27話 英雄と少女
「そろそろ到着いたしますよ」
御者のクロドナがそう言うと、ヴェルザルはその身体をゆっくりと起こす。
すると心地よい風が吹き、微かに汗ばんで火照った身体を冷ましていった。
「……すまない。眠っていたようだ」
クロドナの操る馬車は、農作業に使うようなもので、その荷台には藁が敷いてあった。
その藁の中で、ヴェルザルはぐっすりと眠っていた。
ヴェルザルは地方に出て行く農民、という体(てい)で田舎に引っ越していくことになっていたので、纏う衣服も、畑仕事に精を出していそうな質素なものだった。
「お疲れだったんですねぇ」
クロドナもそれにあわせて質素な服装をしていた。
ヴェルザルの秘めているぞっとするような剣呑さを除けば、農家のおじさんとおじいちゃんというような風情だった。
「……ええ。そうだったんでしょう」
ヴェルザルはぼんやりと周辺を見渡しながら言った。
一面に広がる草原と畑は、夕陽に照らされて輝いている。
ぽつぽつと人や民家が目に入るが、田舎と呼ぶにふさわしい長閑なものだった。
「これまでお忙しくて何もお話することができませんでしたし、よかったら少しお喋りをいたしませんか」
「ええ、構いませんとも」
ヴェルザルの出立は、誰にも知られないようにと秘密裏に素早く、そして夜明け前という時間に静かに行われた。
しばらくは気を張っていたヴェルザルだが、街を出たあたりから警戒の必要がなくなり、連日の疲れでそのまま眠りについてしまっていた。
「……私がルーデランド家にお仕えするようになったのは随分前のことでして、たしかルグルド様がご結婚したばかりの頃でした。なので、リコルット様のことは生まれたばかりの頃からよく知っております」
「……リコルット殿は、どのような子供だったのだろう?」
「それはもう素直で明るい方でした。亡くなられたルデリア様はもちろんですが、アラガン様やイリシエ様、ウルデ様、そしてルグルド様からたくさんの愛を受けてお育ちになりました」
「仲の良いご家族だった、と聞いている」
「ええ、それはもう。……明るかったリコルット様が、その明るさを失ってしまったのは、ルデリア様が亡くなった頃のことです。リコルット様のご出産が難産で、それをきっかけにひどく体調を崩されていました。生まれたリコルット様は健康そのものでしたが、ルデリア様の体調は快復しませんでした。……それを、どこで知ってしまったのか、リコルット様は自分のせいだと思っていらっしゃったようです」
「……それは」
「ええ、もちろんリコルット様のせいなどと思っていた方は誰一人いらっしゃいませんでした。……ですが、日に日に弱っていくルデリア様とお会いする度に、リコルット様はその心に暗い陰を落としていったそうです。ルデリア様が亡くなった直後は、部屋の隅で縮こまって、食事もしようとしないほどだったそうです」
「…………」
「ルグルド様も、他の御兄弟も酷く傷ついていらっしゃいましたが、幼いリコルット様を励まそうといつも明るく振る舞っていらっしゃいました。そうして月日を経て、リコルット様もその明るさを取り戻したように思われました」
「……何か問題があったのだろうか?」
「問題、というわけではないのですが。……その頃からリコルット様は役に立つことに一生懸命になられました。特に家事ですね。まるで罪を償おうとしているような必死さで、笑顔を浮かべていらっしゃるのに、どこか苦しそうでした」
「…………」
「今でこそ楽しそうに家事をするようになられましたが、当時は痛々しいほどでした。……それからゆっくりと心の傷が癒えているように見えても、きっとリコルット様の心の深い所についた傷は、癒えなかったのでしょう。リコルット様は、ご自身を大切にしなくなってしまわれました。自分の素直な気持ちや、あれがしたいこれがしたいという我が儘を口にすることが少なくなられました。……リコルット様は、いまだにルデリア様のことを心のどこかで気に病んでいらっしゃるのでしょう」
「……気の毒なお話だ」
「失礼ながら、私のしょぼくれた目には、リコルット様とヴェルザル様がひどく似通っていらっしゃるように見えます」
「わ、私と、リコルット殿が?」
「ええ、そうですとも。お二人とも、ご自分に自信がなくて、幸せになることに臆病で、自己犠牲を自分に強く課している」
クロドナははっきりとそう言った。
「……私は」
「言葉にされる必要はありませんよ」
