最終章 ナタリー・クルスという女の子
ローラーエンジンで廊下を疾走するゼロは、ナタリーを探して作業場から居住区に入った。
第一研究室方面への居住区の出口は、シャッターが下り、閉ざされていた。オリジンがナタリーを逃がさないよう、閉じ込めたのだ。
ゼロが走り回って確認すると、居住区から脱出艇までの区間から外に出る扉は、どれも閉ざされているようだった。
ナタリーを探して、ゼロが居住区内を走り回っている時だった。突如、物陰からゼロに襲い掛かり、首の配線を引き千切ろうとしてきたのは、一人のダッドだった。
ダッドは叫び声を上げながら、ゼロの配線を掴んだ。力任せに配線を引っ張り、ゼロを壊そうとしていた。
けれど。
ゼロがダッドの手を優しく掴み、抱きしめると、ダッドは暴れるのを止めた。ダッドは目を見開いたまま、ゼロのライトを見つめた。
温室で出会った一人のダッドのことを、ゼロは思い出していた。傷付いた体で、ゼロを悲しそうに見つめていた、あのダッドが何を想っていたのか、今ならゼロにも分かる気がした。
どれだけ姿が変わってしまっても、ダッドであっても、彼女がナタリーであることには違いなく。ナタリーなら、辛い時にどうして欲しいと思うのか。
これが、ゼロの答えだった。
「ぇ……、ぉ……」
ダッドはゼロにずだ袋を取られ、その焼け爛れた顔を曝した。髪を抜かれたダッドの頭を、ゼロが優しく撫でる。
記憶の通りなゼロの手の感触に、ダッドは目を細め、落ち着いていった。
「ゼロ……。ゼロ……」
安らいだ様子のダッドは、ゼロの名前を呼んでいた。惨たらしい体にされてしまったダッドに、ゼロは心を痛めた。人として生きていけない体にされてしまった、ナタリーのクローンたち。
ゼロはダッドに脱出艇の方へ行くよう、指で示した。しかし、ダッドは意思の疎通が取れないようで、ゼロから離れ、何処かへと去って行ってしまった。
どうやってもダッドを救うことはできないと、ゼロにも分かっていた。故に、ゼロはひたすら無力感に苛まれながらも、心の中で謝り続けた。
ゼロは今、自分にできることをやり遂げると決意を新たに固める。ダッドたちへの未練は結局断ち切れず、これから先、ゼロはずっとダッドのことを忘れはしないだろう。
大事な人を救えなかったこの後悔を、ゼロは決して忘れない。
ダッドの去って行った方向に、ゼロはシャッターが下りていない自動扉を見つけた。かつて一度も、ゼロの行ったことがない道だった。それは、ステラの第二研究室へ続く道。
ゼロは直感する。この扉だけが開いているということは、ナタリーがこの先にいるのだ。捕まったにしろ、逃げ込んだにしろ、ナタリーは研究室にいるのだろう。
研究室へ向かって廊下を進むゼロは、奥に自動扉を見つけ、中へと入った。すると、薄暗い研究室の奥から、悲鳴が聞こえてきた。
ゼロは走った。
今、彼に救える人を救うため、ゼロは死力を尽くすと決めていた。
いくつもの部屋が複雑に入り組んだ、暗い研究室の一番奥で、ナタリーは物陰に隠れていた。
ゼロがいなくなり、一人になったナタリーは、どうすることもできずに震えていた。
母だと思っていた人は、母ではなかった。一体、ゼロはどうなったのか。ステラとイーストンは死んでしまったのか。
(助けて。助けて……)
ナタリーは何も分からず、恐怖に身を強張らせることしかできず。誰かが助けに来てくれることを、ひたすら願っていた。
(助けて、ゼロ――――)
そんなナタリーに聞こえてきたのは、重たい足音。金属の床と鋼鉄の足が鳴らす、聞き慣れた足音だ。ナタリーの顔に、明るさが戻った。絶望の中に煌めいた希望に、ナタリーは飛びついた。
「ゼロ!!」
いつだって、ナタリーを助けてくれるゼロ。ナタリーは、彼の存在を期待した。
けれど、隠れていた物陰から出たナタリーを迎えたのは、赤くライトを光らせる、ジェイソンであった。
「あ……」
ナタリーの顔が、再び絶望に染まる。
伸ばされたジェイソンの手がナタリーの腕を掴み、ナタリーは悲鳴を上げた。
「嫌!! 嫌、放して!!」
ナタリーは必死に足掻いた。ナタリーは助けを必死に願うけれど、誰もやっては来ない。
(助けて。ゼロ、ゼロ!)
助けは来ない。誰もそこにはやって来ない。ナタリーは、オリジンが言っていたことを思い出す。
“あなたがずっと守ってきたその子は、本物のナタリー・クルスじゃない”
“ただの偽物”
(私が、偽物だから? だから、助けに来てくれないの?)
