最終章 誘い歌のセイレーン
沖割れの最深部へ近づく頃、同じ歌が灯寄村でも聞こえ始めた。
澄は灯寄城の本丸前で、入口から届く報告を受けていた。
「南の小灯道から二十ほど。東の石抱き坑は、まだ数えられません」
見張りの村人が息を切らして言った。
「正門は閉じたまま。壁の外へ追うんじゃない。遠征隊が歌を止めるまで、城の中へ入れなければいい」
澄は残った薬と交代人数を確認し、前の襲撃で崩れた水路側へ多めに人を送った。
汐継港の波止場でも、円司が契りを結んだモンスターの反応を見ていた。
城へ送るため港で休ませていた一体が、歌の方へ体を向けて震えている。
港の連絡役が尋ねた。
「城へ送れますか」
「今は送らない。自分の脚でこちらを向けるまで休ませる」
円司はモンスターの前へ座り、契りを結んだ提灯持ちが戻るのを待った。
沖割れの稀地では、波に削られた中央の洞窟へ続く岩門の前で、千景が三人の荷と帰り道を確かめた。
稀地の中央へ入る人間は、火燕、るい、千景の三人だけだった。
ホムラは火燕の足元にいた。歌へ耳を向けているが、自分で立っている。
火燕は凪渡りの腕輪、小刀、長い帰り道の巻物を確かめた。
るいは記録帳を油紙へ戻し、白墨と短い縄だけをすぐ取れる所へ移した。
「準備できました」
「入ろう。足場はわたしが先に見るから、火燕は輝夜を見失わないで」
岩門を越えた。
稀地の中央は、ほとんどが水に覆われていた。天井の裂け目から海水が落ち、手前の岩場と奥の水路を隔てている。槍を伸ばしても届かないほど深い水の向こうから、歌が聞こえた。
水路の奥で、大きな人影が起き上がった。
上半身は人の女に似ていたが、腰から下には長い魚の尾が続いている。人の三倍ほどある体は水と同じように透け、その内側を青白い光が流れていた。水底路で拾った光のうろこと同じ光だった。
セイレーンは深い水路から出ず、両腕を広げて歌った。その声だけで水面が持ち上がり、手前の岩場へ波が寄せる。泳いで近づこうとすれば、武器を届かせる前に流れへ呑まれる距離だった。
その手前の岩場で、人が立ち上がった。
上着は裂け、顔は痩せている。胸元には公認提灯持ちの組合札が下がっていた。セイレーンの体を光が走るたび、正宗の目にも同じ青白い光が灯った。
息をしていた。
「父さん!」
正宗の目が火燕へ向いた。けれど、名前を呼ばず、背から小盾を外して刃こぼれした剣を抜いた。
輝夜が正宗へ飛ぶ。
「正宗、わたしだよ。火燕と一緒に戻ってきたよ」
セイレーンが低く歌うと、正宗の目の光が強くなった。
正宗が岩場を蹴った。剣を持つ腕だけでなく、腰と肩まで一度に前へ出る。火燕は、父が護衛の仕事で使っていた切り札を覚えていた。
剛気一閃。
刃の腹が火燕の盾へ当たった。受けたはずの火燕は足を地面から持ち上げられ、岩場を十歩近く後ろへ飛ばされる。背中がるいへぶつかり、二人とも床へ倒れた。盾を持つ腕だけでなく、ぶつかったるいの肩にも衝撃が走る。
千景が次の一撃を槍で横へ流し、正宗と二人の間へ入った。
「生きてる。胸と頭には当てないで、まず武器を落とそう」
水路の左右から、歌に呼ばれたモンスターが一匹ずつ現れた。互いに襲い合わず、火燕たちへ向かってくる。
ホムラも走り出したが、途中でセイレーンの方へ向きを変えた。火燕との契りを通して、強い混乱が流れ込む。
「ホムラ、右の一匹だ。歌の方じゃない」
輝夜が右側の敵を照らす。
ホムラは一度足を止めた後、右のモンスターへ体当たりした。
正宗は千景の槍を避け、足元の小石を火燕へ蹴った。火燕が盾を下げた瞬間に踏み込み、剣の柄で肩を打つ。
火燕はよろめいた。父に教わった間合いだった。
るいが火燕の上着をつかんで引き、二撃目の前からどかした。
「今は話す前に武器を落とす。火燕、左へ!」
左の岩壁まで、敵のいない直線が空いている。火燕はるいの手を離し、父から習った足運びで一息に飛んだ。正宗の剣が追いつく前に岩壁へ盾を当て、向きを変える。
火燕はこの足運びを、正宗との稽古でも離脱に使っていた。いったん父の間合いを外れ、別の方向から入り直す。
「正宗、やめて! 火燕だよ!」
輝夜が正宗の顔の前へ回っても、正宗は左腕で光を払い、火燕へ剣を振った。
火燕は小盾で受けた。刃が盾の縁へ食い込み、腕が痺れる。
千景は左から来た一匹を細い岩場へ誘い、踏み込んできたところで喉の下へ槍を突き上げた。モンスターは水際へ倒れ、そのまま動かなくなった。右の一匹はホムラが岩壁へ押さえ込んでいる。
るいは正宗の腰を見た。
「右に杖。上着の中に巻物がある!」
正宗が杖へ手を伸ばす前に、るいが短い縄を手首へ投げた。火燕が盾で剣を受け、千景が槍の柄で正宗の膝裏を払う。正宗は片膝を付き、それでも盾で体を支えた。
火燕は正宗の頭や胸を避け、剣を持つ手と脚へ攻撃を集めた。千景の槍が剣を外へ流し、るいが縄を引く。正宗の剣が床へ落ち、正宗は岩場へ倒れた。
るいがすぐに数え始めた。
