二
「ふんふん、糖蜜パイさん~♪ 待っててね……って、あれ」
軽快なステップとともに、鼻歌交じりでスズはキッチンへと向かう。
自分のせいで、キョウリ達の空気が微妙な雰囲気になってるのも気にもせず、ご機嫌な様子だったスズだが、ふと前方の人影に足を止める。
その人物はキョロキョロと辺りを見回しては、廊下を行ったり来たりと怪しさ全開の動きを見せていた。この場にヒヅキがいたなら「ありゃー、絶対通報されるね」と呆れた声を出していたかもしれない。
「もしかして、ロナン? あれ、今、休暇中じゃなかったっけ」
「スズさま! いえ、ちょっと長様にお知らせしたいことがあって」
ロナンと呼ばれた、銀縁の丸いメガネをかけた小柄な少年は、スズの声に驚いたように振り向き、顔を真っ赤にした。
忙しなく両手を左右に動かして「あの、お元気そうで、よかった」と呟くところは残念ながらスズには届いていない。 ロナンが動くたびに、腰元まであるだろう、三つ編みに結われた灰色の髪が揺れ動く。
「ふうん、ルカ様に?」
「は、はい。ちょっと急ぎお知らせしたいことがありまして、もう起きていらっしゃるでしょうか?」
「こんな早い時間に来てしまったのでどうしようかと思って、その」と最後の方は小さな声となる。それにスズが困ったような怒ったような表情を浮かべた。
「相変わらず、ロナンは声が小さい。ヒヅキみたいに大きな声でツッコミできるようにならなくちゃ」
「え? つ、ツッコミ? は、はい。がががんばりま」
「いやいやいや、頑張らなくていいぞ!? スズ、なんで大きな声からツッコミになるわけ!? ロナンが困ってるだろ」
「えー」
物凄い勢いで駆け寄ってくるなり、全力投球並みのツッコミをするヒヅキに、ロナンが「こんな風にならなくちゃいけないんだ、うん」と小さく呟いた声は、誰の耳にも届いていない。
スズはヒヅキに頬を膨らませた。
「むう、これはいい案だと思うの。だって、ツッコミ担当するヒヅキの声は大きいでしょ? だから、ツッコミ人間になれば大きい声になると思うの。ね、ロナン」
「そ、そうですよね。えぇ、たしかに」
「なにが確かにだよ?! 俺はツッコミしたくてしてるわけじゃないからな?!」
「え? そうなの?」
「え? そ、そうなんですか?」
目を真ん丸にして「ツッコミ体質なヒヅキ(さま)が?」と、驚いた表情を浮かべるスズとロナンに、少しいらっとしたヒヅキである。誰がツッコミ体質だとブツブツ呟いていたが、ロナンを見て、あれっと声をあげた。
「ロナン、なんでここにいるんだ。お前確か……」
休暇中じゃなかったっけと、ヒヅキに言われてロナンがはっとした顔をする。
「は、はい。そうなんですけど、いえ、ちょっと長様に」
「用があるんだって、なんだかちょっと急ぎみたい」
「おい、急ぎならここで足止めさせちゃダメだろーが。えーっとロナン、ルカなら執務室にいるぞ。ただ、今は別件で話してるけど」
「別件? ですか?」
「そうそう、別件! ふふん、今ね! もう、物語に出てくるようなカップルさんがお話してて」
「……スズ、ほんっとにやめろ。あの兄ちゃん、キョウリが怒るぞ。お前のせいで部屋の雰囲気微妙になってっからな?! ミケが居づらそうな顔する程にな!?」
「か、カップル、ですか?」
きょとんと不思議そうな顔をして、小首を傾げるロナンにそうなのとスズが嬉しそうに頷く。
「うん、カップルになる一歩手前? かもだけど。もー、ヒヅキったら、あれはちょっと気恥ずかしい雰囲気になってるだけ。きっと今後の展開にいいスパイスになるわ」
「ならねーよ! でも、まああれだ。行ってきてくれ、ロナン」
「え? で、でも」
そんな雰囲気の中を入っていく勇気がないですと呟いたロナンに、ヒヅキがぐふふと笑う。意地の悪い笑みだ。
「だろ? そこにな? お前が言って場の雰囲気壊してくれ、頼む。あれ……マジでつれぇんだ」
「えぇ! そんな無茶ぶりされても! ぼ、僕はただ用が、カップルさんの邪魔をするなんてそんな」
顔を真っ青にさせ、いやいやと横に振るロナンに、ヒヅキがいけいけと身体全体でゴーサインを出す。そんな一人と一匹の様子に、スズが腰に手を当てて怒り出した。
「もう、ヒヅキったら、ふたりの甘酸っぱい雰囲気はロナンくらいじゃ壊れないんだから! きっと、今頃いい展開になって」
またも妄想が始まりそうな気配を感じ、ヒヅキが慌ててスズを仰ぎ見る。
「そ、そういやスズ、糖蜜パイどうなったんだよ」
「ああ! そうだった。すっかり忘れてた」
途端――スズのお腹がぐうと鳴る。大方、小夜たちのことが気になって朝ごはんも食べずルカの元へ訪れたのだろう。ぐうぐうと鳴るお腹に、スズがよれよれと体をふらつかす。
「うう、ごめん、糖蜜パイ持って行くからヒヅキ達は先に戻ってて。私も早く戻って二人を見守らなくちゃ」
よくわからない使命感を燃やすスズに、ヒヅキは口元引くつかせる。胸中は「頼むからこれ以上、キョウリを刺激しないでくれ」の言葉で埋め尽くされている。
あの絶対零度の瞳は恐ろしいのだ。
「じゃあね、ロナン。ヒヅキ、小夜たちの邪魔はダメだからね!」
「は、はははい」
「わかった、わかった。あっ、いでにさ、ふっわふわの白パンとかキッシュとか色々持ってきてよ。甘いのだけじゃつまんねぇもん」
「了解」
ヒヅキの言葉にびしっと親指を立て、猛ダッシュでキッチンへと向かって言ったスズを一人と一匹は見送り、顔を見合わせる。
「あの、ヒヅキさま」
「まぁ、雰囲気壊してほしいのは冗談半分に本気半分なんだけどな」
そう言葉を一度切って、瞳を細めてロナンを見上げる。
「ロナン……お前が休暇と称して任についていたことは知っている。何か、あったか」
するとロナンが困ったように、ほほ笑む。
「ヒヅキ様は、ご存知でしたか。……話を聞くために、わざとスズ様を行かされましたね」
「あのなあ。俺は一応、ルカの代理にもなるんだぞ。もうスズは近くにいねーから、そんな無理して明るくしなくていい」
どうせ、スズがこっちへ来る気配分かって、無理してふるまってたんだろと言われ、ロナンは表情を消す。
「お気づかい有難うございます」
「お前はスズに気を使いすぎだっての」
そう言って、小さな肩をすくめるヒヅキの前に片膝を床につけて、頭を下げる。
「貴方様にも聞いてほしい件です。今回の任、事態は芳しくない方へ動いています」
「ロナン」
ヒヅキの声が固くなる。
ロナンは、ただ、静かに瞳を伏せて言葉を返した。
「東国イザミに隠密として入っていた我らが一部隊の二人が内――一人が討たれ命を落としました。もう一人は重体ながら帰還、そしてやはりイザミは彼らと手を組んでいます」
紫香の蝶――呪縛の民と。




