花咲くを知らず1
平行世界もの。
「もし摂子が高校時代に海藤を好きになっていたら」という前提のif話です。
続き物です。
ふと、振り返って、「ツン」とした刺激を感じた後頭部を手で押さえた。
瞬間瞼の裏に、懐かしい、けれども思い出したくもない過去の出来事が、ビデオのレコーダーみたいに古びた映像で再生される。
『あ…これ、みだれ髪。与謝野晶子の。す、好きなの?』
『まあ、けっこう。…………好き、だ』
とくん、と高鳴った心臓。
そのすぐ後の、あまりにも早急な絶望によって消し去られたはずのその感覚を、私は今になって思い返し、持て余す。
高校生になって、一年目の冬。
遅すぎる甘い痛みに胸を悩ます私の肩には、恋という言葉が重くのしかかっていた。
・花咲くを知らず・
「ねぇねぇ摂子、見た?見た?」
「え?なに、舞子?」
「も~う、あんたってばほんと、乙女としてのアンテナ壊れてんじゃないの!?今すれ違ったの三年の金沢センパイだよ!」
選択授業のため、廊下を行く人は数知れない 3限目の二階廊下で、そこまで見知ってもいない先輩を見極めるのは至難の業だ。
舞子にとっては造作もないことらしいけど。
ああ、あのかっこいいって噂の人、と適当に相槌を打つと、舞子はさらに先輩についての長所を羅列し始めた。
少し前までの私なら多分、ミーハーなノリで興味を示していたんだろうけど、あいにく今はそんな気分ではない。
私の乙女アンテナ、壊れたどころか、狂ってるんだと思う。
(でも多分、海藤よりは、カッコよくないよね)
アンテナどころか、私多分、狂ってる。
*
狂いだしたのは、春のことだ。
念願の志望校に進学した私は、やっと煩わしい中学時代の体験を忘れられるのだと、晴れ晴れとした気持ちで通学電車に乗りこもうとしていた。
最寄りの駅には桜並木で花びらが舞い散り、薄紅の残骸がホームにいくつも踏み散らされていたけれど、それすら憂鬱の材料になりえることはない、むしろ微笑ましいとすら思えた。
買ったばかりの文庫本を取り出して電車を待っていると、どこからか騒がしい集団の声が聞こえてくる。
いったいなんだろうと、不快に思いながらホームの向こう側を見上げた時、思わず本を取り落していた。
(海藤、久成)
バカ騒ぎをしている男子高生の集団の、その中心にいる人物を知って、どくん、と心臓が騒ぎ出した。
黒くて短い髪は切りそろえてセットされ、切れ長の鋭い目元をことさらに強調している。黒い学生服から紺のブレザーに変わったら、益々体格が良いのが目立った。おまけにこれでもかというほど着崩しているから、なかなかにチャラそうだ。
『杉田摂子ぉ~?名前まで暗いのな。昭和の戦争孤児みてー』
途端に蘇るのは、たった一か月前までの、息苦しくなるクラスの思い出。
どれも全て、海藤久成に関しての、少しも思い出したくない類のもの。
ざーっと血の気が引いて、落とした文庫本さえ気にせずに、私はその場から逃げ去った。
可能な限り、向かいのホームからは姿が見えなくなるような場所を探し、柱の陰から注意深く、うるさい集団を監視した。
そいつらは果たして、私が先ほどまで立っていた場所に辿り着いた。
学校は確実に別だ、けれど、沿線が一緒なのだった。
なんという最悪な偶然だろうと、泣きたくなる。
一番避けたかった相手と、通学電車が同じだなんて。
私が観察する中、やつらは、何がそんなに楽しいのか舞い散る桜の中、ふざけ合って笑っている。
