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救いの手と血だらけの王城

「おっと手が滑っちまった。悪いな」


 近くに落とされたスープと思しき濁った液体は、飛沫をあげてアレクセイの頬を濡らした。許しがたいほどの侮辱だが、今の自分には何の感情も浮かばない。

 反応しないのがつまらないのか、男はもう1人の兵士に声をかける。


「お前も日頃の鬱憤を晴らしたらどうだ? 日の出の処刑までに死ななければ何をしても良いって言われてるんだからよ」


 何気なく発された言葉に息が止まる。処刑。予想はしていたがやはり受け入れがたい。


「父上は……弁明の機会すらくださらなかったのか」

「やっと喋ったか。わかるだろ? お前は捨てられたんだよ」

「そんな」


 震えが止まらない。弱みを見せたくないのに体はまるで言うことを聞いてくれなかった。もう1人の兵士は思いついたように近づき、アレクセイを乱暴な手つきで仰向けにひっくり返した。見上げると自分や先ほどの男より背が高い。


「ふむ……顔は悪くないな」

「うーわ。お前マジか」

「死ななければ良いのだろう?」


 長身の男がアレクセイに手を伸ばすので、反射的に弾いた。


「……っ! 触れるな下衆!」


 こいつらも狂っている。何故こうも簡単に人の尊厳を踏みにじろうとするのだ。処刑を待つ身だろうと体を許した覚えはない。

 様子を見ていた無精髭の男は舌打ちをすると、アレクセイの左足を踏んで抵抗を封じる。


「いっ! 痛……ッ」

「骨がやられてるのは事実みたいだな。折られたくなければ大人しくしろ」

「ハハッ、奴隷同然の扱いだな」


 粘ついたような笑みが気持ち悪くて仕方ない。なのに体が動かない。


「ど……うして」


 ああ、視界が滲む。また涙が溢れてしまう。


「ハッ、泣いてるぞコイツ」


 引き千切る勢いでベルトを外され、衣服に手をかけられる。身をよじろうとすれば左足を蹴飛ばされ、痛みに体が引き攣る。ああ、駄目だ。このまま自分は為すすべもなく終わってしまう。


 アレクセイはやっと気づいた。


 この国はおかしいのだ。自分が仕えていた王はおかしいのだ。

 国のためと言いながら己の信じたいものだけを信じ、嘘で固めるために周囲から大切なものを奪い、邪魔になれば迷わず始末する。

 だから兄王子は狂った状況を変えようと必死に抗っている。アレクセイはそんな兄と距離を置いて裏切ってしまった。


 ああ、自分はなんて愚かなのだろう。

 君は、君のために生きて。ワンはそう言ってくれたのに、アレクセイはまだ誰かが用意した舞台の上で生きている。


「ワ……ン、助けて……」


 ドクン、と心臓が大きく動いた気がした。

 地響きで空間が大きく揺れる。砂埃が天井から落ち、鈍い音が響き渡った。

 兵士達はバランスを崩し、その場で尻餅をつく。事態を理解できず顔を青くしていた。


「今のはなんだ。敵襲か⁉︎」


 地響きは爆発音のごとく繰り返し鳴り続け、さらにこちらに近づいているのか振動は大きくなる。


「ここに居たら生き埋めになるぞ!」


 兵士たちは這うようにして牢屋からの脱出を試みる。そして鉄格子を抜けた時、通路の天井が大きく崩壊した。大きな瓦礫を床に落とし、全体が大きくヒビ割れる。

 階段に逃げようとした長身の兵士は、砂埃と一緒に現れた巨体に押し潰され、濁った叫びと共に血を撒き散らした。


 見慣れた黄金、大きな翼、鱗に覆われた口。巨大な竜は空いた天井から上半身を突っ込むようにして空間を満たしていた。先ほど兵士を潰したのは前脚だったのだ。


「なんだ……何なんだよ!」


 唐突に突きつけられた仲間の死に、もう1人の兵士は地べたに座り込んで失禁していた。初めて見る生き物に恐怖で全身を震わせている。


「助け……っ」


 言葉が終わらない内に男の体は首を振った竜の頭で飛ばされ、壁に叩きつけられる。骨と内臓が潰れる音を響かせ呆気なく地面に落ちた。

 邪魔者がいなくなった竜は鉄格子を牙でこじ開ける。ひしゃげた鉄棒はさらに強い力で引っ張られ、全体の枠ごと外れて砂埃を立てながら倒れた。

 これだけの力を持つ生き物に襲われれば一瞬で死ぬ。先ほどの兵士達の死が現実であることを突きつけられた。


 でも恐怖は感じない。アレクセイに向けられた黄金の眼差しには見覚えがある。


「……ワン」


 ワンだ。竜になれないと言っていたワンが今目の前に竜の姿で現れた。

 アレクセイは痛みを忘れて立ち上がり、ワンの顔に触れる。以前触らせてもらった時と同じ鱗の感触に、やはり相手がワンなのだと思う。


「助けに、来てくれたのか」


 アレクセイの問いにワンは顔を擦り寄せ肯定する。そして頭を下げて背に乗るよう促してきた。

 折れた足でも大丈夫だろうか。アレクセイが左足を引きずると、察したのかワンは首を横に傾け大きく口を開いた。


「うわっ⁉︎」


 ワンの口はアレクセイの胴体を捉え、そのまま持ち上げる。牙が腹部に当たり、流石に恐怖心が湧きあがったが、湿った舌で転がされ痛くないよう優しく咥えられた。足が痛んで動けないアレクセイを気遣ったのだ。


