boysside
「暑すぎるよ」
アイスを頬張りながら君が言う。
棒付きのアイスだ。
多分あとひとくちで食べ終わるだろう、残ったアイスが落ちそうになってる。
「行こうって言ったのはそっちじゃないか」
海に行きたい。
君は急に言い出した。
今日の部活終わりのことだった。
僕たちは軽音部で同じバンド。
ただそれだけの関係。
ただそれだけ。
夏休みに入ってからというものの、ただなにをするというわけでもなく、外に出るときは家とスタジオの往復という日々。
花火大会とかそういう夏らしいことはたくさんあるだろうけど、特に興味がなかった。
行きたくなったときに行けばいいかなって思ってた。
要するに気まぐれってこと。
だから君に誘われて困った。
それ以上にびっくりしたけどね。
断ろうかと思ったんだ。
だけど無理だった。
心のどこかで僕は、待っていたのかもしれない。
夏の初めに控えていたライブがつい最近終わった。
夏休みのイベントはそれだけだったからスタジオに来ても特にやる曲もなく、ただ集まって話したり、気が向いたら演奏したりしていた。
バンドは4人。
ボーカルはクールな草食系男子。
ギターはお調子者のバカなやつ。
君はそいつに乗っかってよくふざけてた。
すごく仲よさ気で、すごく楽しそうで。
そんな君の背中を僕は、ずっと。
どうやら僕は傍観者の立場からは外れてしまったようだ、君に手を引かれて。
「いくらなんでもちょっと急すぎない?」
「いいじゃんどうせ暇でしょ」
「暇じゃないよ別に、あいつらと行けばいいじゃん」
「あんたが片付けるの遅いからあいつら帰っちゃったよ、今日は私が鍵返す担当だって知ってるでしょ?」
「スティックで遊んでたのは誰ですか」
「知らない」
「しらばっくれるな」
「スティックの話は無しにしても遅かった」
「それにしたってさあ」
「ぐずぐず言わないの!フロント行ってくるから外で待っててね」
僕は、すごく曖昧な人間だと思う。
物事をはっきり決めるのがすごく苦手だ。
だからふらふら流されやすかったりする。
そういう性格で損をしたことはたくさんある。
だけど楽なんだ、曖昧な性格は。
だからなかなか抜け出せない。
それ以前にはっきりしろ、なんて僕に言う人はいない。
決して派手な方ではない僕に誰も興味なんてないのだ。
そこはかとなく今まで生きてきた僕にとって周りから干渉されないことは普通だ。
なにもおかしいことなんてない。
なんで僕なんだろう。
行きの電車の中で何度も何度も考えた。
だけど全然わからなかった。
考えれば考えるほどに妄想はありえない方向へ向かっていく。
答えなんて出るはずないのに頭は止まらない。
君はといえばボックスシートの向かい側で窓枠に寄り掛かって寝ているし。
落ちかけた太陽が僕らを照らす。
かばんを抱えて眠る姿は、どこか寂しげに見えて。
夕方の海辺はもう、みんな帰りはじめていた。
寄り添いあう恋人たち。
きっと楽しい時間を過ごしたのだろう。
こんな中にいると錯覚してしまう。
「こうやって歩いていると、恋人同士に見えるかもね」
「私も同じこと思ってた」
アイスの棒をくわえながら笑う君。
陽は沈む一方なのに、なんだか暑くなったように感じた。
砂に足をとられる。
裸足になった分まだマシだけど熱くて変な歩き方になる。
君はスキップのような軽い足どりで走っていってしまった。
とてもじゃないけど追いつけない。
「はやくおいでよ!気持ちいいよ!」
わかってる、僕もはやくそっちに行きたい。
はやく歩こうとすればそうするほどにもつれて進めなくなる。
なんてもどかしさだ。
打ち寄せては引いていく。
僕は、ずっと眺めていた。
地平線は、誰かがオレンジ色の絵の具で塗りたくったみたいで。
「波って、ずっと留まってはくれないよね」
「そりゃあ波だもの」
「足元まで来てくれるかと思えば全然遠かったり飲み込まれたり」
「だから留まってほしいの?」
「違うよ、波のそういうところ人間みたいだなって、だから私、海が好き」
おもしろいことを言う人だ。
浜辺を歩く君が立ち止まってしゃがんだ。
思わず僕も立ち止まる。
なにかを拾ったみたいだった。
「なにそれ」
「コルク」
「そんなの拾ってどうするの」
「あげるの」
「だれに」
「好きな人」
頭が真っ白になった。
いつもの大きなベースを持っているわけでもないのに君がいつも以上に小さく見えた。
遠くに見えた。
彼女は恋をしていたんだ。
明るくていつも元気な君が好きになる人は、どんな人だろう。
僕の頭の中に突然あらわれた男にかかってるもやもやを必死に取り除こうとした。
身長は、声は、髪型は。
知りたかった。
君は好きな人にどんな顔で話すのか。
知りたかった。
僕の知らない君の姿を。
知りたかった。
駅まで、うろ覚えの記憶を頼りに歩いた。
もう空は青色に戻っていた。
まばらな街灯が影を作り出す。
並んで歩いているのになにも会話はなかった。
僕から話そうともしなかったし君はどこか遠くを見ていた。
はじめて見た顔だった、僕の知らない君の横顔。
「私ね、引っ越すんだ」
あまりにも急だった、今日の君は突拍子もないことをよく言う。
「なんだよそれ、いつ引っ越すんだよ」
「明日には出なくちゃならない」
今日が最後だってわけだ。
足に力が入らなくなった、駅は目の前なのに。
「行かないでくれよ」
もう前には進めなかった、駅は目の前だから。
「だから最後にあんたと海に来れてよかった」
「だからってどういう意味だよ」
「好きな人と、最初で最後の想い出作れたこと」
古びた白熱電球が優しく僕らを照らす。
「最後だなんて、言わないでくれ」
かすれた声は潮風に消された。
帰りの電車に乗る頃にはもうすっかり暗くなっていた。
まさに憂鬱という言葉がそのときの僕にはぴったりだった。
このまま沈み込みそうな錯覚に溺れて、窓枠に寄り掛かっていた。
君は僕の手をとってなにかを渡してくれた。
少し日焼けして火照った君の手をはじめて触った。
コルクを握りしめていた君の手はすごく小さいことを知った。
「今日という日を忘れてほしくないから、好きな人にこれをあげるの」
ふんわりと潮の匂いがした。
僕の方が家が近いことを恨んだ。
永遠にこうしていたかった。
君のことを眺めているだけで僕は幸せだった。
車掌さんが放送をかけた。
窓から君に視線を移す。
目が合った。
僕のことをずっと見ていたようだった。
なにも言えずに電車を降りた。
僕の顔は、一体どんなだっただろう。
君の顔は、満足そうだった。
汗ばんだシャツに雫が落ちる。
止まらなかった。
心の汗だ、と強がりを言える相手は窓の向こうに。
今日のことは絶対に忘れない。
曖昧な僕が、好きだと思った人、はっきりと胸を張って好きだと思える人。
もうこれ以上近くにはいられないんだ。
海風にさらされて錆びた電車が大きな音を立てて動き出した。
君には決して届かない僕の、大切な気持ち。
「好きだったよ」