そんな光景はとても牧歌的で、どこか輝いてもいて、柱の陰から覗き込んでいる私なんかとはまるで真逆なので、見ているのが辛くてならなかった。
早く行っちゃえ、行け、行け、と呪うように小声で口にしながら見ているうち、海藤が何かに気づいて、地面にしゃがみこんだ。
なんだよ~と私の心情を写し取ったかのごとく不思議がった周りの友達が海藤の様子を探ると、どうやら落し物を拾ったらしい。
目を凝らして海藤が手にしているものを見定める。
と。
(あ、あれ……)
さっき私が落とした、新品の文庫本だ。
拾うことをすっかり忘れていた。
てっきりそのまま元ある所に捨てると思いきや、ヤツはなんとそのまま鞄に入れてしまった。
唖然として見るも、「どっかに届けんの?」と聞いている友達に「うん」と答えているのを見てさらに瞠目した。
海藤にそんな良心があったとはにわかに信じがたかった。
*
それから3日ほどしてから、私は学校帰りに、駅で落とした本が届いているかどうか尋ねた。
「文庫本ねぇ……。タイトルは覚えてる?」
「確か、届かなかった手紙っていう題名だったと思います」
若い駅員さんは5分ほど落し物コーナーを探してから「悪いけどここには届いていないね」と言って仕事へ戻ってしまった。
そうなると、海藤久成はそのまま私の本をパクったか、あるいは売り払ったか捨てたか、ということになる。内容からして海藤が興味を持つとは思えなかったので、きっと売ったんだろうと、特に意外性なく判断した。
あれからこの駅で海藤と遭遇する事はなかった。幸いなことに、沿線が一緒であっても乗車時間はずれるらしく、鉢合わせたのは登校初日だけの様だった。ほっと胸を撫で下ろしたのに、どこかで痼が残っているようにも思えたのは不思議だった。多分650円ほどの出費を海藤なんかに持って行かれたのが痛いんだろう。そう、無理矢理自分を納得させたほどだ。
今度は何の本を買おうかと考えを巡らせながら改札を通ったとき、すぐ隣の改札を大きな影が足早に横切った。
(あ)
私はぎくりとして思わず動きを止めたけれど、どうにか振り向くことだけは抑えられた。
見つめる先の背中は間違いなく海藤久成だった。
(どうして……)
朝練もなく帰宅も早い私と違って、恐らく海藤は運動部に所属している。今まで鉢合わせしなかったのはその為だったのに、今日に限って、なぜ。
暗澹たる思いでのろのろとホームへ向かうと、すでに海藤はいつもの向かいのホームに到着していた。
その姿を見つけて、私はまたも瞠目せざるを得なかった。
(あの本……!)
海藤が片手に持っている本を目にして、瞬きを繰り返す。
何度確認しても、それは3日前に私が落として海藤が拾ったあの本だった。
どうして、という思いでいっぱいだったが、私が聞けるはずもない。3日前と違って一人で下校しているらしき海藤は、友達に煩わされることもなく黙々と読み耽っていた。中学の時ですらヤツが本を読んでいる所を一度だって見かけたことがなかったので、天変地異を目の当たりにしているような気分だった。
ほどなく電車が滑り込んできても、私はぼーっとしたまま動かず、危うく乗り遅れてしまう所だった。
それから約一週間ほど、その駅で本を読む海藤を目にするのは珍しいことではなくなっていた。
*
海藤が本を読んでいる時、不思議とその周りは清浄な空気で満たされているような気がした。
海藤久成なんて見るのも嫌だったはずの私は、時々見かけるその姿をいつしかじっと凝視するようになっていた。
