うたかたのまほろば ―誘い歌のセイレーン―
## 序章 帰ってきた灯り
むかしむかし、とある村には、**提灯持ち**と呼ばれる者たちがおったそうな。
提灯持ちの仕事は、各地に口を開ける、不思議な不思議な場所へ入ること。
その場所は、**うたかたのまほろば**と呼ばれておった。
名前が長いため、人々は普段、短く「うたば」と呼んだ。
うたばにはモンスターがすみつき、入るたびに道も部屋も姿を変えてしまう。
昨日あった道が今日はなく、昨日なかった部屋が、今日はぽっかり口を開けている。
けれど、恐ろしいものばかりではない。
その中には、草や食べ物、武器や道具、地上ではなかなか手に入らない珍しい品も眠っておった。
しかも、恵みは一度持ち帰れば終わりではない。次に入ると、また別の品が現れていることもあった。
提灯持ちは、そうして得たうたばの恵みを持ち帰り、村で暮らす人々へ届ける、大切なお役目を担っておったのじゃ。
どれほど珍しい品を見つけても、無事に外へ帰れなければ村の人へは渡せない。うたばへ入り、恵みを持ち帰り、自分も無事に戻る。そこまで果たして、ようやく一つの仕事が終わるのじゃ。
提灯持ちを暗がりで助けるのが、提灯精霊である。人のそばを飛び、両手を塞がずに道を照らしてくれる、小さな光の精霊じゃ。
うたばは、一つの村にだけあるのではなかった。
世界のあちこちに口を開け、人間にもモンスターにも、危険と恵みを与えている。
さて、これは、そんな提灯持ちが暮らす世界で起きた、ある親子の話。
ある夜、火燕は台所の机で、残りの銀貨を三度数えた。
数えるたびに増えてくれればよかったが、もちろんそんなことはなかった。
残った金で食べ物を買えるのは、あと十日ほどだった。父の正宗が置いていった金は、先月のうちにほとんど使っていた。
家まで失う心配はなかった。父と母が買った家だったからだ。けれど、食べ物や薪を買うには金が要る。
正宗は、組合の試験に合格し、正式に仕事を任される公認の提灯持ちだった。組合から、各地で起きている妙な出来事を調べるよう頼まれ、二か月ほど前に家を出た。
長い仕事になることはあった。けれど、正宗は途中の町から短い手紙を送ってきたし、送金が遅れる時も前もって知らせた。
今回は、どちらもなかった。
数日前には、組合から使いが来ていた。正宗が帰る予定の日を過ぎても戻らず、現地で捜しているという。ただし、どこで行方が分からなくなったのかも、怪我をしているのかも書かれていない。
火燕は銀貨を小袋へ戻す。棚に並ぶ木の器は二人分。母が病気で亡くなったのは、火燕が六歳の時だった。兄弟はおらず、それからは父と二人で暮らしてきた。
父が仕事で家を空ける時は、隣家の夫婦が時々様子を見に来た。けれど、炊事も洗濯も、今では火燕が自分でできる。十五歳になってまで、毎日の食事を誰かに用意してもらうわけにはいかなかった。
鍋の底に残った麦がゆを器へ移した時、戸を引っかく音がした。
風ではなかった。三度、間を置いて繰り返された。
火燕は器を置き、戸口へ寄った。
「誰ですか」
返事はない。
戸を押さえていた横木を外すと、冷たい夜の空気と一緒に、小さな光が転がり込んできた。
「輝夜」
火燕は膝をついた。
正宗の相棒である提灯精霊が、床の上で光を強めたり弱めたりしていた。普段の輝夜は、みかんほどの光の核を薄紫の火と細い帯で包んで飛ぶ。まだ顔も手足も持たない、幼い提灯精霊だった。今は核がくるみほどに縮み、周りの帯も片側が黒く欠けている。
火燕は両手で囲うようにして輝夜を持ち上げた。熱くはない。むしろ、冬の石のように冷たかった。
「父さんは」
輝夜が震えた。
「マサムネ……カエラナイ」
火燕は息を止めた。父に何が起きたのか、輝夜が話せるうちに確かめたかった。
「輝夜は、父さんと一緒にいたのか」
「イタ。ウタ。ミズ。イワ、クズレタ」
「父さんが怪我をしたのか」
「ミテナイ。ハナレタ。マサムネ、カエラナイ」
火燕は机の上にあった布で輝夜を包み、暖炉のそばへ置いた。提灯精霊は人の食べ物を口にしないが、光が弱った時は、乾いた灯芯と静かな火の近くで休む。父から教わった通り、火燕は予備の灯芯を一本出した。
輝夜は細い光を伸ばし、灯芯の先へ触れた。
「どこへ行けば、父さんのことが分かる」
しばらくして、輝夜は二度、光を強めた。
「ヒヨリムラ」
火燕には聞き覚えのない地名だった。
「灯寄村?」
「ヒヨリムラ。ソンチョウ。キケ」
「村長に聞けばいいんだな」
輝夜の光が、一度だけ強くなった。
さらに尋ねる前に、その光は小さく縮んだ。今は休ませるべきだった。
火燕は器の麦がゆを食べ、旅支度を始めた。
灯寄村がどこにあるかは、隣家の主人が知っていた。西へ続く街道を二日歩き、川沿いの道へ折れて、さらに一日。うたばの品を扱う宿場だから、提灯持ちなら道で尋ねれば分かるという。
「一人で行くのか」
隣家の主人は、火燕の荷をしばったひもを引いて、緩んでいないか確かめた。
「輝夜がいます。それに、父さんから浅い場所の歩き方は習いました」
「習ったことと、一人でやることは別だぞ」
「はい。でも、危ない場所へすぐ入るつもりはありません。まずは村長に話を聞きます」
隣家の主人は火燕の顔を見た後、妻が包んだ焼き餅を荷の上へ載せた。
「これは返さなくていい。家は見ておく」
「ありがとうございます」
夜明け前、輝夜が火燕の肩まで浮かび上がった。まだ光は弱かったが、自分で飛べる程度には戻っていた。
火燕は戸を閉めた。
父がいない家を離れるのは怖かった。灯寄村へ着いたところで、正宗の居場所が分かる保証もない。
それでも、輝夜が持ち帰った行き先は一つだけだった。
火燕は荷を背負い、西の街道へ出た。
## 第一章 最初のうたば
三日目の昼過ぎ、街道の先に低い石垣が見えた。
石垣の内側には、板屋根の家が川沿いに並んでいる。荷車が二台すれ違える道の先に広場があり、店、鍛冶場、倉庫らしい建物がその周囲を囲んでいた。川の船着き場からは、木箱を担いだ人々が次々に上がってくる。
石垣の外には麦と豆の畑があり、川辺の干し台には捕れた魚が並んでいた。村で足りない食べ物は、川船でも運び込まれていた。
広場の中央には、屋根の付いた共同井戸があった。村人は飲み水をそこからくみ、川辺では別の村人が荷車や木桶の泥を洗い流している。
船着き場に積まれた木箱には、癒しの草、鉄、木材、見慣れない道具が、見つかったうたばごとに分けて入れられていた。灯寄村は、近くのうたばから持ち帰った品を倉庫で分け、村の店や鍛冶場で使い、残りを川船でほかの土地へ送る場所でもあった。
灯寄村は、提灯持ちの灯りが集まる宿場だったことから、その名が付いたという。村の入口に立つ案内板に、由来まで短く書かれていた。
火燕は広場で荷車を押していた村人に声をかけた。
「村長の仕事場はどこですか」
村人は荷車を止めず、顔を広場の北側へ向けた。
「戸口に川荷の板札が掛かってる。今なら中にいるよ」
礼を言って向かうと、開いた戸口の脇に、荷の数と行き先を書き込む板が掛けられていた。
中では、四十代ほどの女が二人の船頭から伝票を受け取っていた。船頭たちが出ていくのを待ち、火燕は声をかけた。
「失礼します。村長にお話があります」
女は火燕の顔、背負った荷、肩のそばに浮かぶ輝夜の順に見た。
「わたしが村長の名取澄だ。まず、その精霊を休ませな」
澄は窓際に置かれた、精霊を休ませるための空の灯り台を指した。火燕が輝夜を休ませると、澄は水差しを出した。
「あんたの分だ。まず水を飲みな。話はそれからでいい」
「ありがとうございます」
火燕は水を飲んでから、正宗が帰る予定の日を過ぎても戻らず、組合が捜していることを話した。それから、輝夜だけが家へ戻り、灯寄村の村長を訪ねるよう伝えてきたことも話した。
澄は途中で口を挟まずに聞いた。
話を聞き終えると、澄は灯り台で休む輝夜のそばへ寄った。
「正宗さんと一緒に、この村へ来た輝夜だね。六日間、仕事場にも何度か来ていた」
輝夜が弱い光を一度返した。
「ここを覚えていたから、火燕を連れてきたのかい」
もう一度、光が強くなった。火燕は、輝夜がなぜ灯寄村の名を知っていたのか、そこで初めて分かった。
「正宗さんの息子だったんだね。あんたの名前も教えてくれるかい」
「火燕です」
「組合札は持ってるかい」
「いいえ。十五歳なので、まだ登録できません」
組合の試験を受けられるのは十六歳からだった。試験に合格して組合札を受け取った提灯持ちが、公認と呼ばれる。
提灯精霊と出会う者には、暗がりで動くものを見分けたり、武器を人より早く覚えたり、危険な場所から一息で離れたりする、戦いの才能を持つ者が多い。ただし、得意なことは一人ずつ違う。組合の試験でも、同じ技を全員へ求めるのではなく、自分の得意な動きを危険な時にも正しく使えるかを見られる。
澄は机の引き出しから、ひもでとじた紙束を出した。
「組合から届いた連絡には、『正宗は、夜の歌と、その直後に起きるモンスターの移動を調べると言っていた』とある。この村に六日いて、それから北へ向かったことまでは分かってる」
火燕は椅子から身を乗り出した。
「北というのは、どこですか」
「記録に、次の行き先までは書かれてない。正宗さんは、確かめてから報告すると言って出たそうだ」
「それなら、北の道をたどります。途中で父を見た人を捜します」
澄は首を横に振った。
「北の山道の途中には、輪守の里という山の集落がある。そこまでは荷車も通るけど、雨の後は道が崩れやすく、モンスターも出る。里から先には山を越える道もある。正宗さんが輪守へ入ったのか、その先へ進んだのかも分からないんだ。道を知る者も連れず、十五歳のあんたを一人で行かせるわけにはいかないよ」
火燕は返す言葉を探した。父が北のどこへ向かったのかと聞かれても、答えられなかった。
「北へ行けるようになるには、何が必要ですか」
「まず、小灯道から自分の力で戻っておいで。無事に戻れたら、村の草や鉄を集める仕事を任せる。仕事をしながら、あんたが何をできるのか見せてもらうよ。それから、一緒にうたばへ入って、危ない時には止め合える提灯持ちを見つけな。行き先と安全な道が分かり、その相手と仕事をきちんと終えられたら、北へ向かう手伝いをする」
「分かりました。北へ行く準備をしながら、この村に残っている父さんの手掛かりも調べたいです。父さんが入ったうたばは分かりますか」
「小灯道と石抱き坑だ。小灯道は村の南にある、六階までの乾いたうたば。石抱き坑は東の採石跡から入る、十階までのうたばだ。正宗さんは、どちらにも入ってる」
澄は石抱き坑の名を指で叩いた。
「ただし、今のあんたへ石抱き坑の仕事を任せる気はないよ。小灯道より深くて、硬いモンスターもいる。今のあんたには危険だからね」
澄は紙束を閉じた。
「十五歳でも、自分でうたばへ入るのを止める決まりはないよ。店も倉庫も使える。けど、村の仕事として危険な場所へ送るとなれば話は別だ。あんたがどこまでできるか、こっちはまだ知らないからね」
「明日、小灯道へ入っておいで。まずは一人で無事に戻ることからだ。ただし、一番奥まで行くことにこだわるんじゃないよ。危ないと思ったら戻るんだ。帰ったら、何を見て、どこで引き返そうとしたか聞かせてもらう」
火燕は、澄から言われたことを頭の中で確かめた。小灯道から戻り、村の仕事をして、一緒に危険を止め合える提灯持ちを見つける。その間にも、父が残した記録は調べられる。
「では、今日は準備だけして、明日の朝に入ります」
「それでいい。宿は広場の向かいだ。今日は寝床と食事を先に確保しな」
澄は立ち上がり、戸口まで火燕を送った。
「火燕」
「はい」
「正宗さんのことは、こっちでも記録を調べ直す。あんたが一人で全部捜す必要はないよ」
火燕は、すぐには答えられなかった。
「お願いします。わたしも、自分で見られるところは見たいです」
「ああ。そのためにも、まず明日、ちゃんと戻っておいで」
戸口の外で、紙をめくる音がした。
紺色の動きやすい服を着た少女が、壁に記録帳を当てて何かを書いていた。黒い髪を高い位置でまとめ、腰には白墨、水筒、先に小さな重りを付けた短い縄を下げている。肩のそばには、黄色がかった茶色の提灯精霊が浮かんでいた。
「小灯道は六階まで行けたよ。三階で道を塞いでいたモンスターを避けたから、前より少し時間がかかったけど、怪我はしてない。帰りの巻物も使わずに戻れたよ」
少女は記録帳から顔を上げ、澄へ報告した。
「分かった。水を飲んだら、持ち帰った草を店へ出しておいで」
澄は火燕へ向き直った。
「この子は、あしかりるい。あんたと同じ十五歳の野良だ。組合札を持たず、組合から仕事を受けずに、自分で決めて潜る提灯持ちを、ここではそう呼んでる」
澄はるいへ火燕を紹介した。
「こちらは火燕。正宗さんの息子だ。明日、小灯道へ初めて一人で入ることになった」
るいは記録帳を閉じ、火燕へ向き直った。
「あしかりるい。あたしも十五歳で、今は野良。この子はコハク。あたしが野良で潜り始めた時から一緒なんだ」
コハクが火燕の顔を短く照らし、すぐに光を引いた。
「今のがコハクの挨拶。声は持ってないけど、照らす場所と回数で、言いたいことはだいたい分かるんだ。三回続けて照らす時は、あたしが何かを見落としてるって注意してくれることが多いよ」
「火燕。よろしく」
村の同年代で、るいより速く走れる者はいなかった。子どもの頃から船着き場の荷仕事を手伝ううち、濡れた狭い板の上でも速さを落とさず、急に止まり、向きを変える足運びを身につけた。離れた荷へ縄を投げることも、片手でほどけない結び目を作ることも、そこで覚えた。腰の縄は、うたばでモンスターの脚や武器を素早く止めるためのものだ。るいは自分の得意技を、早縄と呼んでいる。
澄は、るいが抱えている記録帳へ目をやった。
「るいは何度も小灯道から無事に戻っているから、今は浅い場所で草や鉄を集める仕事を任せてる。るい、水を飲んでからでいい。店へ草を持っていく前に、火燕の準備を一緒に見てやってくれるかい」
「いいよ」
るいは水を一杯飲み、空の器を戻した。
るいは火燕の旅の服と、背負った荷物、それから輝夜を見た。
「戻る条件は、もう決めてる?」
「まだ。明日、一人で入る前に決めるつもりだった」
「じゃあ、速さを決める前に、戻る条件を決めた方がいいよ。あたしは食料を行きの分と帰りの分に分けてる。行きの分を食べ終えたら、何も見つからなくても引き返す。帰りの分には、戻り始めるまで手を付けない」
「戻った時刻だけじゃなくて、食べた数も書いてたんだな」
「数字が残っていれば、次に同じ失敗をしなくて済む。明日、無事に戻ったら、あたしの最初の記録と比べようよ。ただ奥まで行っただけなら勝ちにはしないからね」
「分かった。食べた分と、帰りに残した分も伝える」
「よし、勝負ね。まずは無事に帰ってきて」
火燕は宿で一番安い部屋を取り、残った銀貨を数えた。それから小灯道へ入る支度を始めた。
店では、塩の堅パンを三つと、うたばの入口へ戻るための長い帰り道の巻物を一枚買った。
「初めてなら、食べ物は多めがいい」
店主は、川下の港から届いた塩で焼いた堅パンを紙で包みながら言った。
「初めてではありません。父と浅い場所へ入ったことがあります」
「一人で入るのは初めてかい」
「初めてです」
「それなら、やっぱり多めに持っていった方がいいよ」
店主は四つ目を入れようとした。火燕は値札を見て止めた。
「三つで足ります」
「帰ってきて腹が減ってたら、四つ目を買いな」
倉庫には、旅の着替えと、すぐには使わない道具を預けた。倉庫番は預かり札を二枚作り、一枚を火燕へ渡した。
「なくしたら、本人だと確かめるのに時間がかかるよ」
火燕は預かり札を、上着の内側にあるひも付きの小袋へしまい、口を固く結んだ。
「ここなら、戦っても落としません」
「それならいい。うたばへ入る前に、荷をしばったひもが緩んでいないか確かめな」
最後に鍛冶場へ寄り、父から譲られた小刀を見せた。
鍛冶職人は刃を灯りへかざし、柄を握って二度振った。
「刃こぼれは直せる。柄も緩んでいない。小灯道なら使えるよ」
「石抱き坑でも、この小刀を使えますか」
「相手による。硬いものへ無理に当てれば、刃より先に手首を痛める」
火燕は研ぎ直してもらった小刀を鞘へ収めた。
翌朝、村の南門を出て、川から離れる小道を歩いた。
小灯道の入口は、丘の裾に開いた横穴だ。その脇に、詰め所と呼ばれる小さな見張り小屋がある。火燕は係の村人へ名前と入る時刻、持っている長い帰り道の巻物の枚数を伝えた。
野良であっても、誰が入ったかを残しておけば、帰らない時にどこから捜すか決められる。
火燕は荷をしばったひもを締め直した。
「輝夜、灯りを頼む」
輝夜が肩の前へ出た。まだ正宗といた頃ほど明るくはない。それでも、足元から数歩先までを見るには十分だった。
石の境目を越えた途端、外の鳥の声が消えた。
最初の通路は乾いていた。白い岩肌に細い筋が走り、靴の下で細かな石の粒が鳴る。二十歩ほど進むと、通路は左右へ分かれた。
入口の案内板に描かれていた地図とは違っていた。
火燕は立ち止まり、腰の袋から白墨を出した。右の壁へ、入口へ戻る向きと時刻を書く。
それから輝夜の灯りを左右へ向けた。左の道には浅い水がたまり、右の道は乾いている。初めて一人で入る今日は、足を取られにくい方がいい。
「右へ行こう。帰りは、今書いた印を照らしてくれ」
「ワカッタ」
火燕は右へ進んだ。
最初に見つけたのは、岩の割れ目に生えた癒しの草だった。根を傷めないよう葉を切り、湿らせた布で包む。
次の部屋には、塩の堅パンが一つ落ちていた。見た目も匂いも普通だったが、火燕はすぐには拾わなかった。床に細い線が走っている。
小石を投げると、堅パンの手前から木の針が三本飛び出した。
「父さんなら、食べ物の前ほど足元を見ろって言うな」
輝夜が、少しだけ明るくなった。
罠を避けて堅パンを拾った直後、壁際の石が動いた。
灰色の小さなモンスターが、前歯を鳴らして飛びかかってくる。塩や乾物をかじるシオカジリだった。
火燕は小盾で体当たりを受け、横へ流した。シオカジリが振り向く前に、小刀の柄で頭を打つ。二度目で動きが鈍り、三度目の突きで倒れた。
息を整えてから、腕と脚を確かめた。噛まれてはいない。盾に浅い傷が付いていた。
「輝夜。次にシオカジリが三匹以上いたら、戦わずに戻るよ」
「ワカッタ。サンビキ、モドル」
火燕は、戻る条件を輝夜にも伝えた。先に決めておけば、危なくなった時に迷わず戻れると思った。
小灯道は六階まで続いた。
火燕は途中で塩の堅パンを一つ食べ、拾った草と鉄の矢を荷へ入れた。
四階の広い部屋へ入った時、正面で一匹のシオカジリが前歯を鳴らした。火燕が盾を上げるより先に、輝夜が右の石柱を強く照らす。
「ミギ。モウ、イッピキ」
柱の陰から、二匹目が回り込もうとしていた。
火燕は輝夜を信じ、来た細い通路へ戻った。最初の一匹だけが通路へ入り、二匹目はその後ろでつかえた。火燕は小盾で前歯をそらし、一匹目を倒す。
輝夜は柱側の床を照らし続けた。二匹目の影が伸びた直後、火燕は盾を構え直した。飛び込んできた体を壁へ流し、小刀で倒す。
二匹の手足と呼吸が止まったことを確かめてから、火燕は通路の先を見直した。
輝夜の光だけが、戦いの前より明るく残っていた。
薄紫の帯が光の核へ巻き付き、丸い提灯の形をした薄紙の覆いと金色の縁に変わっていく。上には小さな金具の輪ができ、正面に二つの目が開いた。
