#6 母さん
街を出た私たちは、行く当てもなく、せめてどこかの集落なりに辿り着ければとレイメが言ったのもあってただただ歩き続けた。
食料もなく、道端の雑草を食べたりして何とか飢えをしのいだ。
ある時レイメが鳥を捕えて来たので驚いた。道具や狩りの経験もないはずの彼女がどうやって。淡い疑問は抱いたが、私は何も言えずに与えられた小鳥を食べた。
後日、夜になる前に安全な場所で休もうと言うことで、夕暮れにも差し掛からないうちにレイメは私を平野の岩陰で寝かしつけた後、またふらっといなくなった。目が覚めていた私はなぜかその時ふらりと彼女の後をつけていった。すると、近くの森の入り口で歌声が聞こえた。
レイメだ。レイメは美しい歌声を口ずさんでいた。その周囲には森から出て来た小動物や、小鳥たちが集まっていた。私も一瞬凍った心でその声に聞き惚れんばかりであった。
小鳥たちはレイメの腕や肩に留まり、レイメの歌声に合わせて囀っている。まるで女神のような有様だった。しかし。
唐突にレイメが手をゆるりと動かすと、肩に留まっていた小鳥を鷲掴みにした。動物たちは慌てて逃げ出していく。捕えられた小鳥は、レイメの指で喉を潰されて息絶えた。
さしもの私も反射的にレイメの顔を見れば、その頬からは、大粒の涙が零れていた。
レイメはその歌声を聞きにやってきた小鳥を、泣きながら捕えていたのだ。
食糧確保の真相がこれだ。
「ごめんね、ごめんね……」
レイメは骸となった小鳥を胸に抱き、何度も涙を流しながら謝罪した。
心優しい彼女が、私を生かすためにそのような事をしていると知った時には、少しだけ胸が痛んだような気がする。
私のためにそこまでする必要はないのに。
そうして何日歩いたか。
弱った女子供の足では一向に集落にはたどり着けず、安全な場所も見つけられず。日は暮れて夜の帳が落ちたころ、雨の降りだした矢先の事だった。
私よりも先に、レイメに限界が来た。レイメは食料の殆どを私に与えていたのだ。私は思考すら半ば放棄していたから、レイメから与えられたものは何でも口に入れていた。特に何を思うでもなく、機械的に咀嚼していた。
そんな私を見て満足そうに微笑んでいたのを思い出す。彼女はもう何日も何も口にしていなかったのに。
倒れたレイメに駆け寄ると、手を握られた。握られた手のままに屈んで彼女の顔に顔を近づける。
レイメは私の頬に手を触れた。そこで私は気づいた。雨の雫によるものではない水滴が頬を伝っている。
そうだ。これは私から流れ出たモノだ。触れられた掌に重ねるように自分の手をやって初めて私は自分の目から涙が零れていることに気付いた。
「ぁ……ぅあ……かあ、さん……っ」
私は思わずそう言っていた。
レイメはそれを聞いて目を細め、笑顔を見せた。
「やっと、ふふ……やっと、こんな私を母と呼んでくれたのね」
そう。今までただの一度も呼んだことはなかった。彼女を、母とは、呼べなかったのだ。
だのに、こんな時になって、あまりにも自然に口から出た言葉は、彼女を思う娘の真心だったのだろうか。
震える手で私は、私の頬に添えられた母の手を握る。凍っていた心が悲しみと後悔、そして怒りに塗れていくのが分かる。
「や……嫌だ……母さん、死なないで、くれ……」
私はもはや流れ出る涙を止めることもできずにただレイメの手を握る。
そんな私を見たレイメは、私にあの優しい笑顔を投げかけ、かすれた声で言った。
「ココット、私の……愛しい子……。今度こそ……どうか、どうか……生きて」
そのセリフを最後に、私の頬に触れていた手は力を失い地面へと落ちた。
彼女はその瞳を私に向けたまま、事切れた。
「……ぁ」