変化が起きたのは、だから、当然といえば当然かもしれなかった。
遅刻する時の常で改札でICカードをタッチするのもおざなりになり、ゲートに引っかかってしまった私の横を、誰かがじっと見つめながら通り過ぎた。
焦っていたのでつい見返した私は取り繕うこともできずに、そいつを見て「あ」と声を上げてしまった。
目つきの悪い三白眼、私立校の紺色の制服をこれでもかというくらい着崩して、私を斜め上の角度から見下ろしている。
海藤久成に間違いなかった。
てっきり嘲笑うかと思って冷や汗がぶわっと浮かんだのに、海藤は数秒私を見下ろした後、スタスタと行ってしまった。
呆気に取られた私はその大きな背中を思わず見つめ返し、後ろに並んでいた人から「ちょっと」と声をかけられるまで動くことが出来なかった。
それからというもの、駅で海藤を見ていると、相手もこちらに気付くという場面が増えていった。
てっきり不快な顔とか嘲笑を見せるのかとビクビクしていたのに、そんなことは一度もなく、相手も私をじっと見返すだけでそれ以上のアクションは何もない。
お互いに見つめ合う時間が出来るのは大抵どちらも一人きりの時だけで、誰かと一緒にいる時には見ようとも思わなかった。
私は当然、そんなやり取りの応酬に戸惑った。
海藤が私を見つめ返す時の、自分の心情の発露にも疑念を抱いた。
どう考えてもおかしい。
なぜこんなに海藤久成が気にかかるのか。
そして、なぜ相手が見つめ返すことに、恐怖や嫌悪が湧き起こらないのか。
いくら考えても答えは出ず、それでもプラットホームで本を片手に佇む海藤に視線を送ることをやめられないという悪循環に陥る。
不思議なのが、海藤の方でも決して私を無視したりしないことだった。
そこに何の意味があったって恐怖でしかないはずなのに、見つめている私の胸はほのかな高鳴りを起こすのみで、やはり不快な感情を呼び起こすことはなかった。
*
妙なやり取りが3ヶ月も続いた頃だっただろうか。
いつもよりは余裕のある時間に駅に滑り込んだ私は、事故で電車が遅れていることを知って少し項垂れていた。
今日は日直だから出来れば早く行って準備をしていたかったのに、完全に予定が狂った。
思わず「はあっ」とため息が漏れる。
周りを見渡せば私同様足止めを食らっている人々で溢れていて、駅の入り口から改札の前までは異常な喧騒に包まれていた。
人口密度が若干高いため、そのとき私は、誰かが強引に前に行こうとして肩をぶつけられたんだと思った。
「……っ」
ところがその衝撃は、誰かに肩を掴まれたことによるものだった。
見上げた私の目の前には、あろうことか海藤久成のふてぶてしい顔があって、一瞬目を疑った。
「わっ!?……え?海、藤くん?」
驚いて心臓が飛び出すかと思った。
てっきり人違いで肩を掴んだのかとも思ったが、じっとこちらを見下ろしてくる辺りその可能性は限りなく低い。
「杉田、これ」
え、と声を漏らしたら、海藤はおもむろにカバンから一冊の本を取り出すと私に差し出した。
見覚えのあるブックカバーは、もしかして。
「お前のだろ」
「あ……どうして」
「こっち睨んでたじゃん、ずっと」
睨んでいたと思われていたらしいことに少しショックを受けたが、それよりも海藤が私に話しかけ、本を返そうとするその行為こそ最も衝撃的だったので、思考が停止しそうになった。
ーーーお前のだろ
意味わかんない。
なんで。
なんで、なんで海藤が?
