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背中の傷と初めて殺した日の記憶

 それからアレクセイは高熱にうなされひたすら眠った。その間ずっと側にいてくれたのはワンだ。水が飲みたい時はワンが優しく起こしてくれて、吸い飲み用の水差しでゆっくりと新鮮な水を飲ませてくれた。

 汗だくの体を丁寧に拭いてくれたし、不安な時はずっと手を握ってくれた。熱のせいで羞恥心を忘れてしまったのか、アレクセイは欲求のままにワンに甘え続けた。


 この塔には生活するのに必要なものがひと通り揃っていた。元々は高位の聖職者が籠りながら祈る場所だったらしい。俗世から離れて過ごすため、このような塔が好まれたのだとか。身分を隠す必要があるアレクセイにはありがたい空間だった。


「水……」

「ちょっと待ってね」


 少しずつ体を動かせるようになってもワンは甲斐甲斐しく世話を焼くのをやめなかった。ワンの胸に抱かれるようにしながら汲んだばかりの水を喉を鳴らして飲んだ。

冷たくて甘さを感じる。アレクセイの胃が食事を受け付けないのを知ったためか、果実の汁を混ぜてくれたらしい。


「何を入れたんだ」

「リンゴを擦りおろして濾したやつ。ラザールに教わったんだ」


 リンゴと聞いて心が温かくなる。怪我が治ったらまたあの店のサンドイッチが食べたい。ワンも連れて。


「気に入った? そしたらまた作ってあげるからね」

「ん……」


 こんなに親切にしてもらったのはいつ以来か。

 小さな頃は乳母がいて、孤独なアレクセイに唯一優しく接してくれていたのを覚えている。アレクセイの母は彼が5歳になるまで別の塔に隔離されていて、それからは問答無用で故郷に帰されたのだ。アレクセイと別れの言葉を交わす時間は与えられなかった。粗末な馬車に乗り込む母の小さな後ろ姿を窓から見つめ、音を立てずに涙を流した。

 翌年、母の訃報を乳母の口から聞かされた。母がいた地域で紛争が起こり、巻き込まれて亡くなったそうだ。

 間もなく乳母も故郷の両親が病気になったのをきっかけにアレクセイから離れることとなり、ただ1人の味方すら失うことになった。


 行かないでと泣きついた。

 無駄だった。

 7歳になるひと月前。疫病が蔓延してアレクセイも高熱で寝込む羽目になった。何度も母を呼んだ。

 無駄だとわかっていても呼び続けた。

 やはり無駄だった。


 そして孤独な夜が明け熱が下がった。翌月、アレクセイの誕生日に初めて父王に呼び出されて、暗殺者としての任を与えられることになったのだ。


「うっ……けほっ!」

「アレクセイ、大丈夫?」


 昔の記憶が鋭く心に突き刺さり、飲み込んでいた果実水でむせてしまう。ワンが優しく背中をさすってくれて少しずつ平静を取り戻していく。


 そうやって世話をされるのに慣れると、ワンの前で上の衣服を脱ぎ、濡れた布で汗を拭いてもらうことにも恥じらいを感じなくなっていた。

 それまで人に触れられることは恐ろしいことだと本能が警鐘を鳴らしていた。

 ワンは時を繰り返すうちにアレクセイが何年もかけて築いた壁を乗り越えてしまったらしい。

 ただ、やたら背中の肌を撫でる視線が気になり、アレクセイは振り返らないまま微かな抗議の声を漏らす。


「……別に、面白くないだろ」

「ごめん、嫌だった?」


 ワンが見ているのは体中に残る傷跡だろう。危険な場所に単身乗り込み戦うことは日常茶飯事だった。丈夫とはいえ刺し傷や切り傷は薄っすらと残ってしまう。


「ねえ、触ってみてもいい?」

「は」


 別に触っても面白いものではないはずだ。むしろ無遠慮に触られるのは苦手で、断ろうかと口を開く。


「別に、構わない」


 飛び出た言葉は思考とは正反対のもので、矛盾した言動にアレクセイは焦る。しかし訂正する前に柔らかな手が己の背中に触れた。


「……っ」


 やはり少し冷たい。だけど労わる手つきで傷を繰り返し撫でられた。互いの吐息だけが耳に届き、揺れる蝋燭の光がアレクセイの心を映しているみたいだ。

 じわりと肌に熱が浮く。ワンにバレていないか不安になり、視線を下方に向けた。それでも背中に触れる感触は絶えず続く。

 ワンの指がおもむろに筋をたどり腰の方へ滑ると、体が反応して揺れてしまった。


「あっ……」


 耐えられないほど恥ずかしくなって、アレクセイは振り返りワンの手首をつかんだ。文句の1つくらい言おうかと思った。

 改めて見たワンの顔は暗く、水底に潜んでいるようだった。アレクセイを口説くときはほんのり色づく頬も真っ白で、ろうそくの光を無機質に反射している。


「痛い?」


 アレクセイの生い立ちを想像したのだろうか。たずねながらもワンは目元を歪め、視線を握られた手首に落としている。

 こうして真っすぐ向き合っていると、ワンが普通の人間に見えてくる。作り物のように整った顔も印象的な金糸の髪も今では見慣れてしまった。むしろ普段人の顔をまともに見ることができないアレクセイにとって、ワンほどまじまじと顔の造形を認識した相手はいない。