ジェイソンに手を強引に引かれ、ナタリーは手の痛みに悲鳴を上げた。
(そっか……。ゼロも、私が本物じゃないって分かったから、もう、来てくれないんだ)
そして、ナタリーは悲鳴を上げるのも、足掻くのも止めた。
意味がないと、悟って。
(私……、もう、駄目なんだ)
ナタリーが全てを諦めかけた、その時だった。
鋼鉄を裂くような音と共に、ジェイソンの背中に突き刺されたのは、電動鋸の刃。
背後から蹴り倒されたジェイソンが手放した、ナタリーの体を優しく抱きかかえたのは――――
「ゼロ……」
ライトを青く光らせるのは、“もう大丈夫だ”の意思表示。
「ゼロ、ゼロ!!」
新たな装備を携えて、ゼロがナタリーの元へと帰ってきた。
ナタリーがゼロに思い切り抱き付くと、ゼロはナタリーの頭を撫でる。
「ありがとう……。ゼロ……」
倒れたジェイソンを背に、ナタリーを抱きかかえたまま、ゼロは来た道を走り出した。
ゼロは脱出艇の方へと向かい、全速力でヘブンズガーデンを駆け抜ける。
ゼロたちが居住区に入った時、各所に取りつけられたスピーカーから、屋内放送が流れた。
オリジンの声だ。
「どうして? どうして私の邪魔をするの? ゼロ……。あんなに仲良くしてくれたのに……。どうして私に逆らうの……?」
オリジンの声は悲愴さが混じり、静かなヘブンズガーデンに響いていた。
「もう会うこともないと思ってたのに……。あなたが帰って来るなんて……。ステラやイーストンが死んだように、あのまま宇宙で死んでいくと思ったのに……」
電光掲示板や居住区のテレビに映ったオリジンが、ゼロとナタリーを見ていた。
「ゼロ。私は本当に、あなたに真実を知って欲しくなかったの。あなたが今の私を知れば、あなたはきっと私をもっと嫌いになる……。なのに……、なのに! あなたがその子から離れようとしないから!! その子は、あなたを裏切ったのに!!」
オリジンの血走った目がカメラに迫り、大きく映される。
オリジンは泣いていた。泣いて、嘆いて、怒っていた。
「ゼロ! 馬鹿な機械! 壊れた機械!! ジェイソンはまだ、あなたたちを追っている! ジェイソンはあなたを殺して、その子を捕まえる! 私はその子の脳を抉り出して、床にぶちまけて、踏み殺してやる!! あなたを奪ったその子を、私は絶対に許さない!! その子を選んだあなたのことも、許さない!!」
居住区を抜け――――
「ゼロッ! ゼロッ! ゼロッ! ゼロッ!!」
花畑を抜け――――
「ゼロッ!!!!」
ゼロたちは、脱出艇へ続く渡り廊下に出た。
オリジンの声は聞こえなくなり、まだ背後にジェイソンの姿も見えない。ゼロは走り続ける
ゼロの体に掴まるナタリーが、震える声でゼロに尋ねた。
「ゼロ……。お父さんとお母さん、死んじゃったの……?」
オリジンの話を聞いて、ナタリーはそれを知ってしまった。例えクローンで、実の親でないとしても、ナタリーの脳にはイーストンやステラと過ごした記憶が植え付けられている。
幼いナタリーに、まだ全てを理解することはできないけれど。それでもナタリーは、彼女にとっては両親である、イーストンとステラに二度と会えないことを、心の底から悲しんでいた。
それと、もう一つ。
「私は、私じゃなかったんだよね……? そうなんでしょ? ゼロ」
ナタリーは幼いながらにも、オリジンの言葉の意味をある程度理解していた。
「じゃあ、私、お父さんとお母さんの子供じゃなかったの? 昔、ゼロと一緒にいたのも、私じゃなかったの……?」
今のゼロには、ナタリーの悩みを取り去ってあげることはできない。だから、ゼロは少し速度を緩めて、ナタリーを両手で抱きしめた。ゼロの肩に顔を埋めて、涙を流すナタリーに彼ができることは、それしかなかったから。
長かったヘブンズガーデンの道のりも、遂に終わりを迎える時が来た。
ゼロが電動鋸でシャッターを切り開くと、その先には二隻の小型脱出艇があった。緊急時用の脱出艇だ。音声入力で起動すれば、後は自動操縦で地球へ向かってくれる。
ゼロはナタリーを降ろして、脱出艇へ乗るように指のジェスチャーで示した。
「ゼロは? ゼロは乗らないの?」
不安そうにゼロの指を両手で握るナタリーに、ゼロは首を横に振った。ゼロには、まだヘブンズガーデンでやることが残っている。
「ゼロ……。ちゃんと、地球に来てね……? 絶対だよ?」
少し悩んでから頷いたゼロを、ナタリーは潤んだ瞳で見上げて。
「ゼロ、覚えてる? 一緒に地球で、本物の青い空を見るって約束したの」