 当たり前のように与えられる優しさに再び目元が熱くなる。ワンは地下から地上へと登ると、大きく翼を羽ばたかせて空へと飛び立った。半壊した城は大勢の人が逃げ惑い混乱している。

 酷い状態だった。瓦礫で押し潰された人、焼け焦げた跡に倒れる影。死屍累々の地獄絵図の中に見慣れた姿があった。


「父上?」


 父は上半身が黒炭になっていた。一瞬別人かと思ったが床に転がる杖が父本人であることを示している。

 ワンが殺したのだ。耳鳴りが大きくなり、血の気が引いていく。事実を受け止めきれないまま城は遠くなっていき、やがて見えなくなった。




「ラザール様! 竜が戻ってきました」


 1人の衛兵の叫びに大神官ラザールは空を見上げた。朝焼けの空の向こうから金色の塊が近づいてくるのが見える。大きな翼と長い尾、洗練された巨躯は伝承でしか聞いたことがない姿そのものだ。

 海で卵を持ち帰り孵化させてから10年間ワンを保護していたが、彼が完全体になったのは初めてだ。


 数日前、突然塔周辺の警備を無くしてほしいと頼まれた時は何事かと思ったが、警備不在の夜が明けて訪ねると、ワゴンの上に飲み終えたティーカップが2つ乗っていることに気づいた。

 ワン曰く、待ち続けた人が来たのだと。そして自分を置いて行ってしまった、また待たねばならないと恋しそうに窓を見つめていた。

 そして数日後、夜が更けた頃にワンと話していると、突如彼は真剣なまなざしで窓の外を見た。


「あの子が呼んでる」


 窓を開けて迷わず飛び降りたワンに度肝を抜かれた。ワンは白い光に包まれたと思うと竜の姿に変わり、導かれるように空へと消えた。

 捜索隊を出すか悩んだが竜の飛行を追跡することは不可能だ。また神殿に戻ってくるかもしれないと淡い期待を持ち、夜明け前は胸騒ぎがして神殿の外で佇んでいた。


 ……翼の羽ばたきが空を切り、重低音を響かせる。みるみる近づいてくる姿に数人いる衛兵は怖気づいて半歩下がった。無理もない、ここまで巨大な生き物を前にして人が抗う術は無いのだから。


「ワン」


 名前を呼ぶと、竜はラザールの前に着地した。翼で煽られた風が全身を強く打ち、倒れそうになる。前屈みで踏ん張りながらどうにか近寄ると、彼の口に人が咥えられているのが目に入った。気絶しているのか脱力しており、反応を示さない。


「怪我をしているのか」


 触れようとするとワンが威嚇の唸りをあげる。空気を震わせ、地割れを思わせる低い音に衛兵はさらに後退した。もはや大神官を守るという使命を忘れているだろう。

 ワンが触れられるのを嫌悪するあたり、この人物が彼が言っていた運命の人なのだと悟る。


「だがワン。早く手当てしないとこの人は死んでしまうかもしれないぞ」


 念を押すと竜の唸りは徐々に勢いを弱めていく。少ししてワンは渋々と口を開け、ラザールの腕に渡した。見た目以上に軽い体は傷だらけだった。拷問でも受けたのかと思わされるほどだ。衣服は乱れて壊れたベルトがぶら下がっている。

 まだ若く十代半ばほどの少年で、細身ながら鍛え抜かれた体は血にまみれた人生を歩んできたことを物語っていた。


 痛々しい。竜が選んだ人物というので、見目麗しい王女や教会に蝶よ花よと育てられた汚れを知らない聖女を想像していた。

 一方で運命の人がどのようにして塔に訪れたのか気になっていたが、なるほど、この体躯なら壁を登ったのかもしれない。


「ラザール」


 まばゆい光が辺りを包み込むと、目の前にいたワンは人の姿に戻っていた。見据える目は怒りと悲しみ、全ての感情を有している。

 今までは何事にも関心が薄かった。何を話しかけても空返事で、読み書きに興味を示さず、会いに来るのだという人を待ち続けて壁を眺めていた。

 ワンにとって彼が全てなのだ。決して死なせてはならない。


「今すぐ医務室へ連れていく。お前も来なさい」

「わかった」


 朝日がワンの髪を照らす。それは相変わらず美しく、妖しく、不気味ささえ感じるほど黄金色に輝いていた。

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