その間に千景とホムラは、右の一匹を細い岩場へ追い込んだ。千景の槍が胸の下へ入り、ホムラが横から体当たりする。モンスターは倒れ、動かなくなった。最初に現れた二匹は、どちらも起き上がらなかった。
「正宗!」
輝夜が近づこうとした時、セイレーンが両手を正宗へ向けた。青白い光が水路を越え、正宗の体へ流れ込む。
十を数える前に傷が塞がり、正宗は剣を拾って立ち上がった。その代わり、セイレーンの指先が薄くなり、水面を押す力も少し弱くなった。
「九で立った。傷も消えてる!」
るいは数えるのをやめ、縄を構え直した。
千景は水路の縁を槍の柄で探り、右の岩場を指した。
「左は底が届かない。右で正宗さんを止めよう!」
三人は右へ移った。
セイレーンが腕を振ると、水路から波が上がった。火燕は岩へ伏せ、るいは足元の綱をつかんだ。千景だけが片膝を水へ取られたが、るいの綱をつかんで岩場へ戻った。
歌の奥に、父が何かを呼んでいるように感じた。火燕は水路の方へ足を向け、小刀を下ろしかけた。
輝夜が目の前へ割り込み、額へ光を当てた。
「火燕、右を見て。正宗が来る!」
火燕が振り向くと、正宗の剣が目前まで迫っていた。小盾で受け、刃が止まったところへ小刀の柄を打ち込む。正宗は剣を引くと見せて柄頭を返し、火燕の肩を狙った。
父に何度も教えられた動きだった。火燕は半歩下がってかわした。
正宗は剣を振る前に、上着の内側から巻物を抜いた。火燕が近づけば剣で払い、離れれば巻物を開こうとする。コハクが巻物を持つ手を照らし、るいがそこへ短い縄を投げて手首へ絡めた。るいが縄を引くと、紙が水際へ落ち、千景が槍の柄の先で遠くへ払う。
火燕は正宗の剣を盾で受けた。押し返そうとした瞬間、正宗が急に力を抜く。前へつんのめった火燕の足を、正宗のかかとが払った。
倒れた火燕へ、刃の付いていない剣の背が振り下ろされる。
輝夜の光が正宗の目へ入った。剣が一瞬だけ止まり、千景が火燕の上着をつかんで引いた。
「正宗、聞こえる? 火燕と迎えに来たんだよ!」
正宗の目が輝夜を追いかけた。しかし奥から歌が重なると、また火燕へ剣を向けた。
「聞こえてはいる。でも、まだ体を止められないんだ」
輝夜は正宗の前に留まり、呼びかけを続けた。
火燕は立ち上がり、正宗の盾の外側へ回った。ホムラが正宗の上着の裾を踏み、千景が剣を槍の柄で受ける。火燕は小刀を返し、柄を脇腹へ当てた。るいが縄を正宗の盾へ絡めて引き、体の向きを崩す。
正宗は二歩下がり、再び倒れた。
るいはもう一度、呼吸を数えた。
セイレーンの歌が割れた。光の流れが正宗へ届いたものの、先ほどより細い。正宗は起き上がったが、頬の傷は残り、剣を持つ腕も震えている。セイレーンの巨大な姿は水へ溶け始め、尾の先が見えなくなっていた。
「今度は二十以上かかった。頬の傷も残ってる。さっきより回復が遅い!」
るいの声で、全員が正宗だけでなく、薄くなったセイレーンの姿も見た。
それでもセイレーンは正宗のそばから力を引かなかった。
水路の左右から、さらにモンスターが一匹ずつ上がってきた。コハクが左、輝夜が右を照らす。
「ホムラ、右を細い道へ押して!」
輝夜が細い通路を照らす。ホムラは頭を振り、右の一匹へ体当たりした。るいは正宗が落とした盾を拾い、通路の端へ立てる。ホムラに押された一匹は、狭くなった道から出られなくなった。
千景は左の一匹へ槍を向け、水際から離れないよう進路を塞いだ。
相手が波を避けて止まった時、千景は槍で水路側へ押し戻し、火燕のそばへ戻った。左の一匹は水際から上がれず、右の一匹はホムラが細道で押さえている。
「次で止めよう。長く続けば、こっちが先に水へ落とされる」
「三度目に起き上がれなければ、輝夜が正宗さんへ近づける。火燕はその時まで正面を空けて」
るいが、ここまでに見た変化から次の動きを伝えた。
正宗は呼吸を乱しながらも、剣先で火燕を誘った。踏み込んだ相手の盾を外へ流し、空いた肩を打つ。火燕が幼い頃から直され続けた手順だった。
火燕は最初の一歩だけ同じように踏み込み、剣が盾へ触れる前に身を沈めた。正宗の腕の下へ入り、小盾を肘へ押し当てる。
正宗は剣を離さず、膝で火燕を押し返した。二人とも岩場へ転がる。
歌が近づき、火燕には、正宗をここへ置いて自分だけ水路の奥へ行けばいいように思えた。
輝夜が火燕の肩を両手でつかんだ。
「火燕。正宗は目の前にいるよ。今は父さんを止めて」
火燕は正宗の剣が動く音を聞いた。身を起こし、盾で剣を横へそらす。
千景の槍が正宗の足元を払った。るいが縄を剣の腕へ掛け、横へ引く。正宗がるいの方へ向いた隙に、輝夜が正宗の胸と、その後ろの岩壁を一本の光で結んだ。
火燕は小刀を鞘へ戻し、両手で盾を持った。光の線に沿って火燕一閃で飛び込み、盾の面を正宗の胸へ当てる。正宗の体が岩壁へ押し付けられ、剣を持つ腕から力が抜けた。
正宗は一度だけ火燕の名を呼ぶように口を動かし、力を失った。
三度目に正宗が倒れると、セイレーンも水路へ沈みかけた。