「それ、あげる」
私もそして、何言ってんだ。
「あ?あんたのじゃねえの?」
海藤の目を見上げられなくて、部活で使うらしき赤いショルダーに焦点を合わせながら言った。
「私のだけど、あげるから。それと……睨んでたんじゃ、ないし」
言い訳みたいにするする出て行く言葉。
私、ほんとあの海藤相手に何を言ってるんだろ。
けど、その海藤がどうしてかあの最悪なクラスメイトだった時と別人のように振る舞うから、だから調子が狂ってしまうんだ。
「……そうかよ」
ぽつりと零した低い低音は、ほら、まるで聞いたことない戸惑ったような声。
「じゃ、もらっとく」
え、と思わず顔を見たら、真っ直ぐこっちを見てくる強い視線とぶつかった。
交差したそこに何かが生まれたとしたら、多分、それは駆け引きとかじゃない。
もっと心を揺さぶるような、そんな何かで。
(ぜったい、要らないって、言われると思ったのに……)
緩く短い引力が、強烈に私を惹きつけた。
「ヒサー!おい、どこ行ってんだ~~?」
どこかから聞こえてきた呼び声にはっとして、私は急いで視線を逸らした。
おう、と答えて、目の前にあった大きな体が去って行く気配がしたので、ほっとひと息つく。
視線を戻すと、人ごみに瞬時に吸い込まれて行く背中があった。
どくどく脈打つ体を持て余した私は、昂った感情を抑え込むのにちょっとした努力を要した。
ーーー私もしかして、狂ってんのかな
これって、あれだ。
ーーーまさか、海藤久成なんかを……
多分、間違いなくあれだ。
ーーー好き、なの?
咲かない恋だ。
*
そんなはずないどうかしてる、あんなムカつくやつ知らないってくらい大ッ嫌いだった。
否定する言葉がどんどん湧いて出てくるのに、私の行動といったらまったくの正反対だ。
駅にヤツの影を見かけると目で追うし、本を手に持っているところを見かけたもんならじっと観察するし、声をかけられようもんなら、それはそれは醜い失態を披露することになった。
「杉田」
ついこの前近くで聞いたばかりの声が自分を呼んでいる。
海藤久成だ。
本能に逆らえずに応じれば、電車を待つ私の隣に高い背の並ぶ気配があった。
途端に、ぶわっと緊張が四肢を駆け抜ける。
「もっと、持ってねーの」
「な、何を」
この前のアレはもう二度とないイレギュラーな出来事として片付けていた私は、この時完璧に油断していた。
いやだ、声、裏返った。
「ああいう本」
「……まさか、ちゃんと全部読んだの?」
「は?お前馬鹿にしてんの?」
正直、馬鹿にしていた。
私が落として海藤が拾った本、それは、戦時中に戦地へ向かう子供に向けた母の手紙を紹介するという、至って堅苦しいドキュメンタリーだった。
そんなのを、海藤が真面目に読む姿なんて想像もつかない。
でも実際、私は目にしていた。
信じがたいが、本を読んでいる海藤は確かに実在した。
「あるには、ある、けど」
「じゃ、貸せよ」
「…………」
貸せよ。
それは、私に言っているのだろうか。
「おい、なんで黙ってんの?そんなに嫌かよ、俺に貸すの」
「嫌……とかじゃなくて、なんで、私なのかなって」
言ってからしまったと思った。
これじゃ、まるで勘違いしてるみたいで。
かーっと顔が熱くなる。
相手も、その意味を取りちがえたりはしなかった。
「はあ?んなこと気にしてんの?俺の周りに本に詳しいヤツいると思ってんのかよ」
「でも、私じゃなくたって」
「別に告ってるワケじゃねーんだから変な意味に捉えんなよ、めんどくせーな」
「!」
かっ!と顔に火がついたかのように熱くなる。
悔しい、悔しい、悔しい。
穴があったら入りたい。
「うっ……!」
まるで、告白する前に自滅したみたいな。
(バカみたい)
どうしよう、胸、すごくどきどきして、痛い。
目の前うるうるになってる、どうしよう。
居た堪れなくなった私は、その場から駆け出していた。
「杉田」