 だからこそ竜の姿を思い返すと、冷たい刃が背を貫く感覚が駆け抜けていく。圧倒的な力を持ち、無慈悲に大勢の命を奪える未知の存在。


 目の前にいる男が? 自分を介抱し微笑むこの男が?

 信じたいのに、同時に怖いと思う。自分は今後この男にどんな目に遭わされるのか想像がつかない。何も予測ができなかった。

 なら自分の暗い部分を知った時、ワンはどんな反応をするのだろうか。


「ワン」

「なあに?」

「俺は10年前に父王に命じられて初めて人を殺した」


 アレクセイの突然の告白にワンは返答に迷ったらしい。わずかに眉を下げてこちらを窺いながら見ている。


「それまで俺は人目に触れないよう育てられながら、勉学と体力作りに専念していた。剣を初めて握ったのは五歳の時だ。私室と訓練所を往復するだけの日々だった」


 誰かが通り過ぎればみな冷たい目でアレクセイを見る。当時はよくわからず、相手に質問する勇気も湧かず乳母に愚痴を吐いた。乳母は「貴方様は普通ではないのです」とだけ答えた。


 兄のライアンは人目を盗んでアレクセイに会いに来てくれた。たまに見たことのない綺麗なお菓子を握らせて「誰も見てないところで食べるんだ」と微笑んでくれた。不思議な人だと思った。

 アレクセイがいた世界はとても小さくて、何が本当に正しいのかわからない。しかし成長するにつれ自分は望まれて生まれた子どもではないのだと悟った。


「7歳の誕生日に父王に呼び出されて、生まれて初めて対面した」


 父はゴミを見るような目でアレクセイを見据えた。


「そして指定した人物を殺せと。まだ剣の使い方もロクにわからない子どもだ。どうして人を殺さなければいけないのかわからなくて、初対面にも関わらず父上に質問したよ。そしたら……」

「そしたら?」

「骨が折れるまで殴られた」


 当時の父はまだ若く力が強かった。意味もわからず痛めつけられ、様子を見ていた兵士たちは誰も助けてくれなかった。


「折れた腕は痛いし、父には次に口答えをしたら首を折ると言われるし、もう訳がわからなくてさ。従うしかなくて利き腕が折れたまま指定された人物がいるという屋敷に向かった」


 王都の端にある伯爵家の屋敷。そこの当主を討てとのことだった。他に目撃者がいればまとめて始末しろと。

 理由は国家反逆罪。他国の商人と手を結んで武器を横流しにしているのだとか。だからといって犯人を捕まえずに殺していいものか、アレクセイにはまるでわからなかった。さらに生まれて初めて城の外に出るため、不安で心が潰れそうだった。


 当時のアレクセイは自分の身体能力の異常さに気づいていなかった。人に気づかれないよう見張りのいない裏側から侵入し、出入り口が無いので四階の高さのある屋敷の屋根まで登り煙突から室内に入った。そして寝静まった通路を抜けて主人の寝室に忍び込み、寝酒を楽しむターゲットの元へと辿り着いたのだ。


「それで、殺したの?」


 ワンの問いにアレクセイは苦笑する。


「子どもは愚かなほどに素直だ。俺は父から聞いた悪事を尋ね、本当であれば罪を認めるよう相手に求めたんだ」


 相手はさぞ驚いたことだろう。だがすぐに笑みを浮かべて「君の言う通りにしよう」と油断させる甘い言葉を囁いた。幼いアレクセイもその言葉を信じた。


「そして相手は俺を油断させて殺そうとした。ふと振り返った時にはナイフが目の前に迫ってたんだ」


 振り下ろされるまでの一瞬でアレクセイは驚き、悲しみ、失望し、そして相手の喉を切り裂いた。あっという間だった。


「初めて人を殺した時の感情は正直よくわからなかった。でももう戻れないんだって虚しさだけが残った」


 屋敷を去ろうとした時、部屋の隅でうずくまる女性を見つけた。どうやら主人の相手をしていたらしい。アレクセイが足を向けると女性は悲鳴をあげて窓から逃げようとした。その背に投げナイフを刺し、彼女の体は外の地面に叩きつけられた。


「主人と一緒にいた女性は乳母だったんだ」


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