それでも両手を伸ばし、残った光を正宗へ送ろうとする。光は水面を越えず、何度も途切れた。正宗の指は動かなかった。
歌のない間に、輝夜が正宗の前へ降りた。両手で頬に触れ、顔全体を照らす。
るいと千景は正宗の左右に立ち、細道と水際のモンスターが近づかないよう周囲を見た。今は輝夜の声を遮らなかった。
「正宗、わたしだよ。火燕と一緒に来たよ。もう戦わなくていい」
正宗の目が開いた。
「……輝夜」
次に、すぐそばで膝を付いている火燕を見た。
「火燕」
セイレーンの歌が、かすかに戻った。正宗の右腕が剣へ伸びかける。
正宗は左手で右の手首をつかんだ。
「やめろ」
誰に向けた言葉か、火燕にはすぐ分かった。
正宗の目から青白い光が消え、輝夜の紫の光だけが残った。
奥で、セイレーンの巨大な姿が崩れた。全身が細かな光へほどけ、深い水路の上へ集まっていく。
光が消えた後、そこにいたのは、輝夜と同じくらいの背丈になった小さな人魚だった。長い髪も尾も半透明で、胸の前へ両腕を抱えたまま水面に浮いている。
小さくなったセイレーンは歌わなかった。正宗のそばまで流れ着くと、岩場へ腕を掛け、その場から離れなかった。
正宗も前へ倒れた。火燕が受け止め、輝夜が顔を照らした。
歌が消えた。
歌が切れると、細道にいた一匹は盾を避けて岩門の外へ走った。水際の一匹も水へ飛び込み、外側の水路へ逃げていく。ホムラは追わず、火燕のそばへ戻った。
千景は槍を構えたまま、小さくなったセイレーンの様子を確かめた。
「生きてる。けれど、さっきまでの力は残ってないみたいだね」
輝夜とコハクが岩門の内側を左右に照らした。倒した二匹以外に敵は残っていない。
火燕と千景は正宗を両側から支え、来た岩門を戻った。るいは先に進み、逃げた二匹が側道へ戻っていないことを確かめる。小さなセイレーンは正宗から離れず、歌を使わずに後を追った。
一行は、支柱と横木で補強した側道を一人ずつ通った。正宗を運ぶ時だけ横木を外し、火燕と千景が前後から体を支える。全員が通り終えると、るいが横木を元へ戻した。
入口側にあった白い石段は、最深部へ到達した一行が戻ると淡く光っていた。小灯道で使ったものと同じ、うたばの奥から入口近くへ戻す帰還口だった。
るい、火燕と正宗、千景、ホムラ、二体の提灯精霊、小さなセイレーンの順に、全員が石段を上った。
帰還口の外では、舟を守っていた二人の船頭が担架を広げた。正宗を寝かせ、一人が呼吸を確かめる。もう一人は無響繭布を持ち、小さなセイレーンが再び歌わないか見張った。
ここで初めて、るいは火燕の腕を取った。
「指を開いて。次は握って」
火燕が両方できることを確かめると、るいは青く腫れた肩へ布を巻いた。るいの手にも擦り傷があり、今度は火燕が細い布を巻く。千景は水へ取られた膝を曲げ伸ばしし、自分で舟へ乗れることを確かめた。
輝夜は正宗の顔を照らし続けた。呼吸は浅いが、途切れてはいない。小さなセイレーンは担架へ近づきすぎない場所で止まり、正宗から目を離さなかった。
灯寄城では、壁へ向かっていたモンスターの群れが足を止めた。
一部は互いに争い始め、一部はうたばの入口へ戻っていく。
見張りの村人が門を開けようとした時、澄が止めた。
「まだ開けるな。歌が止まっても、外のモンスターが安全になったわけじゃない。群れが離れるまで待ちな」
汐継港では、震えていたモンスターがゆっくり円司の方へ顔を向けた。
円司は水の器を前へ出した。
「自分で飲めるなら、次にどうするか聞こう」
黒い岩場の空は明るくなり始めていた。担架と全員を二隻の舟へ分け、船頭が帰りの綱を外す。
舟が港へ向かっても、沖から歌は聞こえなかった。
## 終章 歌のない夜
遠征隊が汐継港へ戻ると、円司と港の人々が波止場で待っていた。
港の治療係が正宗の呼吸と、手首で打つ脈を確かめ、濡れた服を切り開いた。全身に傷があり、ひどく疲れていたが、呼吸は続いている。
火燕は担架の横に座った。輝夜は正宗の胸の上を照らし、弱い呼吸に合わせて上下している。
るいは火燕の隣に座り、治療が終わるまで記録帳を開かなかった。コハクは治療する人の手元を照らした。円司から正宗が倒れた時刻を尋ねられて、初めて最後のページを開いた。
小さなセイレーンは波止場の水際に留まり、人が近づけば正宗の方へ寄ろうとしたが、歌は出さなかった。そのため円司は海水を張った囲いを用意させ、正宗とは離して見張るよう港の人へ頼んだ。
「今は正宗の治療が先だ。セイレーンが歌おうとしたら、無響繭布をかぶせて知らせてくれ」
千景は港の連絡所へ、正宗を助けたこと、小さくなったセイレーンが生きていること、歌が止まった後も沖割れにモンスターが残っていることを報告した。
「浅い所から安全を確かめてください。セイレーンはこちらで見張りますが、沖割れの見張りも続けてください」
千景は同じ便で、灯寄村へも知らせを送った。正宗を助けたことと、小さなセイレーンを水へ入れたまま見張る場所が必要なことを書いた。