呼び止めるような声がしたけど、泣き顔なんて見られたらまたなんて言われるか。
怖くて想像もしたくない。
(うそ、私やっぱり好きなの?アイツが?うそ、こんなに胸が苦しくなるなんて、ウソだ、信じられない)
信じたくない。
けれどツキツキ痛み出す胸が、全ての答えに違いない。
*
遠くから見つめるだけならまだ幸せなものだった。
所詮私の恋なんて蕾になる前に枯れる程度でしかない。
今まで好きになったあの先輩も、あの同級生も、みんな既に彼女持ちだった。
けれど、それでも狂っている私はもう正常な判断ができずに、もしも花が咲いたならそれはどんな気分をもたらすのか、暴きたくて、味わってみたくて仕方がなくなっていた。
盲目な恋に、陥っているのだろうか。
まさか。
あの海藤久成相手に。
駅で逃げ出してからというもの、私が海藤から話しかけられるというイレギュラーは無くなった。
私の行動は、さぞプライド高き彼の自尊心を逆撫でしたものだろう。
許してほしいなんて思わなかったけど、季節を一跨ぎ、二跨ぎしても交流を持たなくなった事実には、胸がすうすうするような虚しさを感じた。
それでも駅で偶然鉢合わせたら、海藤は視線を逸らさない。
私も逸らさなかった。
ただそれだけの接点は、すうすうする胸に少しだけ陽を灯した。
ちょっとした幸せを嚙み締めたら、実なんかつけなくたって、花なんか咲かなくたっていいじゃないかと、打算的な私が訴えてくる。
だって海藤久成なんて、冗談じゃない。
もし私の心なんて打ち明けてしまったら。
その瞬間に、また。
ーーー『どんな手酷い裏切りに合うのか』
「ヒサー、ちょっと待って。あんまん買ってくるね」
駅で友達と待ち合わせしていたら、甲高い女の子の声がすぐ側で閃いた。
ヒサ、という名前に大仰に反応したけど、そんな名前は平凡でありふれている。
まさか、ヤツのことなんかじゃ……
「…………」
「…………」
そのまさかだった。
そして振り返るタイミングが恐らく最悪だった。
私と海藤はお互いを真正面にして、物凄く至近距離で向かい合っていた。
どうしよう。
目の前がクラクラする。
きつい三白眼の睨むような視線、紺と緑のチェックのマフラーを巻いて、黒いスクールリュックと赤いショルダーバッグを肩に担いでいる海藤久成が、何ヶ月かぶりに目の前に佇んでいた。
自分が、嬉しくて感激してるのか、怖くて混乱してるのか分からなくなる。
何か言いかけようとした口が開いたままになった。
「お前さ、」
当然のこと海藤が挨拶なんかしてくるはずない。
単刀直入に切り出してきたそれを避けるように、私はカバンに手を突っ込んでその「ブツ」を突き出した。
「まだ……」
「こ、これ‼︎」
あ?と怪訝そうにしながらも受け取ったのを確認した私は、速攻でその場から駆け出した。
「あっ、おい、杉田!」
途中で「ヒサ?何してんのー?」と猫なで声を出している女子高生とすれ違った。
恐らく彼女なのかもしれない。
軽く湧く罪悪感。
けれどそれを凌駕する達成感が、ザワザワと背骨を這い上がって脳髄に広がった。
やった。
やってやったぞ。
未練たらしく、私は毎日鞄に「海藤に渡すべきお薦めの本」を忍ばせていた。まさかそれを渡す日が来ることなんかまったく想像もしないで。
……なんて、ね。
想像だけならきっと100回はしていた。
ドキドキ、高鳴る鼓動が高揚した気分を助長する。それでも心のどこかでは、馬鹿みたいと自嘲していた。
どうみたってあれは彼女だった。
そんな彼女持ちの男に、それも海藤久成に、何やってんだ私は。
息を整えて、そろそろ待ち合わせ場所に戻ろうとした時、
「おい、杉田!」
と、あり得ない声が近くから聞こえてきた。
「か、海藤……くん?」
「何回……逃げてんだよ、くそっ」
息を乱した海藤が、人ごみの中から走ってこちらへ向かってきた。
なんだろ、もしかして本なんてもう要らなかったのかな。
やっぱ、前に私に「他にねーのか」って言ってきたあれは、ただの気紛れで暇つぶしだったのかな。
