第2話 命を懸ける理由
土曜日は、気が滅入る。
この日は「外交枠」と称して、財団の運営を有利に進めるために、政治家や官僚、あるいはその親族を治療する日と定めているからだ。
イカロス財団の理事長室で、真千子は受話器越しに聞こえてくる傲慢な声に、眉間の皺を深めていた。相手は総務省消防庁の長官だ。
『……というわけでね、キャンペーン中に現場の人間が不祥事を起こしてくれたおかげで、私の顔に泥が塗られたわけだよ。参ったねえ』
受話器の向こうの男は、部下の命の心配など微塵もしていなかった。気にしているのは自分のメンツと、肝いりで始めた「公務災害防止キャンペーン」の体裁だけ。
相談の内容はこうだ。
山岳救助隊員の武志(42)が任務中に滑落し、四肢凍傷による壊死で切断の危機にある。それを『タッチ』で治して、何事もなかったことにしてほしい――。
「承知いたしました。直ちに施術者を向かわせます」
真千子は感情を押し殺して電話を切ると、大きく溜息をついた。
「……行くわよ、淳史」
ソファで本を読んでいた弟が、静かに顔を上げる。
「ひどい依頼主だったね」
「聞こえてた? ええ、最悪の部類よ。でも、患者に罪はないわ」
*
病院へ向かう黒塗りの車内で、二人はタブレットに送られてきた事故報告書に目を通した。
そこには、長官の言う「不祥事」とはかけ離れた、壮絶なドラマが記されていた。
事故が起きたのは、北アルプスの険しい尾根だった。
上級者コースからルートを外れ、滑落した登山客からの救助要請。出動したのは、ベテランの武志隊長率いる五名の山岳救助隊だ。
現場に到着し、足を骨折した遭難者を確保した直後、天候が急変した。視界ゼロの猛吹雪。気温は氷点下二〇度を下回る。
隊員たちは互いの身体をザイルで結び、遭難者を担架に乗せて決死の下山を開始した。だが、自然の猛威は彼らを許さなかった。
突風が吹き荒れ、新人の隊員がバランスを崩して宙に投げ出された。
その瞬間、先頭にいた武志はとっさに身を投げ出し、アンカーとなって新人の落下を食い止めた。だが、その代償として武志自身が崖の縁から投げ出され、宙吊りとなってしまった。
五人と一人の重量が、一本のザイルにかかる。支点がきしむ。このままでは全員が共倒れになる――そう判断した瞬間だった。
『ザイルを切るぞ!』
無線越しに武志の怒号が響いた。
直後、ふわりとテンションが消えた。武志は自らナイフでザイルを断ち切り、白い闇の底へと落ちていったのだ。
残された四人の隊員と遭難者は、隊長の犠牲によって九死に一生を得て下山した。
崖下の武志からは、無線が入っていた。
『自分は大丈夫だ。要救助者を優先しろ』
それが、隊長としての最後の命令だった。
隊員たちは詰所で祈るように待ち続けたが、天候は悪化の一途をたどる。数時間後、途切れがちな無線から最後の交信が届いた。
『……雪洞を掘ってビバークする』
それを最後に、プツリと電波は途絶えた。
嵐が去った翌朝、総出の空路探索が行われた。ビーコンの信号を頼りに発見された武志は、雪に埋もれながらも奇跡的に息をしていたが、手足は凍りつき、どす黒く変色していた。
報告書を読み終えた車内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
淳史が、膝の上で拳を握りしめているのが見えた。普段は感情を表に出さない弟が、震えている。
「……運転手さん」
淳史が絞り出すような声で言った。
「急いでください。一刻も早く」
その声には、珍しく焦燥と怒りが混じっていた。自らの保身しか考えない長官と、他人のために命を捨てた現場の隊長。そのあまりの格差に、淳史の心が揺さぶられているのだ。
真千子は弟の横顔をじっと見つめた後、スマホを取り出し、先ほどの長官へリダイヤルした。
『はいはい、もう着いたかね?』
「今から到着します。ですが長官、条件があります」
真千子の声は、氷点下の吹雪のように冷え切っていた。
『条件? 何を言って……』
「今すぐ、武志隊長への『消防庁長官表彰特別功労章』の授与を決定してください。それも、形だけの紙切れではなく、メディアを入れて大々的に公表するのです」