汐継港と灯寄村の間は、川船でどちらへ進んでも二日かかる。
二日後、灯寄村から別の川船で知らせが届いた。歌が止まった直後に澄が出した便で、途中の船着き場では千景の便とすれ違っていた。
歌が止まると、城へ向かっていた群れも散ったため、灯寄城は残り、その後に新しい怪我人も出なかった。
千景の便も同じ日に灯寄村へ着き、澄は水門の外にある川船用の浅い池の一角を木の囲いで分けさせた。港から運ぶ海水を入れれば、小さくなったセイレーンが身を沈められる。
正宗を舟で運べる状態になると、火燕たちは灯寄村へ向かう。川を上る二日の間、小さなセイレーンは海水を張った折り舟に乗り、千景と港の船頭二人が見張った。正宗の舟が進むたび、自分の乗った舟の縁からそちらを見続けていた。
澄は南門で迎えた。正宗を載せた担架を見て、すぐに道を空けるよう村人へ声をかけた。
「正宗さんは治療の部屋へ運んでおくれ。セイレーンは水門の外の池へ。千景と円司のどちらかが付いて、村の人は近づけないようにしな」
火燕は塩で白くなった上着を脱ぎ、父のそばで眠った。
正宗が目を開けたのは、灯寄村へ戻って三日目の昼だった。
最初に輝夜の光を見て、次に椅子で眠っていた火燕を見た。
「輝夜」
輝夜が枕元へ降りた。
「正宗、起きたんだね」
火燕も目を覚ました。
「父さん」
正宗は起き上がろうとして、治療係に肩を押さえられた。
「ここは灯寄村か」
「うん。沖割れから連れて帰った」
正宗は両手を寝床の上で開き、ゆっくり握り直した。今度は、自分が動かそうとした通りに指が動いた。
「どこまで覚えてる?」
「輝夜を外へ押し出して、側道を崩した。薬がなくなって、水際で動けなくなった。その後は歌が近すぎて、自分が歩いているのか、動かされているのかも分からなかった。水や食べ物を口にしたことは途切れ途切れに覚えてる」
正宗は右手を見た。
「お前たちが来た時も見えていた。止まろうとはしたんだが、腕が言うことを聞かなかった」
火燕の肩には、剣を受けた青い痕が残っていた。
正宗はそれを見て、眉を下げた。
「悪かった」
「父さんは、盾を持っていた方の肩を狙った。わたしを殺すつもりはなかったんだと思う」
「そこまで分かったのか」
「父さんに教わったから」
「最後の火燕一閃も見えていた。あの距離から、刃を納めて盾で飛び込むようには教えてないぞ」
「小刀のままでは父さんを切っていました。るいと千景さんが腕と脚を止めて、輝夜が進む線を照らしてくれたからできたんです」
正宗は火燕の肩の痕から、枕元の輝夜へ目を移した。
「そうか。俺の技をまねるだけで終わらなかったんだな」
正宗はしばらく火燕を見た後、目を閉じて息を吐いた。
輝夜は正宗の枕元を二度回り、それから火燕の肩の高さへ戻った。
治療係が正宗へ薄いおかゆを食べさせ、その日はまた休ませた。
翌日、円司は正宗が起きている時間に合わせて部屋へ来た。火燕と輝夜も残り、沖割れで何が起きたかを、正宗が覚えている範囲と照らし合わせた。
「あれは契りじゃない」
円司は正宗へ確かめた。
「セイレーンと一緒にいることを、自分で選んだ覚えはあるか」
「ない。輝夜を逃がした後、歌が頭の中へ入ってきた。嫌だと思っても、体が水路の方へ動いた」
「契りなら、どちらにも断る機会がある。正宗にはそれがなかった。記録では、取り込みと呼ぶ」
円司は紙へ名前を書いた。戦っている間、セイレーンが光を送るたびに正宗の傷が塞がったことも説明した。
「それで五か月近く生きていられたのかもしれない。ただ、今は手足が自分の考え通りに動くか、毎日確かめる。セイレーンには一人で近づくな」
正宗は自分の手を開いて閉じ、うなずいた。
夕方、正宗が目を覚ますと、部屋には火燕と輝夜だけが残っていた。
「お前、灯寄村まで一人で来たのか」
「輝夜が帰ってきて、村長に聞けと言ったから。途中までは行商人の荷車に乗せてもらいました」
「それから沖割れまで来たのか」
火燕は、灯寄村へ着いた日から順に話した。小灯道で初めて一人で戻る場所を決めたこと。るいと石抱き坑へ入り、二人で村へ帰ったこと。円司に教わってホムラと契りを結んだこと。千景の舟で水底路を調べたこと。城を作り、夜の襲撃をしのいだこと。
正宗は途中で何度も聞き返した。
「持たせた金は、途中で足りなくなっただろう」
「灯寄村へ着いた時には、宿と食事でほとんどなくなりました。小灯道から草と鉄を持ち帰って、それを売ってからは、自分の分は自分で払いました」
「城を作ったって、あの広場にか」
「うん。倉庫と家を守れるように、村のみんなで作った」
「水底路にも入ったのか。千景は何て言ってた」
「水の中で勝手に動いたら、すぐに戻すって言われました」
「それなら、ちゃんと叱られたな」
正宗が少し笑ったので、火燕もようやく息を抜いた。
だが、沖割れの側道で血の付いた縄を見つけたところまで話すと、火燕の声は止まった。