瞬間、私は胸の内から抑えきれない感情があふれてくるのを感じる。喉を駆け上がり、噴き出すにはあまりにも狭い口からは、嗚咽となって零れ落ちる。
「あぁ……あぁ……なんで、レイメ……母さ……」
私は言葉と共に自分が今まで凍らせてきた感情がどっと噴き出すのを感じる。
言葉にしてわめくたびに、胸の中が熱くなっていき、喉が詰まるほど。
「ああ、あああ……ぁ”あぁあ~~~、ぁう”あぁあああぁッ」
私は急激な感情の濁流に耐えられず、ひざを折った後に地面へ何度も自分の額を打ち付けた。
喉奥から湧き上がる激情を掠れた嗚咽にしながら言葉にならない声を上げ。何度も、何度も。
「あうう……あの街の人間たちは、領主どもは! 反吐が出るほどの汚物だ! クソ以下のクソッタレだっ! この残酷を与えたのが神だと言うなら、私に……どうしろというんだ!」
いつしか額からは血が流れ、じんじんとした痛みを発したが、構わず打ち付け続ける。いっそ割れてしまえ。
「母さんを、返してくれ……」
私はついぞ頭を上げることもせずただただ額を地面に付けるのみ。
「こんな、こんな思いをするために……こんなものを見せるために私をこの体で生まれ変わらせたのか、神よッ!」
こんな結末を見せるために私に第二の生を与えたというのであれば、有り余る残酷。惰性に生き、無意味に死んだ私に与えられたのがこの世界ならば。
これが神が私に与えた罰だというのか。世界が私を咎める地獄だというのか。そんなもの。そんなもののために。私の為に、彼女は殺されたというのか。
こんな世界で唯一心許した優しく哀れなレイメを死に追いやったアウタナの人間達の醜悪さ。そしてレイメの献身の所以たる、悪魔の相などという物を持って生まれた私自身。そして私を前世の記憶そのままに転生させた神よ。
全て、全てが憎らしい。憎すぎて苦しい。
頭が痛い。胸が苦しい。息が途切れる。
白い髪を乱雑に掻き毟りながら溢れる涙で頬を濡らす。
この髪が、この瞳が私からレイメを奪った。こんなものの為に、人間どもは私からレイメを奪った。
悪魔だ。私は悪魔なんだ。殺せ。殺してくれ。死なせてくれ。
だが、彼女の最後の言葉は。彼女の望みは。それならば、私は、一体どうすれば。
「うぁあ……ぁぁうう……」
私はただただ嗚咽した。
と、ふと雨が止んだ。私は地面にこすりつけていた頭を持ち上げ、空を仰ぎ見る。
しかして視界に映ったのは淀んだ夜空ではなく、夜の闇そのものが服を着ているような……そんな存在だった。
「悪魔……」
私は一目で理解した。人に似た姿をしているが決して人ではない。
そうだ。これは、魔族というモノだ、と。
雨は止んだのではなかった。私の目の前に立ったこの魔族に遮られていただけだったのだ。
私の前世のどこぞの高貴な貴族正装めいた、どこか軍服を思わせる意匠もある黒い装束を纏う体は180㎝を越える長身の男性に見えるが、長く伸びた耳。ブロンドの髪と眼鏡、整った顔立ちという様相は恐ろしくも美しいさえと形容できる。一見ただの美男であるが、その掌がやや大きく黒々としており鋭利な爪が光っている異形なことや、腰から伸びる尾等、明らかに人ではないことをこれでもかと感じられた。
その切れ長の瞳は、赤く輝いていた。私と、同じように。
今回ばかりは前世の進化した技術に感謝しよう。さんざん映画やアニメで見たクリーチャーのおかげで耐性がついたか、目の前の魔族の男は、妙に現実感がなく感じて、恐れを抱かずに済んだ。
「……ヒトの子か」
魔族の男が口を開いた。まっすぐに私を見下ろしている。
人間と魔族は敵対関係にあって久しい。戦争中の間柄。アウタナの街の人間を見れば、魔族への敵対心はわかる。そして魔族側でも同じことが言えるはずであるから、私はただでは済まないはずだ。
「なぜ泣いていた」
なに?
