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緋に咲く青1


「知らない火」の続き。

摂子視点に戻ります。

体が痒くなるほどピュア―なお二人。




気づけば長いようで短かった冬休みもあと3日を残して終わろうとしている。それなりに充実した休暇を過ごした私の前には、その充実した日々に見合うだけの問題が見事に山積していた。目下は手つかずの宿題数種だったが、それよりも気が重くなるのは思いつきで始めてしまったとんでもない試みの方だ。そちらは、考えるだけでも胃が痛くなる。自分が何を考えてそんな思いつきを口にしてしまったのか、今ではまったく思い出せなかった。

やっぱり色々狂ってしまったんだろうか、私。


「おい、聞いてっか、杉田?」

「え?あ、うん、…………ごめん、ちょっと考えごとしてて」

「そこの雑貨屋、寄ってくか?って聞いたんだけど」

「あ、そ、そっか、それじゃ、その、……か、海藤くんが行きたいなら、い、いいんじゃないかな?」


夕方のショッピングモールは繁忙期を過ぎたとはいえ人混みが絶えない。そんな、誰に見られているかも分からないような場所で、あの海藤久成と並んで歩くことは必要以上に緊張を強いられた。自然と目が泳ぎ、歩く姿勢はつい猫背がちになる。

いったい何がどうしてこうなったのか、誰かに説明して欲しい気持ちで一杯だったが、すべての元凶が自分であることは明白だ。

責任の追求はすぐに袋小路に陥る。


あの日、玄関先で背を向けた私に、待てよ、と声をかけて海藤が追いすがったのは、何か一つでも自分に出来ることはないか、という再三の訴えのためだった。

その様子があんまり必死だったから、馬鹿な思いつきが頭を過ぎってしまったに違いない。というより、了承するなんてあり得ないような提案だったから、口に出したのは完全に気の迷いだった。

無理難題を言い付けることで帰らせる思惑もどこかにはあったかもしれない。

とにかく、その提案が採択される結果なんか万が一にも想像してなかったとは、誓って言えることだった。


『それなら、…………責任、とれる?』

『責任?』

『その、……川原での、あのこと。私、初めてだった。その責任を取って欲しいって言ったら、どうする?例えば、わ、私なんかと、その、つ、つ、付き合う、とか、さ……でも出来ないでしょ?そんなの』

『取ってやるよ。そんなんでいいのか?』

『ほらね、嫌でしょ。なら、もう帰っ………………………………え?』

『責任。取るけど』

『…………は、はい?』

『あんたがそれでいいなら付き合おうぜ、俺たち』


そうして即日付き合うことになった。


なんでも「はずみ」というのは物事に対して大きな影響力を持ってるんだなと、16才にして思い知ることになった。もののついで、もののはずみ、それほどの些細なきっかけだとしても、踏み出すためには必要なプロセスなのに違いない。

少なくとも、あそこで馬鹿な気を起こさなければ、こんな未来を引き当てることにはならなかったはずなのだ。


「お前これ似合うんじゃねえ?」

「えっ、こ、これ?私が?」

「どーせ家でも葬式に出るみてーな暗いカッコしてんだろ?たまには女を磨いてみろよ」

「…………」


見てきたように言うので悔しくなったが、真実だからぐうの音も出ない。

ふらっと立ち寄った雑貨屋さんで海藤が手に取ったのは、惜しげなく肌を露出するタイプのヒラヒラピンクな部屋着だった。そこかしこにパステルカラーのリボンがあしらわれていて、見ている分には申し分なく可愛い。だがこれを自分が着ていることを想像するとただのホラーでしかない。海藤もそれを分かっているらしく、失礼にも顔を背けて噴き出していた。

腹わたが煮えくり返りながらも、私はこんな海藤に会うたびに考える。


(いったい何やってんだろ、私……)


付き合うことになってからというもの、彼は「償い」や「責任」なんていう態度を感じさせないほど、まるで本当に付き合っているかのように自然に振舞ってきた。今日だって向こうから場所と予定を提案してきて、そんなデート的なことはこれで2度目になる。意外とマメだ。プランはこれといってなく、ただその辺を冷やかして歩いたりフラフラっとカフェに立ち寄って飲食するだけだったり。そんなとき、意識してるのかしてないのか、二人っきりで会話がなくてもあっても、気詰まりにならないのがまた不思議だった。私の方にイマイチ付き合っている自覚がないせいかもしれかなったし、或いは海藤がそういう流れを作っていたのかもしれない。苦痛でないのが問題だった。