(それとも……)
また、手酷く裏切るための、
「おい」
膝を折って息を整えていた海藤が顔を上げたら、刃物みたいに研ぎ澄まされた視線があって、思わずびくりと肩を揺らした。
あの図書室の時みたいだ。
共感したフリして、中学のときコイツは……
『お前みたいなやつにーーー』
そのセリフが反芻するより前に、力強い声が閃いた。
「今度は貸してもらうからなっ」
「え……へ?」
まだ整わない荒い息を交えて、切れ切れに海藤は宣言した。
「別にカツアゲしてぇわけじゃ……ねーし。……だから、今度は……貸してくれよ」
「海藤くん……」
「必ず、杉田に……返すから、さ」
そんな誠実な言葉に似合わない鋭い目をして、海藤は、「うん」と返事した私に、「ありがとう」と言ってくれたのだ。
*
あんなに嫌いだと思っていたのに、私は自分が信じられなかった。
よりによってどうして……
でもその不信感を抱えたまま、結局私が海藤久成に本を貸すという関係は一冬続いていった。
帰り道の土手を歩いていた時のことだ。
遅くなったので暗い夜道を早足で行くと、川べりの方から「おい」という声がかかった。
聞き覚えのある声で、まさかと思ってそちらを見ると、大きな体躯の男子高生がこちらへ駆け上がってくるところだった。
案の定、海藤久成だった。
「海藤、くん?な、なんで、こんなとこに……」
「待ってた」
「え?」
「これ。返そうと思って」
差し出されたのは、一週間ほど前に貸した、イヌイットの民族の暮らしを追ったルポルタージュの本だ。
海藤に貸した本はこれで通算4冊目となり、時期はそろそろ冬休みを真近に控える頃に差し掛かっていた。
「わ…わざわざ?ここで?」
「あんたの帰る時間よくわかんねーし、俺そろそろ合宿入るから、いつ返せっかわかんねーし」
「そうなんだ……なんか、ごめんね」
言って、海藤から本を受け取ると、素早く鞄にしまい込む。
勘違いしちゃダメ、平静を取り戻せと、必死で自分に言い聞かせながら。
「あんた……さ。こんな時間に、こんなひと気もねえ道帰ってんの?」
「あ、今日はたまたま……いつもはもっと早い電車に乗るし、友達もいるし」
「ふうん」
海藤はまるで気の無い返事をして、チラっと腕時計を確認した。暗くて表情は分からなかったけど、何やら考え込んでいるのは分かった。
もしかして、私が一人だってことで、送っていってくれようとしてる……とか?
ま、まさかね、あの海藤が、だよ?
わざわざこんなとこで待ってまで本を返しに来てくれただけでも、槍でも降ってくるんじゃないかってくらい有り得ないことなのに、その上送ってくれるとか……無い無い。
いや、待てよ、私のさっきの言い方ってば、もしかして送って欲しいみたいなニュアンス含んでた?てゆか、1人で遅くに帰ってるってアピールすること自体が送ってって言ってるようなものなんじゃ……
1人で悶々と自問自答した私は、結果、どうにかして海藤に気にしないでもらうようアピールすることにした。
「あ…あの、今日はほんとありがと。まさか、海藤くんがこんなとこまで返しに来てくれるなんて思わなくって……なんかお礼出来ればいいんだけど、今日はもう遅いし、次に会う時までに考えておくね、それじゃ!」
私は内心、よっしゃ、とガッツポーズをして、たった今送った捨て台詞の出来栄えを自画自賛した。
これはカンペキに相手に気を遣わせないチョイスだった、あとは、走って帰ろう。
海藤に踵を返し、走り出す準備をしようとしたところ、すぐに後ろから「ちょっと待て」とストップがかかる。
え、と振り返るより先に海藤は私を追い越して前を歩き始めた。
「途中まで送る。どーせだし」
「え、でも、あの」
「道分かんねーんだから、早く来いよ」
何が「どーせ」なのか、あ、こんなとこで遅くまで待ってたついでみたいな?と、海藤の申し出に色んな理由付けをしながらも、私は歩調の早い彼の背中を浮き足立って追いかけた。