忘れるはずもない、大切な人との約束だ。ゼロと約束を交わしたのは、オリジンではあったけれど。ゼロはライトを青く光らせて、頷いた。
「あ、でも……、ゼロと約束したのは私じゃないんだよね……。じゃあ……」
ナタリーは困った様子で、恥ずかしそうにゼロに目を向けて、言った。
「今度は、私と約束しよう? ゼロ。私とあなた。地球で、一緒に本物の青空を見るって」
ナタリーがゼロに、そっと手を差し出した。
ゼロはその手と、涙ぐむナタリーの澄んだ瞳に見入る。
長い年月を経て、狂気に飲み込まれてしまったヘブンズガーデン。その中で、たった一つだけ残された輝きを、ゼロは見た気がした。
ゼロはナタリーの手に、指で優しく文字を書く。
“C U”(また会おう)。
そして、ゼロはナタリーと指切りをした。新たな約束が、ゼロとナタリーの間に交わされた。
「地球で待ってるね。ゼロ」
そう言って、ナタリーは笑顔を見せてくれた。
ゼロを支えてくれる、ゼロにとって何よりも尊い、大事な人の笑顔。ゼロは確かな幸福を感じつつ、ナタリーが脱出艇へと乗り込むのを見送った。
脱出艇が発射体勢に入り、発射口のシャッターが開いた時だった。
警告音が鳴り始め、脱出艇の発射が中断されてしまったのである。何が起こったのかと、ゼロが近くの端末で脱出艇の状態を確認すると、どうやら発射口に障害物が設置され、脱出艇を安全に発射させることができなくなっているらしい。
警告音の中に混じって聞こえてくるのは、オリジンの声。
「逃がさない、ゼロ。今の私には、ジェイソンがいる。優秀な私の道具。ジェイソンが脱出艇の発射口を塞いだ。ジェイソンはすぐそこにいる。あなたは、ジェイソンには敵わない」
ゼロは射出レーンを走り、発射口を確認した。発射口には、ヘブンズガーデンの壊れた部分から持ってきたと思しき、鉄の廃材が突き刺さっていた。
オリジンの声を聞きながら、ゼロは焦る。
「あなたの代わりに私が手に入れた物。私の今の護衛。ジェイソンが、あなたを殺す」
だが、ゼロの電動鋸を使えば、廃材を取り除けないことはない。ゼロは急いで廃材を壊しにかかった。
「――――さようなら、ゼロ」
しかし、廃材の隙間から見えた機影に、ゼロの手が止まる。
青い地球を背に、白色の鋼鉄の体は力強く腕を組み。赤くライトを灯らせながら、ジェイソンはゼロを待っていた。
ゼロと同じく、両足の磁力装置でヘブンズガーデンの外壁に立つジェイソンの前へ、ゼロは廃材をくぐり、SSSをすり抜け、出て行った。
向かい合うのは、黒と白。二機の護衛ロボット。ナタリー・クルスのために生まれた二機が対峙する。
ゼロが右腕の電動鋸を肩に置いて構えると、ジェイソンも左腕の機関銃をゼロに構えた。
ジェイソンへと向けるゼロの左手は、人差し指を立てて手前に曲げる、“Come here”(かかってこい)のハンドサイン。
決着をつける時が来た。
双方、赤くライトを輝かせ。今、ゼロとジェイソンの最後の戦いが始まった。
ジェイソンの機関銃から放たれた弾丸が、ローラーエンジンで走るゼロの後ろに着弾していく。
ゼロは速度を不規則に変えながら、動きが直線的にならないよう外壁を走り、ジェイソンに徐々に近づいて行った。
機関銃の弾が装甲のない場所に当たれば、ゼロが受けるダメージは致命的だ。
幸い、ヘブンズガーデン外壁は大きな円筒形。真っ直ぐ宇宙空間を飛んで行く弾丸からは、大きく動けばすぐに、外壁の地平線の向こうへ逃げ込むことができる。
距離を詰めたゼロの鋸が、ジェイソンへと振るわれた。いかに完成機といえど、鋼鉄を引き裂く電動鋸の刃を受ければ大きな痛手となる。
ジェイソンは、即座にシミュレートされた回避行動でゼロの鋸を避ける。最小限の動きで鋸を完璧に避け、ジェイソンは逆にゼロの左腕に鋸を突き刺した。
ジェイソンの鋸が腕を完全に切り取ってしまう前に、ゼロは左腕から鋸を抜こうとする。
けれど、ジェイソンはゼロの動きを読み、それに合わせて鋸を動かして、更に切り口を広げていった。
ゼロの左腕から火花が上がる。ジェイソンから離れて無理矢理鋸を抜いたゼロは、左腕の状態を軽く確認した。機能停止にまでは至らなかったが、左腕の反応が悪くなっていた。
一瞬のうちに、ジェイソンがゼロの背後に回る。
若干反応が遅れたが、ゼロはジェイソンの鋸を横に身を逸らせて回避した。ジェイソンの動きはゼロよりも素早く、思考時間も遥かに短い。
二機の戦いは、人間同士のそれとはかけ離れた速度で繰り広げられる。途絶えぬ瞬間的判断と、狂いのない動きによる、極限の戦い。
