第71話: 閑話 氷の城、気温報告書
本編の少し前――氷の城がいちばん賑やかだった頃の、覗き見です。
語り手は、胃痛が止まらないあの方。騎士団長ブリギッテの受難を、もう一度どうぞ。
アイスベルク公爵家の騎士団には、団長である私しか鍵を持たない書類が一つある。
表紙には、几帳面な字でこう書いてある。
『城内気温報告書(取扱注意)』
占いの類ではない。れっきとした実務書類だ。
この城の気温は、主君ジークフリート・フォン・アイスベルク閣下の心そのものである。そして気温は、氷室の在庫と、馬房の飼い葉と、井戸の凍結と、練兵の可否を、まとめて左右する。
つまり閣下のご機嫌は、我が公爵領の兵站に直結している。
私は毎朝、城の三箇所に据えた温度計を読み、腰に提げた一本と突き合わせて、この帳面に書きつける。書きつけながら、いつも同じことを思う。
(……リリアーナ様がいらっしゃる前は、こんな書類は要らなかったのだがな)
いくつか、抜き書きしてみよう。
『三の月、七日。中庭。観測値マイナス十八度。原因――新人騎士カイルが、リリアーナ様に冬薔薇の礼を述べた。会話は三十秒。備考、カイルはその後二日寝込んだ』
『三の月、九日。西回廊。マイナス二十二度。原因――リリアーナ様が閣下を「公爵様」とお呼びになった。「旦那様」ではなく。復旧に四時間を要す。備考、閣下は四時間ずっと、同じ書類の同じ行を睨んでおられた』
『三の月、十一日。執務室。観測値プラス四度。当城における観測史上最高。原因――リリアーナ様が閣下の膝の上で居眠りをなさった。備考、書類が湿った。閣下は、湿った書類を「記念だ」と仰って引き出しに仕舞われた』
……これを、私は真顔で書いている。
毎朝、真顔で書いている。
異変が起きたのは、その翌日の昼だった。
厨房長が、血相を変えて団長室へ駆け込んできたのだ。日頃から包丁を握って動じないあの男が、青ざめて震えている。
「団長! 氷室が、氷室が溶けております!」
「……何だと」
地下の氷室は、冬越しの肉と乳と根菜を丸ごと抱えている。あれが溶ければ、この城は春を待たずに食糧を失う。魔獣の襲撃でも受けたのかと、私は剣の柄に手をかけた。
「敵か。どこから入られた」
「い、いえ、そうではなく……」
厨房長は、言いにくそうに口をもごもごさせてから、覚悟を決めたように叫んだ。
「閣下が、ご機嫌だからです!」
私は、剣の柄から静かに手を離した。
地下へ降りると、なるほど、氷室の壁がしとどに汗をかいていた。天井から雫が落ちて、床に小さな水たまりを作っている。
城全体の魔力が、ここ数日、じわじわと温かい方へ傾いているのだ。閣下が、リリアーナ様の淹れた茶を飲み、リリアーナ様の笑い声を聞き、リリアーナ様に「今日もお元気そうで何よりです」などと言われている、その分だけ。
私は帳面を抱えて執務室へ上がり、主君の前に立った。
「閣下。恐れながら、進言がございます」
「……何だ」
「もう少し、ご機嫌を抑えていただけませんか」
閣下は、ペンを止めた。
ゆっくりと顔を上げ、心底わけが分からないという目で私を見る。
「……ブリギッテ。お前は今、主君に何を命じている?」
「氷室が溶けました。冬越しの肉が危のうございます。原因は敵襲でも呪いでもなく、閣下の上機嫌です。……私は生涯で、これほど報告しにくい報告をしたことがありません」
長い沈黙が落ちた。
閣下は書類を置き、窓の外へ目をやった。中庭では、リリアーナ様がマリエッタと並んで、凍りかけた花壇に手をかざしている。
「……ブリギッテ」
「はい」
「……私は、下げ方しか習っていない」
その声が、あまりに静かだったので、私は口を挟めなかった。
「二十八年、この魔力は、誰も私に近づけないためだけに使ってきた。冷やせば人は退がる。退がれば誰も死なない。それだけを覚えれば足りた。……上げ方など、要らなかったのだ。上げたところで、温めるべきものが、この城には一つも無かったのだからな」
閣下は、窓枠に指を置いた。石が、みしりと鳴った。
「……今は、ある。それだけのことだ。加減は、これから覚える。氷室の肉には、詫びると伝えろ」
私は、帳面を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
リリアーナ様がいらっしゃる前は、こんな書類は要らなかった。
当たり前だ。ずっとマイナス十度で、一定だったのだから。測る必要がない場所を、人は墓標と呼ぶ。
この城に気温報告書が生まれたということは、この城に、天気が生まれたということだ。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「旦那様、失礼いたします。あの、氷室のこと、聞きました。私、お役に立てないかと思って……」
リリアーナ様が、袖をまくって入っていらした。指先には、もう魔力の光が灯っている。
「……あ。……いえ、あの、私、温める方は得意なのですけれど、冷やす方はまるで不得手で……。かえって溶かしてしまうかもしれません。ごめんなさい、旦那様」
しゅん、と肩を落とすリリアーナ様。
その、たったそれだけの仕草で。
私の手元の温度計が、すうっと上がった。
「……構わん。君はそこにいるだけでいい。肉など、また買えばいい」
「で、でも、冬の分ですよ?」
「……冬など、どうにでもなる。……こちらへ来い。手が冷えているだろう」
「はい、旦那様」
背後で、廊下を走ってきた厨房長の悲鳴が上がった。
「団長ォ! 乳が! 乳がぬるいです!」
私は目を閉じた。それから、帳面を開いて、その日の欄にペンを走らせた。
『三の月、十二日。執務室。観測値プラス七度。原因――記載を控える。備考、氷室全損。乳、ぬるい』
この帳面は、私の机の一番下の引き出しに、鍵をかけて仕舞ってある。
誰かに読まれて恥をかくからではない。閣下の名誉のためでもない。
いつか誰かが、この城の氷が何度から溶け始めたのかを、正確に知りたがる日が来るかもしれないからだ。
そのとき、この帳面だけが答えられる。
……もっとも、その「誰か」が誰なのかは、団長である私にも、まだ見当がついていない。
本編でいちばん胃を痛めていた方、騎士団長ブリギッテの閑話でした。
閣下の溺愛を、外側から温度計で測るとこうなります。氷室の肉には、この場を借りてお詫び申し上げます。
「ブリギッテさんの受難、まだ続いてたんですね」
「氷室が溶けた理由が上機嫌って、あまりにも閣下すぎる」
「下げ方しか習っていない、で泣きました」
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気が向いたときに、また一話だけ、こういう覗き見をお届けするかもしれません。
次回、第5部・第72話「帰還、そして契約の終わった朝」
霧島結衣でした。