断る隙も与えないそのぶっきらぼうな言い方が、私の胸をふんわり温かくした。
*
帰る道すがらは無言だった。
背の高い海藤は並んで歩いてても容易に表情が窺えない。
いつもと同じ、紺と緑のチェックのマフラーを巻いていて、肩には部活用のショルダーバック、背中には黒いリュックと、普通の男子高校生の風貌だけど、まるでクラスの男子とは様子が違う。
話し掛けようにも何を話したらいいか分からないし、そもそも、相手がどんな真意で私を送ってくれているのか読めない。
怒っているのか、呆れているのか、嫌がっているのか、それとも……。
そんなことを考えて、打ち消してはまた深みにはまっていった。
「その本、良かったよ」
沈黙が苦痛になりそうになった時、ふいに海藤は切り出してきた。
その本、っていうのは、今日返してくれたやつだよね。
「……あ、うん。捕った肉をそのまま食べちゃうなんて、文化の違いだよね。あ、さばいたのは生で食べたりはするけど……」
「本なんて、字ばっかでなにが面白いのか全然分かんねーとか思ってたけど、あんたの貸してくれたヤツは、ちゃんと読めたし、面白かった」
「そっか。……うん。じゃあ、良かった」
何か物凄い違和感のある会話だと思った。
自分の薦めた本が相手の好みに嵌ることほど私にとって嬉しいことはないけど、相手は言葉が通じそうにもないと思っていた、あの海藤久成なのだ。
喜びのような戸惑いのような微妙なニュアンスの気持ちを持て余す傍ら、私は、中学時代に図書室で起こった出来事を思い起こす。
『あ…これ、みだれ髪。与謝野晶子の。す、好きなの?』
『まあ、けっこう。…………好き、だ』
あの時も、海藤は私に歩み寄ってきた。
その後の、手酷い裏切りのために。
ぎゅっと拳を握り込み、思い出を掻き消そうと話題をふった。
「この前の、『風待ちの国』も密かに大プッシュだったんだ。主人公が二人いて、正反対の性格だから面白くて」
「あー、あれは超ハマった。やっぱファンタジーはいいな。俺、RPG好きだから読みやすかった」
「ほんと?どっちの主人公が好きだった?」
「えーと、なんだっけ、大剣持ってて、酒癖悪い方のヤツ」
「ああ、ザッツ?元盗賊の剣士だよね」
「そう、そいつ。最初に出てくるいかにもな正統派王子様もいいけど、やっぱあーいうアウトローなのに男は惚れるわ」
「わかる、それ。正統派だけじゃ、読んでて疲れちゃうもんね」
「つーか、立ち位置が卑怯だって。敵と見せかけといて助けるとか、いいとこ取りだろ」
こんな風に、貸した本の内容を語り合うのは初めてだったけど、そのやり取りはほんわかしていた胸を熱く沸騰させることになった。
まさか、海藤久成と本の内容について会話を成立させる日が来ようとは。
よくわからない感情の昂りに堪らなくなって、ごまかすように空を見上げると、頭上には気温が低い時期特有の澄んだ星空が広がっている。
その中に冬の大三角形を見つけたら、思った以上にロマンチックな状況に気づいた。
確か昔見たドラマで、星座を通して心の交流をはかった男女が星の見える島へ逃避行するという話があったのを思い出した。主人公である少女と青年はお互いに結ばれない境遇にありながらも惹かれ合う運命を背負っていた気がする。けど、最後は結局どうなったんだっけ。あやふやな記憶の中では結末を辿る事が出来なかった。
「…………」
「…………」
気づけばどちらも無言になっていた。
上を見上げていた視線を、ふと横に向けてみる。
(あ……)
いつの間にか鋭い視線がこちらを向いていて、思わず足を止めてしまった。
相手も、当然のように立ち止まっていた。
「嘘だよ」
突拍子もなく言ってきたので、理解するまでに時間を要した。
「え?な、なに、急に……」
海藤は、暗がりでどんな表情をしているのか判然としなかったけど、声音はやたらと硬かった。
(嘘って、一体どれが?)
