第3話 愛社か婚約者か
その日、イカロス財団の理事長室で、真千子は頭を抱えていた。
「……サーバーの増設がまた必要? 先月増やしたばかりじゃない」
世界中から届く膨大なカルテデータ、顧客情報、そしてセキュリティ管理。財団の急成長に、内部のシステム管理が追いついていない。
「信頼できる外部委託先を探さないと、パンクするわね……」
彼女が呟いたその時、首都高速道路上で、一つの悲劇が起きていた。
*
タイヤのバースト音。制御を失った高級車がガードレールに激突し、横転した。
ITベンチャー「ネオネクスト・ゲート」の若き社長、和也(34)は、奇跡的に擦り傷で済んだ。だが、助手席の惨状を見た瞬間、彼の血の気は引いた。
「美咲! 美咲!」
婚約者の美咲は、頭部を強打し、ぐったりとシートベルトに吊り下げられていた。
搬送先の病院で告げられたのは、「脳死」という絶望だった。
脳幹への深刻なダメージ。自発呼吸の停止。回復の見込みはゼロ。
さらに残酷な事実が判明する。美咲の免許証の裏には、臓器提供の意思表示があった。彼女の両親は、涙ながらに娘の遺志を尊重し、ドナー提供を承諾したのだ。
「待ってください! まだ心臓は動いているじゃないですか!」
和也は泣き叫んだが、医師たちの表情は沈痛だった。
諦めきれない和也の脳裏に、ある噂がよぎった。どんな病も治す「タッチ」。
彼は病院を飛び出し、財団へと走った。
「お願いします! いくらでも払います! 彼女を助けてください!」
財団の受付で、和也は土下座を繰り返していた。
だが、受付の返答は冷徹だった。金曜のオークション枠は、世界中の大富豪が数十億、数百億を競り合う戦場だ。成功したとはいえ、日本のベンチャー社長の資産では到底太刀打ちできない。
「分割でも、一生かけてでも払います!」
「申し訳ありませんが、前払い一括のみとなっております」
万策尽きた。和也が絶望に崩れ落ちそうになった時、コツ、コツ、とヒールの音が近づいてきた。
「――あなた、ネオネクスト・ゲートの社長ね」
見上げると、冷ややかな美貌の女性が立っていた。真千子だ。
彼女はタブレットで素早く何かを確認すると、信じられない提案を口にした。
「あなたの会社、独自のセキュリティ技術で急成長しているわね。……その全株式と経営権を譲渡しなさい。そうすれば、今すぐ特別枠を用意するわ」
「か、会社を……?」
それは、美咲との結婚生活のために、血の滲むような思いで育ててきた会社だった。社員たちも家族同然だ。
「嫌ならお帰りになって。彼女の第一回脳死判定、もうすぐ終わる頃でしょう?」
真千子の言葉に、和也は迷いを捨てた。
「……売ります。全部差し上げます。ただ、社員の雇用だけは守ってください。それだけが条件です!」
「成立ね」
真千子は即座にスマホを取り出し、台湾にいる弟へコールした。
*
『えー、今から帰るの? せっかく並んで買ったタピオカ、まだ一口も飲んでないんだけど』
台北の夜市。淳史はスマホ片手にボヤいていた。
「文句を言わない。プライベートジェットを手配したわ。緊急オペよ、今すぐ空港へ向かって!」
姉の剣幕に、淳史は飲みかけのタピオカミルクティーを惜しげに見つめつつ、ゴミ箱へ放り込んだ。
だが、運命は意地悪だった。
機材トラブルによる離陸遅延。
その間に、日本では残酷な時計が進んでいく。
美咲の第一回脳死判定終了。六時間の経過観察。そして、第二回脳死判定。
和也は集中治療室の前で、祈るように時計を見つめていた。だが、淳史は現れない。
医師が出てきて、静かに告げた。
「……第二回判定、終了しました。これをもって、死亡時刻とさせていただきます」
「ああ、あぁぁ……ッ!」
和也の慟哭が廊下に響き渡る。
法的に、美咲は「死体」となった。これより彼女は手術室へ運ばれ、臓器摘出が行われる。彼女の心臓や肝臓を待つ、別の患者たちの元へ届けるために。
ストレッチャーが移動を始める。冷たくなった美咲の手を握り、和也がすがりつく。
「連れて行かないでくれ! 彼女はまだ温かいんだ!」