「あそこに父さんの体がなかった時、安心していいのか、もっと怖がった方がいいのか分かりませんでした。父さんが死んでいるかもしれないと思ったし、生きているなら、どうして帰ってこないんだって腹も立ちました」
正宗は黙って聞いていた。
「帰ってこないと決まったわけじゃないって、何度も輝夜に言いました。でも、本当は、わたしがそう思いたかっただけです」
「待たせたな」
「五か月近くは長いです」
「ああ。調べ終わってからまとめて知らせればいいと思っていた。沖割れへ入る前に、行き先と戻る日だけでも送るべきだった」
正宗は寝床の上で頭を下げようとした。火燕はその肩を支え、まだ動かないよう押し戻した。
「次に遠くへ行く時は、先に教えてください。一人で決めないで、一緒に潜る人とも相談して」
「分かった。千景にも同じことを言われそうだ」
「わたしからも言います」
「二人分か。参ったな」
火燕は父の手を握った。温かく、今度は正宗の方から握り返してきた。
正宗が歩けるようになるまで、さらに十日かかった。
その間に澄は、火燕、るい、千景、円司から別々に報告を聞いた。正宗が残した地図と道具、稀地の中央での様子、小さくなったセイレーンを連れ帰るまでに起きたことを、見た者ごとに分けて記録した。
正宗自身からは、輝夜と別れるまでの行動と、取り込まれている間に覚えていることだけを聞いた。
るいは自分の報告が終わると、旅の間に書いた記録帳を持って正宗の部屋を訪ねた。
「あしかりるいです。石抱き坑から、火燕と一緒に潜っています」
「火燕から聞いた。こいつを何度も連れ帰ってくれたそうだな」
「あたしが戻された日もあります。ここに、二人で引き返した場所と時間を書いてあります」
正宗は記録帳をゆっくりめくった。深さやモンスターの数だけでなく、食べたパンの数、残った巻物、火燕が歌に反応した時刻まで並んでいる。
「途中から字が急に減ってるな」
「人を運ぶ時に、記録帳を閉じたからです。あとで火燕と、覚えていることを合わせて書きました」
「そうか。それならいい」
るいは褒められると思っていなかったらしく、一度だけ火燕の顔を見た。それから正宗へ、沖割れで回復にかかった時間をどう数えたか説明した。
正宗は記録帳を閉じ、るいへ返した。
「よくここまで来たな。無茶をした所もあるが、るいや千景の話を聞いて戻った日も、ちゃんと書いてある。そこは安心した」
「るいに戻された日もあります」
「火燕に戻された日もあります」
るいがすぐに付け加えると、正宗は二人を見比べて笑った。
千景が見舞いに来たのは、その翌日だった。
「三組も捜しに入れてくれたそうだな」
「三組とも途中で戻したよ。助けに入った人まで帰れなくなったら困るからね。四組目を決める前に、火燕たちが来た」
「迷惑をかけた」
「本当にそう思うなら、次に水へ入る時は先に知らせて。正宗さん、陸の調査と同じつもりで一人で沖へ出るんだから」
「もうしない」
「火燕の前で言ったね。覚えておくよ」
二人が笑った後、千景は顔を伏せた。
「見つかって、よかった」
「ああ。捜してくれてありがとう」
報告が続いた日の晩には、円司が火燕とるいの前へ、湯気の立つ鍋を置いた。
「今日はもう書くな。食え」
「円司さんの報告は終わったんですか」
「終わった。お前たちの分まで芋を入れてある」
るいが鍋の中をのぞいた。
「これ、四人分くらいありません?」
「正宗も起きたら食う。余ったら俺が食う」
三人が食べ始めると、円司はホムラの器にも、冷ましておいた芋を一つ入れた。
円司は正宗の手足が本人の意思どおり動くか確かめ、水門の外の池にいるセイレーンの光も毎日記録した。
「三日見たが、正宗の手足は本人が動かした通りに動いてる。池でセイレーンが光っても、勝手に立ち上がることはなかった」
「また同じことが起きますか」
「今すぐ体を動かされる様子はない。ただ、セイレーンがまた歌えば何が起きるか分からない。しばらく一人では近づくな」
正宗は円司の指示に従い、村で休んだ。
四日目、正宗は円司と千景の立ち会いで、水門の外の池へ行った。
セイレーンは正宗を見ると、水面から浮かび上がった。
正宗が片手を上げる。
「そこにいろ。まだ近づくな」
セイレーンは水際で止まった。
喉の奥で声を出しかけた時には、正宗が続けた。
「歌も、今はやめてくれ」
セイレーンは口を閉じた。正宗が池を離れても追わず、水際から見送った。
輪守の里では、契りを結んだモンスターの意思を一体ずつ確かめた。
契りを終えて輪守の柵で囲った草地へ移るモンスターもいれば、灯寄城に残るモンスターも、提灯持ちが潜る時だけ一緒に行くモンスターもいた。
ホムラは、壺土の穴の群れと何度か行き来した後、灯寄村の門へ戻ってきた。日中は相変わらず石段で眠り、夜になると門の外の匂いを嗅いだ。
汐継港では、水底路と沖割れに歌で集められていたモンスターがまだ残っていたため、千景が浅瀬回廊から調査を再開した。安全になった場所から船と人を通し、航路を少しずつ戻していった。
