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雲上タッチ ~触れるだけで、命を救う。神の力を宿した青年が世界を変える、奇跡の物語。~  作者: 団田図


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第1話 楽器と奏者の記憶

 静寂に包まれたマンションの一室で、バイオリニストの里菜りな(30)は、艶やかな飴色の木肌をじっと見つめていた。

 ストラディバリウス。三〇〇年の時を超えて受け継がれてきた、世界最高峰の名器。

 里菜にとって、それは単なる楽器ではなかった。両親を早くに亡くし、兄弟もおらず、結婚もせずに音楽だけに全てを捧げてきた彼女にとって、このバイオリンは唯一の家族であり、恋人であり、自身の半身そのものだった。


 だが、別れの時は唐突に訪れた。

 海馬付近に発生した巨大な脳腫瘍。脊椎にまで根を張った病魔は、現代医学の限界を超えていた。手のしびれは日ごとに増し、余命はあとわずかと宣告されている。


「……ごめんね。あなたを棺桶に入れて連れて行くわけにはいかないの」


 里菜は震える指で弦を撫でた。自分が死ねば、この名器は誰かの手に渡る。ならば、自分の意志で次の主に託すべきだ。それが音楽家としての最後の誇りだった。

 彼女は決断した。このバイオリンをオークションに出品し、その莫大な売却益のすべてを使って新品の楽器を大量に購入し、全国の児童養護施設へ寄付することを。

 身寄りのない自分が遺せる、最後にして最大の社会貢献。

 手続きは迅速に行われた。愛器が運送業者に引き取られ、部屋からその姿が消えたとき、里菜の心にはぽっかりと風穴が空いたようだったが、同時に不思議な達成感もあった。

 これでいい。私の人生は、美しい音楽と共に完結するのだ。


 ――その、翌日のことだった。

 パソコンの画面に表示された一通のメールが、里菜の運命を残酷に揺さぶった。


『件名:【当選通知】公益財団法人イカロス 無料施術枠のご案内』


 それは、以前ダメ元で応募していた「どんな病も治す」という都市伝説のような治療の当選通知だった。


       *


 指定された日時は、月曜日の午後だった。

 都内某所にある財団の施設は、病院というよりは美術館のように静謐な空間だった。通されたカウンセリングルームで、里菜を迎えたのは真千子と名乗る女性だった。知的な美貌の中に、鉄のような理性を感じさせる女性だ。


「里菜様。病状については事前にカルテを確認させていただきました。脳幹および脊椎への浸潤……確かに、現代医学では手の施しようがない状態です」

「ええ。ですから、この当選は本当に夢のようで……」

「ですが」

 真千子は言葉を遮り、冷徹な事実を突きつけた。

「弟の施術『タッチ』は万能ではありません。今回のケース、腫瘍が記憶を司る海馬に深く癒着しています。これを瞬時に消滅させ再生させた場合、脳内の神経伝達に一時的な不整合が生じます」

「不整合、ですか?」

「平たく言えば、ここ数ヶ月の『短期記憶』が欠落する可能性が高いということです。技術的なスキルや過去の思い出は残りますが、直近の出来事はきれいに消えてしまうでしょう」


 里菜は息を呑んだ。

 直近の出来事。それはつまり、自らの死を覚悟し、断腸の思いでストラディバリウスを手放した記憶のことだ。

 生き延びることはできる。バイオリニストとしての指の感覚も戻るだろう。

 けれど、目が覚めたとき、自分は「なぜ愛器が手元にないのか」という理由を覚えていないことになる。


「……それでも、受けますか?」


 真千子の問いに、里菜は膝の上で拳を握りしめた。

 命があれば、音楽は続けられる。記憶を失う恐怖よりも、もう一度舞台に立てる希望の方が勝った。

「お願いします。私は、生きたい」


 手洗いへ寄ってから施術室へ移動すると、そこには一人の青年が待っていた。

 淳史と呼ばれたその青年は、どこにでもいそうな穏やかな好青年だった。だが、その瞳の奥には、数多の人の命を背負ってきた者特有の静けさがあった。

 里菜がベッドに横たわると、淳史は何も言わずに近づいてきた。

「怖いですか?」

 青年の優しい声に、里菜はこわばっていた肩の力を少しだけ抜いた。

「……少し。大切なことを忘れてしまうかもしれないから」

「忘れてしまっても、あなたが積み上げてきたものは消えませんよ」

 淳史はそう言って、ゆっくりと里菜の額に手をかざした。

 じんわりとした温かさが頭蓋を透過し、全身へと広がっていく。

「大丈夫です。終わったら、また新しい音が奏でられます」


 意識が、白い光の中に溶けていった。


       *


 目が覚めたとき、世界は鮮明だった。

 頭の奥にあった鈍い痛みも、指先のしびれも、嘘のように消え失せている。里菜はベッドから飛び起き、自分の指を動かした。動く。トリルも、ビブラートも、思い通りに指が走る。

「治った……本当に、治ったんだわ!」


 歓喜に震えながら帰宅した里菜は、真っ先に防音室へと向かった。

 この喜びを、あの音色で確かめたい。

 ケースを開け、あの愛しい相棒を抱きしめ――


 ない。

 ケースが、ない。


 部屋中をひっくり返して探した。だが、どこにもない。

 盗まれたのか? いつ? 入院している間に?