ゼロは、間髪入れずに襲ってくるジェイソンの鋸を避け続け、時折できるジェイソンの攻撃の間に鋸を振っていった。ジェイソンに比べ、ゼロの手数は圧倒的に少ない。
ローラー移動と身のこなしを駆使して、二機の鋸が行き交って。無音の宇宙空間に、闘気だけが満ちていく。
防戦に回ったゼロのローラーが、外壁にできた小さなへこみにはまり、ゼロの動きに少しだけ乱れが生じる。そこに振り抜かれたジェイソンの鋸が、ゼロの胸部を引き裂いた。
胸部を抉られた衝撃で宇宙空間に放り出されぬよう、ゼロは足から発生させる磁力を強める。ゼロの体が大きく仰け反り、そこを狙って、またジェイソンが鋸を振るいに迫った。
ゼロはこれ以上ジェイソンの攻撃を避けきれないと判断し、意を決して外壁を蹴って、宇宙空間を跳んだ。
ゼロが目指すのは、居住区がある向かいの建物の外壁だ。
急いで跳んだせいで、ゼロは居住区外壁から少し逸れた方向へ跳んでしまった。ゼロは思い切り手を伸ばし、なんとか外壁に取り付いた。
そして、外壁の大きなガラス窓の上に立ったゼロが、ジェイソンの方へライトを向けると――――
頭上から跳びかかって来たジェイソンに蹴られ、ゼロはジェイソンと共にガラスを突き破り、居住区のリビングへと転がった。
有酸素空間に戻ったことで、二機のセンサーに音が戻る。
物が散乱するリビングを、ローラーの立てる轟音で揺らしながら、ジェイソンはゼロに機関銃を撃つ。
ゼロはリビングの机をジェイソンに蹴り飛ばし、机と一緒にジェイソンの懐へ入った。
ゼロの鋸が空を引き裂く音を立て、その音はジェイソンの右脚を切り裂く音へと変わる。
ジェイソンの回避行動のせいで、右脚を半分も切ることはできなかったが、ジェイソンの様子を見るに、右脚の反応は大分悪くなったようだ。
ゼロが距離を取り直す前に、ジェイソンは機関銃をゼロに撃った。
狭い室内で大きく動く事が出来ず、ゼロは銃弾をもろに浴びてしまった。
キッチンへ逃げ込んだゼロは、被弾した箇所を素早く確認した。
胴部に数発。頭部に数発。
ゼロの頭部の装甲が、銃弾で抉られてしまっていた。幸い中の機構に損傷はないが、次に頭部に銃弾を受ければ、ゼロの命である主要ハードウェアが破壊されてしまう。胴部の配線も、被弾した際に切れて、漏電を起こしている。
キッチンへ乗り込んできたジェイソンに、ゼロは咄嗟に壁に掛けられていた火箸で応戦した。
ジェイソンがゼロの頭を掴み、壁に押し付ける。そのままジェイソンはゼロに機関銃を撃つが、ゼロは左腕を機関銃の銃口に当て、銃弾を防いだ。
銃弾を受け、ゼロの左腕からパーツが飛び散っていく。ゼロはそれに構わず、火箸をジェイソンに突き出した。
ナタリーを助けた時に、ゼロが開けたジェイソンの胸元の傷。ゼロの装備になかったはずの火箸の存在に驚き、ジェイソンは火箸を避けられず、その傷に火箸を突き刺された。
ゼロは火箸の先で内部の配線を挟み、ジェイソンの体から引きずり出した。
ジェイソンの体から火花が上がる。ジェイソンはゼロから離れ、後ずさり、そこにゼロが距離を詰め――――
ジェイソンの腹部を、全力で蹴り飛ばした。
ジェイソンが食器棚に突っ込み、棚から落ちた食器と、倒れた棚に埋もれる。
食器の山の中で、一瞬のうちにジェイソンは勝利を確信した。
ゼロは熱くなり、必ずこの機に乗じて追撃を仕掛けてくると、ジェイソンは予想した。冷静さを欠いたゼロの攻撃に合わせ、ゼロに機関銃を全弾撃ち込む。
勝利の道筋を瞬時に思い描き、ジェイソンは聴覚センサーの感度を最大に上げ、ゼロを待ち構えていた。
だがしかし、ゼロが仕掛けてくることは、なかった。
三秒程で、ジェイソンは予想とは違う事態が起こっていることに気づき、食器と棚を振り払った。ゼロの姿はキッチンになく、ジェイソンはゼロを探して、あらゆるセンサーを駆使して居住区内を探った。
ゼロの姿は何処にもない。ゼロが戦闘状況を抜け出すとは思えず、ジェイソンは状況が理解できずにいた。
ジェイソンの極限にまで薄められた感情も、流石に焦りを浮かばせる。ドアを切り裂き、窓際のカーテンを撃ち抜き、ジェイソンはいないと分かっているゼロの姿を探した。
そして、撃ち抜かれたカーテンが床に落ちて、窓から外の宇宙空間が見えた時、ジェイソンはそれを見た。
発射口から地球へ向けて飛び立って行く、一機の脱出艇。クローンのナタリー・クルスが乗った脱出艇。
それから。
発射口の近くで、青い地球を背に立つゼロの姿。
右手の親指と人差し指を立て、形作られた文字はL。指のL字を額に当てて、赤のライトが煌めいて。