火燕は驚き、輝夜と同じ高さまで腰を落とした。
「輝夜、目ができたのか」
輝夜は火燕と、倒れた二匹を交互に見た。
「ミエル。カエン、ブジ」
「柱の陰にいた二匹目を見つけてくれたからだ。知らせてくれなかったら、囲まれていたかもしれない」
輝夜は新しい目を細め、火燕へ体を寄せた。
「カエン、マモッタ」
「うん。助けてくれてありがとう」
輝夜は、正宗と別れてから初めて、新しい姿を手に入れた。
五階では、崩れた木箱の下から小さな鉄のかたまりを拾った。荷はまだ走れる重さに収まっている。
六階の奥には、壁の中へ上る白い石段があった。うたばの一番奥まで来た者を入口近くへ戻す帰還口で、表面が塩のように白いため、村では塩階段と呼ばれている。一番奥までたどり着いてこの帰還口を使うことが、この土地でいう踏破だ。
火燕は周囲にモンスターがいないことを確かめた。
「帰ろう、輝夜」
「ウン」
火燕と輝夜が石段へ足を踏み入れると、白い光が二人を包んだ。次に足が触れたのは、入口の境目にある乾いた岩だった。外へ出ると、日はまだ高かった。
帰還口の光が消えると、輝夜は新しくできた目で空と詰め所を見回した。
詰め所の村人も筆を止め、入口へ来た時とは違う輝夜の姿を見た。
「うたばへ入る前は、丸い光だったよね。中で何かあったのかい」
「どうして、こんな姿になったんだろう」
火燕が尋ねると、輝夜は小さく左右へ揺れた。
「ワカラナイ。カエン、アブナイ。シラセル。マモル。ソノトキ、アツイ」
詰め所へ草を届けに来ていたるいが、記録帳を抱えたまま駆け寄ってきた。
「待って。昨日会った時は、目も輪もなかったよね」
「なかった。四階で二匹を倒した直後に変わったんだ」
るいは輝夜と同じ高さまでしゃがんだ。輝夜は新しくできた目で、るいを見返した。
「姿が変わる前に、いつもと違うことはした?」
「四階で輝夜が、柱の陰から来た二匹目を先に見つけた。わたしへ知らせて、細い道まで戻してくれた直後に変わったんだ」
るいは記録帳を開いたが、すぐには書かなかった。
「輝夜。その時、どう思ってた?」
「カエン、アブナイ。マモル。ソノトキ、アツイ」
るいは、その答えをそのまま書いた。
「勝手に理由まで書くのはやめておく。次にまた変わったら、前と同じ所を探せるから」
詰め所の村人が時刻を書き、火燕の腕と歩き方を見た。
「怪我はないかい」
「怪我はありません。ただ、盾に傷がつきました。六階の帰還口まで行けました」
「それはよかった。無事に戻ってきたんだね。さあ、水をどうぞ。落ち着いたら、中で見たことを聞かせておくれ」
火燕は水筒を受け取り、水を飲んだ。
村へ戻ると、澄は火燕を仕事場の椅子へ座らせ、白い紙を一枚置いた。
「では、まずどこまで行けたのか教えておくれ」
「六階の帰還口まで行きました」
「途中で、引き返した方がいいと思った場面はあったかい」
「四階です。二匹に追われたので、細い道へ戻って一匹ずつ倒しました。もう一匹来たら、長い帰り道の巻物を使って戻るつもりでした」
「持ち帰った物も見せてくれるかい」
火燕は草、鉄のかたまり、矢を机へ並べた。澄は品より先に、火燕の盾の傷と、使わずに残った長い帰り道の巻物を見た。
「初めて一人で潜って、小灯道を踏破した。追われた時も、いったん細い道へ戻って一匹ずつ相手にした。何より、怪我をせずに帰ってきた。よくやったね」
「ありがとうございます」
「これなら、小灯道の草や鉄を集める仕事を任せられる。石抱き坑は、村の仕事を二度終えて、一緒に入る提灯持ちが決まってからだよ」
「分かりました。まず、任された仕事を終えます」
澄は報告用紙へ火燕の名を書いた。
「持ち帰った品は、村で買い取るよ」
火燕は持ち帰った草と鉄のかたまりを売った。鍛冶場で盾を直し、初めて得た報酬の一部を銀行へ預けた。全部を手元に置けば、次にうたばへ入った時に失うかもしれないからだ。
銀行を出ると、るいが店先の屋根の下で待っていた。
「入口から戻るまで、一時間と少し。あたしの最初より早い」
「でも、四階で追われた」
「さっき、二匹を細い道へ誘って、一匹ずつ相手にしたって話してたね。広い部屋で急いで戦っていたら、時間が短くても負けだよ」
るいは自分の記録帳に、火燕の名と帰還時刻を書いた。
「次は石抱き坑?」
「その前に、小灯道で村の仕事を二度終えて、一緒に入る相手を決めるよう言われた」
「それなら、あたしと二度入ろう。あたしも浅い所の草と鉄を集める仕事を受けてる。二人で戻れたら、石抱き坑も一緒に行くって澄さんへ頼めるよ」
るいは、火燕の盾の傷と、使わずに残った巻物まで見てから話していた。
「頼む。るいが無理をしそうな時は、わたしも止める」
「あたしも止めるよ。勝負は、二人とも無事に戻ってからね」
るいは記録帳を開き直した。
「そうだ。明日入る前に、戻る条件も二人で確かめよう。火燕は、一人で入った時はどう決めてた?」
「シオカジリが三匹になったら、戦わずに戻るつもりだった。食料は、行きの分を食べ終えた時だ」
「分かった。あたしの条件も読んでもらう。どちらかの条件に当たったら、二人とも戻ろう」
るいは、火燕の二つの条件を自分の記録帳へ書き加えた。
「それと、頼まれた鉄と草は、先に見つけた方へ一本ずつ印を付けよう。村まで持ち帰れた分だけが勝負の数だからね」
「途中で捨てた分は数えないんだな」
「当たり前でしょ。持ち帰れない物を見つけても、仕事にはならないよ」
翌朝、火燕は二度目の小灯道へ、今度はるいと一緒に入る。仕事は、鍛冶場から頼まれた鉄集めだ。るいが記録帳を開いている間は火燕と輝夜が前を見て、コハクが後ろを照らす。四階で前の通路から二匹のシオカジリが現れ、火燕はるいへ声をかけた。
「るい、記録帳を閉じて。右の細い道へ戻る」
るいはすぐに記録帳を閉じ、火燕と一緒に道を戻った。二つ目の曲がり角を越えた所で足を止め、二人で耳を澄ます。追ってくる足音はなかった。
「もう来てない。右の道から集め直そう」
二人は別の通路から鉄を集めた。帰還口の手前で昼食を取った時、るいが堅パンを割りながら尋ねた。
「火燕は、やっぱり北へ行くために急いでるの?」
「急ぎたい。でも、父さんが北のどこへ行ったのかも分かってない。だから今は、澄さんが出した条件を一つずつ終える」
「そっか。無理に先へ行きそうになったら、今日みたいに止めるからね」
「頼む。わたしも、るいを止める」
昼過ぎに村へ帰り、集めた鉄を鍛冶場へ届けた。
その翌朝、火燕とるいは三度目の小灯道へ入る。今度の仕事は、薬に使う癒しの草集めだ。必要な分をそろえた後、鉄のかたまりが落ちている部屋で三匹のシオカジリを見つけた。
「三匹いる。火燕が戻るって決めた数だよ」
火燕は鉄を見たが、小刀を抜かなかった。
「この鉄は置いて、村へ戻ろう」
「せっかくあたしが一つ勝ってるのに、ここで全部なくしたら負けだからね。帰ろう」
二人はその部屋へ入らず、来た道を戻った。頼まれた草は、失わずに持ち帰ることができた。
詰め所へ戻る途中、火燕はるいへ尋ねた。
「るいは、公認になったら何をしたい?」
「村の仕事を、自分の名前で受けたい。若いから危ないって言われた時に、ちゃんと戻ってきた記録も見せたいんだ。前は、深く進んだ数字ばかり気にしてたけどね」
るいは持ち帰った癒しの草を見た。
「今日は、この草をなくさず戻った方が大事だった。鉄はまた次に取りに行けるから」
るいは二度の仕事で付けた印を数え、記録帳を火燕へ向けた。
「鉄はあたしの勝ちで、草は火燕の勝ち。今回は引き分けね」
「次は何で決める?」
「石抱き坑から二人で戻ってから考える。勝負を途中で終わらせたくないから」
澄は持ち帰った品を確かめた後、三匹を見て引き返したことも二人から聞いた。
「頼んだ仕事は二度とも終わった。最初は火燕が声をかけてるいを下げ、次はるいが三匹に気づいて火燕を止めた。二人とも相手の声をきちんと聞けたね。二人で入るなら、石抱き坑へ行くことを認めるよ」
火燕はるいと顔を見合わせた。
「ありがとうございます。父が残した印を、二人で捜します」
「あそこは小灯道より暗く、石をかじるモンスターもいる。二人とも、先に鍛冶場で盾と武器を見てもらいな」
二度目の仕事から戻った夕方、澄は組合が正宗へ仕事を頼んだ時の紙を調べ、正宗を見た村人を仕事場へ呼んだ。
村人は、船着き場で荷を運んでいた男だった。
「正宗さんは、夜に歌を聞いた人を捜してたよ。どんな歌だったかより、何時に始まって、どの入口でモンスターが増えたかを聞いてた」
「父さんは、何か分かったと言っていましたか」
「いや。三か所を比べないと分からないって言ってた。それから石抱き坑へ二度入った」
その紙には、正宗が灯寄村へ着いた日と、調べた入口だけが書かれていた。歌い手の名も、原因もなかった。
火燕が次に調べるのは、正宗が二度入った石抱き坑だった。
## 第二章 歌う夜
三度目の小灯道から戻って三日後、火燕はるいと一緒に、村の東にある採石跡へ向かった。
出発前、澄は二人の報告用紙を同じ板へ留めた。
「石抱き坑では離れて先へ出ないこと。どちらかが戻ろうと言ったら、その理由を聞いて二人とも戻ること。守れるね」
「守ります」
「あたしも」
るいは答え、記録帳の最初のページへ二つの条件を書いた。
火燕とるいが採石跡の境目を越えると、二人の提灯精霊が左右から道を照らした。輝夜は顔のある提灯の姿を保ち、火燕の少し前を飛んでいる。コハクはるいの肩の近くを飛び、るいが記録帳を開くと後ろの道へ光を向けた。
入口の先は角材で補強された坑道だった。壁には鉄の筋が走り、床には切り出しかけの石が残っている。小灯道より天井が高く、曲がり角の先まで輝夜の光が届かなかった。
正宗から、深いうたばには、ごく一部だけ、入るたびに形を変えない場所があると教わっていた。そこを稀地と呼ぶ。
稀地では、同じ場所を長く縄張りにできる。そのため、強いモンスターが住み着いていることが多い。そのモンスターが、うたばの主と呼ばれる。
ほかの通路は、うたばへ入り直すと形が変わる。前に書かれた印も、次に入った時には探せない。正宗が記録を残したなら、稀地にある石段や門柱へ書いたはずだと火燕は考えた。
るいは分かれ道ごとに、入口から何分かかったかと、曲がった向きを記録帳へ書いた。同じ道を次に入った時にも使えるわけではない。それでも、今日の帰り道を選ぶ助けにはなる。
「書いている間は、わたしが前を見る」
「お願い。コハクは後ろを見て。書き終わったら交代する」
稀地へ向かう途中の部屋で、二種類のモンスターが食べ物を奪い合っていた。シオカジリが干し肉へ食いつき、鉄をかじるサビカミが横から体当たりをする。互いに噛みつき、追い払おうとしていた。
火燕は争いへ巻き込まれないよう、手前の分かれ道まで戻ろうとした。
「賛成。二匹を相手にしても、正宗さんの印には近づかないからね」
るいが先に来た道へ白墨を引き、二人は別の道を選んだ。
十階の奥で、左右の壁に同じひびが走り、幅のそろった石段が下へ続いていた。数段下には黒い門柱が二本立っている。石段の下半分と門柱、その先が、石抱き坑の稀地だった。奥にいるモンスターの姿も数も確かめていない。
「今の食料なら、入口を調べて戻れる。でも、奥へ入ったら帰りの分が足りない」
るいが荷の残りを確かめた。
「門柱より先へは進まない。今日は記録だけ捜そう」
火燕が答えると、るいは時刻を書いた。
輝夜が石段を三段下り、稀地側に立つ右の門柱へ飛んだ。
「マサムネ」
そこには古い白墨の線が残っていた。火燕がいつも使う矢印と同じ形だった。
線の下に、日付と短い文がある。
『夜中。歌。シオカジリとサビカミ、争わず南の出口へ。追わず帰還』
火燕は指で文字をなぞらなかった。白墨が落ちるかもしれない。
「父さんも、二種類が歌のあとに同じ出口へ向かうのを見たんだ」
「ウタ、オナジ」
「輝夜は、その時も一緒に聞いたのか」
「キイタ。コワイ」
「稀地の奥へは入らない。今日は、この記録を澄さんへ持ち帰ろう」
「ウン」
火燕は門柱の形と文を自分の紙へ写した。るいは文を写し、見つけた時刻と、稀地の奥へ入らずに戻った理由を添えた。
「正宗さんも『追わず帰還』って書いてる。見つけたものより、やめた所を残してたんだね」
「次に見る人が、同じ所から先を考えられるようにしたんだと思う」
火燕が長い帰り道の巻物を読むと、るいもすぐそばへ寄った。二人と二体の精霊を白い光が包んだ。
白墨印を見つけたことを二人で澄へ報告した後、火燕は宿へ戻った。るいは自分の家へ戻り、写した記録を読みやすく書き直した。
日が沈むと、広場の店が順に戸を閉めた。火燕は宿の食堂で豆の汁を食べ、明日の草や鉄を集める仕事に持っていく物を書き出していた。
輝夜が急に、火燕の手元へ降りた。
「どうした?」
窓の外から、声が聞こえた。
遠い女の声に似ていた。言葉はなく、高い音と低い音がゆっくり重なっている。どこから聞こえるのか分からない。村の外からのようでもあり、床下からのようでもあった。
輝夜の光が細かく震えた。
「オナジ。ニゲテ」
火燕は立ち上がった。
食堂にいた客の一人が、椅子を引いて窓へ寄った。
「外に誰かいるのか」
別の客も立ち上がる。二人とも、歌をもっとよく聞こうとしていた。
火燕自身も、戸を開けて確かめたいと思った。胸の奥がむずがゆく、声の近くへ行けば何か分かるような気がする。
輝夜が目の前まで飛び、強く光った。
火燕は瞬きをした。
今、自分は宿の食堂にいる。外が安全かどうかは分からない。確かめるなら、先に武器と灯りが必要だ。
火燕は食堂の隅に置いた旅荷から、小刀と盾を取った。盾のひもを腕へ通し、輝夜がそばにいることも確かめる。
「戸を開けないでください」
火燕は宿の主人へ言った。
「澄さんへ知らせます。歌を聞きに外へ出ないよう、みんなを中へ入れてください」
宿を出ると、広場の北側から叫び声が上がった。
「南門にモンスターだ!」
続いて、東の船着き場でも板を叩く音がした。
火燕は輝夜と一緒に広場へ走った。
澄は仕事場の前で、駆けつけた村人へ指示を出していた。
「戦えない者は石倉へ。火を使っている家は、消してから離れな。怪我人は広場の西側へ運ぶんだ」
火燕を見つけると、澄は倉庫へ続く道を指した。
「倉庫前に人が足りない。避難する人を広場へ通しておくれ。モンスターを追って村の外へは出るんじゃないよ」
「倉庫前ですね。行きます」
火燕は倉庫前へ向かった。
入れ違いに、るいが記録帳を抱えて広場へ駆け込んだ。コハクが、逃げる人々の頭上を照らしている。
「石倉へ入った人を数えた。川側の長屋に、まだ親子が一組いる」
「その親子を倉庫前の道へ連れてきておくれ。火燕が避難路を守ってる」
「分かった。連れてきたら、今度は広場の人数を確かめる」
るいは川側へ走った。
川側の細い道から、シオカジリが三匹走ってきた。その後ろにサビカミが二匹いる。昼間なら干し肉一つを奪い合っていた二種が、互いを気にせず同じ方向へ進んでいた。
火燕は道の中央へ木箱を倒した。先頭のシオカジリが箱へぶつかり、後ろのモンスターが詰まる。
「右の路地から広場へ!」
火燕は逃げてきた親子へ声をかけた。
親子の後ろには、るいがいた。子どもの手を引きながら、もう片方の手でコハクへ高く上がるよう合図している。
「この二人で、川側の長屋は最後!」
「分かった。広場まで頼む」
るいはうなずき、親子を連れて右の路地へ入った。火燕はその背中が角を曲がるまで見届けた。
親子が通り過ぎるまで、盾で一匹を押し返す。サビカミが足元へ噛みつこうとした。火燕は小刀で鼻先を払い、木箱を蹴って道幅をさらに狭めた。
歌はまだ続いていた。
モンスターだけでなく、村人の一人が川側へ歩き出した。火燕が呼んでも振り向かない。
輝夜がその人の顔の前へ飛んだ。
「トマッテ。ミチ、チガウ」
村人は目をしばたたき、足を止めた。
「わたしは、何を……」
「広場へ行ってください。ここはモンスターが来ます」
火燕は村人を右の路地へ押し出した。
輝夜は火燕の所へ戻らず、逃げる人が通る右の路地へ光を伸ばした。次に、倉庫の屋根へ向かう水桶の列と、川側から来るモンスターを順に照らす。避難する人は明るい路地へ入り、水桶を運ぶ人は敵の影を避けて走った。
倉庫の屋根へ火の粉が上がった。別の場所で、火を吐くモンスターが柵を越えたらしい。広場から水桶を運ぶ列が伸びてくる。
火燕はシオカジリを一匹倒した。残るシオカジリ二匹とサビカミ二匹が、木箱を押しのけようと重なる。
そこへ長槍を持った防衛組が三人駆けつけた。二人が槍先をそろえ、一人が火燕の前へ盾を出す。
「避難路は空いた。今度はここで止めよう」
火燕は防衛組の横へ下がった。槍が木箱を越えたシオカジリの胸を突き、次に飛び込んだサビカミを石壁へ縫い止める。残る二匹がいるため、防衛組は槍の列を崩さなかった。
歌が途切れた。
残るシオカジリ一匹とサビカミ一匹は、同時に足を止めた。すぐ互いへ牙を向け、来た道を別々に走って村の外へ逃げる。防衛組は追わず、川側の戸を閉めた。
火燕たちは二人一組になり、倉庫の裏、川側の長屋、南門まで見て回る。倉庫の屋根へ火を吐いた一匹は、別の防衛組が屋根の下で倒していた。やがて、ほかの門からも村の中に残ったモンスターはいないと報告がそろう。
それから武器を下ろす合図が出た。
広場へ戻った輝夜の光が、逃げ道へ伸びていた細い線ごと体へ集まった。提灯の形をした覆いがほどけ、小さな顔と両手が現れる。肩からは服の袖に似た帯が広がり、腰から下には火の尾が揺れていた。
輝夜は五本の指を開き、自分の手と、無事に広場へ集まった人々を交互に見た。
「わたし、みんな、見えた」
「うん。輝夜が道を照らしてくれたから、みんな迷わず逃げられた」
火燕一人を照らしていた輝夜は、その夜、村中へ光を届けられる姿になった。
火燕は新しい姿をもっと確かめたかったが、腕の傷から血がにじんでいた。輝夜もそれに気づき、広場の救護所を指した。
「歩けるかい」
「歩けます」
「なら広場へ行こう。傷は明るい所で見てもらうんだ」
火燕はそこで初めて袖をまくった。前腕に浅い噛み傷があった。
夜明け前、最後の火が消えた。
火燕は傷を洗った後、石倉へ向かった。るいの記録帳が広場の机に置かれていたが、本人の姿が見えなかったからだ。
石倉の戸口で、るいは最後の避難者へ水を渡していた。火燕を見ると、張っていた肩を下ろした。
「戻ってたんだ。さっき水を運んできた村人から、倉庫前で噛まれたって聞いた」
「浅い傷だ。るいも怪我はない?」
「ない。記録帳を広場に置いたままだけど、人は全員そろった」
るいは、火燕のそばにいる輝夜へ目を移した。
「輝夜、手がある。あたしが川側へ行ってる間に変わったの?」
「みんなの道、照らした。そしたら、できた」
「見られなかったのは悔しいけど、みんなが戻れた方がいいね。あとで手をよく見せて」
火燕は、るいの袖に血が付いていないことを確かめた。るいも火燕の包帯を見てから、ようやく息を吐いた。
「次に一緒に潜る時も、競争の前に、二人分の戻る条件を確かめよう」
「うん。石抱き坑でも、そうしよう」
倉庫の屋根は三分の一が焼け、南の柵は倒れていた。住居も二軒、壁を壊されている。死者はいなかったが、重い怪我をした者が四人いた。
澄は広場の机に紙を広げ、見張りと提灯持ちから順に話を聞いた。
火燕の番が来ると、澄は噛み傷の手当てが終わっていることを確かめた。
「傷は洗ったね。なら座りな。立ったまま話す必要はない」
火燕が椅子へ座るのを待ってから、澄は筆を取った。
