21.リエージュの休日
先輩と付き合い始めたことを両親に報告すると、逆に「え、まだだったの?」と驚かれた。
敬虔なカトリックである両親にとって、先輩の都会的なスキンシップは交際していない相手に許されるものではなかったらしい。
都会的といっても、パリでも先輩ほど開放的な女性は珍しいし、なんならパリに行く前からずっとあの調子だった。
それはともかく、僕たちはお休みを取って、二人きりで動物園にデートに行くことにした。
さすがにミネットちゃんはお留守番だ。最近では名前の意味である“子猫”というより“暴れ馬”という表現が似合ってきているけれど。
先輩は僕と違ってとにかく交友関係が広い。シメイの街を歩けば、あちこちから声がかかる。けれど今日は、誰も何も言わなかった。――たぶん、みんな空気を読んでくれているのだろう。
とはいえ、雑貨屋のおばちゃんにはしっかり目撃された。僕たちが手をつないで街角を曲がる姿を。あの人の噂の拡散速度は電波を超える。明日にはシメイ中の住民に冷やかされるに違いない。
最近は子供たちからの泥団子攻撃も激しくなってきている。町のマドンナと付き合い始めたという情報は、どうやらすでに広まっているのかもしれない。
ただ、そんな空気をまるで気にしていないのが先輩だった。
先輩はいつだって自分のペースで、興味の向くままに行動する人だ。
そして今、先輩が一番興味を持っているのは――動物園。
「動物園に行きたーい!」
そう言ってはしゃぐ先輩に付き添って、ようやく開通したシャルルロワ経由の鉄道に乗り、リエージュへと向かった。
リエージュの動物園は、開園したばかりの新しい施設だった。広々とした園内には、象やキリン、ゴリラ、そしてカバがいた。
「見て見て! あくびしてる顔が、レオンくんみたいでかわいい」
カバを見て先輩はそう言ってケラケラ笑っていたけれど、僕は素直に喜んでいいのか悩んだ。
――僕、あんな顔してるのか?
それでも先輩の嬉しそうな笑顔を見ていると、連れてきた甲斐があったと思える。
このシメイでは有名人になってしまった彼女も、ここでは誰の目も気にせず、心からはしゃいでいた。
そして、リエージュに来た理由はもう一つあった。
ここはワロン地方、そしてベルギーでも随一の富裕な都市。鉄道も早くから通り、いまでは小さなラジオ局が四つもある。
すべて、僕たちの技術で建てられた局だ。最近は送信設備も商会の営業部に任せきりで、設計図とともに送りつけるだけになっている。
カフェでひと休みしていると、近くのテーブルからかすかなラジオの音が聞こえてきた。
僕も自分の受信機を取り出すと、隣で先輩も自分のラジオをカバンから取り出してきた。
――鮮やかなオレンジ色の塗装がされた、かわいらしい鉱石ラジオ。
もちろんそんな色を作った覚えはない。社内の誰かが、先輩のために内緒でカスタムしたのだろう。
「ねぇレオンくん、これ聞いて。通販やってるよ」
先輩が差し出したラジオからは、訛りのある軽妙な語り口で、高枝切りバサミの実演販売が始まっていた。
僕たちは顔を見合わせて、思わず吹き出した。
「……売れると思います?」
「おばあちゃんたちには便利そう。……わたし、こういうの好きかも。うちでもやろうよ?」
「……え、ラジオ通販ですか?」
「うん。今度、番組で試してみたいなぁ」
先輩はそう言って、イヤホンをもう一度耳に当てた。
カフェのざわめきと、ラジオの声。街の空気はにぎやかで、どこかワクワクするような期待に満ちていた。
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商会に販売を任せるようになってから、送信機の出荷数は目に見えて増えた。
リエージュにも、今後さらに数基の小型局が建設される予定だ。
正直に言えば、僕はもう市場の需給バランスについて細かくは考えていない。
そのうち、似たような小規模ラジオ局は自然と統廃合されていくだろう。今はその流れに任せて、必要な数だけ送信機を届けることにしている。
国内外合わせて、月産20台――これは我が社の限界に近い数字だった。
送信機の利益は大きいが、その裏にはとてつもない歩留まりの悪さがある。
20台を作るのに、60個の動作品トランジスタを使い、結果として不良品は1000個近くにもなる。
もっとも、最近はそれすらも無駄にはしていない。
不良トランジスタの多くは、内部構造の活用によってショットキーダイオードへと再加工している。
npn型トランジスタを丁寧に分解すれば、二つのダイオードが得られる。
そのおかげで、我が社では新たなダイオードの生産をかなり絞ることができていた。
小型局用送信機は一台につき3個のトランジスタで済む。
しかし、今ランスで建設中のような大型局になると、話は別だ。
アンテナ長によるインピーダンス整合、放射電力に応じた耐久設計……そういった複雑な要件に応えるためには、20個以上の高性能トランジスタが必要になる。
あれは、まさに“作品”と呼ぶに相応しい大作だ。
そんな中、トランジスタラジオの生産は本当に細々としか続けられていなかった。
受信機用のトランジスタを確保する余裕がないのだ。利益率も送信機よりは下がる。
それでも、細々とでも続けているのは、未来への投資でもある。
ダイオードと鉱石ラジオは、もう僕の手から完全に離れている。
先日、フランス製の受信機が市場に出回っているのを見て驚いた。
ライセンスを出した覚えがない――その工房には、今ごろ商会の顧問弁護士からの書状が届いていることだろう。
一方で、ダイオードがラジオ以外の目的で使われ始めたのは喜ばしい進展だった。
ノイズ軽減、回路の過電圧保護――用途は多岐にわたり、今後の電子回路の発展に貢献してくれるに違いない。
そんなことをぐるぐる考えていると、隣からぷくっと膨れっ面が覗き込んでくる。
「……もしかして今、また仕事のこと考えてたでしょ?」
カリーヌ先輩が、じと目で僕を睨んでいる。
「ち、違いますよ。考えてません、考えてませんとも!」
「うそ。さっきから顔に“トランジスタ”って書いてあるよ」
「えっ……そんなこと……」
「レオンくん、今日はデートの日です。切り替えて、はいっ」
先輩は得意げに指をぱちんと鳴らすと、僕の手をぎゅっと握った。
その笑顔は、きっとこの都市にあるどんな建物よりも誇らしげで明るい。
リエージュ――ベルギー東部の中核都市。
大聖堂が林立し、歴史ある大学と銀行が軒を連ね、パリにいた頃の空気を思い出させてくれる場所。
今日はここで、ただ先輩と一緒に過ごす。
仕事も発明も特許も、トランジスタの歩留まりも全部、一度ポケットにしまって。
先輩と笑いながら、街を歩く時間を楽しもう。
要塞都市リエージュは、第一次世界大戦における西部戦線の最初の大規模な戦闘の舞台となりました。
しかしその戦いは、大砲の圧倒的な火力の前にわずか10日で幕を閉じ、リエージュは陥落します。
ドイツ軍はベルギー各地で、民間人によるゲリラ的な抵抗に苦しみました。
その結果、各地で報復的な大規模な民間人の虐殺が発生することとなりました。