「そろそろ行くか?」

「うん」


自然と歩調を合わせてくれることも、居心地がいい原因の一つかもしれない。

デートするにあたって私が唯一気掛かりなのは、とにかく身内バレしないかという周りの視線だけだった。


たとえ償いの為だとしても、私は海藤の優しさに溺れ、順調に勘違いしていくことになった。

冬休みが明けて新学期が始まってからも彼のマメな接触は止むことなく、次第に「償い」という文字が二人の間から溶けていく。

彼氏彼女の間柄と認識するにはAも済ませていないほど健全だったので、どの程度出来上がっているのか恋愛初心者の私には見当もつかなかったが、とりあえず友達と呼べるくらいには話が弾むようになった。

とりわけ趣味や見ているものの角度など、折に触れて似ているものが多いことがさらに二人の距離を近づける要因となった。

少し前まで胃が痛むほど気に病んだことが嘘みたいに、私は海藤との仲を急速に深めていった。


そうして何もかもに蓋をし、ただ流れゆく日々の享楽に耽ることで、問題が表面化するのを先送りにしたのだ。




「ねえ、ヒサ。最近なんか付き合い悪くない?」


その状況に遭遇したのは単なる偶然だった。

部活で所用があって、少し遅くなった帰り道の駅前で、見覚えのありすぎる後ろ姿を見つけた。

高い背、漲る筋肉の広い肩、首には緑と紺のチェックのマフラー、肩には赤い部活用のバッグ。無造作に整えられた短髪の黒髪。

間違いなく、現在彼氏(仮)の男子生徒の後ろ姿。


「かいど……」


ロータリーのバス停の待合室に寄りかかっているのを追っかけ、話しかけようとしたところで彼が誰かと一緒にいることに気づく。

同校らしき、メイクばっちりの垢抜けた女子生徒だった。


「まあな。俺だって色々忙しいの、部活とか」

「うっそだー。どーせ彼女出来たでしょ。アヤシ過ぎる」

「出来てねーし」

「だって他校の女子と歩いてんの見かけたってみんな言ってるよ。なんか地味なの」

「あれは……そーゆーのじゃねえから」

「は?意味分かんないし。だったら、美朱にちゃんと言い訳しとけば?けっこう気にしてたよ」

「いやなんで美朱に言い訳しなきゃなんねーんだよ。俺好きなの別のヤツだから」

「はあー⁉︎照れ隠し⁉︎今さら⁉︎あんだけ美朱と一緒にいてなにその下手くそなウソ」

「お前と話してると疲れるわ……」


そうだよね、と、耳に入ってきた会話に相槌を打っている冷静な自分と、ガンガンと頭を煩く鳴らしている脆い自分が混在する。

海藤とのデートは、先週の日曜のを含めて4回。

付き合う宣言してから1ヶ月とちょっと、決して少なくはない回数。

でもその時間の倍以上、海藤の側には別の誰かがいるかもしれない、そんな可能性なんて、とっくに気付いていておかしくなかった。


分かってる、海藤は、カッコイイ。

私なんかと違って誰からも人気があって、意外とマメで、意外とマジメで、意外と律儀だし、意外と優しい。

本当は、ちゃんと気づいてた。

私は狂ってなんかいないって。

好きになって当然かもしれなかった人だって。

だからオカシイのは、そんな人が私を好きになるなんてこと。


(そんなワケないじゃない)


私に償いをしたかったから。

私に責任を取りたかったから。

彼が私といた理由はそれだけだ。

たったのそれだけ。

私の中身はどうでもいい。

まして花なんか、咲こうが咲くまいが、彼にとってはどちらも等しく価値がないのだ。







その日以降、目に見えて海藤久成に対する態度はおかしくなっていった。

溌剌とした返事や打てば響く会話内容は減り、静寂が苦痛になる場面が何度も訪れる。視線は俯きがちになり彼の顔は見れないし、手が彼の体のどこかに触れようものなら、電流が走ったかのような大仰な仕草で飛びのいた。それは何も、意識してそうしているわけでは無いから余計に気詰まりになる。