「歌を聞いたのは、いつだい」
火燕は宿の食堂にあった水時計を思い出した。
「夜の二つ目の目盛りを過ぎた頃です。すぐ後に南門から声が上がりました」
「次に、火燕が見たモンスターを教えておくれ」
「シオカジリとサビカミです。昼は食べ物を奪い合っていましたが、夜は争わずに同じ道から来ました。歌が止まると、また別々に動き始めました」
澄はそこまで書いてから、筆を置いた。
「歌が原因だと思うかい」
「歌は関係していると思います。でも、父さんもほかの原因を調べていたなら、まだ決めつけない方がいいと思います」
「正宗さんも、同じように答えてる」
澄は別の紙を見せた。正宗が最初の聞き取りをした時の記録だった。
『歌との関係あり。ただし決めつけず。地震、餌場、他のモンスターの影響も確認』
火燕は父の字を見た。
答えは書かれていない。けれど、父も歌を疑いながら、まだ原因だとは決めつけていなかった。
朝になると、澄は見張り、大工、石工、倉庫係を連れ、壊れた場所を順に歩いた。南の柵は広く倒れ、川側の細い戸も外れている。倉庫の屋根は三分の一が焼け、住居二軒の壁に穴が開いていた。
「敵は南と川側に分かれた。こっちも二手に分かれたせいで、どちらも人が足りなくなった」
夜の持ち場を指揮した村人が、南から川側までの距離を歩いて見せた。
「壊れた杭だけを立て直しても、次も広い二か所へ人を散らすことになるよ。敵が入れる所を狭くしないと守り切れない」
大工は倒れた杭を一本起こし、敵がぶつかった跡を確かめた。その後で南の入口へ縄を張り、通れる幅を今の半分にした。
「ここへ厚い門を作れば、敵は狭い所へ集まる。守る人も散らずに済む。門の内側には、槍を持つ人が身を隠せる低い壁が要るな」
石工は倉庫の焦げた壁を削り、中まで熱が入っていないかを確かめた。
「広場の井戸は飲み水だ。昨夜は川から桶を運ぶ間に火が広がった。火事に使う水は、壁の内側へ別にためよう」
澄は、応急修理だけで次の襲撃を止められるか一人ずつに聞いた。大工も石工も首を横に振った。
澄は広場、倉庫、共同井戸を順に見渡した。
「壊れた柵を元へ戻すだけでは足りないね。広場と倉庫と井戸を、一つの守りの中へ入れる。狭い門、身を隠せる石壁、見張り台、火事に使う水槽をつないで、灯寄城を作るよ」
大工が張った縄は、南門から倉庫の外側を通り、共同井戸の裏へ回った。まだ地面の線だけだったが、村人たちは初めて、城がどこまで村を囲うのかを見ることができた。
「まず門と低い壁から始める。必要な人、日数、食料を出しておくれ」
石工は、門柱の土台へ太い線を引いた。
「壁の中へ詰める石は石抱き坑の途中で拾える。だが二本の門柱と見張り台の土台には、一抱えほどの大きさがそろった石が荷車で何台分も要る」
石工たちは以前の採石記録も持ってきた。十階の稀地には、同じ大きさの石を選び、巣の周りへ隙間なく積むモンスターがいる。崩れた石を運び直し、壁へ戻す習性から、壁積み人形と呼ばれていた。
「以前、石段から作業を見た。あいつは右膝から石を持ち上げ、体の奥にある木の芯で全身を動かしていた。積んだ石を運び続けるなら、主を倒して採石路を開くしかない」
石工は記録に描かれた壁積み人形の足と、木の芯の位置を二人へ見せた。るいは腰の早縄を外し、人形の膝へ掛ける角度を床の杭で試した。
澄は必要な資材と運び方を書き出してから、火燕とるいへ向いた。
「北へ進みたいなら、二人で危険な仕事を終えて戻れるところも見せてもらう。今回の仕事は、壁積み人形を倒して、村の採石組が規格石を運べる道を開くことだ。石段へ着く前にどちらかが戻ると言ったら、そこで中止する。稀地へ入るなら、今見せてもらった作戦を二人で守るんだよ」
「入ります。るいと主を倒して、石を運べる道を開きます」
「あたしもやる。縄を掛けるなら、村であたしより速い人はいないよ」
石抱き坑では石材や鉄を拾えるが、どちらも重い。荷を増やすほど、モンスターから逃げにくくなる。
噛み傷が塞がるまでの二日間を、二人は練習に使った。火燕は人形の正面を盾で受け、るいは動く丸太の継ぎ目へ早縄を投げる。人形の膝を崩し、輝夜が照らした木の芯を火燕が切るところまで、順番を変えずに何度も試した。
火燕は、父から習ったもう一つの動きも試した。目の前の一方向だけを見て、壁か相手へ届くまで一息に駆ける。途中で曲がれない代わりに、移動にも、すれ違いざまの攻撃にも、敵の前から離れる時にも使える。正宗が、火燕の名に合わせて**火燕一閃**と名付けた技だった。
るいは火燕の進む線から離れた場所へ立ち、動く丸太へ早縄を投げた。
「あたしが膝を止めたら、輝夜が芯と、その先にある壁を照らす。二つとも見えてから火燕一閃。先に飛び出したら、人形の腕へ正面からぶつかるよ」
「分かった。線が空くまでは動かない」
るいにも、早縄とは別の切り札があった。息を整えて踏み出すと、十呼吸ほど、相手が一度動くうちに二度動ける。生まれつきの速い足を、濡れた船着き場でも転ばず、荷を崩さず使えるよう磨いた技を、るいは**疾風迅雷**と呼んでいた。
「人形が縄を切りそうなら、疾風迅雷でもう一度掛ける。二人とも技を出すのは、打ち合わせた時だけにしよう」
三日目の朝、火燕とるいは、見本の石を運ぶ二人用の引き板を持って石抱き坑へ入った。入口では運搬人が荷車を用意し、二人が戻るのを待った。
前に火燕が通ったまっすぐな坑道は消え、入口の先で二本の下り坂に分かれていた。前に誰かが運び出したはずの場所にも、新しい石材が現れている。
二人が持ち帰るのは、大きさを比べるための見本石二つだけにした。片方が怪我をした時は、石も引き板も置き、巻物で戻る。
十階の先にある稀地には、一抱えほどの大石が同じ幅で積まれていた。二人が石段を下りると、壁の一部が人の形に盛り上がる。石片を体へ貼り付けた壁積み人形だった。
壁積み人形は壁から抜け出し、石段と二人の間へ立った。火燕は打ち合わせどおり盾を上げ、るいは人形の右側へ走る。
石の腕が盾へ落ち、火燕の靴が床を滑った。人形が次の腕を上げた時、るいの早縄が右膝の隙間へ飛び込む。重りが裏側へ抜け、るいは縄を近くの固定石へ一息で回した。
「火燕、今!」
るいが縄を引くのと同時に、火燕が盾で左脚へぶつかった。人形の体が縄の側へ傾き、右膝の石が外れる。片膝を付いた時、輝夜が石の下から現れた木の芯と、その先の壁を一本の光で結んだ。
「線が空いた!」
火燕は床を蹴った。石の腕が戻るより先に人形との間を飛ぶように詰め、体の重さを乗せた小刀で木の芯を断つ。人形へぶつかる寸前で盾を押し当て、崩れる石を横へ流して離れた。
火燕一閃を受けた木の芯が割れ、壁積み人形の上半身が崩れた。二人は離れて待ち、木の芯も腕も頭も動かないことを確かめた。
壁積み人形が崩れた後、その背後の壁には扉も割れ目もなかった。石工の記録どおり、体を壁へ埋め、崩れた所を内側から積み直していたらしい。
二人は同じ幅の規格石を二つ選び、並べて引き板へ載せた。帰り道でシオカジリの鳴き声がすると、引き板を壁へ寄せて別の通路を選ぶ。追う足音が消えてから、二人で縄を引き直した。
地上へ戻ると、待っていた村人たちが二つの石を荷車へ移した。石工は木枠を当て、どちらも門柱の土台に使える同じ幅だと確かめた。
澄は傷の増えた盾と、擦り切れたるいの縄を見てから二人へ言った。
「壁積み人形を倒して、見本の石も二つ持ち帰った。二人とも、よく仕事を終えて戻ったね。今日は休みな。明日からは石工と運搬人が何組かで入り、城に必要な石を運ぶよ」
「分かりました」
るいは隣でうなずき、人形の膝へ縄が掛かった位置と、木の芯が見えた角度を採石記録へ書き足した。
「縄を先に掛けたのはあたし。芯を切ったのは火燕。これも引き分けか」
「二人で決めた順番どおりだろ」
「次は、一人ずつ比べられる勝負にするよ。今度こそ勝つからね」
翌日、主のいなくなった稀地へ石工と運搬人が入り、規格石を載せた荷車が村へ戻り始めた。運んだ木材と石材で、灯寄城の南門と石壁が形になっていく。
火燕だけでなく、村人たちが皮を剥ぎ、穴を掘り、杭を立てた。店主も午後は店を閉めて縄を運び、宿の主人は作業をする人へ汁を配った。
夕方、稀地から運んだ大石を土台にして、最初の門柱が地面へ固定された。
急いで組んだ木の囲いが、村へ続く道を塞いだ。次に群れが来ても、何もない道で受け止めずに済む。
日が山の向こうへ沈みかけた頃、木材を積んだ荷車と、道具を持った村人たちが村外の坂を戻ってきた。まだ横木だけの門は暗く、足元には掘った土と縄が残っている。
輝夜は横木へ上がり、襲撃の夜に得た両手を広げた。光が外の道から門柱、足元、内側の広場へ伸びる。
「門の下が見える。縄を踏まないよう、右から入って!」
荷車が無事に門を通ると、輝夜は火燕の所へ戻り、新しい両手で泥の付いた手を挟んだ。
輝夜は、襲撃の夜に得た姿で、村の仕事を照らしていた。
## 第三章 兵のいない城
木柵と門ができてから一週間、灯寄村では夜の見張りを増やしていた。幼い人型になった輝夜は、数を確かめる時に指を使うようになっていた。
昼に働いた者が、そのまま夜中まで壁に立つ日もある。二日、三日と続くうちに、作業場で手を滑らせる者が増えた。
澄は中央広場へ長机を出し、壁の簡単な地図と木札を並べた。
「南門に二人。東と西の壁に二人ずつ。川側に二人。広場の交代要員が四人。これで一度の見張りに十二人だ」
村人の一人が木札を数えた。
「夜を半分ずつに分ければ、二十四人か」
「そうだ。怪我をした者と、日中の仕事を休めない者を除くと、続けて武器を持てるのは十一人しかいない」
澄は人の名を書いた木札を、図の脇へ置いた。二十四の持ち場に対して、札は十一枚しかない。
「一晩だけなら、ほかの者にも立ってもらえる。けど、毎晩は続かない。畑も船も鍛冶場も止められないからね」
「壁を伸ばすほど、見張る場所も増えるな」
大工が腕を組んだ。
火燕は門の簡単な地図を見た。壁ができれば安全になると思っていた。だが、誰も立っていない壁は、モンスターが越えるまで気づけない。
広場の外で車輪が鳴った。
北の山道から来た行商人が、荷車を止めて話を聞いていた。荷台には、丸い壺が縄で固定されている。
「夜の見張りを増やしたいなら、輪守の里へ相談してみたらどうだ」
澄が行商人へ向いた。
「壺を作っている山の集落だね」
「壺だけじゃない。あそこは畑のすぐ近くをモンスターが通る。追い払うだけじゃ間に合わないから、眠らせたり、生きたまま運んだりする方法を昔から使ってる」
村人が眉を寄せた。
「運んで、どうするんだ」
「人とモンスターが互いの意思を確かめる場所がある。手を貸す気のあるモンスターなら、見張りを頼めるかもしれない」
行商人は荷車の壺を軽くたたいた。
「輪守では、モンスターと一緒に危険な仕事をする約束を『契り』と呼ぶ。契りを見届ける契り守は、久瀬円司さんだ。壺を作る職人でもある」
澄は、壁の図の脇にある十一枚の木札を見た。
「村の公認提灯持ちは、今夜も壁の見張りへ残さないといけないね」
澄は火燕を見た。
「火燕。北へ行く前に、村の仕事をして、危ない時に止め合える相手を見つけるよう言ったね」
「はい」
「あんたとるいが、小灯道でも石抱き坑でも一緒に戻ってきたことは見てる。輪守の里は北の道の途中にあって、今日は道を知る行商人もいる。次は、そこでモンスターと組む方法を学んでみるかい」
「はい。輪守で、見張りを頼むまでに何を確かめるのか教わります」
「わたしも詳しくは知らない。だから、できることと、できないことを聞いておいで」
長机の反対側で見張り時刻を書いていたるいが、顔を上げた。
「あたしも行く。これから火燕と一緒に潜るなら、モンスターとどうやって仲間になるのか、あたしも知っておきたい」
澄は、るいの記録帳と火燕を順に見た。
「るいも同じ考えなら、今回は二人に任せるよ」
「行きも帰りも行商人の荷車から離れないこと。分からないことを二人だけで決めず、輪守の契り守、久瀬円司さんへ相談するんだよ」
「分かってる」
「わたしも、相談して決めます」
行商人は翌朝、輪守の里へ戻るという。火燕は荷車へ乗せてもらうことにした。
澄は輪守の里のまとめ役へ宛てた紹介状を作り、見張りの人数を書いた紙を添えた。
「見張りを手伝ってくれるモンスターがいるなら、村は助かる。けど、壺へ入ったからといって、見張りまでさせられるとは限らない。どんな相手に一緒に働けるか尋ね、断ったモンスターをどう扱うのか、輪守でよく聞いておいで」
「分かりました」
翌朝、火燕とるいは食料、長い帰り道の巻物、癒しの草を二人の荷へ分ける。片方が荷を落としても、帰るための品をすべて失わないためだ。輝夜は小さな指を折り、入れた物を一つずつ数えていた。
行商人の荷車は、村の北から山道へ入った。
「輪守の里までは日が暮れる前に着く」
行商人は手綱を握りながら言った。
「道は一本だが、雨の後は崩れる。帰りに一人で歩くなら、崖側へ寄りすぎるなよ」
「あなたは、輪守の里の人ですか」
「生まれはな。今は三つの土地を回って、壺と薬草を運んでる。町ごとに欲しがる物が違うから、空の荷車で帰らずに済む」
行商人は、灯寄村で作られた鉄の釘と、汐継港から川船で届いた塩や干し魚を積んでいた。
山道を上るにつれて、岩壁が両側から近づいた。午後には道が開け、円形の盆地へ出た。
輪のような山壁に囲まれているため、輪守の里と呼ばれている。斜面には薬草畑と麦や豆の畑があり、その外側には柵で囲った広い草地があった。中では人を襲わない四つ脚のモンスターが草を食べ、子どもたちが落ちたふんを桶へ集めている。別の囲いでは、角のあるモンスターから大人が乳をしぼっていた。
山壁の下から湧く水は、屋根の付いた水くみ場へ集められ、そこから細い石の水路で薬草畑とモンスターの水飲み場へ分けられていた。
柵の外を走る野生のモンスターには、村人が風下から香りの強い煙を流し、畑へ近づかないよう進路を変えている。
るいは、草地のモンスターを指した。
「あのモンスターも、提灯持ちと契りを結んでるの?」
「いや。畑の周りで飼ってるんだ。草を食べてもらい、ふんは畑の肥料にする。乳や毛が取れる種類もいる。うたばや見張りへ一緒に行ってもらう時だけ、契りの幽世で本人の返事を聞く」
行商人が答えるうちに、荷車はいくつもの窯が並ぶ作業場へ着いた。
一人の男が、焼き上がった壺を木槌で軽く叩いていた。音が濁った壺と、澄んだ音の壺を別の棚へ置いている。
「円司さん、灯寄村から相談だ」
行商人が声をかけた。
男は木槌を置き、火燕から紹介状を受け取った。るいはその隣で名乗り、自分も十五歳の野良であることを先に伝えた。
「久瀬円司だ。ここの壺を作って、契りの場を見張っている」
火燕は名乗り、灯寄村の壁と見張りの不足を説明した。
「見張りを手伝ってくれるモンスターと話し、仲間になってもらう方法があると聞きました」
円司は、二十四人と十一人という数字まで読み、紹介状を畳んだ。
「壺で運べることと、見張りを頼めることは別だ。まず、そこから話そう」
「はい。その違いを教えてください」
「やすらぎの壺は、モンスターを眠らせて運ぶための入れ物だ。入れる相手を一体決めて蓋を向ければ、壺の光が相手まで届く。元気な個体も、うたばの主も必ず中へ入る。壺の中では眠り、怪我と疲れが少しずつ治る」
円司は、棚の壺を指で回した。
「捕まえる前に見た動きを記録し、目を覚ました後の動きと比べる。歌や薬の影響が消えても人を襲うのか、人の近くで飼えるのか、危険だから倒すしかないのかは、その時に判断する」
るいが、斜面の草地を振り返った。
「人を襲わないモンスターなら、契りを結ばなくても、あの草地で飼うの?」
「そうだ。食べる草、取れる毛や乳、荷を引けるかを見て、合う飼育場へ移す。ふんは肥料にする。寿命で死んだモンスターも、食べられる種類なら肉を取り、皮や骨も捨てない」
「怪我が治っても人を襲い続けるモンスターは?」
「里へ置けば誰かが襲われる。怪我が治った後も、人に近づくたび襲うなら倒す。契りの返事と、人の近くで飼えるかどうかは別に判断する」
「壺や食料を使って運んだ以上、最後まで扱いを決める。契りを結ばないなら、合う飼育場へ移すか、危険なら倒す」
るいは、うたばの主についても尋ねた。
「主でも、壺を使えば捕まえられるんですか」
「入る。主を倒すか捕まえるかは、仕事と持っている壺で決めろ。捕まえたなら、ほかのモンスターと同じように、壺へ入れたまま意思を確かめられる」
火燕は、輪形の岩と草地を順に見た。
「契りで確かめるのは、提灯持ちと一緒に動いて、うたばへ入ったり、見張りの呼びかけを聞いたりする気があるかどうかですか」
「そうだ。飼えるモンスターと、契りを結べるモンスターを同じにするな」
「そのモンスターに、どうやって聞くんですか」
円司は、盆地の奥に立つ輪形の岩を指した。
「あの岩の内側に、人とモンスターの意思が通じる場所がある。こちらでは、契りの幽世と呼んでいる。名前だけ聞いても分からないだろう。運べるモンスターがいれば、そこで実際に確かめる」
るいが尋ねた。
「何も言わなかったら、受け入れたことになる?」
「ならない。怖くて動けないのか、傷で返せないのかもしれない。受け入れたと分かる返事がなければ成立させない」
るいは、その一文を記録帳へ書いた。
火燕は岩の輪を見た。中には、向こう側の草地が普通に見えている。
「今、入っても何も起きないんですか」
「人と、モンスターが入った壺と、提灯精霊がそろった時だけ道が重なる。蓋は開けない。眠っている相手の意思へ、提灯精霊が道をつなぐ」
円司は棚から、小さな壺の破片を取った。黒い線が二重に巻かれている。
「捕獲に使えるやすらぎの壺は、この印がある。壺土の穴で見つかるが、必ず落ちているとは限らない。相手を一体選んで使えば、白い光が曲がってでも届く。速い相手でも外れず、相手の強さにかかわらず入る」
円司は別の棚から、同じ印のある空の壺と、一枚の記録を出した。
「正宗も、ここへ来た。歌が壺の外にいるモンスターだけへ働くのか調べたいと言っていた」
火燕は記録を読んだ。
正宗と円司は、壺土の穴で脚を怪我した、草を食べる小型のモンスターを一体運んだ。壺へ入る前は歌が聞こえるたび同じ壁へ向かったが、中へ入ると眠って動かなくなった。
契りの幽世で伝わってきたのは、提灯持ちとうたばへ入ることも、見張りをすることも嫌だという気持ちだった。ただ、人の近くで草を食べることには強く怯えていない。二人は傷が塞がるまで休ませ、輪守の柵で囲った草地へ移した。
「この空の壺は、正宗が調査に使った物ですか」
「そうだ。壺から出して歌を聞かせると、また同じ方へ進もうとした。正宗は、その動きとほかの土地を比べると言って出た。行き先までは聞いていない」
記録に歌の主や居場所は書かれていなかった。ただ、壺へ入れる前と、目を覚ました後に同じ動きをしたため、入口を吹く風や、目の前の道の形だけが原因とは考えにくい。
「弱らせなくても入るなら、戦わずに壺を使ってもいいんですか」
「いい。壺の光は外れない。戦わずに近づけるなら、その方が怪我をする者も出ない」
火燕は壺の印を覚えた。
その日は、円司から壺の扱いと戻った後の手順だけを教わった。長い山道を来た直後にうたばへ入らず、火燕とるいは里の宿で休んだ。
翌朝、二人が向かった壺土の穴は、里の北側にある粘土採り場から入るうたばだ。円司も入口まで同行し、中で見分けるべき壺と、戻った後に置く場所を説明した。
