第01話_南へ走るもの
うちの店で一番金を払わない男は、一番よく鎧を破ってくる男でもある。
おかげで俺は、酒場のマスターのくせに、毎晩針と糸を持っていた。まったく、縫い賃くらい取ればよかった。
それが、ここのところ縫う回数が減った。
銅貨を置いていく日まである。
まぁ、足りたことはないが。
「マスター! ゴブリンが変なんだよ!」
その日も昼のうちに帰ってきたダグは、扉を開けるなりそう叫んだ。
「お前より変なゴブリンがいるなら見てみたいな」
「そういうんじゃねえんだって! 二つ目の分かれ道の手前でよ、群れで出たんだ。すげえ数だぜ。それが全部、南に走ってった! 俺のこと見もしねえでさ!」
「追ったのか」
「追っかけようとしたら、こいつが帰るって聞かねえんだよ!」
「追う理由がありませんので」
ダグの後ろで、ミアはもう椅子に座っていた。
少し前まで、この神官は見た傷を片っぱしから治して、うちの長椅子で寝ていたのだ。それが今では、帰るのが誰より早い。俺は考えろと言っただけで、さっさと帰れと言った覚えはないのだが、まぁ、自分の足で帰ってくるなら文句はない。
「ゴブリンが群れで走るなど、何かに追われている証拠ですな」
ヒューゴが杖を立てかけて、ダグの隣に腰を下ろした。魔法のほうは駆け出し以下だと本人が言っているが、本で読んだことだけは妙によく覚えているおっさんだ。
「何から逃げてんだよ」
「それがですな、話せば長くなります」
「じゃあいいや」
ヒューゴは開きかけた本を、少しさみしそうに閉じた。
俺も助けなかった。あの本が開くと、店を閉めるまで終わらない。
鍋の蓋を取った。今日の具は豚と豆だ。ゴブリンがどっちへ走ろうが、目を離せばシチューは焦げる。
「ダグ、今日は怪我してないのか」
「してねえよ!」
「よかったですね。今日はツバをつけなくて済みますよ」
「うるせえよ!」
◇
器を下げていると、扉を叩く音がした。
二度叩いて、走って逃げていく足音がした。
「またですか」
リタが布巾を置いて、扉を開けた。通りの向こうで、子どもたちが塀の陰から首を出している。
「リタさんだ!」
「当たりだ!」
叫ぶだけ叫んで、走っていった。
近ごろ町の子どもの間で流行っている遊びだ。うちの扉を叩いて、誰が出るかを当てる。リタなら当たりで、ダグが出ると肩車をせがんで帰らない。窓にエドの黒い外套が見えたら、泣いて逃げる。
人の店をなんだと思っているのか。
「マスターが出たら、どうなるんですか」
「さぁな。飯を食わせて、親にツケを回してやるさ」
リタは扉を閉めて、布巾を取った。
もっとも、俺が扉を開けに行くことはまずない。鍋を見ているほうが、子どもの相手よりずっと楽だ。
◇
客が減ると、ミアがヒューゴの席に行った。
「ヒューゴさん。さっきの話、ゴブリンは何から逃げているんですか」
「おや、聞いてくださいますか。長くなりますぞ」
「はい、聞かせてください」
ヒューゴは本を開いて、椅子を引いて座り直した。
俺が鍋を洗って、パンの仕込みを終えても、まだ話していた。ミアは膝に杖を乗せて、ずっと聞いていた。
あの話を最後まで聞く人間を、俺は初めて見た。神官というのは、そういう修行もするのかもしれない。
カウンターで寝ていたダグが、顔を上げた。
「で、結局ゴブリンは何から逃げてんだよ」
「いやあ、それが、本には書いておりませんでな」
「なんだよそれ! ずっと喋ってて分かんねえのかよ!」
「とても勉強になりました」
「どこがだよ!」
「いやはや、よい質問でした」
ダグはまた寝た。
◇
夕方、猟師のカミさんが来た。
前掛けのままで、手に粉がついている。紙を一枚持っていた。あそこの亭主には、ときどきうちに肉を入れてもらっている。口は悪いが、腕はいい男だ。
「マスター。これ、貼っていいかい」
「ああ、好きなところに貼ってくれ」
紙には、亭主の名前と、「北の森、三つ目の分かれ道。六日、帰らず」と書いてあった。
掲示板には、このところ農家の紙が増えている。畑を荒らされた。鶏が消えた。ダグたちが一枚外すと、次の日には二枚貼ってある。うちは酒場で、役場じゃないんだがな。
「猟師のじいさん、六日も帰ってねえのか。そいつは長いな」
隅の席の元弓使いが言った。腰を悪くして弓をやめた男で、昼から同じ杯を飲んでいる。
「大丈夫だよ。あの人は、熊に噛まれたって帰ってきたんだから」
カミさんは笑って、帰っていった。
ダグが立ち上がった。
「マスター、俺らが見てくるよ」
「三つ目の分かれ道だぞ。お前らの行くところじゃねえ」
「でもよ」
「ギルドには俺から言っとく。お前らは二つ目までだ」
「、、、分かってるよ」
ダグは座った。
リタが紙の横に、銀貨を一枚留めた。
「見つけてくれた方へのお礼です」
「それ、俺の店の銀貨だぞ」
「はい」
この看板娘は、俺の金を俺より上手に使う。
◇
ランプに火を入れた頃、見かけない客が入ってきた。
旅の靴だ。かかとがすり減って、泥が三色ついている。見かけない客は嫌いじゃない。ツケを知らないから、たいてい金を払う。
「飯を頼む。東の話をしてやるから、安くしてくれよ」
「安くはしねえ。話は聞いてやる」
男は鼻を鳴らして、シチューをかき込みながら喋り始めた。
東の港から船が出ていない。その話なら、前に行商からも聞いた。この男の話には続きがあった。
「一隻だけ戻ってきたんだ。帆も荷もそのままで、人だけいない。舵は縄で縛ってあって、船倉の魚だけ腐ってやがった」
「海賊にでもやられたか」
「海賊なら荷を持ってくよ」
「そんなの、ほら話だろ」
常連の一人が笑った。男も「違いない」と肩を揺らして、器を空にして、銅貨を置いた。
ほら話の代金にしては、きっちりした額だった。
帰りがけに、ダグの席の前で足を止めた。
「若いの、森帰りか。森はどんな具合だ」
「ゴブリンに無視された。俺のこと見もしねえんだぜ」
「そいつは腹が立つな」
男は白い歯を見せて、そのまま出ていった。
ヒューゴが本から顔を上げた。
「あの方の船の話ですがな。似た話が、この本の後ろのほうにありまして」
「長くなるか」
「長くなります」
「後にしろ」
◇
客が引いて、残ったのはいつもの連中だけになった。
ダグはカウンターに突っ伏して寝ている。エドが窓の外を見ていた。
珍しい。この男が見るものは、たいていワインだ。
「どうした。外になにかあるのか」
「虫が鳴いていない」
「もう寝たんだろ」
エドは答えなかった。この男に愛想を求めるのは、とっくにやめている。
「赤、もう一本いるか」
「ああ」
俺は栓を抜いて置いた。
帳簿を開いて、今日のツケを書いた。相変わらず、大赤字だ。それから、仕入れの欄に傷薬を足した。
「傷薬、増やすんですか」
リタが俺の手元を見ていた。
「減ってきたからな」
「棚にはまだたくさんありますよ」
「看板娘のくせに、棚の瓶まで数えてんのか」
「……足りますか、それで」
俺は帳簿を閉じて、鍋の火を落とした。