すぐに連想したのは中学時代の嫌な思い出だ。
「俺はほんとは本なんか、どうだっていい」
「え?」
どくどくと、心臓が全身に熱い血液を送り込む。
私の耳は、やたらその音を拾い上げている。
どくどく。
その音で、この先の言葉をかき消してしまえればいい。
そうしたら私は、この夜の幸福な場面だけをずっと大事にしまい込んで、未来まで持ってゆけるのに。
「杉田が読んでるから、読んだ。その本も」
「ど、どういう、こと?」
声が震える。
かじかむ両手は、いつしか気持ち悪い汗を浮かばせていて、自然と口元に移動していた。
私に被さる大きな影から、今すぐにでも逃げ出してしまいたくなる。
「…………」
海藤は、その太い首元に手をやって数回撫でさすっていた。そしてその手を、そのまま私の方へ伸ばしてくる。
なにを言われるか恐々としていた私は咄嗟に避けることもできず、びくっと震えるにとどまった。
あっ、と思う間もなかった。
鋭い切れ長の目が、街灯の明かりで月みたいに光っている。
それを見たのを最後に、私は目を瞑った。
唐突に海藤はその大きな体を押し付けて、私の首筋を引き寄せたのだ。
随分と冷たい手だったので、彼が長時間河原で待っていたらしいことが容易にうかがい知れた。
でもその冷たさに震えているだけの余裕など、この先もう訪れたりはしなかった。
くん、と顔を上向けさせられた直後に、唇には温かくて柔らかい感触が降りていた。
「!?」
頭が真っ白になった瞬間だった。
それは思っていたよりも短く、一瞬のことで、時と一緒に思考も止まっていた私の体はまったくついていくことができず、体を離した海藤が何か語りかけていることにもしばらく気づくことができなかった。
何しろ混乱していた。
意味が分からなかった。
理解が追いつかない。
それなのに、頭の中でリフレインするのは、なぜか中学時代の図書室での「あの」やり取りなのだ。
『あ…これ、みだれ髪。与謝野晶子の。す、好きなの?』
『まあ、けっこう。…………好き、だ』
そのすぐ後で、なぜか海藤は激昂して、私をこき下ろした。
『俺が好きじゃおかしいかよ?』
『俺が、本なんて読めるわけねーって思っただろ、お前』
『どーせ、自分は他の奴より大人だと思って高括ってんだろ。俺らを見下してんだろ』
『お前って彼氏いんの?』
悔しくて、苦し紛れに好きな人ならいると返した。
『誰も聞いてねーよ、んなこと!きめーんだよ、お前』
『おい、その好きなヤツって俺じゃねえだろうな?被害が広がる前にみんなに注意してやんなきゃなんねーから、誰か教えとけよ』
じくじく、ずきずき、痛む胸。
何故か克明に記録している私の脳。
それと、今のショックが重なっていく。
今、私なにされたんだろう。
「杉田……?」
キス。
そうだ、キスだ。
多分あれはキスだった。
しかもファーストキスだ。
こんな、降るような満天の星空の下、二人っきりで、川原の道端で、海藤久成に私は人生初めてのキスを奪われた。
憧れのシチュエーション、何の遜色もない相手のはずだ。
それなのに、どうしよう。
むねがくるしい。
涙が溢れて止められない。
「あ、おい!杉田!待てよ!」
気づけば素早く駆け出していた。
「杉田!」と名を呼ぶハスキーな低音が聞こえなくなるまで、息を切らして走りつづけた。
家に着いた時には気管支が悲鳴をあげていたが、そんなことはどうでもよかった。
海藤の「杉田」と私を呼ぶ声だけがずっと耳から離れない。
それはその年に聞いた海藤の最後の声だった