「今日は、壺を一つ見つけたら戻れ。契りを急いで、運ぶ相手まで捜すな」
「壺を一つ見つけたら、戻ります」
「それでいい」
火燕とるいは、それぞれの提灯精霊と一緒に入口を越えた。
中は湿った土の匂いがした。壁は黄土色で、指で押せば少し跡が付く。通路の脇に、自然に埋まったような壺がいくつも並んでいた。
一つずつ掘り出し、黒い二重線があるかを見る。最初の二つは普通の保存壺だった。三つ目には細いひびが入り、使えそうにない。
三階の小部屋で、ようやく印のある壺を見つけた。
火燕は布で泥を拭い、蓋が動くことを確かめた。るいが円司から見せられた印と見比べる。空の壺なのに、持ち上げると底の方で冷たい風が回る。
「これだと思う」
「円司さんの壺と、同じ印だよ」
「うん。今日はこれを持って帰れば、目的は果たせる」
火燕は壺を荷へ固定し、来た道へ戻ろうとした。
その時、壁の向こうで土が崩れた。
細い鳴き声が続く。
火燕は音のする脇道へ入った。行き止まりの壁が崩れ、赤茶色の四つ脚が下半身を挟まれている。
火燕の膝ほどの高さしかない、犬に似たモンスターだった。灰や消し炭を食べる灰喰い犬の幼体で、幼いものはオキビ仔と呼ばれる。背中は炭のように黒く、耳の先に赤い火が灯っていた。この個体だけは額に白い炎の形をした毛があり、尾の先の火が二又に分かれている。
火燕を見ると、オキビ仔は牙をむいた。しかし飛びかかることはできない。後脚の上に粘土の塊が載っている。
「今、脚の上の土をどける。怖いだろうけど、少しだけ動かないでくれ」
言葉が通じた様子はない。
火燕は盾をオキビ仔との間へ立て、土をかき出す小さなへらで粘土を崩した。輝夜が手元を照らす。るいは盾が倒れないよう後ろから支え、コハクへ通路を見張らせた。
「後ろはあたしが見る。火燕は脚の上だけ崩して」
土を半分ほど除いた時、遠くから歌が聞こえた。
女の声に似た、言葉のない歌だった。
オキビ仔の耳が立った。牙を見せていた相手から目を外し、行き止まりの壁へ向かって体をよじる。後脚から血が出ても、東側の土を掻くのをやめない。
「そっちは壁だ。出口は反対だぞ」
オキビ仔は火燕を見なかった。
輝夜が震えながら、オキビ仔の前へ光を落とした。それでも、歌の方へ進もうとする。
火燕は残りの土を崩した。オキビ仔は自由になった途端、傷ついた後脚で壁へ突進し、倒れた。
このまま放せば、立てなくなるまで同じことを繰り返す。
火燕はやすらぎの壺を荷から外した。
「円司さんの所まで運ぶ。まず脚と、この歌の影響を診てもらう」
意味は伝わっていない。火燕は入れる相手をオキビ仔に決め、壺の蓋を向けた。
蓋の内側から白いひものような光が伸びた。オキビ仔がよろめいて横へ動いても、光は曲がって追い、赤茶の体を包んで壺へ収めた。
蓋が閉まる。
中から物音はしなかった。壺へ入ったオキビ仔は、すぐ眠りに落ちていた。
火燕は壺を両腕で抱えた。るいが長い帰り道の巻物を開き、二人と二体の精霊が触れていることを確かめてから読んだ。
入口の外へ戻ると、円司がすぐに壺を受け取った。
「何が入っている」
「オキビ仔です。崩れた壁に挟まれていたので助けました。そのあと歌が聞こえると、怪我をしているのに壁へ進もうとしました」
「壺へ入れる前に、攻撃したか」
「していません。向こうも、牙は見せましたが、わたしへは来ませんでした」
「火燕が土を掘っている間、あたしが盾を支えていました。歌が聞こえた後は、オキビ仔は東の壁しか見ていません」
円司はうなずき、壺を厚く敷いた乾いた草の上へ置いた。
「捕まえる前の動きは分かった。今夜は蓋を開けず、このまま眠らせる。やすらぎの壺が脚の傷と疲れを治す」
円司が壺の底へ手を当てると、内側で淡い光がゆっくり回っていた。
翌朝、円司は蓋を閉じたまま壺の光を確かめた。赤かった傷の印は薄れ、眠りも穏やかになっている。円司は火燕、るい、輝夜と一緒に、オキビ仔の入った壺を輪形の岩へ運んだ。
円司は壺を岩の中央に置いた。
「火燕。壺へ手を置け。輝夜は、その手と壺を照らしてくれ」
火燕が右手を壺へ当てると、輝夜がその上へ降りた。
「何を言えばいいですか」
「決まった文句はない。相手が何を望むか聞く。自分が何を頼みたいかも隠さない。返事を聞くまでは、蓋を開けるな」
輝夜の光が火燕とオキビ仔を包んだ。
足元の草と山の音が遠のいた。
火燕は、言葉ではない感覚を受け取った。
湿った土。遠ざかる仲間の匂い。背中を引かれるような歌。進みたくないのに、脚だけが動く怖さ。暗く、静かに眠れる場所へ行きたい気持ち。
オキビ仔にも、火燕の側のものが伝わっている。
壊れた柵。夜の見張りが足りない村。父を捜す火燕。歌の方へ進ませたくないという思い。
火燕は、頭の中で問いかけた。
――灯寄村の門で、近づくモンスターを教えてほしい。一緒に来てほしい。
オキビ仔から、怖がる気持ちと、嫌だという返事が返った。
――閉じ込められる。戦わされる。群れへ戻れない。
火燕は急いで条件を変えた。
――嫌な相手とは戦わなくていい。群れを捜す。見つかった時に戻りたいなら止めない。門には、眠れる場所を作る。
オキビ仔は、火燕の記憶を確かめるように、村の門と崩れた壁の光景を何度も見た。
やがて、別の感覚が返った。
夜の門。火燕と輝夜の匂い。近づくものを先に見つける。歌に引かれた時、呼び戻してもらう。
火燕は、それでいいと返した。
火燕とオキビ仔の気持ちが通じると、その周りにあった輝夜の光が強くなった。
草と山の音が戻る中で、輝夜の丸かった頭に髪が現れた。両手の指と服の袖も前よりはっきりし、遠目にも人の少女の姿だと分かるようになる。
契りの幽世が消えると、壺の蓋が内側から一度鳴った。円司が蓋を開ける。
オキビ仔は乾いた草の上へ降り、自分の脚で立った。火燕から三歩離れた所に座り、耳をこちらへ向けている。
「火燕、この子はここにいるよ」
「うん。自分で残ってくれたんだな」
二又に分かれた尾の火が、火燕の返事に合わせて揺れた。同じオキビ仔が群れにいても呼び分けられるよう、火燕はしゃがんで尋ねた。
「お前を、ホムラと呼んでもいいか」
輝夜がその名と、火燕の頭に浮かんだ明るい炎をつないで伝える。ホムラは少し考えた後、火燕の手へ鼻を押しつけた。二又の火が一度、大きくなる。
「気に入ったみたいだね。ホムラ」
輝夜が呼ぶと、ホムラは耳を向けた。
火燕は返事をしてから、輝夜の姿と今の言葉にもう一度驚いた。
「輝夜、今、途中で言葉を探さなかったな。それに、指も髪も前よりはっきりしてる」
輝夜は両手を見て、指を一本ずつ動かした。
「さっきは、火燕の考えていることと、ホムラが怖がっていることが、両方とも聞こえたよ。光が弱くならないようにしていたら、体まで変わったみたい」
「ホムラが嫌がっていることを輝夜が伝えてくれたから、頼み方を変えられた。輝夜がいなかったら、約束するところまで行けなかったよ」
輝夜はホムラを見た。
「火燕も、最初の頼みを押し通さなかったよ。だからホムラが残ってくれたんだと思う」
輝夜はホムラの耳の間へ手を置こうとした。ホムラが先に鼻を寄せると、笑って手を引いた。
二つの違う気持ちをつないだ後、輝夜は三つ目の姿へ成長していた。
円司は、輝夜から輪形の岩へ流れていた光を確かめた。
「俺が立ち会った契りで、提灯精霊まで姿を変えたのは初めてだ。理由を考えるのは後にしろ。今はホムラを休ませる」
るいは、髪と指がはっきりした輝夜を見つめた。
「前より長く話せるようにもなってる。落ち着いたら、何が見えたのか聞かせて」
「うん。ホムラが嫌だと思っていたことも、ちゃんと話すよ」
輝夜は、るいの記録帳を指した。
「いいよ。でも、わたしにもあとで見せて」
るいは目を丸くした後、笑った。
「今度は輝夜が記録を確かめるんだ」
円司は火燕へ尋ねた。
「互いに、何を頼んだ」
火燕は、門の見張り、群れの捜索、戦いを強制しないことを順に話した。
「分かった。今の内容を、立ち会いの記録へ残す」
「円司さんには、わたしたちの気持ちも伝わっていたんですか」
「気持ちまでは伝わらん。契りが成立したことは光で分かるが、何を約束したかは、今の説明を聞くまで分からない。だから、立ち会った者へ話してもらう」
円司はホムラの前へ水の器を置いた。
「壺の中で傷は塞がった。今日は里の坂を歩かせて、痛みが戻らないかを見る。問題がなければ、明日の朝に灯寄へ戻れ」
火燕とるいは里の宿に泊まった。
夕食の後、二人は円司の工房を借り、土で汚れた記録帳と布を火の遠くへ干した。円司は欠けた壺の縁を削っていた。
るいが、昼に書いたページを見た。
「返事がなければ成立させないって、ずっと最初から決まってたの?」
「俺が見習いの頃は、そこまで細かくなかった」
円司は削る手を止めなかった。
「俺が、動かないモンスターを見て、おとなしいやつだと決めた。壺から出した途端、そいつは逃げようとして岩へぶつかり、脚を折った。怖くて動けなかっただけだと、その時になって分かった」
「それで、今のやり方に変えたんですか」
「同じ見間違いをしないよう、壺から出す前後の様子を見て、飼育場へ移せるか確かめる手順を増やした。契りはそれとは別だ。返事がなければ成立させない」
円司は削り終えた壺を棚へ置いた。
「二人も、相手が黙った時に都合のいい返事を足すな」
「同じ間違いをしないための手順なら、記録してもいいですか」
るいは円司の返事を待ち、筆先を紙から浮かせた。
「俺の失敗も書け。動かないことを、受け入れた返事にしない。それが分かればいい」
るいは、失敗と、そこから増えた確認手順を続けて記録した。
宿へ戻る道で、るいは火燕へ言った。
「前に、試験で見せられるように記録してるって話したよね。でも、前は深く行った数字ばかり増やそうとしてた。今日、ホムラを置いて壺だけ持ち帰っていたら、目的どおりではあったけど、ずっと気になったと思う」
「壺を持ち帰ることと、怪我をしたホムラを助けることの両方ができた」
「一人だったら、どちらかしかできなかったかもしれない。あたしが後ろを見て、火燕が土を掘ったから間に合ったんだね」
火燕は昼の崩れた壁を思い出した。
「わたしも、父に習ったことならできる。でも、一人で決める時は、本当にこれでいいのか怖くなることがある」
「石抱き坑で、奥へ行かないって先に言ったのは火燕だったよ」
「るいも食料を見て、同じ判断をしてくれた。一人だったら、父の印を見つけた勢いで進んだかもしれない」
るいは少し黙り、やがて火燕の隣へ歩幅を合わせた。
「じゃあ、二人で潜る意味はあったね」
「うん。あった」
その日、円司はホムラを里の中だけ歩かせ、坂を上り下りした後の呼吸と脚を見た。夕方まで痛みも出ず、食事を終えると自分から火燕のそばで丸くなった。
翌朝、ホムラは火燕の後ろを歩いた。荷車へ乗せようとすると嫌がったため、行商人は速度を落として山道を下った。
灯寄村へ着くと、門の作業をしていた村人たちが手を止めた。
「そのモンスターも、一緒に戻ってきたのかい」
「ホムラが、自分で一緒に来ると決めました」
火燕は澄へ、契りの幽世で確かめた条件を報告した。
澄はホムラから距離を取り、しゃがんだ。
「門のそばに寝場所を作ろう。怖がる者がいる間は、柵で区切る。見張りのない時間をどこで過ごしたいかも、聞いてやっておくれ」
火燕はホムラへ問いかけた。言葉では返らないが、契りを通して、門と火燕の近くにいる意思が伝わった。
「ここにいたいそうです。ただ、群れを捜す約束があります」
「なら、群れを捜しに行く日を決めな。約束したまま放っておくんじゃないよ」
門の内側に乾いた草を敷くと、ホムラは三度匂いを嗅いでから、その上へ丸くなった。
店主が干し肉を一切れ持ってきた。火燕が渡すと、ホムラはすぐ食べた。
「これは、無事に着いた祝いだよ。見張りの仕事をした日の餌代は、村の仕事代から出すことになってる」
店主の説明を聞き、火燕は干し肉をもう一度小さくちぎってホムラへ渡した。
「働いた分は、ちゃんと食べていいって」
その夜、ホムラが突然起き上がり、北側へ低く唸った。
見張りが灯りを向けると、柵の外をシオカジリが二匹、食料庫の匂いを追って歩いていた。群れではない。歌も聞こえない。
人間の見張りが気づくより早かった。
シオカジリを追い払った後、澄は見張り表の門の欄へ、小さな赤い札を一枚置いた。
十一枚しかなかった札が、十二枚になった。
## 第四章 道を増やす
ホムラが灯寄村の門で初めて見張りをした翌朝、火燕とるいは輪守の里へ戻る日を相談した。三度目の進化を終えた輝夜は、「は」や「を」を入れた短い文で話すようになっていた。
### 一 群れを捜す
やすらぎの壺で治った後脚には、腫れも痛みも戻らなかった。門で一晩見張った翌朝、ホムラは村の坂を自分から走って上り、火燕の所へ戻ってきた。
火燕は、最初の契りで交わした群れを捜す約束を、先延ばしにしないことにした。
朝、二人が輪守の里へ向かう支度を始めると、ホムラは自分から門の外へ出た。
「群れを捜しに行こう」
輝夜がホムラの耳の上を照らした。
「わたしも一緒に捜すよ」
るいは記録帳を荷へ入れた。
「群れが見つかったら、近づくのは火燕とホムラに任せる。あたしは帰り道を見てるよ」
今回は行商人の荷車がなかったため、火燕とるいは山道を歩いた。途中で雨に降られ、輪守の里へ着く頃には二人の雨よけの上着の裾が泥だらけになっていた。
円司は作業場の屋根の下で、輪形に焼いた土台の部品を乾かしていた。
「脚は治ったようだな」
「走れるようになりました。群れを捜すために来ました」
「今日は山道を歩いてきた。穴へ入るのは明日だ。脚を洗って休ませろ」
火燕とるいはホムラの脚を洗い、里の宿で一晩休んだ。
翌朝、二人が作業場へ行くと、円司は乾いた土台の部品を指した。
「灯寄村でも、壺の中のモンスターと契りの幽世へ入れるようにする道具だ。契り標という。毎回ここまで壺を運ばずに済む」
「約束したなら、先にそれをやれ。壺土の穴は、前回から入口の形が変わっている。中で匂いを追えるかは、ホムラ次第だ」
円司は乾かしていた契り標の部品を指した。
「群れのことが済み、食料と帰りの時間に余裕があれば、十二階の稀地の手前を見てきてほしい。九ツ芯の女王が捨てた古い繭が落ちていれば、この標へ使える。巣の内側へ入って取りに行くな。なければ、そのまま戻れ」
「先に群れを捜します。その後で、全員が続けられる時だけ、稀地の手前を見ます」
火燕とるいはホムラと一緒に、壺土の穴へ入った。
前回は湿った坂道だった一階が、今回は広い粘土の部屋になっていた。ホムラは床、壁、通路の分かれ目を順に嗅いだ。
三階で、ホムラが右の通路へ走った。火燕、るい、輝夜が後を追う。
通路の先から、同じ赤茶色のモンスターが二匹現れた。成体の灰喰い犬と、もう一匹のオキビ仔だった。
成体は火燕たちへ牙をむいた。火燕は小刀へ手を掛けず、その場に止まった。るいも白墨を持った手を下ろし、コハクへ少し後ろへ下がるよう合図した。
火燕と契りを結んだホムラが、二匹の間を行き来した。鼻先を触れ合わせ、尾を振り、時々こちらを振り返る。
火燕には、懐かしい匂いと安心が伝わってきた。群れは生きていた。
「戻りたいなら、ここで戻っていい」
ホムラは成体のそばへ寄った。火燕は待った。
しばらくすると、ホムラはもう一度火燕の所へ戻り、足元へ鼻を押しつけた。それから群れの方へ短く鳴く。
群れと別れる寂しさと、今は火燕と灯寄村へ戻るという意思が、契りを通して続けて伝わった。
るいには契りの感覚までは届かなかった。それでも、ホムラが一度群れへ戻った後、自分の足で火燕の所へ来たことは見えた。
「今のは、火燕が呼んだからじゃないよね」
「うん。ホムラが、自分で戻ってきた」
るいは、群れを見つけた時刻と、ホムラが再び火燕へ触れたことだけを書いた。
「分かった。ここへ来る道は、また捜そう」
成体が道を譲り、群れは別の通路へ去った。
次の広い部屋へ入ると、土色のモンスターが三匹、別々の穴から現れた。前と左右を塞がれ、火燕とるいは背中を合わせる。
ホムラが、今まで聞いたことのない高い声で鳴いた。
横穴の暗がりから成体の灰喰い犬が飛び出し、正面の一匹を床へ倒す。別れたはずのオキビ仔も右から駆け込み、二匹目の脚へ噛みついた。ホムラは三匹目へ体当たりする。火燕たちが一度ずつ武器を振るより早く、三匹は群れに押さえ込まれ、どれも動かなくなった。
「群れ、見えない所からついてきてたんだ」
るいは三匹が起き上がらないことを確かめ、記録帳へ「群れの援護」と書いた。
火燕には、別れた後も見守っていたことと、ホムラの呼び声が届けば助けるという群れの意思が伝わった。成体はホムラの額へ鼻を触れ、もう一匹のオキビ仔は二又の尾火へ自分の火を重ねた。二匹の赤い火は幾つもの火花へ分かれ、群れが走るように床を一周してから、ホムラの額と尾へ吸い込まれる。
輝夜は、火の流れを見ながら火燕へ言った。
「二匹が、群れへつながる火を分けたよ。ホムラが呼んだ時は、襲ってくる敵と同じ数の姿に分かれて走るって」
「別のうたばでも?」
「うん。ホムラの尾に残った火が、部屋にいる敵を一匹ずつ追うの」
成体はもう一度ホムラの額へ鼻を触れ、今度こそ別の通路へ消えた。
群れが見えなくなってから、火燕とるいは自分たちの傷、食料、帰りの時刻を確かめた。ホムラは自分で歩き、契りからも強い痛みは伝わってこない。帰りの食料も残っていた。
「約束は果たせた。まだ時間がある。稀地の手前だけ見てから戻ろう」
火燕たちは、出発前に決めた第二の仕事として、壺土の穴の深い方へ進んだ。
十二階の稀地は、天井まで白い糸に覆われていた。
中央には、九つの赤い灯りを腹へ持つ巨大な蛾が止まっている。輪守の人々が九ツ芯の女王と呼ぶモンスターだった。
火燕たちは門柱より内側へ入らず、外へ落ちた糸だけを調べた。輝夜が門柱の陰を照らすと、乾いて茶色くなった繭の塊が一つ挟まっている。新しい巣から切り離され、女王の糸ともつながっていなかった。
るいは円司から聞いた条件と見比べた。
「古くて、巣とは切れてる。これなら取っていいと思う」
火燕が棒の先で繭を門柱の外へ落とす。女王は一度だけ羽を開いたが、三人が内側へ入らないのを見ると追ってこなかった。
火燕たちは乾いた繭だけを布で包み、稀地から離れた。女王を倒すことも、巣の新しい糸を切ることもしなかった。
地上へ戻ると、円司は繭を広げ、両側から指で弾いた。るいは普通の布を隣へ張り、同じ強さで叩いた時の聞こえ方を比べた。
「音を吸う。薄く裂いて重ねれば、布にできる」
「歌にも使えますか」
「弱められるかもしれない。ただ、頭から被って前が見えなくなれば、うたばでは別の危険が増える。今はどんな働きがあるかだけ、記録しておこう」
円司は古い繭を無響繭布に加工し、火燕へ渡した。すぐ使う予定はないため、火燕は灯寄村へ戻って倉庫へ預けることにした。
三人はその夜を輪守の里で休んだ。翌朝、円司も一緒に山を下りた。完成した契り標を、灯寄村の中央広場へ設置するためだった。
るいは円司の荷から土台の一つを受け取り、坂では火燕と交代して運んだ。
「ここでも、壺の中の相手と意思を通わせられる。頼む条件を受け入れるかは、相手の返事を聞け」
澄は、中央広場のどこへ標を置くか、縄を地面へ置いて場所を示して待っていた。
「門に近い方が、捕まえたモンスターを運びやすいと思います」
