白状
何十時間と経ったかのような、長い、長い沈黙だった。夏彦の問いに、一将はずっと、同じ姿勢で固まっていた。
「一将」
「――はっ!」
肩を揺すられ、一将は全身を震わせる。
「きゃっ」
「あ、すんません」
その衝撃で、後ろの席にいる客を驚かせてしまった。一将は一言謝り、そこで我に返った。
「わ、わりいわりい! 急に眠気が来て、寝ちまったぜ!」
あははと一将は笑う。だが、手に取ったコップの水は小刻みに波紋を立てていた。
「それで、なんだっけ?」
「『好き』という文字が使われていないことだよ。どういう理由なんだい?」
夏彦は姿勢も表情も崩さず、もう一度尋ねる。一将は今度は意識を失くさず、ちゃんと答えた。
「……うそぉ! 本当に一度も書いてないのぉ?」
一応見直したが、そこまで注意がいかなかった。いや、そもそも。
「書いてなかったら、いかんのか?」
たまたま書かなかっただけ。朝桐透子への気持ちはたしかにある。一将は自信をもって言った。
「……うん、たしかにこの文章には『好き』という文字は無いけれど、一将が朝桐さんに好意を抱いているというのは、よく理解できるよ」
「だろ? だって俺、本当に朝桐さんに『告白したい』って思ってるんだもん!」
一将は目を輝かせる。それとは反対に、夏彦の目は真っ暗になっていった。
「告白したい……か」
「おうっ! そりゃ今すぐにでもな!」
「このタイトル……」
夏彦は若干、呆れたようにファイル名を指さす。
「どうかしたのか?」
「おかしいよね」
「は? なにがだよ?」
「なんで、『好きな理由』ってタイトルじゃないんだ?」
夏彦は二つ目の疑問を声に出す。一将は口をすぼめながらも、今度はすぐに返事した。
「え、いやそれはまあ……『告る理由』っていう方が、分かりやすいかなって……」
「僕には『言い訳』に聞こえるよ」
間断なく夏彦は言葉を続けていく。
「は? 言い訳?」
一将は低い声を出し、夏彦をにらむ。初めて夏彦に対し、怒りを覚えた。
「言い訳だよ」
夏彦は臆することなく一将を見据える。
「僕には君が朝桐さんに『告白しなければならない』という強迫観念に捕らわれているように感じるよ」
「やめろ」
「はっきり言って、この文章は……」
その先の言葉はなぜか理解できた。一将は拳を握りしめた。
「大したことのないことを、さもそれっぽく書いているようにしか、見えないよ」
気づけば一将は夏彦の胸ぐらを掴んで、立ち上がらせていた。突然のことに、周りの視線が一気に集まった。
「お客様、ど、どうかなされましたか?」
おそるおそると店員が近づいてくる。夏彦は掴まれた部分を離した。
「なんでもありません。ご迷惑をおかけして、すいませんでした」
にこりと笑いながら、夏彦は座る。一将も何も言わず座った。
「言い方が悪かったよ。ごめん」
夏彦は一将に頭を下げた。
「いや、こっちも……悪かった」
頭に上っていた血が急激に下る。一将は暴力を振るおうとした自分をひどく恥じた。
「あーその……だな」
深呼吸しながら一将はなるだけ冷静に静かに、夏彦に語りかける。
「……そう、思うか?」
とても小さな声で、一将は訊いた。
「――うん。そう思う」
夏彦ははっきりと答えた。
「……あーそっか」
今度は一将は怒りを見せなかった。一将はふぅっと息を吐いて、天井を見つめる。そして、
「――お前の、言うとおりだよ」
一将はぼそっと、観念したように呟いた。
時間は少しずつ流れる。氷が溶け、かいていた汗が引き始める。
(そろそろ限界か……)
一将の「答え」を待っていたが、このままではしびれを切らしてしまい、いっそうややこしいことになる。夏彦はいったんファミレスを出ることを決めた。
「ぶっちゃけた話……」
その時だった。一将はようやく口を開いた。
「これは、俺の自信の無さの顕れなんだよ」
すべてを自供するかのように、一将はぽつりぽつりと喋り出した。
「この中には書かなかったけどよ……俺、最初は朝桐さんの胸しか見ていなかったよ」
真面目な顔で、とんでもなく最低なことを言い出した。
「でかい胸だなあ、本当そんなことしか考えていなかったよ。でも、それだけじゃなかったんだよなあ」
自嘲するように一将は言った。
「大食いで、普段おとなしいくせに、本の話になると饒舌になる……変わった女の子だったよ」
これまで見てきた朝桐透子の姿が脳裏に次々と浮かんでくる。
「でも、それも含めて彼女はとても魅力的だ。付き合ったら、めっちゃ楽しいとは思うわけよ」
「でも、『好き』とは書かなかった」
「そうだ。……一応言っておくがな、俺は朝桐さんに恋愛感情を持っていないってわけじゃないからな?」
「うん。それは分かるよ」
この手記を読めば、一将が透子へ特別な感情を持っていることは、誰にだって分かる。
「まあ、『好き』と書かなかったことはとりあえず置いておいてでもだ。そもそも……」
一将は姿勢を正し、腹に力をこめて言った。
「迷いが無いなら、そもそもこんなの書いてない」
核心をつく言葉を、一将は自ら口にし、スマホを手に取った。
「…………っ」