思いつめたヴェルザルの口ぶりに、クロドナが鷹揚に返す。
「ただ、これだけは知っていただきたいのです」
「何だろうか」
身構えるヴェルザルに、クロドナは穏やかに言った。
「――お二人とも、幸せになってよいのだと」
「…………」
ヴェルザルは押し黙った。
その言葉をそのままに受け止めていいのか、それが分からなかった。
「……そろそろ、リコルット様のお住まいが見えてきましたね。あちらの小さな家が、今リコルット様が住んでいらっしゃるところです」
クロドナは遠くの丘の上にある家を指差して言った。
ヴェルザルは目を細めて、その家を確認した。
「あれが」
その家を目にして、ヴェルザルはふと自分自身の異変に気づく。
ヴェルザルは、いまだかつてないほどに緊張し始めていた。
どう声を掛ければいいのか。
何を言えばいいのか。
本当にリコルットが喜んでくれるのか。
経験したことのない種類の緊張に、ヴェルザルは頭を悩ませた。
「それと、お渡ししなければならないものが」
そう言ってクロドナは馬車を停めた。
「こちらです。どうか、お着替えください」
「……これは」
手渡されたのは、結婚式で着たものと同じ、タキシードだった。
馬車がその家のすぐ傍に辿りつくと、クロドナが真っ先に馬車を降りて、荷台においてあった大きな木の箱を抱える。そしてそれを持ってその家の戸の前まで行くと、それを丁寧に置き、戸を叩く。
「リコルット様。クロドナでございます」
そう声を掛けると、家の中からバタバタと音がして、扉が開かれた。
「クロドナ! まさか、あの計画が失敗してしまったのですか?」
そうして姿を見せたのは、リコルットだった。
「いえ、ご安心くだされ。今のところはなんも問題もなく、進んでいると聞いております」
「そ、そうですか…… では、どうしてこんなところに?」
「計画の成功をご報告と、お届け物がいくつか。特にこちらは、お渡ししなければならないと思いまして」
そう言ってクロドナは木の箱を開けた。
「……これは」
そこに仕舞われていたのは、結婚式の時に着たあのウェディングドレスだった。
「当日はリコルット様が着ているお姿を見られませんでしたので、是非着ているお姿を見せて頂きたいなと」
「……そのために、わざわざ?」
「老い先短いこの身ですから、生まれた頃からのお付き合いであるリコルット様を僭越ながら孫のように思っております。どうか一度、着て見せてはもらえないでしょうか」
クロドナのその頼みに対するリコルットの想いは複雑だった。
ウェディングドレスに対してだけでも様々に思うところがあった。
けれど、リコルットも、クロドナに対して祖父に対するような思いを抱いていた。
リコルットは困ったように微笑んだ。
「……そんな風に頼まれたら断れないですね。一人で着付けをするのは大変なので、時間は掛かりますけれど」
「ええ。ここで待っています。馬の世話でもしていますとも」
「急ぎますけど気長に待っててくださいね」
そう言って、リコルットは家の中に戻って行った。
それを見届けて、クロドナは振り返る。
「ヴェルザル様」
「……うむ」
クロドナが声を掛けると、馬車の荷台からタキシード姿のヴェルザルが降りてくる。
「お膳立てはしっかりと整えさせていただきました。リコルット様には、くれぐれもよろしくお願いいたします」
クロドナはそう言うと馬車に乗り、道を引き返そうとする。
「お、お待ちいただきたい」
ヴェルザルが慌てて声を掛ける。
「なんでしょうかな」
「……その」
ヴェルザルは言葉を詰まらせて、悩んで、言った。
「私がリコルット殿を幸せにする。そうお約束する」
「――――」
クロドナは虚を突かれたように固まり、それからふふふと笑い出した。
「そして、ここまで送っていただいたこと、心より感謝する
「お気になさらず。リコルット様のこと、よろしくお願いします。……孫のように思っているのは、本当ですから」
「お任せください」
最後にそう言葉を交わして、クロドナは馬車に乗って去って行った。
そうして一人になったヴェルザルは、深呼吸をした。
「……うむ」
吹く風は心地よく、草木の香しい匂いと澄んだ空気で気持ちが自然と落ち着いていく。
これまで馬車に乗ってきた道を振り返る。
沈もうとしている夕陽に照らされた真っ直ぐな道は、琥珀色に輝いていた。
「……長い長い、道のりだった」
その道が、ヴェルザルはどこか自分自身と重なって見えた。