海藤が嫌なわけでは無い、全ては自分の問題だった。

だって私はきっと、海藤に溺れそうなほど恋してる。

話している時、時々可笑しそうに眼を細めるクセや、骨ばった日焼けしてる手や、触れたら傷つけられそうな鋭い目、その奥で揺れる不思議な光。

海藤と付き合うようになって知った色々は、次々に私を魅了していった。

怖いくらいだった。

怖いのに、きっと遊ばれても騙されても関係無いくらい、好きだと思った。

どうなってもいいって。

そんな自分の気持ちに歯止めをかけようとして反動が表に出たのだと思う。

これ以上、もう好きにならないように、切実に祈った結果だった。


「つまんねーか、俺の話」

「え!?」


偶然帰り道で会って一緒に帰っていた私達は、そろそろバレンタインムードに浮かれる町並みを肩を並べて歩いていた。

仮にとはいえ彼氏という立場の海藤にどういう立ち位置で贈り物をしたら良いか本気で悩んでいて、それがまた悩みの種となって最近の憂鬱さに拍車をかけていた。

2人でいる時も気づけばぼうっと自分の世界に入っていて、今も、海藤が話している内容は右から左へ通り抜けていった後だった。


「ご、ごめん、ちょっと考え事してて……」

「つまんねーならそう言えよ、わざわざ話すこと考えんのこっちだって面倒だから」

「いえ、あの……」


なんと返せば良いか分からない。

鋭いナイフみたいな三白眼が探るようにこちらを見下ろしていて、ごまかすことは無理そうだ。

あからさまでは無いけど海藤は怒っている。

そりゃそうだろうと思う、普段会話の主導権を握っているのは海藤のほうで、私は自分でも一緒に居て楽しいんだろうかと疑問に思うくらい意見を出さない。それを承知で彼は「償い」と称して付き合っているのだろうけど、いい加減限度があるのだろう。


「ごめん、もう遅いし、送ってくれるのこの辺でいいよ。海藤くんも、朝練で明日早いでしょ?」


精一杯の気遣いだった。

このまま私といても楽しいことなんかひとつも無いに違いない。本命の彼女の方へ行かせるべきなのだと。


「なんかさ、言いたいことでもあんの?」

「え?」

「最近、つーか、1週間くらい前から変だけど、あんた」


多分気づかれているのではないかと思っていたけど、海藤は少しもそんな態度を表に出さないからやり過ごせるとも思っていた。

そんな私の横着を、けれど彼は見逃す気などなかったらしい。


「そ、そんなことないと思う、けど」

「俺なんかした?したとしても、言わねーと分かんねえよ。一応付き合ってんだし、なんか要望あんなら口に出せよ」

「…………」


海藤は容赦なく私の懊悩を暴いてきた。

けれど、付き合っているとはいえ償いという名のいつ終わるとも知れない関係を頼みにはできなかった。

彼は仮初めで、私もニセモノだ。

そして、誰からも好かれるようなこの人を繋ぎ止めるような何かが自分にあるとは、私には到底思えない。


「海藤くん……に、じゃなくて、私の方が、ちょっと調子悪いだけだから……」


言外に気にしないでほしいと伝えたのだが、海藤はますます突っ込んできた。


「調子悪いって、まさか病気じゃねーだろ」

「違う……ような、そうじゃないような」

「はあ?なんなんだよ」

「あの、とにかく気にしないで。大丈夫。だから、もう帰ろ?」


人目もあるし、と付け加えようとしたら、力強い手が両腕を掴んできて、思わずその顔を見上げていた。

久しぶりにまともに見るその顔は、やっぱり苛立ちを露わにしていた。


「なあ、俺に話すときぐらいこっち見ろよ」

「!」

「付き合えって言ったのあんたの方だろ?なのに今更なんで避けんの?怖いのかよ、俺が」

「ちがっ……!」

「責任取れって、あんたにとってこういうことかよ。こっち振り回すだけ振り回してタイミング見計らって逃げ出す?……なあ、俺を馬鹿にする気だったんなら最初から言えよ、復讐したかったって。腹ん中煮え繰り返るくらいムカついてたってよ!」