テキストファイルを開き、「俺が彼女に告る理由」と記されたファイル名を、人差し指で長押しする。
自分の気持ちに迷いがあったと分かっただけでもよかった。一将は約一週間かけて作った手記を「削除」した。
ファイルは消える。一将はスマホを閉じた。
「つーわけだ。わりぃけど、お前の方に送ったのも、消してくれねぇか?」
「その前に一つ確認なんだけどさ」
その要望に応えるよりも先に、確かめなければいけないことがある。夏彦はぐっと震える体に力を入れた。
「いや、『好き』って書かなかったのは悪かったよ。勘弁してくれ……」
「迷っているのは『彼女』とのこと?」
「な、ななななっ!?」
誰を指し示した言葉なのか、一将はすぐに分かってしまい混乱した。
「なーにを言ってるんでぃ! そ、そんなわけねーだろうがい!」
汗がドバっと噴き出す。ろれつが上手く回らず、目線もあちこちに泳いだ。
「隠さなくていいよ。その態度だけでよーく分かるからさ」
不思議と、夏彦は落ち着いていた。夏彦はまるで子供をあやすかのような言い方をした。
「うっ……はあ……」
それに釣られるかのように、一将はついに、
「俺の負けだ」
完全敗北を宣言した。
「負けということは、認めるんだね」
「ああ、認めるよ。あいつのことで、くっそ悩んでる」
開き直った一将は、氷のなくなった水をガブガブと飲みほす。
「ったく、名探偵かよ。浅見夏彦シリーズでも出すつもりか」
「そんなあぶないタイトルは使わないよ。というか、ある程度一将を知っている人がこの手記を読めば、すごく意識しているってこと、誰にだって分かると思うよ」
「むっ、それは変だな。わざわざ名前は伏せて、全部、カギ括弧にしたんだぞ。フリック入力とはいえ、いちいち『かっこ』と打たなきゃならない俺の気持ちが分かるか?」
手記を書く上で一番手間取ったのがそこだった。
「一将、『かっこ』は『や行』の部分を左・右に振れば、普通に出てくるよ」
「は? なにを言って……ほんまや!」
目から鱗が落ちるかのようだった。まったく知らなかった……。
「名前を伏せることが、『意識している』ということの、裏返しに思えたんだ」
夏彦はそこでいったん言葉を止め、再び息を整える。
「それで改めて訊かせてくれないか。一将、君は幼なじみ……『小坂優希』さんのことが、好きなのか?」
幼なじみの名前を告げられ、一将は奥歯を噛みしめた。
「……分かんねえ」
曖昧、だが本心だった。一将はうつむいた。
「あいつ……優希とはたしかに、ガキの頃からの付き合いだよ。家族ぐるみで一緒に色んなところに行ったし、気の合う奴だとは思っている」
推理小説の犯人が自白するように、一将は語り始める。
「でも、恋愛感情かどうかって言われたら、そうじゃなかった。あいつはあくまでも、『幼なじみ』だったんだ」
いつの間にか、一将の脳裏には優希の顔ばかり浮かんでいた。
「そしてそれは、この先ずっと変わらないと思っていたんだ。実際、俺は事故ったあの日をキッカケに、朝桐さんのことが気になりだして、優希のことなんて眼中にすらなかった……無かったんだ」
間違いなく、一将はあの時、朝桐透子が好きだった。恋人になりたいと本気だった。
「でも、色んなことを通して、あいつを見ていく内に……俺は、わけが分からなくなっちまったんだよ」
それは日にちが経てば経つほど強まり、「俺が彼女に告る理由」を作る結果になってしまった。
「はは、俺って最低野郎だろ……『認めたくない』っていう理由で、俺は朝桐さんに告ろうとしたんだぜ。本当、クソ野郎だよ……」
自覚するほど、自己嫌悪に陥る。一将は今すぐにでも死にたいと思い始めた。
「ま、最低かはともかく、優柔不断だよね」
躊躇なく、夏彦は一将を責めた。
「今になって迷うなんて、両方に対して失礼だよ。なんでもっと早く決めなかったのか……腹ただしいよ」
夏彦の言葉に怒りが込められるのがはっきりと感じられる。一将は殴られる覚悟を持ち、これからについて答えた。
「ああ、だからもう俺は……」
一将は奥歯を噛み締め、自分自身に言い聞かせるよう、こう言った。
「どちらにも告らねえ」
「…………まじで言ってるの?」
一将の決意は、夏彦を大きく混乱させた。
「大まじだ」
夏彦が訊き返すことで、一将の決意はさらに強くなった。
「馬鹿だクズだと言われても構わねぇ。でも、もう決めたんだ」
それこそ、優柔不断。そんなことは一将本人がよく分かっている。だがそれくらいしか、一将は今までのどっちつかずの態度に、けじめを取ることはできないと思っていた。
「……一将」
「それは違います!」
夏彦が複雑な表情を浮かべ、自分でもよく分からない感情のままに、一将へ殴りかかろうとした時だった。一将の背中越しから、大きな声が放たれた。
「……っ!」
その突然の声は、当然店内全体に響き渡った。一将は首だけをゆっくりと後ろへ向ける。
「…………」
声の主は一将のよく知る人物だった。だがそれを、一将の脳はすぐに受け入れず、結果一将は固まった。
「……皆見くん」
そんな一将に、声を上げた朝桐透子は、力強い足踏みでこちらの席にやって来た。




