18◇生きていると
ブランシュは、少し前に起こった出来事がまだ信じられずにいた。
それでも、ミリッツァの手を引いて逃げ、人通りのあるところまで出ると、力の強そうな青年の二人組に声をかけた。
「すみません、悪い人を捕まえるのに人手がいるんです。助けてください!」
「えっ? 悪い人って?」
「すっごく悪い人です! 軍服を着た背の高い人が今、一人で押さえているんです」
「軍人が?」
ノアの名前を出さなかったのは、信憑性に欠けるからだ。皇帝の懐刀であるオルグ将軍がここにいると言っても信じてくれないだろうから、とっさにそこをぼかした。
二人は顔を見合わせ、うなずく。
「一応行ってみるけど……」
「ありがとうございます!」
ブランシュは礼を言い、それからミリッツァを連れて宿へと急ぐ。
宿につくまで、ブランシュはろくにミリッツァの顔を見ることもなく、言葉を交わしてもいなかった。
だから、宿の前に辿り着いた時、ぼんやりとした灯りの下でブランシュはようやくミリッツァと顔を合わせた。
「大丈夫ですか? ――って、えぇっ?」
見たことがある顔だった。知り合いにとてもよく似ていた。
茶髪をひっつめた、表情の乏しいこの顔は――。
「ク、クロディーさん?」
少し前まで住んでいた、ミッサの町での知り合い。
ブランシュが清掃の仕事をしに行っていた宿の女中だった。よく似ただけの人かなと思ったが、本当によく似ていた。
ミリッツァは、息を落ち着けながらやっとつぶやく。
「そうよ。でも、そっちが偽名。ミリッツァが本当。私は死んだと見せかけてあいつのところから逃げて、それからずっと隠れていたの」
もとは貴族令嬢だったと言われたミリッツァ。
しかし、彼女は仕事がよくできた。人の倍は働き、オーナーからも認められていて、住み込みで雇ってもらえていた。
「貴族だったのに、あんなに仕事をしていたんですか?」
「そうよ。だって仕事をしないと食べていけないし、あいつらだって私が庶民に混ざって仕事をしているとは思わないだろうって考えたのよ。それが、いきなりダルコスが宿にやってきて見つかってしまったの」
「…………」
それはブランシュのせいだ。
ダルコスはあと腐れなくブランシュの身辺整理を進める中、暇乞いをするためにブランシュの勤め先へ向かってしまった。皮肉すぎる巡り合わせだ。
ブランシュのことさえなければ、あんな小さな町にセヴランたちは目を向けなかっただろう。
何やら申し訳ない気持ちになった。けれど、ミリッツァは急に笑い出した。
「ああ、あいつらが痛めつけられていて清々したわ。私、あいつらのところで絶望しながら、本当に死んでしまわなくてよかったって思えたの。生きているといろんなことがあるわね」
いつでもクロディーは笑わず、淡々と仕事をしていた。人生が楽しそうには見えなかったのも、事情を知ってみれば当然だ。
ブランシュは再びミリッツァの手を握った。
「全部、公の場でぶちまけましょう! わたしも散々な目に遭わされましたから、恨みだらけです! 絶対にもう牢から出られないようにしてやります!」
力いっぱい言うと、ミリッツァは少し驚いたようだったけれど、うん、と言って微笑んだ。
「そうね。二度と太陽の光なんて拝めなくていいくらいの悪党だもの。――それにしても、ブランシュ、あなた変わったわね」
「えっ?」
「いつも自信がなくておどおどしていたのに、今はしっかりと生きている感じがするの」
そうだろうか。自分ではわからないけれど、もしブランシュが変わったのだとしたら、それはノアのおかげかもしれない。
ノアと出会って、いろんな感情をもらったから。
「そ、そうでしょうか?」
少し照れて言うと、ミリッツァは――。
「うーん、やっぱり髪型のせいかしらね」
なんて締めくくり方をした。
「そこですかっ?」
「嫌ね、冗談よ」
「もう!」
ミリッツァもまた、本来の自分を取り戻しつつあるのだろう。
笑顔がとても素敵だった。
ミリッツァのために部屋をひとつ用意してもらった。
本人は気丈に振る舞っているが、疲れていると思えたので先に休んでもらっている。食事も要らないと言われた。
ブランシュは、この時になってもまだダルコスの香水の匂いが鼻についていた。ずっと抱きすくめられるような形でいたから匂いが移ってしまったらしい。気持ち悪い。
ゾクリと身震いし、浴場へ直行した。
部屋で食べられる食事を持ってきてもらい、それから服も寝間着に着替えた。
食事をしつつ、ノアはちゃんと食べたかなと考える。
ノアとは落ち着いて話がしたい。今日は忙しくて明日以降になると思われる。
多分、話せるのは移動の際の馬車の中くらいだろう。
すぅ、と深呼吸して心を落ち着ける。
――ブランシュは結婚をしていなかった。つまり、ノアと結婚するとしたらそれが初婚ということになる。
事実を伝えたら、ノアは喜んでくれるだろう。
そう思う反面、わだかまりを覚えている。
セヴランとの結婚がもし仮に成立していたとしても、ブランシュが彼に心も体も捧げたわけではない。
ブランシュ自身はこの結婚によって何も変わっていないのだ。
それなのに、周りだけが目まぐるしく感じられる。
ブランシュに触れられると、ノアはやんわりと手を解いた。それが、この事実によって何か変わるのだとしたら、ブランシュは自分の値打ちを疑問に思う。肩書というのは本質よりも大事なのかと。
だから、ノアとはちゃんと話さなくてはならない。
ブランシュは、失敗からちゃんと学んだのだ。自分の結婚を勢いで決めては後悔すると。
ちゃんと納得して、自分で決めたことだと受け入れられる結婚がしたいから。