ゼロがジェイソンに向けるハンドサイン。それは、“Loser”(負け犬野郎)。
途端、ジェイソンの目前の窓ガラスが割れた。
否、ジェイソンが割ったのだ。左腕の機関銃で、粉々に撃ち砕いたのだ。
それは、感情を極限まで薄められたはずのジェイソンが、まるで怒っているかのようであった。
端的に言えば、ジェイソンはゼロに“キレた”のだ。己より劣る存在であるはずのゼロに、ここまで虚仮にされたことに対して。
ジェイソンは割れた窓に張られたSSSをすり抜け、宇宙空間へと跳び出した。ハンドサインを決めるゼロに向かって、真っ直ぐに。
ライトを赤く、燃えるように輝かせ、ジェイソンは機関銃を撃ちながら、ゼロの近くに着地した。
ジェイソンの機関銃は、まだ弾が残っているらしい。ゼロはローラー移動で銃弾を避け、電動鋸を回転させる。
ゼロが鋸で外壁の一部を切り取った。
ゼロはスペースデブリの衝突にすら耐える丈夫さを持つ、外壁の欠片を盾にして、銃弾を防ぎながらジェイソンへ近寄っていく。
ゼロは間合いに入ると、外壁の盾をジェイソンに投げつけた。
苛立たしげにそれを跳ね除けたジェイソンが、鋸を突き出したゼロの左腕を掴み、投げ飛ばす。
宇宙空間に投げ出されそうになり、ゼロは急いで手足の磁力を強めた。
外壁に張り付いたゼロを、ジェイソンが蹴り飛ばす。発射口の方へ飛ばされたゼロは、発射口のへりに掴まろうとした。しかし、その上から、ジェイソンがゼロを発射口の中へと蹴り落としてしまう。
斜面になった発射レーンを転がるゼロは、追撃してくるジェイソンの腕をなんとか掴み、ジェイソンと共に落下していった。
ゼロがジェイソンを蹴り飛ばし、ジェイソンを壁にぶつけさせた。
ジェイソンが機関銃でゼロを撃ち、ゼロの全身のパーツが弾け飛んだ。
ゼロもジェイソンも、各々体の各部パーツを壁に削り取られながら、脱出艇の発着場に落下した。
先に立ち上がったジェイソンが、ゼロに機関銃を撃とうとすると、機関銃はカチカチと乾いた音を立てた。弾切れである。
発射レーンを転がり落ちる間に、ジェイソンの装甲は所々が剥がれ、頭部も中身の機構が覗いていた。
立ち上がったゼロが、ジェイソンに鋸を振った。すると、ジェイソンは切られた右脚と、歪んだカメラが映す視界に咄嗟に順応できず、ゼロの鋸を左腕で受けた。
深く刺さった鋸が、ジェイソンの左腕を瞬く間に削っていき、そのまま切り飛ばした。
左腕が切り飛ばされると同時に、ジェイソンがゼロの左肩に鋸を突き刺した。そして、今度はジェイソンの鋸が、ゼロの左肩を切り裂き、左腕を切り飛ばした。
互いに左腕を失くしたゼロとジェイソンは、体中から電流が迸るのも構わずに、鋸を振るった。
居住区へ続く透明の渡り廊下へと入った二機は、太陽の光で輝く地球に照らされて、己の意地を頼りに鋸で切り合った。
体の損傷が大きくなり、ゼロもジェイソンも相手の攻撃を避ける機動力を失っていった。
ジェイソンに手数で負けたゼロは、ジェイソンの鋸に右脚を切断されてしまう。ゼロは跪き、電子回路に過った予測に戦慄した。
目前には、鋸を振り上げたジェイソン。
防御は不可能。振り上げられた電動鋸は、ゼロの装甲を容易く引き裂く。
回避も不可能。右脚を失い、左脚に全体重が乗った今、ローラーエンジンを使っても、回避は間に合わない。
つまりは、ゼロはジェイソンの鋸に、体を両断されるのみ。
鋸が振り下ろされる、その直前。
ジェイソンの背後から、白い腕が伸びた。薄汚れたその腕は、ジェイソンの腕に絡みつき、その動きを止めた。
ダッドである。
ずだ袋を被っていない一人のダッドが、間一髪の所で、ジェイソンの手からゼロを守ったのだ。
ダッドは叫び声を上げながら、ダッドを振り払おうとするジェイソンにしがみついていた。
ゼロのライトにそのダッドの顔が照らされた時、ゼロは悟った。ゼロを助けようと、必死にジェイソンにしがみつく彼女は、ナタリーを探して居住区を走っていた時に、ゼロがずだ袋を取ってあげた、あのダッドだ。居住区の何処かへ消えていってしまった、あの。
ゼロが立ち上がるまで、ダッドは時間を稼いでくれた。
ダッドはジェイソンに引き剥がされた後、鋸で腹を貫かれ、床に振り捨てられてしまった。
ダッドが、ナタリーが作ってくれた、最後のチャンス。
ゼロは片足のローラーでジェイソンに迫り、鋸を振る。
ジェイソンもそれに応戦し、二機が死力を振り絞る、最後の切り合いが始まった。
どちらも片腕。ゼロに至っては片足であるにも関わらず、二機の体を動かす速度は凄まじい。己の誇りと存在意義、そして意地。彼らを動かすのは、互いに絶対に譲れない魂だ。