 パニックになりながら、里菜はあちこちに電話をかけた。そして、楽器店の馴染みの担当者から告げられた事実に、言葉を失った。

『え? 香坂先生、ご自身で売却されたじゃないですか。先日、手続きを完了しましたよ』

「私が……? 嘘よ、そんなはずない!」

『いえ、確かに先生のサインも頂いていますし、売却金での寄付手続きも済んでおりますが……』


 電話を切った後、里菜はその場に崩れ落ちた。

 記憶がない。

 なぜ? どうして? 命よりも大切なストラディバリウスを、なぜ私は手放してしまったの?

 健康な体を取り戻した喜びは、瞬く間に絶望へと変わった。

 指は動く。体は軽い。けれど、奏でるべき楽器がない。それは、翼を取り戻した鳥が、飛ぶべき空を奪われたようなものだった。


 それからの日々、里菜の生活は荒れ果てた。

 新しいバイオリンを買おうにも、ストラディバリウスほどの音色は見つからない。何より、「自分で手放した」という理解できない事実が、彼女の精神を蝕んでいた。

 音楽を聴くのも嫌になり、部屋のカーテンを閉め切って塞ぎ込んでいたある日。

 スマホの中に一通のメールが未読のまま残っていることに気付いた。


『差出人:里菜』


 自分から?

 震える手でタップして開けると、動画ファイルが一つだけ保存されている。

 再生ボタンを押すと、画面の中に、やつれた顔の「私」が現れた。


『――こんにちは、未来の私』


 画面の中の自分は、少し照れくさそうに、けれどしっかりとした眼差しで語りかけてくる。場所はトイレの手洗い場のようだ。


『私は今から、不思議な力で死の淵から蘇るらしいわ。でも、副作用で最近の記憶が消えると言われたから、こうしてメッセージを残すことにしたの』

 里菜は息を呑んで画面を見つめた。

『なんだか不思議な気分ね。だってそうでしょ? この動画を見ているあなたは生きているけど、今この瞬間の「死を覚悟した私」はいなくなるってことなんだもん』


 画面の中の里菜が、ふっと笑った。


『私のことだから、あの子……バイオリンを手放したことに苦悩していることでしょう。半狂乱になって、自分を責めているかもしれない』

「……そうよ。意味が分からないもの」

 里菜は画面に向かって呟いた。涙が溢れてくる。


『でもね、聞いて。それは私が、私自身の意志で決めたことなの。誰に強制されたわけでもない。自分の人生が終わると分かったとき、あの子を棺桶に入れるのではなく、次の未来へ託そうって決めたの』

 画面の向こうの自分が、優しく諭すように続ける。

『あの子は旅の途中だったのよ。三〇〇年の旅の、ほんの一瞬を私と過ごしてくれた。間違いなく、あの子の記憶の中に、あなたの音は刻まれているはず』


 里菜の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 失ったのではない。託したのだ。

 自分は、音楽家としての誇りを捨てていなかった。


『あなたが音楽家を続けてさえいれば、きっとまた会える。どうかわたしを信じて。あなたのことを一番知っているのは、私よ。あなたなら乗り越えられるわ』


 画面の中の里菜が、最後に悪戯っぽく微笑んだ。


『それにね、聴衆を魅了する新しい音は、楽器の値段じゃないわ。まだ誰もしたことのない体験から生まれるのよ。……じゃあね、元気で』


 動画が終わり、画面が暗転する。

 里菜はスマホを胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。

 過去の自分が、未来の自分を救ってくれた。その事実に、冷え切っていた心に再び熱が灯るのを感じた。


       *


 数ヶ月後。

 とある児童養護施設のホールは、子供たちの熱気と興奮に包まれていた。

 ステージに立つのは、香坂里菜。

 彼女の手にあるのは、数億円のストラディバリウスではない。かつての自分が寄付した資金で購入された、子供用の安価なバイオリンだ。

 だが、彼女が弓を引いた瞬間、そこには魔法がかかった。


 きらきらとした、喜びの音色。

 以前の彼女の演奏は、完璧で、孤高で、どこか人を寄せ付けない厳しさがあった。けれど今の音は違う。

 背後には、新品の楽器を手にした子供たちが並んでいる。里菜の合図に合わせて、たどたどしくも懸命に音を重ねる子供たち。

 不協和音さえも楽しむような、温かく、力強いアンサンブル。


「楽しい!」

 隣で弾いていた女の子が、目を輝かせて里菜を見上げた。

 里菜もまた、心からの笑顔で頷き返す。

 

 ああ、そうか。

 音楽とは、音を楽しむと書くのだった。

 最高の楽器で、完璧な音を出すことだけに執着し、たった一人で頂を目指していた頃には見えなかった景色が、ここにはある。


 演奏を終えると、割れんばかりの拍手がホールを揺らした。

 子供たちと手を繋ぎ、観客席へお辞儀をする。その拍手の波の奥に、見覚えのある二人の姿があったような気がした。

 一人はスーツ姿の凛とした女性。もう一人は、優しげな青年。

 彼らは満足げに微笑むと、静かに会場を後にしていった。


 里菜は胸の中で、過去の自分に感謝した。

 大切な相棒は手放してしまったけれど、その代わりに得たものは、これからの音楽人生を支える何よりも得難い財産となった。

 

 ――聴衆を魅了する新しい音は、まだ誰もしたことのない体験から生まれる。


 その言葉通り、里菜の第二楽章は、今ここから、鮮やかに始まったのだった。


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