『な、何を勝手な! そんなことをすれば、事故が公になって私の管理責任が……』
「お断りですか? ならば、このまま引き返します。そして、『英雄を見殺しにした長官』というスクープが週刊誌に載ることになるでしょうね」
電話の向こうで、長官が絶句する気配がした。真千子は畳み掛ける。
「彼はあなたの顔に泥を塗ったのではありません。命がけで組織の誇りを守ったのです。最高の栄誉で報いるのが、トップであるあなたの仕事でしょう?」
数秒の沈黙の後、忌々しげな舌打ちと共に『……分かったよ、好きにしろ!』という声が響いた。
通話を切った真千子を見ると、淳史が少しだけ目を見開いてこちらを見ていた。
「……姉さん」
「行きましょう。英雄を、迎えに」
*
集中治療室のベッドに横たわる武志の姿は、痛々しいものだった。両手足は包帯で幾重にも巻かれ、その下の皮膚が壊死していることは明らかだった。
淳史は迷いなくベッドサイドに歩み寄ると、武志の肩に手を置いた。
「楽になりますよ」
施術は一瞬だった。
淳史の手のひらから黄金色の光が溢れ出し、冷たく凍りついた武志の細胞へと染み渡っていく。壊死した組織が剥がれ落ち、下から桜色の真新しい皮膚が再生していく。
数分後。
モニターのアラート音が消え、安定した心拍音がリズムを刻み始めた。
武志がゆっくりと目を開ける。
「ここは……」
彼は自分の手を見つめ、指を動かした。動く。感覚がある。布団を跳ね除け、足を屈伸させる。何の問題もない。
次の瞬間、彼はベッドから飛び降りようとした。
「待ってください! まだ安静に……」
看護師が止めようとするが、武志はきょとんとして言った。
「いや、動ける。なら、戻らなきゃならん」
「戻るって、どこへ?」
「現場だ。まだシーズン中だし、新人のメンタルケアもしなきゃならん」
死の淵から生還したばかりだというのに、この男は自分のことなど二の次だった。
淳史はその真っ直ぐすぎる横顔を見て、問わずにはいられなかった。
「……どうしてですか?」
武志が足を止めて振り返る。
「あなたは、部下のために命を捨てた。あんな冷たい雪山の中で、たった一人で死を覚悟したはずです。それなのに、どうしてまた、そんな過酷な場所へ戻ろうとするんですか?」
それは、特別な力を持ってしまったがゆえに、「生きる意味」や「他者への貢献」という問いに縛られ続けている淳史自身の叫びでもあった。
武志は少し考え込み、無骨な笑みを浮かべた。
そして、自分の大きな手のひらを天井に向け、淳史の方へと差し出した。
「俺はな、こう思うんだ」
武志の視線は、淳史の目を真っ直ぐに射抜いていた。
「私が誰かを助けることによって……こうして巡り巡って、私自身もまた、誰かに救われている」
彼は、自分の治ったばかりの手を強く握りしめた。
「あんたのおかげで、俺はまた山に登れる。あんたが救ってくれた命で、俺はまた誰かを救えるかもしれない。……俺は、そういう世界が好きなんだよ」
淳史は息を呑んだ。
ただの循環。恩送り。
だが、そのシンプルな理屈こそが、彼が命を懸ける理由の全てなのだ。
武志は深く頭を下げると、止める間もなく病室を後にしてしまった。まるで、ちょっと休憩を終えて仕事に戻る職人のような背中だった。
部屋に残された淳史は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてふっと肩の力を抜いた。その表情には、ここへ来る前の悲痛な影は消え、穏やかな光が宿っていた。
真千子はその様子を、少し離れた場所から見守っていた。
かつて淳史を襲った悲劇。
その時に彼の心深くに突き刺さり、凍りついてしまった何かを、あの愚直な山男の情熱が少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。
「……姉さん」
「なぁに?」
「長官への脅し文句、かっこよかったよ」
「人聞きが悪いわね。あれは『外交』よ」
真千子は悪戯っぽく微笑むと、弟の背中をポンと叩いた。
「さあ、帰りましょう。明日は日曜日。あなたの待ちに待った休日よ」




