結
「全くどうなるかと思いましたよ。誰ですか、〝赤子の手をひねるようなもの〟と啖呵を切ったのは」
右腕を添え木で固定し、ウツケソウをすり潰した苦い痛み止めを飲まされる。医術を学ぶガーランドの手際はさすがだった。
「いや、駄々っ子を黙らせるだわ」
「別にどっちも変わらないでしょ」
「変わる」
「変わらない」
「変わるったら変わるの」
「しょーもな」
すっかりあきれ顔の少年である。
いっぽうドリュアスは、沼を見てさっきまで〝いた〟存在が抹消していることを確認した。風がそよそよとツノムグラの葉叢を揺らしている。相変わらず水面はドロッとしていてあまり気分の良いものではなかった。
(ッたく、ここで逢瀬したお嬢さんの気が知れねえよ)
件の魔術師なりそこないは、おそらく永遠の脱魂状態になっているはずだ。《記憶》への干渉は、その深層へ潜れば潜るほど還ることが難しくなる。男はたまさか得た力に溺れすぎ、そのほんとうの恐ろしさに気が付かなかった。いまごろはその代償を深く払わされていることだろう。
しろうと魔術師の末路を見るのはこれが初めてではなかったが、ドリュアスは今日のメシはきっと不味くなるとため息を漏らした。
「さて、後始末しますか……」
儀式場にしるしを刻む。聖なる章句を引用し、火を焚いて四方の呪木を炭にするほどに焼いた。風がほのかに揺れ動いた。爽やかなひと吹きだった。
濁り水晶は、もうこれ以上の穢れを受け止めきれないだろう。ドリュアスはそう判断して沼の底に投げ捨てた。ドポンと重い音を立てて沈んだそれは、祓われた魔の依代として新たな意味づけを付与される。
運びやすい形状をした霊櫃は、きれいに畳まれて背負い袋に消えた。あとはもう帰路をたどるだけだった。
ヌスビトハギとムコウズネノケののさばる道を戻る。一度踏破したとはいえ、イライラする道中は変わらない。
「先生?」
「はい」
「あれも魔術なんですね」
「そうだぞ。こっちがシロだからって理由であれを知らんふりはできん。元は同じものだからな」
「そうですか」
「……なんか元気ないな?」
「いえ。白魔術ですら修めるのが大変だと言うのに、ああいう術式に手を伸ばしたがる人の気持ちが、やっぱりわかりません」
「んー、まあ、そのうちわかるよ」
大人になるといろんなことに失望するのだ。それを知らないうちは、意欲の続く限り白を探求して欲しかった。
やがて、森を出たところの橋の際にひとりの影が立っているのが見えた。エレンデールだった。
ドリュアスは女の姿を認めたとたん、橋を挟んだ向こう側で足を止める。
「聖域は封印しました。もうあの場所に近づくことは許されません」
女はハッと顔を上げる。その憂いの表情の奥底に、ドリュアスは思わぬ陰鬱なものを見いだした。
橋を渡る。湿気たアザモミ材の、やや滑りやすいぬめり具合を足裏で確認しながら、恐る恐るこちら側へたどり着く。
「少年、先行ってろ」
「……?」
「辛気臭い話だからな。その辺の草でも拾って遊んでなさい」
「子供扱いしないでください」
ブツブツ言いながら、それでも言われた通りにする。
少年が背を向けたままきちんと遠くに行くのを見届けてから、ドリュアスは女に向き合った。エレンデールはそこでようやくドリュアスの眼を見た。
「そうですか」
エレンデールはそれでも何か道があるのではと訴えかける眼差しで、距離を詰めた。
「だめですよ。もう叶わぬ想いに身を焼く必要はありません」
「……」
「あなたは身分違いの恋をしていたのですよ。例の詩人とやら──〝カザヨミサマ〟の化身は、彼でなくともいずれは誰かが穢したに違いないし、わたしでなくとも祓われるのは時間の問題だったのですから」
「……」
「まあ、こんなの気休めにしかなりませんがね。生きていれば良いことあります。中年がいうんだから間違いない」
はっはっはっ、虚しい作り笑い。それでも女は無言だった。
ドリュアスは肩をすくめた。あんまり長居すると今度は自分が呪われるかな、と不謹慎なことを考えてしまった。
頭をボリボリ掻いて、足早に立ち去ろうとしたところ、出し抜けにエレンデールは口を開いた。
「……司祭さまは、愛の問題をどのようにお捉えですか?」
背を向けていてよかったと、この時ほど思ったことはない。恐ろしく不気味でいびつな顔をしてしまったに相違ないのだ。それを引っ込めて、考えた言葉を絞り出す。その間たっぷり三秒掛かった。
「〝聖なる乙女〟の教えでは、それは献身だと言うでしょうね。まあ、わたしとしては見返りのない献身は難しい。人は皆弱いものです。尽くしてるつもりが、尽くしてやってるつもりになったりするじゃないですか。だから真剣に考えたいんだったら、もう一回我に返ってみるもんです。できるもんなら綺麗さっぱり忘れたころに見ると、案外どうでもよかったりしますから。
ただ──それでも無くせないものというものはあります。そういう時は格別きれいな棚に飾ってやることですな。ときどき拝みに行けば、想い出はいつまでもきれいなままでいてくれます。ま、教えには反しますがね」
だからこれは内密に頼みますよ、と付け加えるのを忘れなかった。
女はきょとんとしていたが、ようやく呑みこめてくると初めて心の底が見えるような笑みを浮かび上がらせた。
「そうですか。ありがとうございます」
「ま、繰り返し言いますが、生きてりゃなんか良いことはありますよ。それを期待したっていいんじゃないかなあ」
「ふふっ、そうだと良いですね」
ドリュアスは、言外に込めた内容を女が正しく受け止めたことを知った。それはある種の〝救い〟ではあったが、良い救いなのかは自信がない。
できれば言葉を言葉のまま受け止めて欲しかった。当たり障りのないまともな言葉に意味があって欲しかった。
だが、実際はそうではないのだ。
(いずれは隠居でもしないとやってられんわな、こんな仕事は)
小さな家を建て、森に詳しい偏屈じじいとして生きる老後を夢想した。そんな日がいつ来るのか知らない。しかしいつかは来るだろう。そう思っておくだけで、とりあえず前に歩く努力ができる。
人は忘れる生き物だ。しかし想い出す生き物でもある。
遠くでピュイっと音がした。まだ微かに音がずれ、唾が混じった雑音が残るが、少年はようやくコツを掴んだようだった。
「先生! できました!」
ドリュアスはやれやれと首を振って、少年のいる丘に向かって歩き出す。風車はいつまでも呑気に時を回し続けていた。
その往昔、森に神霊一柱あり。名を風読と名付く。春を告げ冬を知らせる神霊なり。夏に働き秋に憩む。
詩あり。乙女の知らしむる司来たりてこれを敗る。神霊去る。風変わらず。されど詩は損なわれたり。
忘るるなかれ、古言掌るものよ。かつてここに神霊ありしことを。乙女来たるその往昔にて祀られし神霊ありしことを。
──ある魔女の口伝より