「近すぎる。壺から出したモンスターの怪我や様子を確かめる囲いと、門を通る人が重なる」
試しに空の荷車を通すと、内側の車輪が標の土台へ当たりそうになった。
「このままでは、荷車と治療場の囲いがぶつかるね。標を道の外へ寄せよう」
澄が道の端を示し、円司は縄の印を西へ二歩分移した。もう一度荷車を通すと、車輪と囲いの間に人一人が歩ける隙間が残った。
「ここなら運び込む壺と、門を通る荷車が重ならない。土台を据えるぞ」
るいは、最初の位置に車輪が近づきすぎたことと、西へずらした後の通路幅を記録帳へ描いた。
火燕と輝夜が標へ光を入れると、輪形の土台の内側が一度だけ白く曇った。以後、灯寄村でも捕獲したモンスターの意思を確かめられる。
円司は翌日まで標の光を確かめてから、輪守の里へ戻ることにした。火燕、るい、ホムラも山道を一緒に上り、その日は里で休んだ。
### 二 重ねる道具
石壁の工事が進むと、門や見張り台へ使う鉄が足りなくなった。
輪守の里の近くには、古い炉の跡が何列も続き、鉄や武具が見つかりやすいうたばがある。重ね炉と呼ばれるその場所では、拾った武具を持ち帰っても、傷んだ刃や柄が多く、そのまま城の道具には使えなかった。
円司は火燕の小刀を見た。
「重ね炉には、同じ系統の品どうしを一つへまとめる壺が出る。力合わせの壺だ。剣なら剣、盾なら盾、杖なら杖を入れられるが、違う系統の品どうしは混ぜられない。傷んだ道具を二つ捨てるより、使える所を一つへまとめられるかもしれない」
火燕は父から受け取った小刀の柄を握った。
「壺を見つけるまで、この小刀で進む必要があります」
「壺は六階までにある古い工房へ出やすい。二人の仕事は一つ見つけて戻るところまでだ。奥の稀地へは行くな」
次の朝、火燕は、るい、ホムラと重ね炉へ向かった。
入口は、山腹に残る崩れた炉だった。中へ入ると、床の溝を赤い火が流れている。部屋の形は変わっても、熱と鉄の匂いはどこまでも続いた。
火燕たちは、火を吐く小型のモンスターを避け、石の橋を渡った。るいは火の流れる溝が細くなる時を見て、安全に渡れる間を火燕へ知らせる。
五階の橋で、一匹が横道から火を吐いた。炎は火燕の盾を越え、るいの荷へ向かう。
ホムラが間へ飛び込み、口を大きく開けた。炎が吸い込まれ、耳と尾の火が一回り大きくなる。ホムラは火燕の合図を待ち、もう一度火を吐こうとした相手へ体当たりした。ため込んだ熱が弾け、小型のモンスターは橋の向こうまで押し戻される。
「火まで食べるなんて聞いてないよ」
るいが驚くと、ホムラは口から細い煙を吐いた。火燕のそばへ戻るまで、次の敵を追おうとはしなかった。
「今の力は、円司さんと澄さんにも報告しよう。城で火を吐くモンスターが来た時に役立つかもしれない」
六階で、鍛冶台と棚が並ぶ部屋を見つけた。
棚の奥に、口が二つ付いた壺がある。側面には、二本の線が中央で一本になる印が刻まれていた。
るいが壺を持ち上げ、円司から写してきた印と見比べた。
「力合わせの印と同じだね。先に入れた方が土台になるって、円司さんが言ってた」
るいは部屋に落ちていた小盾を、空の壺の片方の口へ当てた。もう片方へ短剣を入れようとしても、二本の線の片方しか光らず、蓋も閉まらない。
「盾と短剣では、始まりもしない。違う品を壊す壺じゃなくて、同じ系統だけを受け付けるんだね」
るいは二つとも取り出し、変化がないことを確かめた。
部屋の隅には、刃の厚い鉄の短剣が落ちていた。
火燕は自分の小刀と並べた。父から受け取った小刀の方が手に馴染む。しかし刃の厚みは、拾った短剣の半分ほどしかない。
「ここで使います」
火燕は小刀を先に壺へ入れ、次に鉄の短剣を入れた。
壺の底で金属が擦れる音がした。しばらくして蓋を開けると、短剣はなくなり、小刀の刃が厚くなっていた。柄と重さの中心は変わっていない。
火燕は二度振り、手首への重みを確かめた。
「父さんの小刀が、別の物になったみたいだ」
「それ、嫌?」
輝夜が尋ねた。
火燕は刃を鞘へ戻した。
「少し。でも、このまま使うよ。父さんも使ってた小刀だから」
火燕たちは、強くなった小刀と力合わせの壺を持ち、六階から来た道を戻った。火を吐くモンスターの声が近づいた時は、石橋を渡らず別の通路へ回る。追う足音がなくなったことを確かめ、その日のうちに輪守の里へ戻った。
円司はホムラの二又の尾火を見て、火をのみ込む前後の大きさをるいの記録と比べた。
「灰喰い犬は消えかけた炭を食う。だが、飛んできた炎を丸ごとのみ込んで、合図まで腹へためるオキビ仔は見たことがない。こいつの二又の火も、群れのほかの個体にはなかったな」
「同じ灰喰い犬なら、みんなできるわけじゃないんですね」
「少なくとも、俺が扱った個体にはいない。ホムラだけの力として記録しておけ」
円司の家で遅い夕食を取りながら、るいは壺の印と、小刀の厚みが変わる前後を記録帳へ描いた。ホムラは机の下で眠り、輝夜は火燕が何度も小刀の柄を握り直すのを見ていた。
翌日、三人は山道を下り、灯寄村へ戻った。
鍛冶職人は火燕の小刀を調べた。
「柄を残したまま、刃が厚くなってる。ほかの品でも、同じ系統どうしなら使えるな」
力合わせの壺は、灯寄村の鍛冶場で使うことになった。鍛冶職人が同じ系統の品を二つずつ入れると、剣は剣、盾は盾、杖は杖へ力がまとまる。持ち主の手に馴染んだ柄や握りも、土台となる品へ残せると分かった。
公認の提灯持ちは、力合わせで直した採掘道具を使い、重ね炉の浅い階から鉄を運ぶ仕事を再開した。火燕とるいは城の資材運びへ戻った。
火燕たちは二日間うたばへ入らず、城の軽い資材運びと、ホムラの見張り当番だけを受け持った。
### 三 壁の向こう
見張り台の土台ができた頃、澄は石抱き坑の地図を広場へ持ち出した。
「ここを見てください」
机にあるのは、石抱き坑の通常階ではなく、十階の先にある稀地の簡単な地図だった。稀地は形が変わらないため、前回の図と今回の図を重ねられる。
壁積み人形が現れた場所の向こうに、部屋一つ分の空間がある。壁を叩いた音と、外側から測った長さを合わせると、岩が詰まっているとは考えにくかった。
火燕は、最初に石材を運んだ時のことを思い出した。
「壁積み人形は、この壁から出てきました。倒した後には、穴も扉もありませんでした」
るいは、最初に規格石を運んだ日の記録を開いた。
「人形が出る前と、倒した後で、この壁の石の並びが変わってる。奥から出た後、自分でまた積んだように見えるよ」
澄は地図の空白へ印を付けた。
「中に部屋があるとしても、今の道具では稀地の厚い壁を壊せません」
石工は倉庫から、同じ形をした二本の岩掘り槌を持ってきた。一方は柄が割れ、もう一方は刃先が丸くなっている。
「どちらも一本では厚い壁を崩せない。力合わせの壺で、使える所を一つへまとめられないか」
鍛冶職人は柄の残った槌を先に、刃先の鋭い槌を後に入れた。壺から出てきた一本は、片側で岩を割り、反対側で土を掻き出せる。二人で持ち替えられる長さに柄を整え、掘削槌と呼ぶことにした。
翌朝、火燕とるいは掘削槌を持って石抱き坑へ入った。ホムラも同行した。
十階を越えて同じ稀地へ入り、前に壁積み人形が現れた壁と、地図に何も書かれていない場所を重ねて比べた。るいは門柱から歩数を数え、前の記録と同じ位置で止まった。壁を叩くと、一か所だけ音が軽かった。
火燕が掘削槌を構えた。
「十回ずつで交代しよう。握りが鈍くなったら、十回より前でも替わる」
二人は交代しながら壁を崩した。るいは打った回数だけでなく、火燕の指が槌から離れにくくなった時にも交代を知らせた。
岩の向こうから、下へ続く細い階段が現れた。
階段は、壁積み人形の縄張りの奥に隠された小部屋へ続いていた。そこも十階の稀地の一部で、透明な提灯硝子が壁から突き出し、輝夜の光を受けて白く反射している。
見張り台の灯りに使える素材だった。
火燕は硝子を包んでいる時、壁際に古い縄が残っていることに気づいた。結び方に見覚えがあった。正宗が荷を固定する時に使っていた結び方だ。
縄の端には、荷物に付ける札が引っかかっていた。濡れて、文字が薄くなっている。
『汐継港・組合連絡所預かり』
日付は、正宗が灯寄村を出る前日だった。
火燕はその札を布へ包んだ。
「汐継港って、どこだ」
るいが荷札の港印を指した。
「川を下った先の港町だよ。灯寄の荷もここへ送る。川船で二日くらい」
地上へ戻り、火燕は提灯硝子、縄、札を澄へ渡した。
澄は札の日付と、組合の印を確かめた。
「正宗さんは、灯寄村を出る前に汐継港へ荷を送る支度をしてる。本人が港へ行った証拠にはならない。けど、次は港の記録と比べるつもりだったらしいね」
その日は、荷札を見つけた場所と日付までを書いて汐継港へ追加の連絡を出した。
翌朝、組合の使いが汐継港から返事を運んできた。最初の襲撃の翌日に、澄が北の集落と川下の港へ出した問い合わせへの返事である。輪守の里からの分は先に届いていたが、港では歌を聞いた船頭が戻るたびに話を集めたため、まとめるまでひと月近くかかっていた。
三枚の記録を机へ並べる。
歌が始まった時刻は、どれも同じだった。聞いた人が書き留めた、歌が高く低くなる場所も似ている。
火燕は澄へ尋ねた。
「一人が、三つの場所で歌っているんでしょうか」
「そうかもしれない。ただ、地上の距離を考えると、普通の声じゃない。同じ歌をまねるモンスターが何体かいることも考えられる」
「港へ行けば、父さんの荷と、向こうの記録を調べられます」
「ああ。こっちから先に港へ連絡を入れる。すぐ出たいだろうが、川船で二日かかるんだ。提灯硝子を見張り台へ納めたら、今日は食料と寝具をそろえて休みな。出発はその後だよ」
### 四 海へ
翌朝、火燕とるいは汐継港へ向かう川船に乗った。
ホムラは船底へ乗るのを嫌がり、最初の半日は船の前で脚を踏ん張っていた。船が大きく揺れるたびに爪を立てるので、船頭が足元の板へ古い敷物を縛り付けた。
「板を削られるより、敷物一枚の方が安い」
船頭はそう言ったが、昼には干し魚を一切れ、ホムラへ渡していた。
灯寄村を出た川は、下るにつれて幅を増した。二日目の午後、潮の匂いが混じり始める。川の先に、帆を張る柱が何本も立ち、波止場と呼ばれる石造りの船着き場が見えた。
川船の荷を海船へ積み替える港。それが汐継港だった。
町の海側には、海水を入れた浅い塩田が何列も並んでいた。日と風で水を減らし、残った塩を集めて袋へ詰める。塩の袋は干し魚や縄と一緒に倉庫へ運ばれ、川船や海船へ積まれていた。上流から来た川船は、麦の袋や木材を下ろし、帰りにそれらの品を積んでいく。
灯寄村よりずっと人が多い。波止場では荷車が列を作り、倉庫の屋根の下で商人たちが行き先を叫んでいる。潮の混じる水路が町の中まで入り込み、小舟が橋の下を行き来していた。
水路の水は飲めないため、飲み水は潮の届かない上流でくみ、蓋をした樽で運ぶ。雨水をためる大きな水槽も、倉庫や宿の屋根の下に置かれていた。
火燕は、澄から預かった手紙を組合連絡所へ届けた。るいは石抱き坑と輪守の里で写した時刻の記録を添えた。
受付の組合職員は手紙を読み、水の多いうたばの入口がある東の波止場へ案内した。
「浜路千景さんが、装備の点検をしています。正宗さんと一緒に調査した提灯持ちです」
東波止場では、濡れた上着や縄が干し台へ並べられていた。その前で、一人の女が二本の縄を引き比べている。二十五歳ほどで、腰には組合札と短い槍を下げていた。
傷んだ方の縄を脇へ分け、女は火燕を見た。
「灯寄村から来た火燕と、あしかりるいだね。澄さんからの手紙は、今朝、組合連絡所で読んだよ。わたしは浜路千景」
「正宗の息子です。父と一緒に潜ったと聞きました」
「あたしは、灯寄村で火燕と組んでいる野良です。三つの土地で歌が聞こえた時刻を持ってきました」
「港の北にある、水没したうたばまで一緒に入ったよ。水底路と呼ばれてる場所だ。立ち話も何だから、座って話そうか」
千景は干し台の下から椅子を三つ出した。火燕とるいが座ると、輝夜が二人の膝の間へ降りた。
千景は輝夜を見て、少し間を置いた。
「澄さんの手紙に、輝夜も一緒だと書いてあったけど、その子がそうなのかい? 前に見た時は、人の形を持たない小さな光だったから、すぐには分からなかったよ」
「うん。わたしが輝夜だよ」
輝夜が答えると、千景は目を見開いた。
「言葉まで、こんなにはっきり話せるようになったんだね。正宗さんが沖割れへ入る前の輝夜は、短い言葉をいくつか話すくらいだったよ。正宗さんと別れた後のことは、わたしも見ていないんだ」
千景は順番に話した。
以前の大嵐から、沖の海流が変わったこと。嵐の後まもなく、水の多いうたばで女の歌が聞こえ始めたこと。歌の後、モンスターが沖側の通路へ集まったこと。
港の沖には、嵐で割れ、海から突き出た黒い岩場がある。その割れ目から入るうたばを、港の人々は沖割れと呼んでいた。
正宗は灯寄村と輪守の里の記録を持って汐継港へ来た。千景は水の深さや道を測る仕事をしている公認提灯持ちとして、水底路の案内を頼まれた。
「わたしは十八で組合へ入って、七年、水場で品を拾い、水の深さや道を測る仕事をしてきた。この槍で水際のモンスターを止める護衛も受けてる。水底路も、当時の入口から行ける所なら知ってたよ」
千景は正宗と入った時のことも話した。水路で三匹に追われた際、正宗は剣と盾で狭い道を塞ぎ、千景と荷運びの二人を先に岸へ戻したという。最後は巻物で自分も戻り、怪我は腕の切り傷だけだった。
「陸の道で正宗さんより前へ出られる人は、港にもほとんどいなかったよ。だからこそ、水の中まで一人で何とかしようとした時は止めたかった」
「父さんと、何を見たんですか」
「前にはなかった水路と、沖割れの方から入ってくるモンスターの群れを見た。それから、歌が強くなるたびに水が震える場所もあったよ」
「父さんは、その後、沖割れへ行ったんですね」
「うん。その後、沖割れへ行ったよ」
千景は隠さなかった。
「正宗さんは、港へ群れが出る前に、外側の狭い通路を崩せないか確かめると言ってた。それでわたしには、見つけた水路と群れの数を連絡所へ伝えてほしいと頼んだ」
「止めなかったんですか」
「応援を待つよう言った。正宗さんは、待っている間に群れが外へ出る方が心配だと答えた。わたしは報告を持って戻り、正宗さんは沖割れへ入った。正宗さんと話した最後の人間は、たぶんわたしだ」
火燕は膝の上で手を握った。
「その後、捜しに入りましたか」
「三組入ったよ。わたしも二組目にいたけど、水路が崩れていて、歌も前より強かった。入口から数階より先へ進めず、輝夜も正宗さんも見つけられなかった」
千景は火燕の目を見た。
「だから、生きているとも、死んでいるとも言えないんだ。わたしから話せるのは、そこまでだよ」
輝夜が火燕の膝へ触れた。
「正宗は岩を崩した。わたしは外へ出された。その後は見てない」
「父さんが輝夜を外へ出したのか」
「わたしを押して、逃げろって言った」
千景が輝夜へ尋ねた。
「崩れたのは、水が左右から入ってくる細い道だった?」
輝夜はしばらく考えた後、二度光った。
「水が両側から来る、狭い道だった」
「わたしたちが見つけた場所と同じかもしれない」
火燕は、すぐ沖割れへ行きたいと思った。だが三組が引き返した場所へ、道具も道も知らずに入っても同じ結果になる。
「今のわたしが沖割れへ入っても、父さんがいた場所までは行けませんか」
「今の装備では難しいね。まず、水の上を渡る道具と、水へ潜る道具が要る。港の南に浅瀬回廊といううたばがあるから、そこで水面の渡り方を覚えよう。その後で、わたしと一緒に水底路へ入ってもらう」
千景は濡れていない方の縄を火燕へ渡した。
「明日の朝、一緒に浅瀬回廊へ入ろう。その前に、食料の用意より先に、濡らしたくない物を分けておこうか。長い帰り道の巻物を一番外の袋へ入れたら、最初の水で使えなくなるからね」
火燕とるいは宿へ荷を置き、港の倉庫へ着替えと、持ち歩かない紙類を預けた。千景は二人が持つ記録用紙と巻物を油紙で二重に包み、袋の口を下向きに折った。
「紙と巻物は、こうして油紙で包んでおこう。服まで全部濡らさずに済ませるのは難しいからね」
「全部守れる包み方はないんですか」
「あるなら、わたしの上着が三枚も干してない」
るいは自分の記録帳を油紙へ包み、いつもの位置へ差した。コハクが外側の袋を三度照らし、千景も首を振った。
「コハクまで、そこはだめだって言うの?」
「そこは舟へ乗る時に水へ触れる。上着の内側へ入れて、陸へ上がってから書こう」
「進みながら書かないと、時刻を忘れませんか」
「水の上で記録帳を開いたら、時刻より先に字が消えるよ。覚えるのは一つか二つにして、安全な足場でまとめよう」
るいは少し不満そうだったが、記録帳を腰の外側から外した。油紙で包み直し、上着の内側で、舟へ乗り降りしても水面へ触れない高さに結び直す。
翌朝、火燕、るい、輝夜、千景、ホムラは、港の南にある浅瀬回廊へ入った。
入口の先は、石の回廊と浅い水路が交互に続いていた。最初の階は足首ほどの水だったが、三階では道の半分が深い水に沈んでいる。
千景は槍の柄を水へ差し、底までの深さを測った。
「ここは歩いて渡れないね。右から回れる道を捜そう」
るいが水の向こうを指した。
「向こう岸に階段が見えます」
「階段が見えても、今は渡らない方がいい。水の中に何がいるか、まだ分からないからね」
三人は陸側の道を進んだ。
七階で、壊れた渡し場へ出た。柱には、折り畳まれた木の板と革袋が固定されている。千景が留め金を外して広げると、一人と小型のモンスターが乗れる小舟になった。
「これは折り舟だよ。使う時だけ空気を入れて広げる。これがあれば、水面を渡れる」
火燕とるいは革袋へ空気を入れ、木板を固定した。千景が先に乗り、重心の位置を見せる。
「舟の上では立たないで。乗り降りする時も、一人ずつね」
ホムラは舟へ前脚を掛けたが、水面が揺れた途端に引っ込めた。
火燕が先に乗り、舟の底を叩く。
「あの敷物よりは滑らない。たぶん」
ホムラは火燕を見てから、低い姿勢で乗った。
「たぶんは余計だったね」
千景が綱を引き、舟を向こう岸へ渡した。るいは火燕とホムラが降りた後、一人で低く座って渡った。岸へ上がってから記録帳を開いたが、包みの端に水が付いている。
「書くのは、舟を畳んでからにしよう」
千景に言われ、るいは先に綱を巻いた。
それまで迂回していた水路を折り舟で渡り、火燕たちは浅瀬回廊の奥へ進んだ。
十八階の稀地は、陸より水面の方が広かった。中央の浮島に、大きなモンスターが伏せている。泥を背負った四つ脚の体と、横に開く大きな口。沈み沼の大主だった。
千景は水深を測り、今日はここで戻ろうと決めた。三人が折り舟へ乗ろうとした時、大主が水へ潜った。次に浮かんだのは、舟と帰りの水路の間だった。大きな口が舟の綱へ向く。舟を失えば、来た水路を戻れない。大主が起こした波から、小型の水モンスターも二匹、左右の岸へ上がった。
火燕は折り舟を浮島へ固定し、陸の狭い範囲で待った。るいは舟の綱を柱へ二重に回し、水面のどこが先に盛り上がるかを見張った。
水面の泥が盛り上がる。るいが右側を指すと、千景は火燕たちから二歩離れ、膝まで水へ入った。大主と二匹の小型モンスターが、千景の周り二歩まで近づく。
千景は槍の石突きを水底へ置き、体を軸に一回転した。長槍の穂先が三匹を一息に薙ぎ、その後を追って、輪になった水も三匹へ同時にぶつかる。小型の二匹は岸へ打ち上げられて動かなくなり、大主の顎の下には深い傷が走った。
