第7話 「虚構の終焉、あるいは」
「……あ、あ……」
セラフィムが墜ちた。かつて神の如き輝きを放っていた執行官は、その装甲の半分を黒い泥に変えられ、廃工場のコンクリートに無様に突き刺さっている。
だが、その圧倒的な勝利を収めたレナトゥス――湊に、凱旋の喜びはない。
三対の黒い翼から滴り落ちるのは、敵の光を啜り、腐食させた「虚無」の雫だ。
「ミナト……?」
カイトが震える脚で立ち上がり、親友の背中に手を伸ばす。
しかし、レナトゥスがゆっくりと振り返った瞬間、カイトは息を呑んだ。
バイザーの奥に宿るはずの湊の瞳は、底知れぬ闇に塗り潰され、鏡のように無機質な虚無を映し出していた。
「……標的、確認。……排除する」
湊の声ではない。それは、システムが淡々とエラーを処理するかのような、感情の死滅した音。
湊の右拳に、黒い渦が収束していく。彼はカイトさえも、消去すべき「ノイズ」として認識し始めていた。
「湊、やめてッ!!」
その間に割って入ったのは、半透明に透け始めたリナだった。
彼女は湊の硬質な胸装甲に、その温もりの消えかかった掌を押し当てる。
「思い出して……! 私は『記録者』。あなたのその痛みも、私を助けてくれた時の手の熱さも、全部私の中に刻まれているの! 私が忘れない限り、あなたは……あなたは湊よ!」
リナの体が、湊の「虚無」に当てられて激しく火花を散らす。彼女の存在そのものが、データとして分解され、レナトゥスという深淵に飲み込まれようとしていた。
「……バ、グ……。記録……、消去……」
湊の左腕が、リナの細い肩を掴む。異形の爪が彼女の肌を裂こうとしたその時――。
「――ふざけんなッ!!」
カイトが叫び、湊に殴りかかった。グラトニーの力を振り絞った一撃。それは湊を傷つけるためではなく、かつて自分が湊に求めていた「執着」を叩きつけるための拳だった。
「湊、お前は俺を救ったんだろ!? 手を離したことを、ずっと悔やんで……化け物になってまで、俺のところに来たんだろ! なのに自分だけ消えて逃げるなんて、そんなの……そんなの、ボクが許さない!!」
カイトの「暴食」の力が、湊の「虚無」と激突する。
奪う力と、喰らう力。
二つの歪な執念が交差した瞬間、リナの痣からまばゆいばかりの**『過去の記憶』**が奔流となって溢れ出した。
それは湊が捨て去ろうとした、弱くて、泥臭くて、けれど誰よりも温かかった日々の記録。
『……ぁ、あああ、あぁぁぁぁッ!!』
湊の脳内で、ベリアルの嘲笑が「記録」の光に焼かれて悲鳴を上げる。
塗り潰されていた湊の視界に、色が戻る。
リナの泣き顔。
カイトの、必死に自分を引き止めようとする怒ったような顔。
「……カ、イト……。リ、ナ……」
ボロボロの黒い翼が、霧となって霧散した。
レナトゥスの装甲がひび割れ、中から現れたのは、全身の血管が黒く浮き上がり、今にも砕け散りそうな湊の姿だった。
彼はそのまま、崩れるように二人の中に倒れ込む。
「……良かった……。まだ、俺……『湊』か……?」
掠れた声で笑う湊。だが、その代償は残酷だった。
湊の視界は、半分が闇に閉ざされていた。そして、彼の左半身は、変身を解いてもなお、冷たい銀色の皮膚へと変質したまま戻ることはなかった。
三人は、エデンの追撃を逃れるために闇へと消える。
だが、その上空。
傷ついたセラフィムを回収した「エデン」の意志は、もはや躊躇を捨てていた。
「……レナトゥス、グラトニー、そして記録者。全個体の『即時抹殺デリート』を承認する。……**神の軍勢**を起動せよ」
空が、無数の「白銀」で埋め尽くされていく。
物語は、孤独な逃走劇から、世界そのものへの叛逆へと舵を切る。