「離してください。移植ネットワークの規定です」
無慈悲に引き剥がされ、手術室の扉が閉まる。赤いランプが点灯した。
その時だった。
廊下の向こうから、息を切らして走ってくる男がいた。
「間に合いますか!?」
淳史だ。空港からタクシーを飛ばし、最後は渋滞の中を走ってきたのだ。
「もう、中へ……!」
和也が指差す先、手術室の扉を淳史は強引にこじ開けた。
手術室内では、執刀医がメスを構えていた。
「何だ君は! 部外者は……」
「どいてください!」
淳史は医師たちをかき分け、手術台の上の美咲に駆け寄った。心停止させるための処置が始まる直前。
淳史の手が、美咲の額に触れる。
――間に合え。
脳細胞よ、蘇れ。
まばゆい光が手術室を満たした。
医師たちが呆気にとられる中、モニターの波形が変化した。自発呼吸の再開。脳波の復活。
「う、ん……」
美咲の瞼が、微かに震えた。
「まさか……生き返ったのか?」
執刀医がメスを取り落とす。
扉の外で待っていた和也の元へ、看護師が飛び出してきた。
「社長! 奥様が、目を覚まされました!」
和也はその場に泣き崩れた。全てを失ったが、一番大切なものだけは取り戻したのだ。
だが、物語はここでは終わらなかった。
真千子の元に、移植ネットワーク事務局から悲鳴のような連絡が入ったのだ。
『移植中止!? 馬鹿な、こっちはもうレシピエント(移植希望者)の胸を開いているんだぞ!』
美咲の心臓が届くはずだった別の病院では、重篤な心臓病の患者が、人工心肺に繋がれ、今か今かとドナーの到着を待っていた。
移植中止は、その患者の死を意味する。
「……淳史、まだ動ける?」
手術室から出てきた弟に、真千子は問いかけた。
淳史は台湾での一件と、今の美咲の治療で、既に二人の命を救っている。顔色は悪い。
「状況は?」
「美咲さんの心臓を待っている患者がいる。もう後戻りできない状態よ」
「……行くよ。見殺しにはできない」
臓器運搬用の緊急車両に、臓器の代わりに淳史が乗り込んだ。
サイレンを鳴らし、都内を疾走する。
別の大学病院の手術室へ飛び込み、開胸されたままの患者に『タッチ』を行う。
その心臓が力強く鼓動を取り戻したのを見届けると、淳史はその場へ座り込んだ。
「……疲れた」
「よくやったわ。一日三人。限界ギリギリね」
帰りの車中、泥のように眠ろうとする淳史の頭を、真千子は優しく撫でた。
「明日の土曜、外交枠は休みにしてあげる。ゆっくりお休み」
「……タピオカ、飲みたかったな」
淳史は寝言のように呟き、深い眠りに落ちていった。
*
数日後。
真千子は「ネクスト・ゲート」のオフィスを訪れていた。
新オーナーとしての視察。しかし、社内の空気は最悪だった。
「我々は、高木社長についてきたんです。金で会社を奪うようなオーナーの下では働けません!」
幹部社員たちが辞表を叩きつけてくる。全員が辞めれば、会社はただの抜け殻だ。
真千子はその様子を見て、ほう、と感心したように息を吐いた。
「いい会社ね。トップと社員の間に、これほどの信頼関係があるなんて」
彼女は鞄から、一通の契約書を取り出した。
「和也さん。この会社、あなたに売り返すわ」
「えっ?」
呆然とする和也に、真千子はニヤリと笑った。
「売却額は一円。ただし条件があるわ。今後、イカロス財団のシステム管理・運用の一切を、永年契約で請け負うこと。……もちろん、最高レベルのセキュリティでね」
和也は震える手で契約書を受け取ると、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。命に代えても、財団の秘密は守り抜きます」
社員たちからも歓声が上がった。
財団に戻った真千子は、満足げに紅茶を啜った。
優秀な技術者集団を、たった一回の治療費(実質タダ)で囲い込むことに成功したのだ。
「損して得取れ、とはこのことね」
悪魔的な笑みを浮かべる姉を横目に、淳史は今度こそゆっくりとタピオカミルクティーを味わうのだった。




