景色に、言葉を失った。轟音を上げながら流れ落ちる滝。その水を受け止めるように、街の中央をゆったりと流れる川。水面には陽の光が反射し、その間を人々が笑いながら行き交っている。子どもたちの声。店先から聞こえる呼び込み。水車の回る音。滝の轟音さえも、街の喧騒の一部になっている。どこを見ても活気に満ちていた。
「……すごい。」
思わず、ハイドの口から言葉が漏れる。これまで訪れたどんな場所とも違う。水と人が、まるで最初から一つのものだったかのように、この街を形作っている。そして――その賑わいの中心に、“それ”はあった。一匹の龍が塔に巻き付いているかのような装飾。青く輝く鱗を模した外壁。ただでさえ幻想的なこの街の中でも、そこだけは明らかに異質だった。
「__青鱗の塔。」
フェルミがそう呟く。
「あの最上階に、サーヤがいるよ。」
ハイドは、塔を見上げた。その瞬間だった。胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……え?」
理由が分からない。この場所には来たことがない。少なくとも、そう確信している。
なのに。
あの楼閣も。
あの塔の形も。
差し込む光も。
塔が落とす、長い影も。
――知っている。
「……なんでだ?」
自分でも驚くほど、小さな声が漏れた。
「いつの記憶だ……?」
思い出そうとする。けれど、何も出てこない。ただ、胸の奥に残る奇妙な既視感だけは、消えてくれなかった。
「ハイド、行くぞ!」
振り返ると、キスラはもう塔の入り口へ向かっている。
「あっ、うん!」
ハイドは慌てて追いかける。今はいい。このことは、後で考えよう。そう自分に言い聞かせ、頬を軽く叩いた。
「よし。」
そして、キスラの後を追って塔へと入った。青鱗の塔、その最上階。扉が開いた瞬間、ハイドは思わず足を止めた。青を基調とした、広大な部屋。壁には淡い光を放つ装飾が施され、窓の向こうには先ほどの街並みが一望できる。だが、ハイドの目を奪ったのは、その景色ではなかった。
部屋の一角。
そこに置かれた玉座に、一人の女性が座っていた。
神秘的。
そんな言葉しか思いつかなかった。青い衣を纏い、顔の大部分は覆いによって隠されている。
目も。
鼻も。
表情さえも。
ほとんど何も見えない。
見えているのは、口元だけ。
だが、その口元さえ動いていない。
「……。」
ハイドは息を呑んだ。この人は、本当に――生きているのだろうか。そんな疑問が、一瞬だけ頭をよぎった。その時。
「――ルカ。それでは行きなさい。アルトラースであるあなたの力が必要なのです。」
声が響いた。いや。“響いた”という表現すら正しくない。耳から聞こえたのではない。
まるで、頭の中に直接声を流し込まれたようだった。ハイドは思わず肩を震わせ、声の主を見る。やはり、口元は動いていない。
「もちろんです。」
別の声がした。ハイドは慌てて振り返る。
「このカーヴォ・ルカ、身命を賭してあなたにお仕えする所存であります。」
入り口の反対側。壁にもたれるようにして、一人の少年が座っていた。
小さい。
どう見ても、ハイドたちより幼い。なのに、その口から出てきた言葉には一切の迷いがなかった。
「すごい……。」
思わずハイドは呟く。少年――ルカは静かに立ち上がる。そして、出口へ向かって歩き始めた。ハイドたちの横を通り過ぎる。そのまま何事もなく出ていくのかと思った。
しかし――ふと、ルカが立ち止まった。ハイドを見る。じっと。
「……またな。」
「え?」
ハイドが振り返る。だが、ルカはもう歩き出していた。後ろから声をかけようとしたとき、またしても脳内で音声が流れる。