ジェイソンの鋸の刃が、ゼロの首に当たる。回転する刃がそのままゼロの首を切り飛ばすと思いきや、ゼロは首を半ばまで切られながらも、ジェイソンの頭部に鋸を突き刺した。
ジェイソンは頭部の一部を削り取られ、衝撃に倒れた。その拍子に、ジェイソンの鋸がゼロの頭部を抉る。
ゼロもジェイソンも、頭部の装甲が抉られ、ライトも割れてしまっていた。それでも、二機の戦いは止まず、鋸は休むことなく振り上げられた。動かすだけで部品が外れ、漏電が悪化し、機体が悲鳴を上げる。
機体の限界を超えて、二機は最後の一手を繰り出した。
ジェイソンが振るった鋸が、ゼロの頭部へ振り下ろされる。ゼロは咄嗟に、ジェイソンの腕を掴んだ。
ジェイソンに与えられた、ゼロよりも優れた性能が、この土壇場で明確な差となって表れた。
腕を掴むゼロの手を押し返して、ジェイソンが鋸をゼロに近づけていく。ゼロは力の限りに、ジェイソンの腕を食い止めようと踏ん張った。
性能も、残されたエネルギーも、ジェイソンに劣るのだとしても。ゼロは諦めなかった。
何故なら――――
何故ならゼロは、知っていたからである。
勝負というものは、最後の最後には、ハートの熱い奴が勝つのだと、知っていたから。
ゼロはナタリーのためになら、誰よりも、何処までも、熱くなれるのだと、分かっていたから――――
ゼロはジェイソンの鋸を徐々に横に逸らし、勢いをつけ、一気にジェイソンの正面から跳び出した。床に転がったゼロに、ジェイソンがとどめを刺そうと、鋸を突き出す構えを取る。それに遅れて、ゼロも鋸を振り上げた。
ジェイソンの一撃を確実に受けるであろう、無謀な攻撃だった。
ジェイソンの鋸が、ゼロの胸部に突き刺さる。しかし、ジェイソンの鋸を身に受けて尚、ゼロは鋸を高く、大きく振り上げて――――
“いいか? ゼロ。これだけは覚えておけよ。勝負ってのはな――――”
ジェイソンは、ゼロの赤く輝くライトに、確かに恐怖した。
どれだけ感情が薄められていようとも、ジェイソンは魂を賭けたゼロの姿に、己の知らぬ未知の力を見たのである。
“最後の最後には、ハートの熱い奴が勝つんだ!”
そして、理屈と想像を超えたゼロの一撃が、ジェイソンの左肩に突き刺さった。鋸の刃が回転し、ジェイソンの体を左肩から腰部にかけて、真っ二つに切断した。
青く輝く地球が見える渡り廊下に、両断されたジェイソンの体が転がった。
激しく漏電し、ジェイソンの電源装置が爆発を起こす。煙を上げながら、ジェイソンの機体は崩壊していった。
ジェイソンが首を動かし、ライトを地球の方へと向けた。
ジェイソンのライトから光が消える最期の瞬間、ゼロには、ジェイソンのライトが青く輝いたように見えた。
ジェイソンもまた、地球に憧れていたのだろうか。
ゼロにはもう、知る由もない。ただ、ジェイソンに対する微かな同情が、ゼロの胸に湧き上がるだけで。
地球の明かりに照らされて、ジェイソンの無残に引き裂かれた機体が、ゼロのカメラに映っていた。
ゼロは勝った。
ジェイソンは機能を完全に停止して、もう動くことはなかった。
ゼロは壊れかけの体を引きずって、ジェイソンに殺されてしまったダッドに歩み寄った。
身を挺してゼロを守ってくれた彼女。ゼロは心の中で、彼女にお礼を言って――――
もう遅いと分かっていながらも、その頭を優しく撫でてあげたのであった。
ゼロは少しの間、地球を見つめていた。
(脱出艇に乗ったナタリーは、無事地球に着けただろうか)
ゼロはそんな心配をしながら、体のバランスを崩して床に倒れた。
残された電力はあと僅か。左腕と右脚を失い、頭部を酷く破損し、割れたライトとカメラが映す視界は狭い。
ローラーを駆動させようとすると、ゼロの左脚が激しく煙を上げた。左脚から力が抜け、ゼロの体が床に倒れてしまった。左脚が破損と体の重さに耐えきれず、壊れてしまったのである。
ゼロが這いずりながら、居住区の方へと向かい始めると、ヘブンズガーデンの静けさを掻き消すように警報が流れ始めた。
警報と共にゼロに聞こえてきたのは、オリジンの声だ。
「ゼロ……!! ゼロ、ゼロ!! ジェイソンを潰したの!? あなたは、自分が何をしたか分かってるの!? 私の手術に、ジェイソンは絶対に必要なのに!!」
オリジンは怒り狂っていた。オリジンの未来を奪ったゼロに、掠れた声を張り上げて。
「もう終わり!! 何もかも!! あなたのせいで、私たち家族の計画は台無しになったの!! ゼロ!」