「水が、全部の方向へ……」
るいは舟の綱を守ったまま声を漏らした。千景は答えず、大主へ槍を向け直す。
飛び出した大主の顎の下へ穂先を当て、一歩離れた場所から頭を陸側へそらす。そこへ火燕が盾をぶつけ、ホムラが陸へ上がった後脚へ噛みついた。
大主は再び水へ戻った。二度目は舟の綱を狙う。千景は浅瀬を横切って先回りし、綱を切られる前に槍を口へ差し入れた。火燕が横から小刀を入れると、千景は槍の柄を火燕の背へ回し、深い水へ落ちる前に浮島へ引き戻した。
何度か水と陸を行き来した後、大主は浮島の端へ倒れた。
口も脚も動かなくなり、濁った水が静まった。先に打ち上げられた二匹も起き上がらない。三人は浮島と水面を見回し、次の敵がいないことを確かめた。
「さっき、槍で水を丸く切った技は何ですか」
るいが尋ねると、千景は槍の穂先から泥を落とした。
「水切り。石突きを支えにして、二歩の間合いを一息で薙ぐ技だよ。乾いた床でも使える。今は三匹が中へ入るまで待ったから、水ごとまとめて払えたんだ」
巣には、竜骨材が積まれていた。木目が緩い弧を描き、当たった水を左右へ逃がす硬い木である。水を吸っても腐りにくく、船が波を切って進めるため、竜骨や船首に使われていた。
千景は竜骨材と、折り舟から外した普通の板を同じ角度で水路へ差し入れた。普通の板は流れに押されて腕ごと傾いたが、竜骨材は水を両脇へ分け、少ない力で同じ位置に保てた。
火燕も二枚を持ち比べた。重さの差ではなかった。竜骨材の方だけ、流れの中で前へ動かしやすい。
竜骨材と折り舟を持ち帰り、三人は一日休んだ。
次に入る水底路では、舟だけでは足りない。階段や通路そのものが水面下にあるからだ。
水底路の入口は、港の北側にある古い水門の下だった。
一階から膝まで水があり、壁には水位の跡が何本も残っている。千景は空気のある部屋を地図へ記し、るいは到着した時刻と水の深さを安全な足場で書いた。
「水の中では、息が苦しくなってから戻ると遅い。まだ半分残っているうちに引き返そう」
「父さんにも同じことを言いましたか」
「言ったよ。正宗さんも、潜水についてはわたしの方が上だと認めてくれていた」
「父さんでも、全部できるわけじゃないんですね」
「そうだよ。正宗さんも、水場ではわたしに任せてた。苦手なことまで自分でやろうとされた方が、一緒に潜る側は困るからね」
六階の浅い水没部屋で、水草に絡まった腕輪を見つけた。青緑の輪に、魚のひれのような薄片が並んでいる。
千景が水へ沈めると、薄片が開いた。
「水掻きの腕輪だ。腕に着けると、水の抵抗が減って泳ぎやすくなるよ。息はいつもどおり苦しくなるから、最初はこの浅い所だけで試そう」
火燕は腕輪を着け、浅い場所で試した。水へ顔を入れると、腕と脚を動かした分だけ体が素直に進む。服の重さは残り、息も普通に減る。
腕輪は一つだけなので、潜水するのは火燕と千景に絞った。るいはホムラと空気だまりへ残り、結んだ綱と出発時刻を見張る。
「次の合図までに戻らなかったら、あたしは綱を三度引く。それでも返事がなければ、入口へ戻って人を呼ぶ」
「頼む。戻ったら、向こうで見たものをすぐ話す」
千景の合図に合わせて水中の通路へ入った。
輝夜は水の中でも消えず、火燕のすぐ前を照らした。ホムラは潜らず、空気のある部屋で待つ。
最初の通路は短かった。水面へ出ると、火燕は壁へ手をつき、大きく息をした。
「今ので、半分くらい苦しいです」
「それなら、次からは今より短い所だけを選ぼう。腕輪があっても、火燕の息の長さまで変わるわけじゃないからね」
十階を越えた辺りから、流れが強くなった。壁の一部が新しく削れ、沖側から冷たい海水が入り込んでいる。
水面のない横穴の先に、千景が前には見なかった空間があった。
火燕と千景は、るいとホムラが待つ一つ手前の空気だまりで息を整え、短い綱で互いをつないだ。
横穴を抜けると、大きな骨と傷ついたモンスターの体が水底へ沈んでいた。骨の周りには別の歯形もあり、集まったモンスター同士が争ったように見えた。
岩の割れ目に、半透明のうろこに似たものが挟まっていた。人の手のひらより大きく、ガラスのような内側を淡い光が流れている。生き物の肉や皮には見えなかった。
千景が布で包むと、指先へ細い震えが伝わった。遠くから聞こえる歌と同じ調子だった。
千景は光のうろこを荷へ入れ、綱を二度引いた。戻る合図だった。
るいとホムラのいる空気だまりへ戻った途端、遠くから歌が聞こえた。
水面が細かく震える。
火燕は、光のうろこを見つけた横穴へ足を戻しかけた。歌が強くなる前に、この先を確かめなければならない。息も綱も整えていないのに、そうするのが当然に思えた。
輝夜が火燕の袖を両手でつかんだ。
「火燕、そっちは戻る道じゃないよ」
火燕は返事をせず、水へ片足を入れた。
輝夜が顔の前へ回り、火燕の視界いっぱいに光を広げた。
「わたしを見て。息を整えてから戻ろう」
火燕は足を止めた。横穴の先に空気だまりはなく、今入れば帰りの息が足りない。
るいも火燕の腕をつかんだ。
「今は息を整える所でしょ。あたしを見て」
「……助かった」
輝夜が火燕の額へ手を当てた。
「ここ、近い。正宗も来た」
「この先へ?」
「道は違う。でも、水の冷たさは同じ」
前に通った道はもう同じ形ではなく、輝夜に分かるのは、水の冷たさと流れに見覚えがあることまでだった。
千景は光のうろこを荷の奥へしまった。
「今日はここまでにして戻ろう。歌が聞こえた後、浅い方にいるモンスターがどう動くのかも確かめたい」
るいは記録帳を開かず、先に火燕の呼吸が落ち着いたことを確かめた。コハクも火燕の顔を照らし、目が輝夜を追っているのを見てから光を弱めた。
帰り道では、水の中で暮らすモンスターが沖側へ集まり始めていた。火燕たちは戦いを避け、空気だまりを一つずつ戻った。るいは陸へ上がるたび、全員がそろってから次の時刻を書いた。
地上へ出た時、火燕の上着も荷袋も濡れていた。油紙で包んだ長い帰り道の巻物は使えたが、外側に入れていた地図の一枚は文字が滲んでいる。
入口の石へ降りた輝夜の光が、もう一度強まる。髪と服が伸び、顔立ちも前より大人びていく。火燕の腕に収まるほど小さかった体は、人の子どもに近い姿まで育った。浮かんだまま移動し、腰から下に淡い火の尾が続くところだけが、人間とは違って見える。
千景は濡れた綱を外す手を止め、輝夜を見上げた。
「ちょっと待って。水へ入る前より、ずいぶん大きくなってない?」
るいも火燕の腕を離し、輝夜の髪と服を見た。
「今の言い方、途中で止まらなかったね。水へ入る前より、長い言葉がすぐ出てる」
輝夜は水たまりへ顔を寄せた。長くなった髪と、はっきりした顔が水面に映る。
「本当だ。声も、前より出しやすい。言いたいことが途中で引っかからないよ」
「輝夜、その姿でわたしの袖をつかんだら、今度は水へ入る前に止められそうだな」
輝夜は火燕へ向き直った。新しい姿を喜ぶより先に、眉を寄せる。
「火燕、さっきは呼んでも返事をしなかったよ」
「歌の先を調べないといけないと思い込んでた。止めてくれてありがとう」
「次は、水へ入ったらすぐ引き戻すね」
「できれば、入る前に頼む」
千景は二人のやり取りを聞きながら、火燕の呼吸と目の動きを確かめた。
「輝夜が止めてくれて助かったよ。あのまま火燕が水へ入ったら、わたしでも追いつけなかった」
「怖かったよ。何度呼んでも、火燕がわたしを見なかったから」
「それでも、顔の前まで来てくれた。輝夜があの横穴を隠してくれなかったら、わたしはそのまま水へ入ってたと思う」
輝夜は火燕の濡れた袖を、今度は力を入れずにつかんだ。
「火燕も、わたしを見た後は自分で止まったよ。戻ってくれて、よかった」
千景は輝夜と火燕を交互に見た。
「どうして姿まで変わったのかは、港へ戻ってから考えよう。今は二人とも濡れた服を替えておいで」
水底路から戻った輝夜は、四つ目の姿で火燕の濡れた袖を離さなかった。
千景は三人分の濡れた上着を干し台へ掛けた。
「今日は風があるから、夕食を食べてる間には少し乾くよ」
その夜、三人は波止場近くの食堂で遅い夕食を取った。るいの記録帳は、店の火から離れた棚で乾かしている。
「千景さんでも、最初は物を濡らしたんですか」
るいが尋ねると、千景は汁の器を置いた。
「最初の年は巻物を二枚、水筒を一つ、上着は数えたくないくらい濡らしたよ。水の深さばかり見て、舟へ乗る時に荷を落としたこともある」
「今日のあたしより多い」
「それから、巻物は油紙へ包むようにした。舟へ乗る前に荷の紐も確かめる。何度か濡らしたら、さすがに覚えたよ」
火燕は父の話を思い出した。
「父さんも、千景さんの指示を聞いていたんですよね」
「うん。水の深さや流れは、わたしの判断に任せてくれたよ。勝手に水へ入らず、わたしが止めた時は戻ってくれた」
るいは火燕を見た。
「今日、火燕が歌の方へ行きかけた時は怖かった。次に返事がおかしいと思ったら、火燕が平気だと言っても袖をつかむ。千景さんと輝夜にも確かめるから」
「頼む。今日みたいになったら、自分では気づけないかもしれない」
「約束ね」
食事が終わる頃には、るいの記録帳も開ける程度まで乾いていた。
火燕たちは、見つけた光のうろこと水路の位置を組合連絡所へ報告した。
光のうろこの正体は、まだ分からない。ただ、大嵐の後に開いた水路は沖割れの側へ続き、そこでは水の中で暮らすモンスターが何体も集まって争っていた。灯寄村、輪守の里、汐継港で聞かれた歌も、同じ場所から届いているらしい。歌い手の姿を見た者はいなかった。
翌朝、火燕とるいは竜骨材、水掻きの腕輪、光のうろこを持って灯寄村へ向かい、千景も同じ船へ乗った。川を上る旅は二日。村へ着くと、沖をさらに調べる前に三つの土地の記録を一枚ずつ並べた。
灯寄村では、石壁の土台と二つの見張り台の骨組みができていた。円司の契り標も使われ、守りに加わるモンスターが増えている。
澄は汐継港の報告を読み、地図の川下へ新しい印を付けた。
「歌は港の沖から来ているようです。でも、灯寄村の入口でも同じ時刻に聞こえます。遠く離れた入口へ、どうやって同時に届くのかはまだ分かりません」
「水底路の水路は、あの大嵐で開いたのかもしれません」
千景が光のうろこを机へ置いた。
「これが何の一部か分かれば、どんなモンスターが歌っているのか調べやすくなります。港の記録と図鑑を見てみます」
円司は無響繭布を光のうろこの上へ重ねた。うろこから伝わっていたかすかな歌の調子が、布の下で弱くなる。
「歌を止める物ではないが、体へ入る震えは減る。水で使える形にできれば、沖へ近づく助けにはなる」
澄は四人へ仕事を分けた。
千景は港に残る水のモンスターの記録と、光のうろこを比べる。円司は契りを結んだモンスターが歌を聞いた時の反応を確かめる。火燕は城の建材を運びながら、入口ごとに起きた変わったことを報告する。るいは三つの土地で歌が聞こえた時刻と、その直後にモンスターが向かった方を同じ表へまとめる。
## 第五章 完成した守り
汐継港から戻ってひと月、火燕が灯寄村へ来てからも二か月が過ぎた。その間に、村の姿は少しずつ変わっている。四度目の進化を終えた輝夜は、正宗と別れた夜のことを、覚えている順にゆっくり話し始めた。
ある晩、火燕、るい、千景は、水底路と沖割れの簡単な地図を床へ広げた。輝夜は地図の上を飛びながら、最後に正宗といた道を思い出した。
「細い道だったよ。左と右から水が入ってきて、足元で一つになっていた。正宗はわたしを来た道の方へ押し出してから、掘削槌で天井の支えを壊し始めたの。逃げろって言われた」
「父さんは、崩れる岩の向こう側に残ったんだな」
「うん。わたしが走った後ろで、大きな音がした。戻ろうとしたけど、道が石で塞がっていた」
輝夜は地図の上で両手を握った。
「正宗に逃げろと言われたから、外へ出た。でも、わたしは正宗を一人にした。戻れないまま火燕の家へ飛んでいる間、ずっとそれを考えてた」
火燕は、輝夜が家へ着いた夜の冷たい光を思い出した。
「輝夜が戻ってくれたから、父さんが灯寄村にいたと分かった。わたしも、ここまで来られた」
「うん。でも小灯道で火燕が囲まれそうになった時、また相棒を一人にするのが怖かった。水底路で火燕が歌の方へ行った時も同じ。置いて逃げたくないって思うたびに、体の奥が熱くなったの」
輝夜は、長くなった髪の先へ触れた。
「姿が変わったのは、その気持ちと関係があるのかもしれない。でも今は、怖いから火燕を追ってるだけじゃないよ。火燕と一緒に正宗を迎えに行きたい」
千景は、左右から水が入る細い道の印を地図へ加えた。
「これまでの捜索隊が確かめた浅い階には、こんな水の流れはなかったよ。もっと深い所まで残っている手掛かりだね」
るいは、輝夜が見たことと、千景が地図から確かめたことを分けて記録帳へ書いた。
輪守の里からは、石壁の隙間を埋める焼き土と薬が届いた。汐継港の船大工は、川側の扉と水門の作り方を教えた。灯寄村の大工と石工がそれを土地に合わせて組み直し、村人が資材を運んだ。
最初に輪守の里の荷車が着いた時、村人は焼き土だけを下ろして帰ろうとした。ところが、石壁の内側に作る救護所がまだ柱だけだと知ると、荷をしばっていた縄を解いて作業へ加わった。
「灯寄村から畑で使う鉄の道具が来なくなれば、うちの畑も止まります。薬を置くだけで、この村がなくなったら困りますから」
汐継港から来た船大工も、水門を取り付けながら言った。
「川上の灯寄村で荷をまとめてもらえなければ、港の船は空になる。ここの水路門は、港の仕事にも要るんだよ」
灯寄村からは、輪守の里へ鉄具を、汐継港へ切り出した木材とうたばで得た品を送っていた。輪守の里からは薬と焼き物、汐継港からは塩、干し魚、縄が届いた。
船大工は、水門の外に、荷下ろしを待つ川船をつなぐ浅い池も残した。広場の共同井戸や、城の中に作る火事に備えた水槽とはつながっていない。
工事は一度に終わらない。石壁の一段目が乾く間に火事に備えた水槽を掘り、雨の日は、城の中心になる本丸の屋根を支える太い木を削る。晴れれば見張り台へ木材を上げた。火燕とホムラが荷を運ぶ横で、るいは作業する人の交代時刻と、資材を置いてよい道を板へ書き込んだ。
雨で荷運びが止まった日、るいは火燕の破れた手袋を見つけた。
「そのままだと、縄を引いた時に手まで切るよ」
るいが縫っている間、火燕は折れかけていたるいの筆入れへ薄い木を当てる。二人とも慣れた作業ではなく、縫い目も木の形も少し曲がった。それでも次の日から、火燕はその手袋を使い、るいも直した筆入れを腰へ下げていた。
別の日の夕方、宿の主人が余った焼き芋を一つずつくれた。るいは甘い方を先に食べ、火燕は焦げた皮まで残さない。それを知ってからは、二人で分けるたび、るいが中身を少し多く取り、火燕が焦げた端を引き受けるようになった。
円司は、モンスターの寝床を壁から離して作らせる。夜の歌で苦しむ個体が出ても、人の逃げ道を塞がないためだ。千景は水路門を何度も開け閉めし、川から流れ込む枝が挟まる場所を船大工と直した。
浅瀬回廊から持ち帰った折り舟は汐継港へ送り返す。船大工が留め金、木板、革袋の形を写し、同じ大きさの折り舟をもう一艘作った。千景は二艘とも水へ浮かべ、綱をつないだ時に傾かないところまで確かめている。
昼の休憩で、るいが三人分の作業時刻を読み上げると、千景が笑った。
「円司さん、休んだ時間が一番短いよ」
「壺を焼いてる間は座ってた」
「それは窯を見ていた時間。休みには数えない」
るいが言うと、円司は黙って汁の器を受け取った。次の日から、昼に交代する人の表には円司の名も入った。
木柵の内側に石壁が立ち、南門には厚い扉が入った。二つの見張り台から、村の外と川側を見渡せる。広場の脇には火事に備えた水槽が作られ、火を使う家まで桶を渡す場所が決められた。
最後に、食料や道具を置き、怪我人を休ませる本丸と、提灯精霊の光を遠くから確かめられる提灯台が完成した。
第一襲撃の翌朝、澄が作ると宣言した灯寄城が、ようやく一つにつながった。
城といっても、偉い人が住む大きな建物ではない。村の中心を壁で囲み、襲撃の時に人と、蓄えてある食料や道具を守るための場所だった。
守りに加わるモンスターの寝床も、壁の内側へ作られた。
輝夜が南門の石段を指した。
「火燕、ホムラがまた同じところで寝てるよ」
ホムラは門のそばに敷かれた自分の乾いた草より、昼間に日が当たる石段を好んだ。石工が何度追っても、仕事を休む時間になると同じ段へ戻る。
「そこは、明日もう一段積む場所だ」
石工が言うと、ホムラは目だけ開けた。
火燕が別の石へ干し肉を置くと、ようやく移動した。
「門番の給金が、建築費へ入ってるぞ」
店主はそう言いながら、肉の端をもう一つ切った。
城の工事が進むその間にも、夜の歌は増えていった。
歌が聞こえると、契りを結んでいないモンスターは同じ入口へ向かう。契りを結んだモンスターも耳を伏せ、体をそちらへ向けるが、火燕や担当の村人が呼ぶと踏みとどまった。
円司は一体ずつ反応を記録した。城の見張りへ同じモンスターを続けて出そうとした村人を呼び止めた。
「呼べば止まる。だが、こいつはさっきから何度も歌に引かれてる。今日はもう下げる。休ませろ」
千景は川側の壁を見回り、水路から上がれる場所へ白い杭を立てた。
「正門は前より固くなったね。次に群れが別の入口を使うなら、水辺から来るかもしれない」
「歌い手に、城の形が見えているんですか」
火燕が尋ねると、千景は首を振った。
「そこまでは分からない。ただ、前の群れは正門側で止まった。歌の出所がモンスターの流れを感じ取れるなら、同じ道を避けるくらいはするかもしれない」
澄は水路側へ多めに人を置く案を出した。だが、正門を空けるわけにもいかない。
人とモンスターの持ち場を、次のように分けた。
正門は火燕と村の提灯持ち。水路側は千景と汐継港から来た提灯持ち。見張り台は目の利くモンスターと村人。るいは広場と救護所の間に立ち、人が交代する時刻と、逃げてきた人の数を確かめる。広場では円司が、疲れたモンスターをいつ交代させるか決める。澄は本丸前で、城全体の報告を受ける。
水路側には火矢を置かなかった。葦へ燃え移らないよう、汐継港の提灯持ちが持ち込んだ目印矢を使う。相棒の提灯精霊が矢羽へ光を分けると、矢は火がなくても、落ちた場所でしばらく白く光った。
澄は正宗が三つの土地で残した時刻の記録も見直した。歌が始まってから、まとまった群れが入口へ現れるまでには、短い時でも十五分ほどあった。
「歌が聞こえたら、まだ姿がなくても全員を持ち場へ呼びます。正宗さんの三回の記録では、群れが出るまで十五分から二十分です。ただし、今回も同じとは限りません」
見張りを呼ぶ基準が決まり、各持ち場まで走る時間も測った。
その夜、見張りへ出る前に、広場で全員が食事を取った。
宿の主人が大鍋で豆と根菜を煮ていた。緊張で食べられない者へ、店主が小さな器を渡す。
「残してもいい。何も食べずに壁から落ちるよりはましだ」
火燕は器を空にし、水を飲んだ。ホムラにも、塩を入れる前の肉が渡された。
るいは火燕の隣へ座り、二人で決めた戻る条件を記した小さな紙を見せた。
「門が破られたら、追わずに広場へ下がる。怪我をしたら、自分で軽いと思っても交代を呼ぶ。火燕の分も同じでいい?」
「同じで頼む。るいも、人数を数えるために外へ出ないで」
「出ない。終わったら、先に相手がいる所へ顔を見せに行こう」