「よく来ましたね、ハイド。」
振り返る。サーヤの顔は、こちらを向いていない。首も動いていない。それなのに――
はっきりと分かった。彼女の“意識”はこちらを向いている。
「――おかえり。」
その一言に、ハイドの胸がざわついた。
「……おかえり?」
サーヤは少しだけ間を置く。
「そう言うべきでしょうか?」
「……。」
何も言えない。
おかえり。
その言葉が、妙に引っかかる。ここは初めて来た場所だ。なのに、さっきから何度も感じる既視感。塔を見た時。ルカに「またな」と言われた時。そして今。「おかえり」と言われた時。
全部が、どこかで繋がっているような気がした。
「……僕、ここに――」
何かを聞こうとした。だが、声が出ない。目の前にいる存在を前にすると、なぜか踏み込んではいけないような気がした。サーヤは、そんなハイドの戸惑いなど気にする様子もなく続ける。
「あなたたちには、下見をお願いしたのですが?」
ぎくっと、わかりやすく二人が固まる。
「申し訳ありません。目的の少年を外から観察する際に、少しだけ建物を崩す必要があったのですが、それでこちらの存在が相手にばれてしまいました。」
いや、どう考えても地上部分から地下牢まで縦にでかい穴開けたら気づかれるだろ。キスラの性格が顕著に表れている。
「まあ、こうしてハイドを連れ帰ってくれたわけですから、良しとしましょう。アルトラースなしでよくぞここまで帰ってきましたね。」
表情は動いていない。流れる声色も変わっていない。なのにサーヤからは子どもをなだめるような雰囲気が漂い、キスラは嬉しそうだった。どうしてこの人がアクウス族のトップなのか、少しわかった気がした。サーヤは続けた。
「帰ってきていきなりで悪いのだけれど、三人にはまた新しい任務があります。」
___ん?3人?
「はい。なんなりと。」
「もちろんです。」
後ろからキスラとフェルミの声が重なった。
「……。」
ハイドは二人を見る。そして、自分を見る。
まずい。
戦闘能力もない、シグネイターについての知識もないこの僕を、この人はまた戦場に送ろうというのか!?足手まといになるに決まってる!
ハイドは勇気を振り絞って口を開いた。
「……あのぉ~。」
サーヤの意識が、こちらを向く。
「僕には戦闘能力もなければ、シグネイター……?に関する知識もないんですよ?」
一度、息を吸う。
「足手まといになるだけじゃないでしょうか……?」
少しの沈黙。そして、サーヤは淡々と答えた。
「実践は、一番の成長の機会ですよ。ハイド。」
「……え?」
「任務の地はメタルガ族の領地に入ってからもかなりの距離があります。フェルミの車でも数日はかかるでしょう。」
そう言って、サーヤは続けた。
「その道中で、いろいろと教えてもらうといいでしょう。」
「……。」
ハイドが呆然としていると、後ろから肩に手が置かれた。キスラだった。振り向く。
キスラは何も言わない。ただ遠くをみて――ぐっと親指を立てた。
「……まじで?」
ハイドは、半泣きになりながら、思わず呟いた。
青鱗の砦は思った通り本当に住みやすい場所だった。いたるところでシグネイターが優遇される仕組みになっている。宿も食事も左手の刻印を見せるだけですべてが無料で提供され、街を歩けば、シグネイターに向けて頭を下げる人や、親しげに声をかける人の姿も珍しくなかった。
青鱗の塔からの帰り、空が暗くなり始めたのをみてフェルミが、「今晩はここに泊まって、明日出発することにしよう。」と提案した。適当な宿を拾い、荷物を下ろし、ふかふかのベッドに飛び込んだ。柔らかな木材のにおいが鼻をくすぐる。体が鉛のように重いが、今日一日の波乱を鑑みれば、各段不思議なことでもない。