ゼロが渡り廊下を進んでいく。渡り廊下を出て正面にある、警備室にいるであろう、オリジンの下へ向かうためだ。
「ヘブンズガーデンに残された爆弾全てに起爆命令を出した……。もうじき、ヘブンズガーデンは跡形もなく崩れ去る……。もう各所で爆発は始まっている。誘爆が続いて、全ての爆弾が起爆される。もう、止められない。ゼロ。私と一緒に、あなたも殺してあげる」
ゼロは進む。
このヘブンズガーデンで、ゼロがやり残した最後の一つ。ゼロはそのために、唯一動かせる右腕だけで、体を引っぱっていく。
「ゼロ……。そんなに、そんなに私が憎い……? あなたを見捨てた私が、そんなに嫌い……?」
“ゼロ、ナタリーのこと、よろしくね”
「私、変わったでしょ……? 自分のために人を殺して、人の体を壊して遊ぶようになった……。今の私は、あなたには化け物のように見えているでしょう? イーストンとステラが何の実験をしているか気付いてしまった時、私は自分の運命を知り、生き延びるための罪を背負うと決めたの」
“さあ、ゼロ。今日もナタリーを頼んだぞ”
「ゼロ。あなたとお別れする時のことを、今でも覚えてる……。最期にあなたが、とても悲しい想いをしていたのも。あの時、あなたが私に伸ばした手は、私に助けて欲しかったから? それとも、私の首を絞めるため?」
“ごめんなさい……。ごめんなさい……。ゼロ、ゼロ……”
「もういいでしょう? ゼロ。あなたはジェイソンを壊して、私への復讐を済ませた」
“あなたのこと、ずっと大好きでいるから……”
「だから、もう私の所へ来ないで。お願い。私はもう、あなたに会いたくないの……!」
“だから……、私のこと、嫌いにならないで……。ゼロ……”
「ゼロ……! お願い、お願い……! 来ないで……!!」
そして、ゼロは遂に辿り着いた。
居住区の中心にある、ヘブンズガーデンの警備室。オリジンが、本物のナタリーがいる部屋へ。
「私をぶたないで! 私に痛いことしないで! お願い! お願いだから!! ゼロ!! 私を……、私を……!」
ゼロは床から手を伸ばし、ドアノブに手を掛けて――――
「私を、許して!!」
その扉を、開けた。
警備室に入ったゼロに、ナタリー・クルスは鉄パイプを振りかぶった。
ゼロのカメラに映ったのは、二十歳とは思えぬ皺だらけの老いたナタリーの容姿と、艶を失った乾いた髪。そして、ゼロに向けられた、恐怖に染まった双眸。
病気のせいで深く老けているとはいえど、成長したナタリーはステラによく似ていた。
ゼロはナタリーに鉄パイプで殴られて、頭部のパーツを散らした。ナタリーは何度もゼロを叩き、ゼロは一切抵抗せずに、それを身に受けた。
「来るな、来るな、来るな!!」
叩かれる度に、ゼロの体から部品が飛び散って。壊れていくゼロにお構いなしに、ナタリーは怒りをぶつけ続ける。
「どうして私の言うことを聞かないの!? 私のことがそんなに嫌いなの!? ゼロ! ゼロ! ゼロ!!」
ゼロのライトが青く光るのにも、ナタリーは気が付かず。
「私を気色悪いと思ってるでしょう!? 頭がいかれた殺人鬼だって、年寄りみたいな顔だって、そう思ってるんでしょう!?」
次第にナタリーは手が痛くなってきて、鉄パイプを床に落とした。
何の抵抗もしないゼロを、ナタリーは息を切らせながら、不思議そうに見つめていた。
(ナタリーは、一体どれだけ悩んできたんだろう)
ゼロのいない長い時間は、ナタリーを変えてしまった。
彼女の体を蝕む病気と、このヘブンズガーデンが、ゼロの知らない間に、ナタリーを別人のように変えてしまったのだ。
他の女の子と同じように生きたかった女の子。ナタリー・クルス。
警報が鳴り響く中、ゼロはナタリーにゆっくりと近寄った。
「私とあなたは、違うの。あなたは機械。私は人間。あなたには、私の気持ちは絶対に分からない……」
残された右腕で、動かなくなった左脚と体を引きずって。
「止めて……、ゼロ。もう、全部壊れてなくなるの。だから、私を殺しても意味ないの……。お願い……。お願い……、ゼロ……!」
ゼロに怯えた目を向けるナタリーを――――
「私に、痛いことしないで……」
ゼロは優しく、抱きしめた。
恐がって、暴れようとするナタリーを、ゼロの右腕が包み込む。
ずっと、ナタリーのために生きてきた。
今までも、これからも、ゼロはナタリーのために全てを懸ける。
例え、何があっても。ゼロはナタリーが幸せになることを願って、頑張り続けるのだ。使命だからというだけではなく。ナタリーの友達として。ナタリーが、いつも笑っていられるように――――