正宗の体力が戻ると、火燕と正宗は一度故郷へ帰った。正宗はセイレーンへ、数日で戻るから水門の外の池で待つよう伝えた。セイレーンは歌わず、二人の舟が見えなくなるまで水際に留まった。
二人で母の墓を掃除し、正宗が戻れなかった間に世話をしてくれた隣家の夫婦へ礼を言った。
その夜は、久しぶりに自分たちの家で眠った。正宗がいなくなってから火燕が一人で使っていた木の器も、出発前に畳んだままの寝具も、そのまま残っていた。
夕食の後、正宗は家の中を見回した。
「火燕。この家へ戻りたいか」
火燕はすぐには答えなかった。
「父さんは、どうするつもりですか」
「当分は灯寄村を離れられない。セイレーンの様子を見なきゃならんし、組合への報告も残ってる。だが、お前まで付き合わせる話じゃない」
「灯寄村で暮らしたいです」
正宗が火燕を見た。
「最初は、父さんを捜すために行きました。でも今は、澄さんから任されている仕事があります。城の修理も残っています。ホムラも村へ戻ってきます。それに、るいと、十六歳になったら一緒に試験を受けようと話しています」
「るいと一緒に、か」
「そこだけ繰り返さないでください」
正宗は笑い、棚から母が使っていた小さな裁縫箱を下ろした。
「分かった。これからは灯寄村で暮らそう。この家は手放さずに、墓参りの時に戻れるようにしておく」
翌日、二人は家に残っていた道具と銀貨を整理した。隣家の夫婦には家の鍵を一本預け、屋根や戸に傷みがないか時々見てもらうことにした。火燕は服と母の裁縫箱を、正宗は仕事道具と古い記録を荷へ詰めた。
持ちきれない物は残し、必要な物から灯寄村へ運んだ。
灯寄村へ戻った朝、火燕は澄の仕事場へ呼ばれた。
机の上に、組合の書類が置かれている。
「組合から、特例で登録できないかという問い合わせが来たよ」
火燕は書類を見た。
「十六歳からという決まりは変わったんですか」
「決まりは変わっていないけど、功績を理由に、村から推薦することはできるよ」
「それなら、今回は特例を使いません」
澄は理由を尋ねた。
「今回は、千景さんや円司さんに教えてもらったことも多かったです。特例にしてもらうより、十六歳になったら普通に試験を受けたいです」
「分かった。それまでは野良として仕事を頼む。ただし、どれだけ危ない仕事を任せるかは、これまでの記録を見て決める。セイレーンを退けたからって、何にでも行かせる気はないよ」
「お願いします」
澄はもう一枚、提灯精霊の相棒を記す紙を出した。
「輝夜は、今は誰と一緒にうたばへ入るつもりだい。提灯精霊の相棒は、人が勝手に決めて書くものじゃないからね」
「火燕と行くよ。正宗にも会いに行くけど、道を照らす相棒は火燕」
澄が火燕の名の横へ輝夜と書くと、正宗もその紙を見て、異を唱えなかった。
仕事場を出ると、正宗が鍛冶場の前で自分の道具を点検していた。輝夜は嬉しそうに正宗の周りを飛んだ。
るいは南門の詰め所で、二人分の新しい記録帳を用意して待っていた。
「次の仕事から、帰る時刻は同じ紙にも書こうと思って。片方の記録帳を落としても、もう片方に残るから」
「いいと思う。今日、試してみよう」
正宗が鍛冶場から顔を上げた。
「二人で潜るのか」
「今日は小灯道までで、帰る時刻も澄さんに伝えてあります」
るいが先に答えると、正宗は火燕を見た。
「聞いてるよ。遅れたら、あたしが連れて帰ります」
「るい、自分が遅れることもあるだろう」
「その時は火燕に連れて帰ってもらう」
正宗は二人の顔を見比べてから、道具の点検へ戻った。
火燕が南門へ歩き始めると、輝夜は正宗の顔を一度照らし、火燕の肩の横へ戻った。
正宗は輝夜へ手を上げた。
「輝夜、火燕を頼む」
「うん。またあとでね、正宗」
輝夜は火燕の前を照らした。
## 後日譚 初めての契り
それから半月ほど、セイレーンは水門の外の池で暮らした。
正宗が来ない日は水底で尾を丸めていた。正宗が来ると水面へ出たが、止まるよう言われた場所を越えなかった。歌わないよう頼まれてからは、一度も歌っていない。
正宗には、離れていてもセイレーンが目を覚ました時だけ分かった。胸の奥へ、冷たい水に指を入れたような感覚が伝わる。体は自分の意思で動くように戻っていたが、沖割れでつながれた時の感覚が一部残っていた。
ある朝、正宗は澄、円司、千景、火燕、るいを水門の外の池へ呼んだ。
「契り標を使って、こいつの話を聞きたい。今日は契りを結ばない。聞いたあと、池から離れて考える」
澄はすぐには許さなかった。
「正宗さんは、また取り込まれないと言い切れるのかい」
「言い切れない。だから円司に立ち会ってもらう。千景には水路を閉じられる位置にいてもらう。少しでも歌で誰かを動かそうとしたら、そこでやめる」
澄は池の周りを立入禁止にし、城の門へ交代の人員を残した。千景は水門を半分閉じ、セイレーンが川へ出ないよう綱を渡した。
るいは契り標から離れた場所に座り、始める時刻と、正宗が口にした中止の条件を書いた。水門を閉める合図が出た時は、すぐに記録帳を置いて綱を引ける位置だった。