「気になったんだがハイド。」
横のベッドに座り、昼間の銃を手入れしていたキスラが視線を上げ、言った。
「本当に何にも知らないのか?」
「え?」
「世界のこと、部族のこと、争いのこと。」
「……ごめん、なにも。」
はああああああ……と、聞いたこともない大きなため息をついてキスラはこちらを睨む。まるで、そんなんでどうやって生きてきたんだ、と言いたげな目だった。
「ご、ごめんって……!」
「いや、別に怒ってるわけじゃねぇけどよ。」
「簡単に説明してやるから、よく聞け。大原則として、この世界には三つの禁忌がある。物質の最小単位である原子は、“生み出せない”、“破壊できない”。そして、“変化させられない”この3つだ。」
キスラは指を三本たて、それらを順につまみながら説明する。
「ただし――左手に刻印を持つ、“シグネイター”だけは3つの禁忌のうち“生み出せない”を侵す権利が与えられている。これを使って、俺たちは戦ってるんだ。」
キスラは指を変え、今度は人差し指を天井に向ける。銃の引き金を引くと、ボンッという音とともに、小さな爆発が起きた。大きな音に、ハイドは思わず身を縮める。
「俺たちアクウス族のシグネイターは、メタルガ族のシグネイターと何年も争っている。最近は直接的な戦闘こそないが、ずっと緊張状態なのは確かだ。」
ほう。領土が分かれているのはそれでか。ハイドは納得する。
「さっきの男の子が、アルトラース…?って呼ばれてたけど、それは?」
「まあ、そう焦るな。アルトラースっていうのは、俺たちアクウス族の中で最も強い4人のシグネイターのことだ。中でもさっき会ったカーヴォ・ルカはアルトラースの中でも別格で強い。」
「え!…あの子が!?」
「まあ、強いといっても、ルカもクラス自体は低いんだがな。」
「くらす……?」
「ああ、もう!!」
キスラは呆れたように笑った。
「この世界の強さの基準だ。修行とか、才能とかを考えなければ、戦いってのはクラスが高い奴が勝つ。シンプルだろ?クラスってのはその元素ごとにあらかじめ決まってて、もちろん死ぬまで変わらねぇ。だからクラスが低い奴は努力でのし上がるしかない。」
「フェルミは26もあるのに、俺のクラスはたった8だから、苦労したぜ…。」
そう言ったキスラの笑顔は、いつもの明るさとは少し違っていた。ほんの一瞬。
寂しさが滲んだ気がした。だが、すぐにいつもの調子に戻る。
「でも、シグネイター同士の戦いってのは、相性が重要なんだ。俺がどれだけ頑張っても絶対に勝てない敵を、フェルミなら簡単に倒せることもある。逆も同じだ。だから俺たちはこれからチームで任務に行くんだ。」
その言葉が、ハイドの胸に残った。
__チーム。
出会ったばかりなのに。自分のことを、当たり前のように仲間として扱ってくれている。
それが、嬉しかった。それと同時に、胸を張ってチームの一員といえるような、強いシグネイターになろうと思った。
「そういえばさ、僕の持ってる“水素”の刻印のクラスって、どのくらいなの?」
「…………。」
キスラの手が止まった。ほんの一瞬だった。だが、ハイドには見えた。
「……キスラ?」
「ハイド。」
キスラは銃から目を離さない。
「今日はいろいろ知れただろ。もう十分だ。明日は早いんだぞ。おやすみ。」
「……?」
はぐらかされた……?ハイドの胸の奥に小さなざわめきが生まれた。でも、キスラにそんな器用なことができるだろうか?