「ゼロ……?」
ゼロの腕の中で、ゼロの顔を見上げるナタリーの目からは、もう怯えは消え去っていた。
ナタリーはゼロが何を想っているのか、その時ようやく理解した。
青く光るライトと、ナタリーの体を気遣う手の力。
ゼロの冷たい腕に抱かれ、ナタリーは懐かしい胸の暖かさに涙した。
「ゼロ……。ゼロ……!」
ゼロとナタリーの間に、言葉は必要ない。
ナタリーはゼロの胸で、ただただ泣いていた。
これまであったことを話すように。どんな辛いことがあって、どんな想いでナタリーがそれを経験してきたか、語るように。
十三年という時間、ナタリーは溜め込んできた想いの全てを、涙に変えてゼロに伝えた。
「ゼロ……。ごめんなさい……。ごめん……、ごめんね……」
やがて、ヘブンズガーデンの各地で爆発が起こり始めた。大きな揺れが、ゼロとナタリーを襲う。
ゼロはナタリーに急いで脱出艇へ向かうよう、指で示した。ゼロはもう動けない上に、ナタリーが運ぶには、ゼロは余りに重すぎる。
だから、ゼロはナタリーに自分を置いて、早く逃げるように示すつもりで、ナタリーに軽く手を振って見せたのだ。
でも。
「ううん……。行かない。ゼロを置いてなんて、私は絶対行かないよ」
ナタリーはそう言って、ゼロにそっと寄り添った。ゼロはナタリーに逃げて欲しかったが、ナタリーの気持ちを汲んで、その肩を抱いた。
警備室の開いた扉の向こうに、爆風が巻き起こった。煙が入って来て、ナタリーが咳き込み始める。
「ゼロ……。ごめんね。地球で一緒に本物の青空を見るって、約束したのにね……」
ナタリーがゼロの首に抱き付いて、そうささやくと、ゼロがナタリーに警備室の外を指差した。
ナタリーがゼロの指差す方へ目を向けると、そこには――――
青く輝く、綺麗な地球が見えた。
警備室の正面にある、透明の渡り廊下から見える地球は、昔と変わらぬ輝きをゼロとナタリーに見せてくれた。
「綺麗だね……。ゼロ……」
また何処かで爆発が起こり、警備室に煙が充満してきて、ナタリーの咳が酷くなっていく。
ゼロはナタリーを煙から守るように抱きかかえた。意味などないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
そして、次に起こった爆発が、ゼロとナタリーの運命を分かつ。
その爆発によって、居住区と渡り廊下の重力装置が壊れ、ゼロたちの体が宙に浮かんだ。
ナタリーはその時、ゼロの運命を悟ったのである。
「ああ……、そうか。そうだね……。ゼロ。きっと、あなたはまだ、死んじゃいけないんだね」
ゼロはナタリーに、再び脱出艇を指差した。
この無重力下なら、ゼロたちは一緒に脱出艇へ向かうことができる。
(ナタリーを地球に連れて帰れる。一緒に、帰ることができる!)
ナタリーを助けることができると、ゼロは喜んだ。
しかし、ナタリーは――――
「いってらっしゃい。ゼロ」
ナタリーはゼロの胸から離れた。
ゼロはナタリーを、不思議そうに見つめた。
「私はここに残る。私には、ここから出る資格はない。でも、あなたは違う。あなたにはまだ、守らなきゃいけない人がいるでしょう?」
ゼロがナタリーの考えに気が付いた時には、ゼロの体はナタリーに押され、宙を後退し始めていて――――
「こんな私にも、ずっと優しくしてくれて、ありがとう」
ナタリーはそう言って、ゼロだけを警備室の外へ押し出した。
「さようなら。ゼロ――――」
ゼロの浮いた体が、慣性のままに脱出艇へ続く渡り廊下を飛んで行く。
最後にゼロが見たナタリーの顔は、昔と変わり果ててしまっていても、とても、とても穏やかで――――
「地球に帰れた、もう一人の私を、よろしくね」
何よりも尊い、綺麗な笑顔で――――
ゼロが脱出艇の発着場に着く直前、居住区で爆発が起こった。爆風がナタリーを包んで、ゼロからその姿が見えなくなって。渡り廊下の向こうに見える居住区は、ナタリーごと、原型を留めぬ程に崩れていった。
脱出艇に乗ったゼロは、地球へ向けて飛び立った脱出艇の窓から、外を見た。
そこには、内部からの爆発で崩れていくヘブンズガーデンの姿があった。
クルス夫妻が娘を救うために作った、スペースコロニーの最後だ。
ヘブンズガーデン。天国の庭。
かつて、そこは確かに天国のような場所だった。いつの間にか、狂気に包まれた地獄と化してしまったけれど。
けれど――――
確かにそこには、幸せな時間もあったから。
だからゼロは、ナタリーたちとの思い出を胸に、ヘブンズガーデンの最後を見届けた。