円司は輪守の土で作った契り標を、水際へ置いた。
「話を聞くだけでも、どちらかが手を離せば終わりだ。輝夜はすぐにつながりを切れ」
「分かった」
輝夜が標の前へ進んだ。長い髪と冠を持つ、人の少女に近い姿で二人を見た。正宗と別れた頃より、体も光も大きく育っていた。
「正宗、聞こえたことは戻ってからみんなに伝えるね」
正宗は契り標へ手を置いた。セイレーンも水際まで来て、片手を光へ重ねた。
岩と水の音が遠のいた。
正宗と輝夜の前に、沖割れの深い水が広がった。
初めは、セイレーン一体しかいなかった。
遠くにモンスターの気配が現れ、小さな水の精霊らしい光が寄ってくることもあった。けれど、どの相手も大きなセイレーンの歌に触れると逃げていった。歌に動かされず、自分の意思でそばに残る相手は一体もいなかった。
セイレーンが歌を強めると、水や岩の向こうから何体ものモンスターが集まってきた。集まった後はどれも同じ向きに並び、歌が変わるまで動かなかった。セイレーンが近づいても、逃げることも、自分から触れることもなかった。
歌を弱めれば、モンスターは互いに争いながら散っていった。
同じことを繰り返すうち、力が強まり、歌の届く距離も延びていく。周りへ集まる数だけは増えたものの、自分から残る相手はいない。セイレーンは、ほかのものへ呼びかける方法を歌のほかに知らなかった。
輝夜には、深い水の中で長く一体きりだった寂しさも伝わった。命令どおりに並ぶ群れへ触れても、何の反応も返らない。セイレーンは、自分を見て、自分からまた戻ってくる相手を待っていた。
そこへ正宗が来た。
正宗は歌に引かれながらも壁へ時刻を書き、水の流れを測り、セイレーンが歌うたびにモンスターがどう動くかを見ていた。セイレーンが何をしているのか、逃げずに確かめようとしていた。
正宗が側道を崩し、輝夜を逃がした後も、セイレーンは水と食べ物を運び、傷へ光を送った。正宗が回復して出口へ向かうたび、歌を強くして引き戻した。
正宗がいなくなれば、また一人になる。その怖さが、冷たい水の中で体を縮める感覚として伝わってきた。
セイレーンには、正宗が自分から残っているのか、歌に縛られて残っているのか、その違いが分かっていなかった。ただ、目の前からいなくならなければ、それでいいと思っていた。
正宗の側からは、自分の腕で火燕へ剣を向けた時の感覚が返った。止まりたいのに指が動き、火燕の肩を打った。輝夜の声が聞こえても、歌が体を立たせた。
セイレーンの小さな体が縮こまった。
「一人だったことは分かった。だが、俺の体を使っていい理由にはならない」
セイレーンへ、火燕の傷と、灯寄城へ押し寄せた群れの姿が返っていく。
「俺と一緒にいたいのか」
沖割れの水路が見えた。あそこを住み場所として残してほしい。正宗と時々、沖割れの外も見たい。長く離れる時は、いつ頃戻るのか知らせてほしい。その思いが、途切れながら伝わった。
正宗はしばらく答えなかった。
「分かった。今日はここまでだ。お前から離れた場所で考える」
正宗が先に光から手を離した。セイレーンは追いすがろうとせず、少し遅れて自分の手を下ろした。
池の音が戻った。
るいは正宗と輝夜から聞いたことを記録した。セイレーンの寂しさと、正宗が受けた支配を分けて書き、二人がその場で契りを結ばなかったことも記した。
それから四日間、正宗は池へ近づかなかった。
セイレーンは境の綱を越えず、一度も歌わなかった。正宗には、セイレーンが目を覚ました時と水底で眠った時だけ、胸の奥の冷たさで分かった。池へ戻りたいという考えは起こらず、手足も自分が動かそうとした時だけ動いた。
毎朝、澄は正宗に、体が勝手に動かなかったかを尋ねた。円司は火燕と輝夜に話を聞き、正宗が呼びかけにいつも通り応じていたかを確かめた。池を見張る千景も、正宗がいない間にセイレーンがどう過ごしたかを記録に残した。
四日目、澄は円司と千景を交え、セイレーンを外へ出す時の決まりを作った。灯寄村だけで決めず、輪守の里、汐継港、組合へ使者を出し、返事がそろうまで契り標は使わなかった。
八日後、同じ池に全員が集まった。
澄は三つの土地と組合が確かめた決まりを、正宗とセイレーンの前で一つずつ読んだ。
「沖割れから外へ出る時は、先に行き先と戻る日を届けること。正宗さんか、今回のことを知る付き添いが必ず一緒に行くこと」
正宗がうなずいた。セイレーンも水面から離れずに聞いていた。
「村、里、港では歌わない。うたばで使えるのは、傷を治す声、仲間を助ける声、それから一つの階で一体だけへ呼びかける短い声だ。正宗さんが止めたら、すぐにやめる」
「分かった」
「外へ出た日と、歌を使った回数は三つの土地と組合へ報告する。誰かの体を勝手に動かしたり、決まりを破って群れを呼んだりしたら、その場で外出を止める。池へ戻してから、契りを続けていいかもう一度調べるよ」