語気を強めた海藤は、私が視線を逸らすのを許してはくれない。ギラギラと光る瞳は、迷いっぱなしの私の態度を責めていた。

私達の認識の間には、確実に正しようのない齟齬があって、どれから紐解いてゆけば良いのかも分からない有様だ。


(私が怒ってたら、きっとあの時にぜんぶ終わってたんだ。そうしたら海藤も、過去から解放されてたんだ、今頃)


彼は彼なりに私に「償い」をしようと必死なのだ。

だから、彼にとっては私は彼を振り回すだけ振り回したに過ぎず、その上で逃げ出そうとしている態度に怒りを覚えている。


(そうだ。今更……怖気づいて、逃げ出したりできない)


とことん今の立場を利用してやろう。

この恋心を思う存分味わって昇華するために、仮初めでも、海藤の彼女を演ってみせるんだ。

そうしたら未練なんて木っ端微塵になるくらい全部終わらせられる。

私のために、そして海藤のためにもきっとその方がいい。

いい奴になり切ろうとしてるから中途半端なんだ、とことん悪女になりきればいい。


「ムカついて、なんか、無いよ」

「じゃ、なんだよ」


凄んでくる海藤の腕を掴んで、いつもの土手の方へ向かった。

拍子抜けしたように、でも海藤は割と素直に私の後をついてきた。







「その、もっと、……先へ進んでほしくて」


夕暮れを過ぎた河川敷は街中よりよほど寒さが厳しいのに、私の体はかっと燃え上がって汗ばむくらいだった。

言ったそばから恥ずかしくて火が出そうだ。


「は?」


見上げた海藤の顔は、さっきまでシリアスだった顔が嘘みたいに目が点になっている。

わたしがそんなことを言うなんて一つも考えてなかったんだろう。

嫌がるだろうとは分かってたけど、一回キスしてきたのはそっちなんだから大丈夫だろうと楽観してもいた。

好みじゃ無いのは充分承知だ、でも今の私は彼女なんだと、頭の中で煩いくらい繰り返した。

そうでなければ、すぐにでも前言撤回したくなるほどの後悔が押し寄せてくる。


「あの、あんまり、手とかも……繋いだことないから、それじゃ変かな、って……思って」

「な、あ、あんた、んなことであんな態度とってたのかよ」


引かれてる、思いっきり引かれてる。

本当は全然違う、それなのに否定したら全て終わってしまう。

でもその、「理解できない」と言うような表情を見たらもうダメだった。

途端に怖気づいてしまった。

所詮優柔不断がデフォルトの私に鉄の意志を保つことなど難し過ぎたのだ。


「ご、ごめん、やっぱり忘れて!」


羞恥が天を衝こうとした時、素早くその場を逃げ出そうとして海藤の隣をすり抜けた。

けれど、すぐに捕まってしまう。


「!?」

「バカか、早く言えよ、んなこと」


身動きがとれない。

後ろから、思いっきり抱きしめられてる。

驚いているうちに、マフラーを巻きつけた首筋に海藤の冷たい鼻先が潜ってきて、思わず震えた。

心臓が大きく鳴っている。

まずいと感じた。

これ以上は。


「なあ。先って、どんくらい先?」


はあっと熱い息が耳元にかかって、ハスキーな声が更に掠れて響いてくる。

それだけでぞわっと全身が泡立つ。

ドキドキし過ぎてもう苦しい。

というか、何を聞かれているか理解できない。


「あ、あの、海藤く……」


振り返ったら、すぐ近くに、こちらの全てを見透かすような鋭い瞳があった。

黒いその中に馬鹿みたいに浮かれきった自分が写っていて、また逃げ出したくなる。

でももう、絡め取られて、どこにも逃げ場なんてない。


「か、いど……」


突然、ほっぺに降ってきたキスは、とても柔らかで冷たかった。

かーっと体が熱くなって、心臓が痛いほど大きく脈を打つ。


「これより先?」


すぐに離れた唇は、でも、触れ合いそうなくらいまだ近くにあって、話しかけるその吐息が暖かく唇を包む。

いい加減心臓が壊れそうだった。


(違っ……くもない、けど、こんなに先じゃなくて……!)