火燕はうなずき、紙を二つに折ってるいへ返した。
澄は、壁へ上がる者が食事を受け取ったか一人ずつ確かめた。緊張で手を震わせていた若者には、最初の持ち場を交代要員へ替え、落ち着いてから壁へ上がるよう命じた。
澄が持ち場を一つずつ読み上げた。
「歌が聞こえても、確かめるために外へ出ない。門は勝手に開けない。怪我をしたら、隠さず交代を頼む。自分の持ち場から追いかけすぎない」
確認が終わり、火燕は正門へ上がった。
月が壁の上まで昇った頃、ホムラが立ち上がった。
川側を向いて、低く唸る。
次いで、歌が聞こえた。
前の襲撃より近い。低い音が石壁を伝い、足の裏まで震わせる。
見張り台から声が飛んだ。
「川側! 水路から来る!」
正門の外にもモンスターの影はあった。だが数は少ない。
火燕は門の提灯持ちへ言った。
「ここを任せていいですか。わたしは川側へホムラを送ります」
「任せろ。門は開けない」
火燕はホムラへ川側を示した。
ホムラは一歩進み、歌の方へ顔を向けた。背中の毛の火が大きく揺れる。
契りを通して、体を動かそうとする二つの力が伝わった。歌の方へ行こうとする強い力と、火燕が示した水路へ向かおうとするホムラ自身の気持ちだった。
「水路だ。千景さんの所へ行ってくれ」
輝夜がホムラの目の前を照らした。
ホムラは頭を振り、川側へ走った。
火燕は正門に残った。
外からシオカジリとサビカミが門へぶつかる。門板が鳴ったが、前の柵のようには倒れない。壁の上から長槍で押し返し、一か所に集まりすぎたところへ石を落とした。
川側では、水の中で暮らすモンスターが堀代わりの水路を越え、石壁へ取り付いていた。
千景は壁の上から槍を突き、登ってくる前脚を落とした。汐継港の提灯持ちが目印矢を岸側へ放つ。矢は葦の間へ落ちた後も白く光って、次に狙うモンスターの位置を示した。
ホムラが壁内の階段を上がり、千景のそばへ着いた。
一匹のモンスターが壁を越えた。ホムラが横からぶつかり、地上へ押し戻す。
歌が高くなった。
ホムラの体が固まり、壁の外へ飛び降りようとした。
千景はホムラの体をつかまなかった。無理に押さえれば、二人とも壁から落ちる。
「火燕は正門にいる! そっちじゃない!」
千景が名前と場所を叫ぶ。
ホムラは前脚を壁へ掛けたまま止まった。数秒後、自分で内側へ下りた。
広場では、円司が交代用のモンスターを出していた。
歌へ強く引かれているモンスターは、無理に壁へ送らない。灯りの少ない本丸へ移し、人間の声が届く場所で休ませる。
「東の見張り、一体下げる!」
円司の声を受け、澄は人間の交代要員を東へ回した。
「西はそのまま。水路へ桶を十。怪我人は本丸の中へ」
報告が一度に重なると、澄は聞こえた順ではなく、門が破られる危険の高い場所から答えた。
るいは本丸から戻り、澄へ声をかけた。
「避難した人は百八十六人。南の長屋の四人がまだ来てない。迎えは村人二人が向かってる」
「その二人が戻るまで、南の欄は閉じないでおくれ。次の交代は東を先に回すよ」
るいはうなずき、交代の村人へ東の壁を示した。
水路側の壁に、大きな衝撃が走った。
石の一部が崩れ、モンスターが二匹入り込んだ。三匹目も外から壁へ前脚を掛けている。
崩れた石で脚を打った村人が、広場へ運ばれてきた。るいは到着時刻を書こうとして、相手が自分で歩けないことに気づいた。
「記録はあと。肩を貸して」
るいは記録帳を閉じ、一度深く息を吸った。
「疾風迅雷!」
るいが地を蹴ると、その速さは十呼吸の間続いた。周りの者が一度動くたび、るいだけが二度動く。近くの村人と怪我人を救護所へ運び、空の担架を戻し、盾を持って本丸への道から人を退ける。救護所前へ戻ると、腰から早縄を外した。
千景は一匹目の横へ回り、槍で水路側へ押し返した。相手が前脚を上げたところで胸の下を突く。モンスターは水際へ倒れ、そのまま動かなくなった。
崩れた壁のそばで、夜の作業灯が倒れた。火が乾いた荷縄へ移ると、ホムラが炎をのみ込む。耳と尾の火が大きくなり、そのまま二匹目へ体当たりした。熱をまとった一撃でモンスターは壁へ押しつけられ、左右から入った村人の槍が足を止める。
三匹目が崩れた穴を越え、広場へ逃げる村人を追った。るいは救護所前から早縄を投げ、前脚へ絡める。縄の端を石柱へ二重に回したところで、疾風迅雷の速さが切れた。モンスターの足も、同時に止まった。
火燕は正門を村の提灯持ちへ任せ、崩れた箇所へ走った。
途中で、歌が頭の中へ入り込んだ。
水路の外へ行かなければならない。なぜか、そう思った。外に出れば、歌い手が何を知っているか分かる。父の居場所も分かるかもしれない。
輝夜が火燕の目の前へ飛び込み、強く光った。
「火燕、わたしを見て! 右の壁が壊れてる。逃げ遅れた人がいるよ!」
火燕は足を止めた。
右には崩れた壁がある。三匹目のモンスターが、脚を引きずる村人へ迫っている。
この歌を聞けば父の居場所が分かる、という手掛かりはまだない。
火燕が輝夜へ顔を向けた瞬間、その光が白く広がった。
一つはモンスターと村人の間を照らした。もう一つは崩れた穴を塞ごうとする人たちの手元を照らし、細い光が本丸までの逃げ道を示した。
「戻ったね。右はわたしが照らすから、あの人を助けて」
火燕は右へ向き直り、盾でモンスターの体当たりを受けた。
ホムラが反対側から後ろ脚へ噛みつく。村人の槍が胸へ刺さり、火燕は盾で頭を押さえながら小刀で喉元を突いた。三匹目が倒れ、動かなくなる。
壁際では、二匹目も槍を受けて倒れていた。千景が三匹を順に見て、どれも動かないことを確かめる。
盾の向こうで、輝夜の光が人の姿へまとまっていく。長い髪が背中へ伸び、光を納めた冠が頭上に現れた。服には金色の飾りと長い帯が増え、顔も腕も人の少女と変わらないほどはっきりしていた。
火燕は思わず輝夜を見つめた。
「輝夜、その姿――」
「わたしも驚いてる。でも、今は壁を塞ごう。話すのはあとでできるよ」
石工たちが内側から木材を当て、急いで穴を塞ぐ壁を作る。
輝夜の光が手元と逃げ道を照らし続けた。木材の前へ荷車と大盾を並べ、次の一匹が入れない形にしてから、千景は水路側の人数を数え直した。
輝夜は、灯寄城とそこにいる人々を照らしながら、五つ目の姿を得た。
歌は夜中を過ぎても続いた。
それでも、灯寄城の門は開かなかった。水路側の壁は一部崩れたが、モンスターを広場へ通したのは三匹だけだった。
明け方近く、歌が途切れた。
外の群れは動きを乱し、互いに襲い合い始めた。壁の上から追撃はせず、離れていくのを待つ。四方の見張りが城内を調べ、入り込んだモンスターが残っていないことを確かめた。城のすぐ外にも動く個体がいなくなってから、澄が武器を下ろす合図を出した。
火燕が崩れた壁へ背を預けると、輝夜も隣へ降りた。戦いの途中では確かめられなかった長い髪を手ですくい、冠と服の飾りへ順に触れる。
近くで水を配っていた村人が、桶を抱えたまま目を丸くした。
「輝夜だよね。さっきまでより、ずっと人に近くなったね」
「うん。わたしも、どこまで変わったのか今見ているところ」
輝夜は一息で答えてから、自分の声に驚いて口元へ手を当てた。
「言葉が、考えた通りに出てくる。途中でどれを先に言うか迷っても、黙らずに話せるよ」
「歌の中でも、わたしへ何を見ろと言うのか、すぐ伝えてくれた。右の壁と村人を言ってくれなかったら、名前を呼ばれただけでは戻れなかったかもしれない」
輝夜は首を横へ振った。
「火燕がわたしを見て、右へ戻ったから間に合ったんだよ。あの人を助けたのは火燕とホムラと、槍を持っていた村の人だもの」
澄は怪我人の様子を見ながら歩いてきて、完成した姿の輝夜を足元から冠まで見た。
「ずいぶん大きくなったね。輝夜が火燕を呼び戻し、火燕がすぐ村人の所へ走ったことは、助けられた本人から聞いたよ。二人ともよくやってくれた」
「澄、わたし、もっと大きくなることもあるのかな」
「それは分からないよ。ただ、確かめるために危ない歌を聞きに行くのは認めない。今日は二人とも、食べて休むこと」
輝夜は、壁にもたれたままの火燕を見た。
「わたしも、それがいいと思う。火燕はさっきから座ったままだから」
火燕は輝夜を見上げた。
「輝夜だって、ずっと浮いてるだろ」
「わたしはまだ平気だよ。今なら、そう言っても火燕にちゃんと伝わる」
火燕が笑うと、輝夜も笑った。
救護所から戻ったるいが、輝夜を見て足を止めた。
「輝夜、その姿……。話し方も、もうあたしたちと変わらないね」
「るい。火燕が歌の方へ行きかけたけど、戻ってきてくれたよ」
「見てた。戻ってくれて、本当によかった」
るいは輝夜の肩へ触れ、それから火燕が自分で両腕を動かせることを見届けた。
「るいも、無事だったんだな」
「うん。数えるのをやめて人を運んだ。書くのはこれから」
「それでよかったと思う」
「あたしも今はそう思う」
朝日が昇る頃、澄は二人を休ませ、全員の持ち場を回った。
大怪我をした人は二人。軽い怪我をした人は十七人。水路側の壁が四メートルほど崩れ、薬草の残りは半分以下になっていた。食事に使う麦や豆も、逃げてきた人々へ配った分だけ減っている。
壁の修理はまだ始められず、減った薬草をどこから補うかも決まっていなかった。その間に同じ規模の群れが来れば、今度も防げるとは言えなかった。
その日の夕方、眠った後の火燕は、救護所の屋根の下で壊れた棚板を選んでいた。るいが隣へ座り、短い板を二枚並べる。
「こっちはまだ使える。割れた方は、たきぎに回そう」
「腕は痛くない?」
「人を運んだ分だけ。火燕は?」
「盾を持っていた腕が重い。でも、明日には動かせると思う」
二人は、使える板へ同じ印を付けた。輝夜は屋根の下で眠り、ホムラもその下に丸くなっている。
るいが筆を置いた。
「昨夜、火燕が歌の方へ歩いた時、追いかけたかった。でも、あたしは救護所を空けられなかった」
「持ち場を離れなくてよかった。輝夜が止めてくれた」
「分かってる。でも、戦いが終わっても火燕の顔を見るまでは怖かった。たぶん、あたしが一緒に潜りたいのは、記録を比べたいからだけじゃない」
火燕は印を付ける手を止めた。
「火燕のことが好き。今までみたいに、一緒に行って、一緒に戻りたい」
るいは火燕を見たまま言った。冗談にする様子はなかった。
「わたしも、るいが好きだ。戦いが終わって、るいが救護所から戻ってくるのを見た時、ほっとした」
るいの頬が少し赤くなった。コハクがその頬を照らす。
「コハク、今はそこを照らさなくていいよ」
「それなら、次も二人分の帰還時刻を書く」
「うん。ただ、今は先にこの棚を直そう。明日の薬を置く場所がない」
「そうだった。告白した後も、仕事は減らないね」
二人は顔を見合わせて笑い、残った板を運んだ。
## 第六章 守り続けられない
火燕が短い眠りから目を覚ますと、昨夜の戦いで完成した人型になった輝夜が、寝床の横に浮かんでいた。
「起きた? 澄が本丸の話し合いへ来られるか聞いてたよ」
「先に起こしてくれればよかったのに」
「二回呼んだよ」
「聞こえなかった」
「知ってる。三回目は、もっと明るくしようと思ってた」
襲撃の翌日、澄は本丸の一室へ、食料、薬、建材の担当者を集めた。
机には、壊れた壁の長さ、残った薬草と麦や豆、働ける人数が書かれている。
「水路側の壁を元へ戻すのに、石材が十二台分。今あるのは五台分です」
石工が答えた。
「石抱き坑へ二組入れば、足りない分は運べる。ただ、運搬に六日は欲しい」
薬を扱う町人は、空になった棚を指した。
「重い怪我を一度に十人治す量は残っていません。次の入荷は、早くても八日後です」
宿の主人は、逃げてきた人々へ配った麦や豆の記録帳を持っていた。
「食事を減らさず出せるのは九日。畑の収穫前だから、川船が止まるともっと短くなる」
澄は三つの数字を同じ紙へ書いた。
「壁を直すには六日かかり、薬が届くのは八日後です。食料も九日分しかありません。同じ規模の襲撃が今夜来れば、城は残っても、その後の生活が続きません」
水路側の壁には朝から板を当てていたが、石材は五台分しかない。薬棚には、包帯と空の薬瓶が残っているだけだった。
午後、澄、円司、千景、火燕、るいは、三つの土地から集めた記録を本丸の机へ並べた。
輝夜も火燕の隣へ降りる。るいは五回の変化について、姿が変わる直前に輝夜がしたことだけを一枚へ並べていた。柱の陰の敵を知らせる。襲撃の夜に避難路と水桶の列を照らす。火燕とホムラの気持ちをつなぎ、水底路では火燕へ帰る場所を見せる。そして昨夜は、敵、怪我人、壁を塞ぐ手元、逃げ道を同時に示している。
円司は紙を読んだが、進化の決まりとは書かなかった。
「倒した敵の数も、過ぎた日数もそろっていない。決まった数を満たして変わったわけではなさそうだ。五回とも、輝夜が誰かへ光を届けようと自分で動いた直後だった。俺に言えるのはそこまでだ」
「最初は、正宗の時みたいに火燕まで一人にしたくなくて、火燕だけを追ってた。でも、火燕と一緒に村で過ごすうちに、るいも、ホムラも、城に逃げてきた人も置いていきたくなくなった。昨夜は、壁の向こうにいた人まで見えたよ」
澄は紙を輝夜の前へ戻した。
「理由を決めつけなくても、輝夜が何をしてきたかは残せる。それで十分だよ」
汐継港から、新しい返事も届いていた。千景が水底路で拾った光のうろこを、港に残る古い記録と比べた結果だった。
千景は返事と、写し取られた古い絵を火燕たちへ見せた。絵には、小さな人魚に似た半透明のモンスターが描かれている。
「大嵐の後、沖でこの姿を見たという記録が何度か残ってた。女の声に似た歌を使うから、港ではセイレーンと呼んでる。光のうろこも、昔拾われた物とよく似てるそうだよ」
澄は、同じ夜に街道と川を通った人々から聞いた話も開いた。灯寄村と輪守の里の間でも、灯寄村から汐継港までの川でも、歌を聞いた者はいない。一方で、三つの土地では、うたばの入口に近い者ほど大きく聞いていた。
「地上の空気を伝わった声なら、途中にいた人たちにも聞こえたはずです」
澄は三つの入口へ印を付けた。
「うたばの内側を通って、それぞれの入口から漏れたと考える方が、みんなから聞いた話には合います」
火燕は石抱き坑の白墨印を思い出した。
「沖へ呼ぶ歌なら、どうして小灯道のモンスターは村へ出てきたんですか」
「小灯道の中では、入口の方から歌が聞こえていたはずだよ」
千景は小灯道と石抱き坑の印から、灯寄村の外側へ線を引いた。
「中のモンスターは、近く聞こえる方を追って地上へ出る。出口の先に村の柵や建物があれば、それを押しのけようとする。最初の襲撃が正門で止まった後、次は水路側へ数が増えた。歌い手には、群れがどこで止められたか分かるのかもしれない」
「あのうろこも、この小さなモンスターが落としたものなんですか」
「記録に残っていたうろこは、指先ほどしかない。わたしたちが見つけた物は、その四倍以上あった。今、沖割れにいるものは、この絵よりずっと大きいと思う」
千景は、大嵐の後に書き直された海の地図も広げた。
「嵐で沖割れの海底が崩れて、外海から入る水路が増えた。歌に引かれたモンスターも、そこから沖割れへ集まるようになったんだと思う」
澄が確認した。
「大きなセイレーンが、沖割れから歌っている。今までに分かったことだけで、そこまで言えますか」
千景はすぐにはうなずかなかった。
「光のうろこだけなら、別の水のモンスターかもしれない。でも、三つの土地で同じ時刻に同じ歌が聞こえた。水底路では、沖割れへ近づくほど歌が大きくなった。うろこから聞こえた調子も同じで、モンスターも歌に合わせて沖側へ集まってる」
千景は海の地図にある沖割れを指した。
「ここまでそろっているなら、沖割れにいる大きなセイレーンが歌っていると考えていいと思う」
「同じ歌を使うモンスターが、二体以上いることも考えられませんか」
火燕が尋ねた。
「その考えも残ってる。でも、毎回同じ時刻に歌い始め、群れが一つの水路へ集まっている。歌い手が二体以上いるなら、ここまで動きがそろう理由が別に要るね」
澄は、分かったことと、まだ分からないことを分けて記録した。
円司は、契りを結んだモンスターの反応をまとめた表を出した。
「歌を聞かなかったモンスターは一体もいない。反応の強さには差がある。ただ、契りを結んだ後は、どのモンスターも呼びかけへ反応できた」
「契りを結べば、なぜ止まれるんですか」
「正確な仕組みは分からない。ただ、契りを結んだモンスターは、歌に引かれても呼べばこちらを見る。契りを結ぶ前にはできなかったことだ」
輝夜が机の上へ降りた。
「正宗も、呼ぶとわたしを見たよ」
火燕は輝夜へ向いた。
「父さんも、歌の方へ行きそうになったのか」
「うん。歌の方へ歩きかけても、わたしが光ると戻ってきた。最後は、わたしを外へ押し出して、逃げろって言った」
火燕は、城で歌に引かれた時、輝夜の光を見て我に返ったことを思い出した。
千景は沖割れの浅い階を描いた簡単な地図を出した。三組の捜しに行った隊が確かめた範囲に、水底路で見つけた新しい水路の流れと、輝夜が覚えている「左右から水が入る細い道」を書き加える。
「輝夜が見た、正宗さんの崩した側道は、捜索隊が着けなかった深い所にあると思う。水底路の新しい水路は人が通れる幅じゃないけど、水の向きは追える。通常の入口から入り、この流れと同じ方向へ進めば、捜す範囲を絞れる」
澄は、灯寄城の図と沖割れの図を並べた。
「歌の主を倒しに行くとして、城を空にはできません。ここに残す人数とモンスターを先に決めます」
住民の話し合いが始まる前、るいは修理中の南門で火燕を待っていた。壁には、新しい石と古い石の色の違いが残っている。
「沖割れで正宗さんを見つけたら、火燕は周りが見えなくなるかもしれない」
「そうならないようにする」
「ならないって約束じゃなくて、なった時の話。千景さんが戻れと言ったら、あたしも火燕を引っ張るよ。怒られてもやめない」
火燕は少し考えてから、うなずいた。
「頼む。わたしも、るいが記録のために残ろうとしたら、記録帳ごと連れて戻る」
「そこまでしたら怒る。でも、戻ってから怒る」
二人は、どちらか一人だけでは遠征へ出ないことも決めた。
その日の夕方、中央広場で住民の話し合いが開かれた。
澄が食料、薬、修理日数を読み上げ、千景はセイレーンと沖割れの水路を説明する。円司からは、契りを結んだモンスターでも歌を無視できないことが伝えられた。
村人から反対の声が出た。
「遠征へ人を出した間に、また来たらどうする」
「城を直すだけでも人が足りない。沖まで行く余裕があるのか」
澄は反対を遮らなかった。
「だから、全員では行きません。灯寄城には今の半数以上を残します。輪守の里と汐継港から、城の修理と守備へ人を出してもらう。その上で、沖割れへ入る人数を絞ります」
「それでも、遠征が失敗したらどうするんだ」
「遠征隊が戻れるよう、帰り道を守る人を置きます。失敗した時に全てを失う案にはしません」
話し合いは日が暮れるまで続いた。
輪守の里から来た薬草農家が、広場の端から声を上げた。
「灯寄村の道が止まれば、里へ鉄具が来ません。こちらは薬と、城に残るモンスターの世話を受け持ちます」
汐継港の船大工も続いた。
「この川が使えなければ、港の荷も止まります。舟と水場の人員は港から出します。ただし、港を守る人数も残します」
最後に決まったのは、灯寄城の修理を進めながら、三つの土地から少人数の遠征隊を出すことだった。次の大きな群れが集まる前に、沖割れへ入る。