正宗はセイレーンを見た。
「俺が約束の日に戻れなくても、群れを寄こすな。千景か組合へ知らせろ。守れるか」
セイレーンは歌わず、契り標へ手を伸ばした。
円司はまだ標を光らせなかった。
「手を置くのは、今の決まりを受け入れるならだ。正宗も同じだ。途中で嫌になったら離せ」
正宗とセイレーンが標へ触れると、輝夜が二人の間へ光を通した。
セイレーンからは、四日間、正宗を呼ばずに待った水底の景色が伝わった。続いて、沖割れを住み場所として残したいこと、正宗と外を見たいことが、前よりはっきり届いた。
正宗からは、火燕へ剣を向けた記憶と、それでもセイレーンのそばで止め方を教えると決めた気持ちが返った。
「二度と、人やモンスターの体を勝手に動かすな。嫌だと言われたら止まれ。俺も、守れないことは約束しない」
セイレーンは手を離さなかった。正宗も、自分でうなずいてから手を残した。
輝夜は二人の返事を円司へ伝えた。
「二人とも、今の決まりを守って一緒に行くって答えたよ」
円司は標の光を確かめた。
「成立した。今日からセイレーンは、正宗と契りを結んだモンスターだ」
小さなセイレーンは正宗を見上げていた。正宗が手を差し出すと、今度は歌を使わず、自分からその手へ触れた。
契りが成立しても、輝夜が火燕の相棒になった事実は変わらない。澄は正宗へ、単独でうたばの仕事を受けることを禁じた。セイレーンは契りモンスターであって、暗い道と帰り道を照らす提灯精霊の代わりにはならないからだ。
「仕事へ入る時は、提灯精霊と相棒がいる組に同行してもらう。まずは組合の立ち会いで、セイレーンと一緒に動けるか確かめるよ」
「それでいい」
さらに十日後、澄は水底路の十二階までで、正宗とセイレーンの同行試験を行うことにした。これは村の仕事ではなく、組合が立ち会う試験だった。正宗は試験を受ける者、千景は水場を判断する試験役、火燕と輝夜は道を照らす同行者として入る。いつもの仕事なら火燕と組むるいは、この日だけ円司と入口に残る。
水場を判断する千景、正宗、火燕の三人が中へ入る。セイレーンと輝夜、ホムラも同行した。るいとコハクは円司と入口に残り、出発時刻と、戻れなかった時に人を呼ぶ時刻を記録した。
十二階で、ホムラが水の中で暮らすモンスターの爪を受けた。セイレーンが低く短い声を出すと、傷から流れる血が止まり、ホムラは自分で立ち上がった。歌を聞いた火燕と千景も、重くなっていた腕を動かしやすくなった。
次の部屋には、敵対するモンスターが三体いた。
正宗がうなずくと、セイレーンは以前の命令する歌とは違う、短い呼び声を響かせた。三体のうち、どの一体が応じるかは正宗にも分からない。右端の一体だけが声を返し、自分から残りの二体へ向き直った。目には、正宗を動かしていた青白い光は浮かんでいなかった。
その一体が一緒にいる間、セイレーンはほかの敵へ同じ声を使わなかった。
応じた一体が正面を受け持ち、火燕とホムラが左右から残る二体を止めた。千景は一匹の後ろ脚へ縄を掛け、正宗が剣で動きを止める。もう一匹は火燕とホムラが倒した。二体が動かなくなったことと、部屋に次の敵がいないことを確かめてから、階段へ向かった。
階段へ着くと、セイレーンは歌を止めた。呼ばれていたモンスターは足を止め、来た通路へ戻っていった。火燕たちは追わず、その階に残した。
入口へ戻ると、円司が三人とセイレーンの状態を確かめ、るいは決めた時刻までに全員が戻ったことを記録した。その報告を受けた澄は、正宗とセイレーンを、単独では仕事を受けられない一組の同行仲間として記録へ加えた。さらに、傷を治した回数、仲間を助けた回数、その階だけ歌に応じたモンスターの数は、ほかの報告と分けて残した。
正宗が休む日は、セイレーンも沖割れから出ない。セイレーンが水へ戻りたい時は、正宗も追わせなかった。
ある朝、火燕は店で食料と長い帰り道の巻物を買い、倉庫へ不要な荷を預けた。鍛冶場で小刀を点検し、南門の詰め所で名前と戻る予定の時刻を伝える。
るいも隣で自分の名前を書き、二人が戻る予定の時刻が同じになっていることを確かめた。コハクが、るいの肩の横で小さく光を強めた。
「パンは二人で四つ。長い帰り道の巻物は、火燕とあたしが一つずつ。どっちかが戻ろうと言ったら、一緒に戻る」
「石抱き坑の時から変わってないね」
「書かなくても覚えてるけど、詰め所の人にも分かるようにしてるの」
門のそばでは、ホムラが石段から起き上がり、火燕の後ろへ付いた。
小灯道の入口を越えると、前にあった分かれ道は消え、知らない部屋が口を開けていた。
火燕は新しい道の足元を確かめた。
コハクがるいの袖を光で引き、右の壁を照らした。壁の向こうから、小さく石をこする音がする。
「右にも道がありそう。先に広い方を見て、戻る時に確かめよう」
るいは右の壁へ印を付け、火燕の隣で通路の奥を見た。
「輝夜、灯りを頼む」
「うん。火燕は帰りの印を頼むね」
輝夜とコハクが、二人の先を照らした。