私は耳を疑った。確かに私は泣きはらしながら恨み言を吐き出していたが、魔族の男の口から出た言葉としてはいやに不思議なものだった。
男は視線を動かし、今だ瞼を開いたまま事切れているレイメを見やった。
「……母親か」
「ッ!」
なぜだろう。魔族の男がレイメに一瞬見せた憐みの視線。それを見た途端私は無性に腹が立った。
私はレイメに覆い被さるようにして魔族の視線を遮ると、叫んだ。
「見るなっ!」
怒気を含んだ涙で濡れる赤い瞳で魔族を睨む。
「彼女を見るなっ! そんな、憐れむような眼で……母さんを見るな! 母さんは何にも悪くない……憐れまれるような事など、何一つしていない!」
憐みの視線なんか向けられる謂れはない。彼女は清らかで優しい人だ。何も悪い事などしていない。そう分かっているから、他人の憐みなんかで汚されたくなかった。
魔族の男は私の剣幕に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにじろりと私を見やった。
ああ、これは、死ぬな。
12歳の小柄な幼女に過ぎない私に魔族と戦う術などない。ただのか弱い存在だ。
だが、レイメだけは。レイメの死くらいはせめて安らかに。これ以上彼女は誰にも汚させたくない。
「驚いた。私に立ち向かうというのか?」
「立ち向かえるわけ、ない……だが、私は憎くて仕方がない……全てが! だけど……彼女は最後に私に生きろと言った……なら私は……!」
ならば私は何が何でも生きなくてはならない。
もはや支離滅裂ともいえる私の言葉に、魔族の男は訝しむような表情をした後、屈み込むようにして私の顔を覗き込んだ。
私はぐっと身構える。殺されてなるものか。心の中で歯を食いしばる。目の前の男がどんな異能だとて、足掻いてやる。
「……このような小さき子を、よもや此処まで憎悪に堕とすとは。戦争か、あるいは我らか奴らか。視察のつもりだったが……」
魔族の男の声色は、優しかった。私の頭にその異形の手をのせ、撫でたのだ。
私は目を丸くした。なぜだ。その魔の手で私を縊り殺すなど容易だろうに。なぜしない。理解できない。
男は私の頭から手を離すと、呆気にとられた顔の私に言った。
「生きなくてはといったな。このままここに捨て置かれれば君は死ぬ。私と共に来る事を選ぶのなら、君次第で生を得られるかもしれない」
私の目は驚くべき程に見開かれた。
よもやそんな誘いの言葉を投げかけられるとは思っていなかったからだ。貴族屋敷にいた頃は、読む本すべてに醜悪にして残酷な魔族について綴られていた。そして女中たちの話で戦況を耳にすれば、やれどこかの騎士団が全員皆殺しにされ、その首だけがきれいに持ち去られていただとか、ある村が焼かれ女たちは連れ去られ苗床にされているだとか、そんな話ばかり耳にしていたから。
「どうする?」
「な、にを……」
「決めたまえ」
目の前の男は私に選択肢を言い渡した。短い言葉だったが、それが最終通告だと理解した。
赤き瞳でじっと見つめてくる男に、私は赤い瞳を揺らして考えた。
……男の言う通り、私はここで見逃されたとしても長くは生きられないだろう。
それはだめだ。レイメの言葉に背いてしまう。何が何でも、生きなくてはならない。
だとすれば、答えなど決まっている。手段など、この際選んでいられるか。
「……さい」
私は、眼前の魔族へ向けて言葉を絞り出す。
「貴方と……行かせて……ください」
私は、選択した。
驚きで冷静になった思考は選ばされる立場の私に適切な言葉遣いを思い出させる。どういう形であれこの男は私の命を握る。下手な言葉遣いはしないほうが良い。
魔族の男は頷くと、ゆっくり私の体に手をまわし、抱えた。それと同時に男の背中から黒々とした翼が生え、開く。
私は最早為されるがままにし、抱えられると同時にその体に手を回す。なんとなく、飛ぶ気がしたから。
と、魔族の男が予想通り翼を大きく広げた後、静かに息を吐いて、眼下のレイメの亡骸に手を翳した。
何を、と私が言う前に、その手のひらから紫色の光があふれ、レイメの体を包む。その後、手のひらの光が一瞬目を開けていられないほどに輝きを増した後、私は男の親指と人差し指につままれた赤紫色の宝石を目にした。
「これは、君の母から作り出した魔石だ。いや、ヒト由来であるから、聖石と呼ぶべきか。我々魔族に人のような埋葬の文化はない。死した亡骸はその命の残滓から石を生み出し、後に残る者を守る」
そういって男は私にその石を握らせた。聞いた事がある。魔族を倒した人間はその体から取り出した魔石で功績を図る。場合によっては高値で取引すらされると。こんな由来を聞けばそれすら蛮族の所業にすら感じる。
おそらくこの魔族はその力でレイメから石を生み出したのだろう。魔族と同じように。
ふと眼下を見れば、レイメの亡骸はさらさらと白い砂となっていった。
「っあ……」
愛する人の亡骸の崩壊に一瞬悲鳴のような声を上げそうになったが、手に握られた赤紫色の聖石から、仄かにレイメの温かさを感じ、私は理解した。この石こそ、レイメの墓標なのだ、と。
これは、即ち葬式。前世から神と同じく魂すら信じていなかった私が、今この瞬間は、レイメの体の穢れが浄化され、その魂が安らかなることを切に願った。
私は、石を強く握りしめ、レイメの遺灰と言える白き砂が風雨の中散ってゆくのを眺めていた。
そして、完全にその砂が散ってから、魔族の男は私を抱えて雨降る闇夜の中飛び立った。




