10◇距離
ブランシュがフィンツィ領へついていくと言って聞かない。
ノアは連れていきたくないが、アミルカーレから連れていけと言われてしまった。今のところ、ブランシュの証言が頼りで、シャルデニー男爵当人だという証拠はないのだ。
ブランシュがいれば、顔を見てその場で確認できるからと。
それはそうなのだが、彼女に無用な苦痛を与えることにならなければいい。ノアはそればかりを思った。
当の本人はいつも通り無邪気だったけれど。
馬車に乗ると、ブランシュは流れる風景を楽しみながらはしゃいでいた。どうしてそう楽しそうにしていられるのかとも思うが、水を差して無駄に思い出させる必要もない。
ただ、馬車が進むにつれ、ノアの方が平静でいられなくなった。
どんな男だか知らないが、その存在に憎悪が募る。アミルカーレに殺すなと言われた上、離婚の手続きをさせなくてはならないので生かすが、やりすぎない自信はなかった。
自分を落ち着けるため、目を閉じて心を無にする。
すると、同乗しているブランシュがそわそわしはじめた。もっと会話を楽しみたいと思ったのかもしれないが、今はそれも難しい。そのまま置物のように動かないでいると、ブランシュがノアの隣に座り直したのがわかった。
距離がほぼなくなって、顔が近づきそうなくらい覗き込まれている。どうしろというのだろう。
ノアが最低限度の距離を保とうとしているのに、ブランシュはあまり気にせず振る舞う。気にせず、こちらからも触れていいという合図だろうか。
一度その線引きを見誤ると、もうなし崩しに抑えが利かなくなるのがわかるから、それは簡単なことではない。
自分から誰かに触れたいと思ったのは初めてだから。
それを自分に許した時、ブランシュが嫌がっても留まれないかもしれない。そういう感情が自分の中に芽生えていることがノアには恐ろしくもあった。
だから、今はまだ、あまり不用意に近づきすぎるのはよくない。
それなのに、ブランシュは馬車が揺れた時、ノアの肩にぶつかった。小さな悲鳴を上げ、柔らかい体でしがみつく。
上目遣いで見上げられた時、このまま抱き締めたくなった。
ブランシュの気持ちがノアに向いているのなら、応えてもいいはずだ。
――そんなことを考えつつも、理性を最後に立て直す。
「……大丈夫か?」
「近頃、こんなやり取りばっかりですね」
「近頃というか、出会った時からだな」
「そうでした?」
そんな他愛のない会話をし、笑い合った。
けれど、ふとした拍子にブランシュの顔が曇ったように見えた。何を思ったのか、急に、
「……ごめんなさい」
と謝った。
ぶつかったことに対してだろうか。むしろ、ぶつかって痛かったのはブランシュの方だと思うけれど。
「いや?」
できるなら、頭くらいは撫でてもいいだろうかと思いつつも、その少しを自分に許すのはやめようと考えた。
あと少しだから。
問題を解決したら、障害はなくなるから。
――ブランシュは、それからもしばらくしょんぼりとしていた。
食事のために近くの町に馬車を停車し、食堂へ誘う。部下たちにも一刻の自由時間を与えた。
ブランシュは、馬車の中ほど無邪気に喜ばなかった。
「ノア様の後ろをついていきますから」
にこりと笑うけれど、何か違和感を覚える。
「俺の視界に入っていてくれ」
後ろだと、何かあっても気づくのが遅れる。だから、死角にいると不安になる。
けれど、ブランシュは困惑気味につぶやいた。
「でも、ご迷惑になります」
「なんの迷惑だ?」
意味がわからずに問い返すと、ブランシュはどこか落ち着かない様子だった。
「いえ、それは……」
怯えてさえいる。ノアの顔が怖いのはいつものことで、今始まったわけではない。
もしかするとここへ来て、フィンツィ領が近くなって、セヴランたちと再会するから落ち着かないのだろうか。
口でいくら平気だと言ったところで、実際に来てみたらやっぱり怖かったとも考えられる。それを言い出せなくて困っているのかもしれない。
「フィンツィ領へ行くのが不安なら、君はこの辺りで待っていてもいいし、引き返してもいい。無理はするな」
そう言ってみるが、ブランシュはかぶりを振った。
「わたしが自分で行くと言ったんですよ。そんな不安はありません」
その言葉が強がりでないのなら、何故そんなにも悲しそうなのだろう。
ノアがブランシュの真意を量りかねていると、ブランシュは急に明るく言った。
「大丈夫です。食堂へ行くんですよね? 時間がなくなるから行きましょう。じゃあ、わたしが前を歩いた方がいいんですね?」
そうして、さっさと行ってしまう。
さっきの様子はなんだったのだろう。ノアが気を回しすぎただけなのだろうか。
とことん女心に疎いノアには推し量れなかった。
ブランシュには食欲もあり、普通に会話をし、笑顔も見せていた。
やはり、ノアが過敏になりすぎていただけなのかもしれない。