真っ直ぐに続く道の先は見えない。
どんな道だったのか、覚えていないことの方が多い。
助けられたかもしれない。
救えたかもしれない。
そんな後悔と反省と共に生きてきた。
それが間違っていたのか正しかったのか、ヴェルザルには分からない。
だが、そうして生きてきた人生の果てに辿り着いた場所が、この場所であるのだということを、ヴェルザルは胸が苦しくなるほどに幸福だと感じていた。
愛されること。
好かれること。
尽くされること。
傍にいてもらえること。
思い返せば、初めてのことばかりだった。
どうしてこんな老骨に、と不思議に思ったが、それ以上にそれを少なからず喜んでいる自分が浅ましく思えた。
けれど、そんなヴェルザルよりも、ずっとずっと幸せそうにしているリコルットを見ていると、ヴェルザルは自分の浅ましさなどどうでもよくなった。
彼女と共に生きたい。
そう祈った。
しかし、戦争がそれを許さなかった。
戦争と向き合うのが、自分の使命なのだと思った。
――そのはずが、それをリコルット自身がひっくり返してしまった。
「……全く、振り回されてばかりの人生だった」
ヴェルザルがぽつりと呟くと、背後から扉の開く音が聞こえた。
「お待たせしました。お化粧はできないですが出来る限りそのままに………………え?」
振り返ったヴェルザルの目に入ったのは、琥珀色の夕陽に照らされる純白のウェディングドレスを身に纏うリコルットだった。
「え? そんな、でも、まさか」
狼狽えるリコルットは、後ずさりながら家の中へと戻ろうとする。
「――――必ず、迎えに行く。そう約束した」
ヴェルザルが言葉を発すると、リコルットはびくりとその動きを止めた。
「で、でも、私、ヴェルザル様を」
「そうだな。たくさん嘘をつかれていたようだ。まるで気が付かなかったが」
ヴェルザルはゆっくりとリコルットの方に歩み寄る。
リコルットは震えて動くことができなかった。
「……わ、私、ヴェルザル様に、たくさんひどいことを」
「そうだな。家も壊れてしまったし、教官も辞めることになってしまった」
リコルットはその顔を真っ青にした。
「も、申し訳ありませんっ」
「申し訳ないと思うのなら、この老骨の願いを聞いてほしい」
ヴェルザルはリコルットの目の前で片膝をつき、自分の胸に手を当てる。
そして、もう片方の手をリコルットへと伸ばす。
「私と共に生きてくれ。命尽きる、その時まで」
ヴェルザルは真っ直ぐにリコルットを見る。
リコルットも、真っ直ぐにヴェルザルを見る。
その表情に怯えはなく、全身が震えるほどの歓喜と、その溢れるような歓喜への躊躇いがあった。
「私、いいんでしょうかっ……。ヴェルザル様にひどいことをしたのにっ……」
「誰が駄目だと言おうとも、この私が良いと言っているのだ。誰が反論できる」
「でも、私なんかがこんなに幸せで……」
「君が幸せでいることが、私の幸せだ」
「――――っ」
「だから、どうか手を――」
ヴェルザルが言葉を言い終わる前に、その手をリコルットが両手で握りしめた。
「……小さな手だ」
ヴェルザルはその手を握り返して、立ち上がった。
リコルットの手も、その全身も震えていた。
「私、お役に立ってみせますっ。ヴェルザル様のために、なんだってしますっ」
その目を潤ませて、リコルットは言った。
「そうか。なんでもか」
ヴェルザルは不敵な笑みを浮かべて、リコルットの頭をその両手で捕まえる。
「えぇっ!? ヴェルザル様!?」
本気で抵抗しているわけではなかったが、まるで動かせる気がしないほどにがっちりと掴まれていて、リコルットは驚いた。
「なんでもするのだろう」
「は、はい。もちろん、です」
ヴェルザルはゆっくりと顔を近づける。
「~~~~~っっ!!!」
リコルットは耳まで真っ赤にして、その目を閉じて微動だにしなくなった。
けれど唇だけがぷるぷると震えていた。
「…………」
ヴェルザルは、不意に手を離し、リコルットの前髪を掻き上げた。
「ふぇ?」
リコルットが間の抜けた声を出すのと、リコルットの額に柔らかい感触が触れたのはほとんど同時だった。
それが、額へのキスであることに、リコルットは遅れて気が付いた。
「……今後とも、よろしく頼む」
リコルットがゆっくりと目を開いて見上げると、同じように顔を赤くしているヴェルザルの顔が見えた。
「――はいっ! ヴェルザル様っ!」
リコルットは自分の額を嬉しそうに愛おしそうに撫でて、笑った。