……偶然か。
まあでも、今日は確かに眠い。また明日。キスラ。
「ねえ、キスラ。」
ベットに横たわったハイドが、背中越しに声をかけた。
「次の冒険が終わったら、僕はもう二度と、青鱗の砦には帰ってこないつもりなんだ。こんな旅を続けてたら、命がいくつあっても足りない。しかも僕は、優秀なシグネイターでもないんだ。今回で、終わりにする。」
キスラは、しばらく何も言わなかった。手にしていた銃を膝の上に置き、ハイドの背中を見つめる。
「……そっか。」
短く、それだけ言った。
「好きにしたらいい。」
「……うん。」
ハイドも、それ以上は何も言わなかった。
数分の後、目の前のハイドのかすかな寝息を聞き、キスラはもう一度大きなため息をついた。
「……好きにしたらいい、か。」
自分で言った言葉を、もう一度呟く。胸の底に小さな引っ掛かりが生まれた気がした。確かに、あいつにしてみれば今日は散々な一日だったろう。そう思うのも当然だ。
それに――
今まで大きな動きを見せなかった “メタルガ族”がいきなり全精力を上げて軍備を強化している……急な攻撃態勢。どう考えても奪われたものを取り返そうとしている。これからこの小さな少年をめぐって、多くの血が流れることになるだろう。
でも、そんなことを知ったら、あいつはきっと――。キスラはぐっと唇をかみ、そしてベッドに横たわった。
翌朝。
フェルミが勢いよく扉を開き、出発の時を告げた。
「さあ!次の目的地がきまったよ!かなり危険な任務になりそうだけど、心の準備はできてる?」
荷物をちょうどまとめ終えていたキスラは、あたりまえだ!とでも言うように、顔を輝かせる。
「いいじゃねぇか!燃えるなぁ!詳細は?」
「サーヤからの情報だと、ナトリウス・ヴァルク、クラス11。クロリス・セレスト、クラス17。かなり有名な二人で、シグネイターも含めて負傷者も多い。本当に危険な任務になるね」
クラスだけで言ったら、8であるキスラは負けている。それなのに本人はあまり気にしていないようだ。よほどの自信があるからなのか、それとも昨日話してくれた“相性”というものがそこまで大きな差を埋めることができるからなのか。ハイドにはわからない。
「そんなに危険なの?…僕なんかがついて行っていいのかな?」
「大丈夫大丈夫!危なくなったら逃げりゃあいいんだよ。俺の爆発で。」
逃げるんかい!キスラの自信はその戦闘力に対してではなく、逃げ足に対してだったようだ。
「なんでできない任務を引き受けたりなんかするのさぁ」
「いいじゃねぇか!やってみなきゃわかんねえよ!それに__」
さっきまで顔に浮かべていたおどけた笑みが消える。代わりに、少しだけ大人びた表情がキスラの顔に浮かんだ。
「サーヤが、俺たちに絶対にできない任務を依頼するはずがないだろ。」
何も言えなかった。その言葉の不思議な説得力にハイドは少しだけ緊張がほぐれた気がした。張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。そしてふと、あの疑問が再びハイドの頭に浮かんできた。
「フェルミ、そういえば僕のクラスってどのくらいあるんだっけ?」
「え、昨日聞かなかったんだ。ハイドのクラスは……」
一瞬の間に、研究所で散々聞いた“特別”が頭をよぎる。そもそも、戦闘経験のない戦士は普通、戦闘に行かない。よっぽど戦士が不足しているか、それとも、群を抜いて強い”素質”があるか。もしかして、自分には__!
「いちだよ。」
____?
――いち?
その二文字を数字に変換するのに、ひどく時間がかかった。
1。
いやいやいやいやいや! それは、この世界で「無」に最も近い数字じゃないのか。 体の力がすべて抜けていくのを感じ、へなへなと座り込む。助けを求めるようにキスラを見ると、彼はこれ以上ないほど露骨に視線を天井へ投げた。昨日の不自然な態度の正体はこれだ。キスラは上を向いたまま、静かに言った。
「……大丈夫、ハイド。戦いは相性だから」
プツッ……。
あまりのショックに、そこからの記憶がない。 荷物をまとめた記憶も、砦を出た記憶もない。 そして……
なぜ今、目の前でキスラとフェルミが、見たこともない巨大な建物の門を豪快にぶち壊しているのか。本当にわからない!
「行くぞ、ハイド! 遅れるなよ!」
鉄錆の匂いと爆音の中、キスラがこちらを向いて笑う。これから戦闘になるとは思えない、さわやかな笑みだった。
「行けるかぁっ!!!!」
僕は「1」で、敵は、11と17だぞ……!
「あっそ、じゃあね。」
キスラはひらひらとこちらに手を振ってきた。
「え………。」
キスラとはぐれないように考えるより先に走りだした足が、ただ憎かった。
「はあ…はあ…はあ…」
ハイドは必死に思考を巡らせる。
前方右側には、壁に強く打ち付けられ、動かなくなったキスラ。
左側には、体を溶かす酸になすすべなく沈んでいくフェルミ。
二人をそれぞれ見つめる二つの影。彼らは、何の戦闘能力もない僕を見てすらいない。
二人を助けないと!なんとかしないと!
どうする、どうする、どうする!どうする!!!!




