22.フランスからの風
我が社は最近、金が有り余っている。
もちろん、商会を買収するために受けた融資はまだ返し終えていない。だが、融資というのは「金ができたからポンと返す」類のものではない。資金の流れというのは、経営の一部であり、余裕をもって管理されるべきなのだ。
いま、僕たちは“次の時代”に向けて投資をしている。最近はロビー活動に力を入れている。
ーー政治と電波は切り離せない関係にある。
でもそれ以上に注力しているのが、研究と開発だ。
そしてついに、その投資が実を結んだ。
ゲルマニウムが見つかったのだ。
出資していた化学メーカーの研究員が、それを発見したのは、なんと我が国ベルギーの植民地、コンゴの銅鉱山の精製残渣――ゴミの山の中だった。
発見した化学者は、自らの故郷ナミュールにちなんで、その元素に「ナミュニウム(Namurium)」と名付けた。命名は発見者の特権だ。僕は無理を通すような真似はしなかったが、ややこしいので僕の中ではいまも“ゲルマニウム”のままだ。
商業的な生産は、まだまだこれからだ。
どうやら、鉱石からの単離がとても難しいらしい。高熱で焼成すると不純物と分離し、鉛やゲルマニウムなどが混ざった中間物質になる。いまのところは、その状態でコンゴから輸送する形をとる予定だ。さらにそこから酸処理など、いくつかの工程が必要になるという。精錬の工程はほとんどアンチモンと同じらしい。
いまのところ、毎月1000フラン――日本円にして500万円程度の研究予算がかかっているが、未来を考えれば安いものだ。
すでに試作品として2グラムほどの金属ゲルマニウムを受け取っている。実験炉で少しずつ使っては、その性質を確かめているところだ。
メンデレーエフが予言していたこの元素を、ベルギーが見つけたことは、学術界でも大きな話題になっている。彼の名声もまた、うなぎ登りだ。
僕の記憶では、彼はかつてノーベル賞を1票差で逃し、受賞できなかった悲劇の化学者だった。ロシア学術会の国際的地位の弱さもあっただろう。
だがこの世界では、予言した元素が10年も早く見つかった。まだノーベル賞は創設されていないが、このままいけば彼もきっと栄誉を受けるはずだ。
元素を見つけるというのは、そうそう起こることではない。現代でさえ、新元素の発見は稀だ。それも、最近のものはニホニウムのように、ウランより重く、すべて人工的に一瞬だけ存在する“超ウラン元素”ばかりだ。
あれらにも学術的意義はあるのだろうが、僕の中での“元素の発見”とは、こうして手のひらに載せられる金属のことだ。
研究の傍ら、僕はいま、大学でも教えている。
錬金術的製法によるダイオードの論文によって、シャルルロワ大学とブリュッセル大学から博士号を授与されたのだ。
――いわゆる、論文博士というやつだ。
大学に通っていない僕が、博士号を得るなど、かつてなら夢にも思わなかった。
しかもブリュッセル大学からは魔術分野での博士号だ。つまり――錬金術が、ついに正式な学問として復活したということだ。
まだ本格的なものではないが、編入希望者向けの小さな課程が復活したらしい。それでも、これは大きな一歩だ。
シャルルロワ大学でも、週に一度、無線通信に関する講義を担当している。
こうした活動を、誰よりも喜んでくれているのは父だった。
錬金術が再び認められ、息子が――非常勤とはいえ――大学で教壇に立つ。
そんなことが、父にとってはたまらなく誇らしいらしく、近所中に「うちの子は大学の先生だ」と言いふらして回っている。やめてほしい。ほんとに。
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ついに、待ちに待った出来事が訪れた。
フランスからの電波が、シメイのこの町に届くようになったのだ。
事前に電報で試験放送の開始が知らされていた僕は、朝からそわそわして、鉱石ラジオのダイヤルを合わせて待ち構えていた。
スピーカーから、かすかに、しかし確かに声が届いてきた。
「こちら――局、試験放送です。」
その瞬間、鳥肌が立った。
鉱石ラジオで、国境を越えてフランスの電波が拾える。
距離を考えれば、これは画期的なことだ。
そして数日後、本放送が始まると、シメイでもフランスの放送は急速に話題になった。
フランスに一度も足を踏み入れたことがない人がほとんどなのに、誰もが口にする。
CMも、言葉遣いも、扱う話題も、どこか洗練されていて、都会的で。
「パリでは今こんな流行があるらしい」「今の言い方、フランス式よね」
そんな会話があちこちで交わされていた。
だが、僕がここまでフランスでの放送事業に力を入れた理由は、単に商業的なものだけではない。
それは――国家としての進路に関わる、もっと大きな思惑があった。
ベルギーはかつて、第一次世界大戦で中立を宣言し、その結果、ドイツの“通り道”にされて戦場となった。
塹壕と瓦礫の風景。中立は、平和ではない。ただの無防備だ。
僕は信じている。
ベルギーはフランスとの同盟を結ばなければならない。
そのために、国民の意識を変えなければならない。
だから僕は、自由党に多額の献金をしている。
カトリック党を支持している父には渋い顔をされたが、構わない。
自分で稼いだ金だ。
カトリック党は、フランスの世俗主義と教育政策に嫌悪を抱き、反フランス的な姿勢を取ってきた。
それが結果的に、中立政策へとつながったと僕は考えている。
文化が政治を変える。
フランスの文化が、この地に染み込むことが、ベルギーの未来を変える第一歩なのだ。
その兆しはすでに現れている。
シメイでは、フランス式のフランス語表現が流行している。
たとえば数字。
ベルギー方言フランス語では「91」を nonante et un(90+1)と呼ぶ。
だが、フランス式では quatre-vingt-onze(4×20+11)。
合理性で言えば明らかにベルギー式の方が上なのだが、都会風の言い回しに憧れる若者や商人たちは、こぞってフランス式を使い始めた。
ある日、雑貨屋でお釣りを返されたとき――
「はい、キャトルヴァン・ディズヌフ(99サンチーム)」
僕は思わず固まった。
ラジオを発明して後悔したことは、この時が最初かもしれない。
なお、この“数の言い回し”の流行は不便さが災いして、一ヶ月もしないうちに廃れてしまった。
けれど、それはどうでもいい。
僕の真の目的は、ベルギー国民の中にある、フランスとの文化的親和性を醸成することだったのだから。
そして、それは国際情勢によっても後押しされていた。
今年、1880年――ビスマルクが仕掛けた「エムス電報事件」がついに起きた。
ドイツがフランスの外交的非礼を嘲笑するような文面を、全欧州に向けて公開したのだ。
フランス国民は激昂し、パリの議会は騒然となった。
フランス国内のラジオ放送は、この話題で持ち切りになっている。
僕はこの事件の報道を、ベルギー国内のラジオ局にも意図的に広げた。
ラジオ網を通して、自由党系の新聞社とも連携を取り、報道を強化した。
そして――その事件から、わずか六日後。
フランス政府は、プロイセンに宣戦を布告した。
ラジオのスピーカーから流れたその報は、シメイの静かな夜に、鐘の音のように響いた。
この章が最終章になります。