澄は、城に残る者と遠征へ出る者の人数をもう一度読み上げた。輪守の里と汐継港から来た者も、自分たちが引き受ける持ち場を確かめる。反対していた村人たちも、城へ残す人数を聞いた上でうなずいた。
火燕は、広場の端でそのやり取りを聞いていた。
話し合いが終わった後、火燕は澄へ伝えた。
「わたしも先行隊へ入れてください。水掻きの腕輪を使った経験があり、輝夜は父さんが通った場所を見分けられます」
「正宗さんを捜すことだけが理由かい」
「それもあります。でも、歌を止めないと、灯寄村にも輪守の里にも、また群れが来ます。父さんが見つからなくても、沖割れまでは行きます」
るいも火燕の横へ出た。
「あたしも先行隊へ入れてください。石抱き坑から水底路まで、火燕と同じ道を調べて、時刻と帰り道を書いてきました。水へ潜る道具が足りない所では残って、綱と戻る時間を見ます」
澄はるいの記録帳を開き、これまで戻った時刻、途中で引き返した場所、千景が書いた名前を確かめた。
澄はすぐに答えず、千景へ向いた。
「千景、火燕を水場へ連れていけるか、あんたの考えを聞かせておくれ」
「火燕は、水場でもわたしの指示を聞けたし、息が苦しくなった時も隠さずに言えた。戦いではわたしが前へ出る。その条件でいいなら、連れていけるよ」
「るいも、腕輪が一つしかない時に無理について来なかった。空気だまりで綱と時刻を見てくれたから、こちらも潜れたよ。水中へ入らない道では任せられる」
円司も条件を加えた。
「ホムラを連れていくなら、歌への反応が強くなった時に下げる役を別に置く。火燕だけで面倒を見るな」
「千景さんに、交代を頼みます」
澄は遠征者の欄へ火燕の名を書いた。
続けて、るいの名も書いた。
「父親を捜したい気持ちは分かってる。でも、水場で千景の指示を無視したり、無理をして先へ進んだりしたら、その場で戻してもらうよ。それが守れないなら、遠征には出せない」
「はい」
「るいも、書き終わるまで隊を待たせないこと。記録より先に移動が必要だと千景が言ったら、記録帳を閉じるんだよ」
「分かった。安全な足場でまとめて書く」
二人は翌朝の荷を確かめ、それぞれの寝床へ戻った。
沖割れへ入る前に、三つの備えを一つにまとめる必要があった。
水中を進む水掻きの腕輪。水流を左右へ切り分け、武器を扱いやすくする竜骨材。歌の振動を弱める無響繭布。
三つを同時に身に着ければ動きを妨げる。特に無響繭布で頭を覆えば、視界が狭くなる。
千景は、水底路の稀地に、三種類の品を一つへ作り替える壺が現れるという記録を持っていた。壺には三つの印があり、それぞれ異なる働きを持つ品を求めるという。
「三位一体の壺と呼ばれてる。三つの印に合う品がそろった時だけ反応する。何を入れるか決めるためにも、まず壺を取りに行く」
翌朝、火燕、るい、輝夜、コハク、ホムラは灯寄村を出た。川沿いの道を二日かけて進み、二日目の夕方に汐継港へ着く。千景は舟と水場の道具を先にそろえて待っていた。
次の朝、火燕、るい、千景、ホムラは、再び水底路へ入った。円司は港の入口で、契りを結んだモンスターの休息場所を整えた。
前回見つけた水掻きの腕輪を使い、空気だまりを一つずつ進む。二十四階の稀地は、半分が水に沈んだ金属の広間だった。
中央に、錆びた硬い殻を何層も重ねたモンスターがいる。錆重ねの王だった。
王が水へ脚を入れるたび、赤茶色の濁りが広がった。濁りに触れた槍の先が、すぐに曇る。
千景は正面から長く打ち合わず、王を空気のある足場へ誘った。火燕は竜骨材を小盾の外側へ固定し、水中から伸びる脚を受けた。木目に沿って水が左右へ逃げ、脚の勢いも盾の脇へそれた。
るいは乾いた高い足場から、王が水へ戻るたびに同じ右脚を先に入れることを見つけた。
「次も右から来る。綱を掛けるなら、あの脚!」
ホムラは濁りを避け、高い足場を回った。王が千景へ向いた時だけ、後ろの硬い殻へ噛みつく。
硬い殻の隙間へ火燕の小刀が入った。力合わせで厚くなった刃は折れない。千景の槍が同じ隙間を広げる。
王は水へ戻ろうとした。るいは高い足場の柱へ綱の端を巻き、輪にした反対側を右脚へ投げた。輪が掛かると、火燕と千景が綱を引き、ホムラが王の横から体を押す。るいも柱の結び目を締め直し、三人と一体で乾いた足場へ引き留めた。火燕と千景は広がった隙間へ刃と槍を入れ、硬い殻の内側を断った。
王の脚が止まり、殻の隙間から出ていた濁りも消えた。ほかに動くモンスターがいないことを確かめてから、三人は武器を納めた。
稀地の奥に、三つの口を持つ壺が置かれていた。それぞれの口の縁には、水を進むひれ、左右へ割れる波、小さくなる三重の輪が彫られている。
壺のそばには、水草に包まれた水掻きの腕輪も一つ残っている。前回六階で見つけた物と同じ形で、薄片を水へ入れると開いた。千景は壊れた所がないことを確かめ、予備として荷へ入れた。
地上へ持ち帰り、円司と千景が傷や印を確かめた。るいは三つの口へ、試した品と光った印を一つずつ書ける紙札を付けた。
千景は比較に使うため、港の船大工から、水に強い油引きの板切れを借りてきた。
円司は三つの印を順に指でなぞった。
「水を進むもの、水を切るもの、音を弱めるもの、と読むのが自然だな。ただ、品の名前までは分からない」
円司は壺の三つの口を開けた。
「組み合わせを間違えた場合、入れた三品が全部なくなることはありませんか」
火燕が尋ねると、千景が首を振った。
「記録には、組み合わせを間違えた時も、三品とも取り出せたとある。合わなければ反応しないだけだ」
最初は、水掻きの腕輪、船の修理に使う油引きの板切れ、無響繭布を一つずつ入れた。水を進むひれと、小さくなる輪は青く光ったが、左右へ割れる波だけは暗いままだった。壺の中でも何も起きない。
蓋を開けると、三品とも元のまま取り出せた。
「水をはじくだけでは違うみたいです。浅瀬回廊で、竜骨材だけが流れを左右へ分けていました」
火燕は板切れを竜骨材へ替えた。
今度は三つの印が順に光り、壺の中で水が回る音がした。蓋を開けると、一つの腕輪が残っている。青緑の輪へ木の筋が入り、内側に繭布が薄く張られていた。
千景が名を付けた。
「水を渡って、歌の中でも凪いだ場所を作る。凪渡りの腕輪でいいんじゃない」
「名前を付けるのは、使えると分かってからにしませんか」
「慎重だね。じゃあ、試しに行こう」
水底路から戻った日の試験はせず、火燕たちは港で一晩休んだ。翌朝、千景は火燕の呼吸と腕の痛みが残っていないことを確かめてから舟を出した。
沖割れの入口は、汐継港から小舟で半日ほどの黒い岩場にあった。
千景が舟を岩へ固定し、火燕は凪渡りの腕輪を着けた。入口近くの短い水路へ潜る。
るいは舟に残り、火燕が潜った時刻と、戻ると決めた時刻を別々に書いた。
水掻きの腕輪と同じように体が進んだ。小刀を振ると、腕輪に入った木目に沿って水が刃の左右へ分かれ、水の抵抗も小さくなった。奥から歌が聞こえると、胸の奥に引かれる感覚はあった。それでも、水底路で聞いた時ほど考えを奪われない。
火燕は予定していた岩まで進み、引き返した。
舟へ上がると、千景が時間を確認した。
「前より長く潜れてるね。歌が聞こえた時は、どう感じた?」
「歌は聞こえて、近づきたいとも思いました。でも、帰る合図を忘れるほどではありませんでした」
「そこまで動けるなら、凪渡りでよさそうだね」
港へ戻った後、三位一体の壺でもう一つの腕輪を作った。錆重ねの王の稀地で見つけた水掻きの腕輪と、残っていた竜骨材、無響繭布を使い、こちらは千景が着ける。るいは深い水路へ降りず、頭を覆う布に無響繭布を縫い込んだものを使うことになった。
翌朝、火燕とるいはホムラを連れ、灯寄村へ戻った。千景は汐継港へ残り、舟の底と沖割れまでの海路をもう一度確かめる。帰りも川沿いを二日かけて歩き、二日目の夕方に灯寄城へ着いた。
次の日は、遠征中に城へ残す人とモンスターの持ち場を確かめる。円司がホムラの体調を見ながら、歌に引かれた時は千景の呼びかけにも応じる短い合図を覚えさせ、澄は食料、薬、長い帰り道の巻物を一人ずつ調べた。
沖割れへ向かう一行は、その翌朝に灯寄村を出ることになった。
## 第七章 沖割れ
遠征の朝、灯寄城の広場には、出発する者と残る者が集まった。
澄は遠征隊へ、食料、薬、長い帰り道の巻物を分けた。倉庫番が荷に札を付け、鍛冶職人が武具を最後に確認する。
「城には、村の提灯持ちと、輪守の里から来た守備隊を残します」
澄は遠征へ行く人の名前を順に読み上げた。
「歌が強くなった場合、こちらでも襲撃に備えます。戻る予定の日を一日過ぎても帰らなければ、汐継港から最初の捜索隊を出します。ただし、歌が続いている間は稀地まで追わせません」
火燕はうなずいた。
「戻る日を延ばす時は、入口の連絡役へ必ず伝えます」
「必ずそうしておくれ。捜す側が行き先を知らなければ、人数を増やしても助けに行けないからね」
円司は、遠征へ加わるモンスターを一体ずつ契り標の前へ連れてきた。
歌へ強く引かれるモンスター、怪我が治っていないモンスター、城へ残りたいと答えたモンスターは、遠征から外した。
ホムラは火燕の隣に立った。群れへ戻る道も、灯寄城に残る場所も知っている。それでも今回は、火燕と沖割れへ行くことを選んだ。
円司は火燕だけでなく、ホムラにも言った。
「途中で戻りたくなったら、千景のいる方へ行け。火燕が先へ進んでも、ついていく義務はない」
ホムラは円司の手の匂いを嗅ぎ、火燕の足元へ戻った。
るいは自分の記録帳を火燕へ見せた。最初のページには、出発日、戻る予定日、二人が戻ると決めた条件が並んでいる。
「書くのは安全な足場だけ。千景さんが進めと言ったら閉じる。あたしが戻ろうと言ったら、理由を聞いて一緒に戻る」
「わたしが言った時も同じだ」
「うん。二人分、同じ欄にした」
遠征隊は川船で汐継港へ下った。最初の日は輪守の里の船着き場で夜を過ごし、二日目の夕方に港へ着いた。
港では、千景が沖割れへ渡る舟と縄を用意していた。円司は港へ残り、帰ってきたモンスターと怪我人を受け入れる場所を波止場の倉庫へ作った。
「戻ったモンスターを、そのまま別の持ち場へ回さないでくれ」
円司は港の連絡役へ繰り返した。
「先に水と休む場所。契りの確認は、その後だ」
三日目の朝、火燕、るい、輝夜、コハク、千景、ホムラは一隻の舟へ乗った。もう一隻には港の船頭二人が乗り、帰りの荷と救助用の道具を運ぶ。二隻は沖割れの黒い岩場へ向かった。
海は穏やかだった。あの大嵐で割れた黒い岩だけが、沖に鋭く突き出している。
黒い岩場へ舟を固定し、千景は帰りの綱を二本、別々の岩へ結んだ。
「一本が切れても、もう一本で舟へ戻れる。船頭二人は入口の外に残って、中から戻った人を港へ運んでもらうよ」
火燕は凪渡りの腕輪を着け、荷をしばったひもを締めた。無響繭布を加工した内側の布が、手首へ柔らかく触れている。
沖割れの入口は、満ち引きのたびに半分まで海水へ沈む大きな裂け目だった。
歌は、入口の外から既に聞こえていた。
火燕は予定通り、呼吸を四つ数えた。輝夜の位置、千景の位置、帰りの綱を目で確かめる。るいも記録帳をしまい、後ろの足場を照らすコハクと一緒に列の中央へ入った。
「入ろう」
火燕、るい、千景、ホムラは裂け目を越えた。輝夜とコハクも、それぞれの相棒のそばへ付く。
最初の階は、波に削られた天井の低い洞窟だった。足元を水が流れ、壁には最近付いた爪痕がある。
千景が先頭で水深と流れの向きを測り、火燕は後方を担当した。るいは分かれ道へ着いた時だけ地図を開き、水底路から続く流れと同じ方向を選んだ印と時刻を書く。隊が歩き始める前に記録帳を閉じた。
五階で道が水没した。
折り舟を広げ、泳げないモンスターと荷を先に渡す。火燕と千景は凪渡りの腕輪を使い、水中から舟を支えた。
水底にある五つの横穴から、モンスターが一匹ずつ飛び出した。火燕は水の中で小刀を抜いた。腕輪に入った竜骨材の木目が水を刃の左右へ逃がし、地上と大きく変わらない速さで振ることができた。しかし、五匹は折り舟を囲むように、別々の方向から近づいていた。
舟の上で、ホムラが高く鳴いた。二又の尾火から、成体とオキビ仔の形をした二つの火が飛び出す。火は水面へ広がるとさらに枝分かれし、モンスターと同じ五匹の灰喰い犬の姿になった。水しぶきを浴びても消えず、一匹ずつ別のモンスターへ飛びかかる。
五匹は水底へ沈み、どれも動かなくなった。火の群れはホムラの所へ戻ると、二又の尾へ吸い込まれた。
るいは海面とホムラの尾を見比べた。
「本当に、敵と同じ数へ分かれたね。壺土の穴でもらった火が、海まで一緒に来てたんだ」
「うん。ホムラが呼んだから、群れの姿になったよ」
輝夜が答えると、ホムラは濡れた尾を一度振った。
千景が五つの横穴を槍で確かめ、次の個体が出てこないことを見届けてから、舟を先へ送った。
九階では、地図にない空白が壁の向こうへ続いていた。
モンスターが一匹、岩の中へ消えるのを見たため、掘削槌で壁を調べる。音の軽い場所を掘ると、隠し階段が現れた。
階段の先には、歌を避けるように集まったモンスターがいた。契りを結んでいなかったが、すぐには襲ってこない。無理に戦わず、別の出口を開けて通り道を分けた。
十二階へ着く頃には、入口を入ってから半日近くが過ぎていた。千景は水の来ない横穴を見つけ、そこで一晩休むと決める。入口側へ細い鳴子を張り、千景、るい、火燕の順に見張りを交代した。二人が眠っている間も一人は起き、輝夜とコハクが足元を照らす。
四日目の朝、三人は食事と水を取り、荷と鳴子を片づけてから十三階へ進んだ。
十三階で、歌が一段高くなった。
ホムラが沖側へ体を向け、火燕の呼びかけへすぐには反応しなかった。
千景が決めておいた短い笛を一度鳴らす。火燕が名前を呼ぶと、ホムラは二人を順に見て、火燕の足元へ戻った。
千景はホムラが息を整えるまで待ち、水と足取りを確かめた。
「今は戻れたね。次に笛と火燕の声へ応じなかったら、そこで全員戻るよ」
火燕とるいはうなずいた。ホムラも千景の手へ鼻先を当ててから歩き始めた。
十七階で、石と鉄に囲まれたモンスターが一匹、通路を塞いだ。正面では千景が槍で攻撃をそらし、火燕とホムラが左右へ分かれた。るいは後ろから、鉄の板が右へずれるたび、石の体が見える場所を知らせる。
火燕の小刀が石の割れ目へ入り、ホムラが反対側から体当たりした。千景が広がった割れ目へ槍を突き込むと、鉄の板が床へ落ちた。モンスターは崩れた石の中で動かなくなり、通路の奥からほかの足音も聞こえなかった。
二十一階は、広い水面と細い岩場だけだった。
折り舟を二艘つなぎ、荷を中央へ載せる。歌に引かれて舟から立とうとする者が出たため、互いの腰を綱で結んだ。
輝夜が一人ずつ顔を照らす。
「今は沖割れの二十一階。わたしたちは舟の上にいるよ」
輝夜の声を聞き、全員が自分のいる場所を答えた。
「沖割れ、二十一階。舟の上」
るいが続けた。
「帰りの綱は左。記録帳は閉じてる」
「次の岩場まで、あと二十歩ほど」
現在地を一人ずつ声に出すうちに、歌へ向きかけていた足が止まり、帰りの綱を握り直せた。
二十一階を渡り終えた時には日付が変わる前だった。三人は水面より高い岩棚へ舟を上げ、二度目の夜を過ごした。見張りは前の晩とは逆の順に交代し、ホムラも入口側へ鼻を向けて眠った。
五日目の朝、三人は二十二階へ進んだ。
二十五階を越えると、頭を覆う布や腕輪の上からでも分かるほど、歌が強くなった。水路の多い階と岩場だけの階を進み、二十九階の奥で、幅のそろった石段を見つけた。
石段の下には黒い門柱が立ち、その先に波で削られた広い洞窟が続いている。中央の深い水路はさらに奥へ曲がり、稀地の縁には乾いた岩場と細い側道が延びていた。ここから先は沖割れの稀地で、セイレーンが長く縄張りにしている場所だった。
中央の水路へ向かおうとした時、輝夜がそちらとは違う、稀地の縁の壁へ飛んだ。
「正宗が使っていた縄だ」
壁の下から、細い縄が出ていた。
正宗が使っていた結び目と同じだった。縄は岩の向こうへ続いている。
火燕は掘削槌を取り出した。
「この先を調べたいです」
千景は中央水路と壁の位置を、捜索隊と水底路の記録から作った簡単な地図と比べた。
「輝夜が話していた、正宗さんの崩した側道は、たぶんこの縁にある。先にここを開けよう。崩れやすいから、作業は二人ずつ交代しよう」
掘削槌を打つたび、岩の隙間から古い砂が落ちた。ホムラが、崩れた石を後ろへ運ぶ。るいは打った回数ではなく、一人ずつ腕の動きを見て交代を知らせた。
一時間ほどかけて、人が一人通れる穴が開いた。
岩の向こうは、左右から細い水路が入る狭い側道だった。正宗がわざと崩したらしく、天井の支えへ切った跡がある。この側道も沖割れの稀地の一部だから、通常階が姿を変えた後も、崩れた時の形を保っていた。
側道の入口側には、白い石を三段重ねた台があった。小灯道の帰還口と同じ形だが、まだ光っていない。千景は、最深部へ着いた後に使える帰還口かもしれないと言ったが、開くとは決めつけず、先に側道そのものを帰り道として直すことにした。
奥で、輝夜の光が止まった。
そこに人の姿はなかった。
乾いた岩壁の下に、空になった薬草の包み、折れた掘削槌、使い切った杖が残っている。油紙に包まれた地図には、正宗の字で側道の幅と水の向きが書かれていた。
壁には黒く乾いた血が付き、床には片方の手をついた跡があった。血は水際まで続き、そこで途切れている。
輝夜が壁と道具を何度も照らした。
「正宗は、ここにいた」
「輝夜と別れた場所か」
「うん。ここでわたしを外へ押して、逃げろと言った」
火燕は地図を持ち上げた。正宗がここまで来て、側道を崩したことは分かる。けれど、体も組合札もない。
るいは火燕の隣にしゃがんだ。何も決めつけず、薬の包み、杖、血が途切れた場所を順に記録帳へ写した。
「体はない。ここから動いた後がある。今書けるのは、そこまでだよ」
火燕はうなずいた。
千景は水際へしゃがみ、塩の浮いた床を調べた。
「自分で水へ入ったのか、何かに引かれたのかは分からないね。少なくとも、ここで倒れたままにはなってない」
稀地の中央から歌が響いた。
輝夜の光が、歌と同じ間隔で強くなったり弱くなったりした。
「待って。歌の中から、正宗の光を感じる」
「父さんが、稀地の中央にいるのか」
「分からない。前に覚えた光かもしれない。でも、中央の方から感じる」
正宗の体も組合札も側道にはなかった。
千景は立ち上がった。
「稀地の中央を確かめよう。正宗さんが生きているなら急いだ方がいいし、違っていても、歌を止めなければ群れが外へ出る」
遠征隊は正宗の道具をまとめた。崩れた岩の一部は、人が一人ずつ通れる幅だけ掘り直す。岩を支柱で押さえ、途中に外せる横木を渡し、帰り道として使えるようにした。
作業が終わった頃、歌が強くなった。
遠くで、大きな群れが動く音がする。
千景は稀地の縁の水面へ手を置き、水の震えが伝わる間隔を測った。
「前に群れがこの水路へ入った時と同じ揺れ方だね。早ければ数時間で、沖割れの外へ出る」
千景は、掘り直した側道の支柱と横木をもう一度押した。
「戻る道はこれで使える。ここからは三人とも離れないで進もう」
火燕は地図を荷へ入れ、輝夜へ手を伸ばした。
「稀地の中央へ行こう。父さんがいるか、自分で確かめたい」
「うん。一緒に行く」
「あたしも行く。ここから先も、戻る時刻は三人で決めよう」
輝夜は火燕の手を照らしてから、稀地の中央へ続く岩門へ向いた。