恥ずかしくて逃げ出したくて堪らないのに、海藤は私が答えないことには解放する気が無いらしい。


「言えよ。したいことがあんなら言うこと聞くぜ、俺」

「……ヤじゃ、無い?」

「んなことあんたは気にしなくていいよ」


笑いを含みながら海藤は請け合った。

でも私は、海藤が嫌なのは嫌だった。

ほとんど泣きたい気持ちで、きっと半分は泣いていて、その先を言うのは躊躇われた。


「償うって言ったろ。あんたがしてほしいことなら、まあ、できる範囲でならしてやるよ。言ってみろよ、俺に何を望んでんのか」


誘惑に抗える気がしなかった、まるで甘さなど感じられない声なのに、底の底まで私を慰めるようなそれに陥落した。

元より惚れている相手だ、初めから私なんかに勝ち目など無いのだ。

後ろから覗き込んでくる目から逸らし気味に、私はポツリと呟いていた。


「だ…………抱きしめさせて、みて、ほしい」

「…………」


沈黙がおりて、拒否されるか馬鹿にされるかどちらかだろうなと当たりをつけた私は、まったく海藤の顔を見れなくて俯く。

すでに抱きしめられているのに何を言ってるんだろうと、自分でもバカみたいだと思う。

でも、いつだって本当は、その大きくて逞しい体に、自分から触れてみたかった。

親しい恋人のように、体温を感じて、心臓の音を聞いてみたかったのだ。

すると、しばらく無言でいた海藤が閉じ込めるように抱きしめていた腕をそっと外して、私の正面に回り込んできた。


「ほら」


少し距離を置いて、無表情に近い顔つきで海藤が言った。

その長い両腕は、私に向けて開かれている。

今度きょとんとしたのは私の方だった。

まさか、馬鹿にされることなく、すんなり言うことを聞いてくれるなんて思いもしなかった。

でも考えてみれば海藤は私に償いたいと言っているのだから、当然といえば当然なんだろうか。いや、でもそれにしたってキャラじゃないような。


「なんだよ、さみぃから早く来いって」


しびれを切らした海藤は真顔で急かしてきた。

ちくりと痛む良心を無視して、促されるまま、私は広げられた両腕の中へ、そっと収まった。


(あったかい。心臓の音がする)


マフラーを巻いただけのブレザー姿は、触れたら少し冷たくて、けどすぐにほんわりとした温かさが指先から伝わって若干落ち着く。

そして、両手を心臓の辺りに添わせれば、とくん、とくんと、規則正しく脈打つ振動が伝わってきて、それだけで蕩けるような幸福が私の身体を覆っていった。


「この場合、俺は抱いていーわけ?」

「え?あの、お、お好きなように」


少し困る質問が降ってきたので、さっきのキスの衝撃が蘇ってつい身構えてしまった。けど、この体制で海藤が手持ち無沙汰なのもおかしな構図だと思って許可したら、意外に繊細な仕草でふわっと腰のあたりを抱きしめられた。


(うわ……)


勝手に意識して身構えた自分が恥ずかしくなるくらい、それは優しい抱擁だった。

感動と罪悪感が同時に芽生えた。

好きな人に優しく抱きしめられるのは、こんなにも嬉しいことなのか。

そう思ったら、止んだ涙がまた溢れてくる。


「あんたって、けっこうすぐ泣くよな」


ぽつりとこぼした海藤の言葉には責めるような響きはなくて、私達はその場でしばらく抱きしめ合った。


(ずっと、こうしていられたらいいのに)


無理なことだと分かっていても、虚構の上でだけ成り立つ抱擁はとても幸福で、離れがたく、私をもっと海藤の虜にさせた。

歯止めをかけても堰き止められない思いが、日に日に募って大きくなっていく。

ごまかすように顔を背ければ、初めてキスした日と同じような星空が川の向こうに広がっていて、思わず溜息が溢れ落ちた。


(いつか、離すから)


それまでは、どうか見逃してほしい。

秘密を見守る星々にそう訴えると、私は暖かい腕の中へ逃げるように潜り込んだ。






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