第51話:深淵の主――鏡合わせの聖女
波一つないはずの死の海が、砕かれた深淵の肉塊によってどす黒く濁っている。
「……リリアーナ、震えているのか」
ジークフリートが、凍てついたバルコニーでリリアーナの肩を強く抱き寄せた。
彼の纏う魔力は、先ほどの共闘の余熱で今も鋭く波打っている。だが、その腕の中のリリアーナは、自らの内に流れる「太陽の熱」が、まるで異物に触れたかのように冷え切っていくのを感じていた。
「旦那様。……私、聞こえたのです。あの者たちの声……。あれは、ただ私の名前を呼んだのではありません。まるで……自分たちの失った半身を探し当てたような、歓喜に満ちた絶叫でした」
「……戯言だ。あれはただの泥。君の光に焼かれ、理性を失った死者の妄執に過ぎん」
ジークフリートは断じ、彼女の耳を塞ぐように大きな掌を重ねた。
だが、リリアーナの瞳に宿った不安の影は消えない。
彼女は知っていた。
先ほどエリアスと共に放った黄金の焔。その一瞬、敵の肉体に触れた時、自分の魔力が「拒絶」ではなく「安堵」したことを。
まるで、永い放浪の果てに、ようやく冷たい故郷の土に触れたかのような――。
「パパ。ママを怖がらせるのはやめてよ」
エリアスが、手についた黒い返り血を黄金の火花で焼き飛ばしながら歩み寄る。
彼の表情もまた、いつになく険しい。
「……ステラ。精霊たちは、まだ泣いているのか?」
「……いいえ。……今は、静かです。……あまりにも静かすぎて、まるで世界が息を潜めて、主の降臨を待っているような……そんな恐ろしい静寂です」
ステラが海の向こうを指差すと同時に、どす黒く染まっていた海面に、白い霧が立ち込め始めた。
それはジークフリートの冷気が生み出した霧ではない。
光を吸い込み、魔力を遮断する、漆黒の粒子を孕んだ「無の霧」だ。
パキパキ、とパレスの防壁が再び鳴動する。
「……来るぞ。リリアーナ、私の背後にいろ。エリアス、ステラを守れ」
ジークフリートが虚空から白銀の大剣を引き抜く。
霧の向こうから、一人の人影がゆっくりと歩んできた。
海の上に直接立ち、一歩ごとに波紋ではなく「結晶化した絶望」を広げながら。
その影が、霧を割り、月光の下に姿を現した瞬間――。
バルコニーにいた全員が、呼吸を忘れた。
「……え……?」
リリアーナが声を漏らす。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
蜂蜜色の長い髪を夜風に靡かせ、琥珀色の瞳には底知れない虚無を湛えている。
纏っているのは、かつてリリアーナが教団を追放された際に着ていた、ボロボロの聖女服。
その顔、その背格好、その魔力の波長までもが。
今、ジークフリートの腕の中にいるリリアーナと、寸分違わず同じだったのだ。
『……ああ、ようやく。……ようやく、見つけたわ。……温かい方の(・・・・・・)、私』
深淵から現れた「リリアーナ」が、優しく微笑む。
その声は、リリアーナ自身の声よりも深く、甘く、そして救いようのないほど絶望に満ちていた。
「……鏡合わせ、か。……不愉快な手品だ」
ジークフリートが、一瞬の動揺も見せずに大剣を構える。
その瞳には、自分の妻を模した異形に対する、比類なき憎悪が燃え盛っていた。
「……我が妻の顔を騙る泥人形め。……その口を二度と開けぬよう、概念ごと凍結させてやろう」
『あら、恐ろしい。……皇帝陛下。……貴方はまだ、何も知らないのね。……この子が、どうやって生まれたのか。……そして、この大陸がなぜ、貴方の冷気を受け入れたのかも』
偽りの聖女が手を広げると、周囲の海面から幾千もの黒い冬薔薇が咲き誇った。
それは、ジークフリートがかつてリリアーナに贈った「愛の象徴」を、悪意で塗り潰したような光景だった。
「パパ! あいつ、ママの魔力を吸ってるんじゃない。……パパの魔力を『書き換えて』自分のものにしてる!」
エリアスの叫びと共に、パレスを包んでいた結界の色が、白銀から漆黒へと塗り替えられていく。
ジークフリートの力が、リリアーナを模した存在によって、リリアーナを閉じ込めるための「檻」へと変貌していく。
「……私の力を利用して、リリアーナを奪うというのか」
ジークフリートが低く笑った。
それは、地獄の底から響くような、狂気を孕んだ笑いだった。
「……面白い。……ならば、お前の世界ごと、私の愛で塗り潰してやろう。……リリアーナ、恐れるな。……たとえ世界が反転しようとも、君を独占するのは私だけだ」
皇帝の魔力が爆発する。
光と闇、熱と冷気。
同じ顔を持つ二人の聖女を軸に、世界を揺るがす真実の戦いが、今幕を開けた。
第51話、いかがでしたでしょうか。
ついに現れた「もう一人のリリアーナ」。彼女は一体何者なのか、そしてリリアーナ様の本当のルーツとは……。
自分の力さえも逆利用される絶体絶命の状況で、閣下の独占欲がさらに「神の領域」へと加速します!
* 「鏡合わせのリリアーナ様、美しすぎて怖い……!」
* 「閣下、偽物が出てきても『お前ごと塗り潰す』って、執着心が凄まじいですね」
* 「リリアーナ様のルーツとこの大陸の秘密、繋がってきそうでゾクゾクしますわ」
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次回、第52話「概念上書き――凍てつく愛は闇を許さない」
霧島 結衣でした。




