一
今は夜だ、それも深夜。
ゆらりゆらりと浮上した意識から目を何度も瞬く。
ぼんやりとする思考のまま、枕の横にある時計を見れば時刻は午前二時過ぎ、丑三つ時を指していた。
ならば電気をつけていない限り、真っ暗なはず。
――なのに、小夜のまわりはきらきらと淡く光り輝いていた。
まるでそれはお日様の日差しのような光だ。
窓にかかるレースの付いたカーテンがひらひらと揺れる。だが、窓は開いていない、風などない無風状態の部屋で ひらひらと揺れているのにぼんやりとした思いで何故だろうと考える。
ふわり、体が何かに引っ張られる様に起き上がる。
(娘よ、娘よ。さあ起きて、ささげよ……)
あぁ、誰かが呼んでいる。
うまく回らない思考回路で、部屋のベランダへと出る。つっかけをかろうじて足にかけ、見上げた先は大きな満月だった。
(ささげよ)
きんっと、頭の中で若い男の声が響く、それは酷く懐かしい声だと思った。
どこで聞いただろう?
(娘、玉を捧げよ)
ぎょく、玉とは何のことだろうと、ぼんやりした意識の中で暫し逡巡する。
ふと――こつりと首元にかかるペンダントが揺れる。
ああ、きっとこれのことだろうか。
そろりと服の中から出して、眼前で揺らす。
淡い月灯りを浴びて輝くひしがたの黄緑がかった黄色い石。紺の紐に繋がれ、その先でゆらゆら揺れる。
それは、小夜にとって小さいころから大切にしているペンダントだ。
けれど、それは何処で貰ったのか記憶が曖昧だった。
両親、友人からだったろうか、いや、違う。
これは確か。
ゆらり、深く沈みそうになる意識を必死に引き留め、思い出す。
(覚えているか、娘、それを託した日を)
覚えているか。
そうだ、この声も玉もあの時出会っている。
八年前、小夜が小学校二年生だった夏の頃。
じりじりと灼熱の暑さで都会が茹だる中、比較的涼しい母方の田舎へと帰省したその時に。
◇◇◇◇◇
その年は珍しく親戚一同集まったお盆だった。
そう、確か後にも先にも親戚一同が一斉に集まれたのはその年だけだったのだから。
「そろそろ、決めてもいい頃だと思うわ」
「そうね、もういっそ、うちの亜子に」
「いいえ、あれはうちの子が」
その年の前まで、お盆で殆ど顔を合わせたこともなかった親戚たちが熱心に話をしている。
けれどそれはとても和気藹々と言ったものではなかった。みんながみんな、眼を鋭くし、キツイ顔で声を荒げ怒号を飛ばし合う。
居間で繰り広げられるその光景は、ひどく殺伐とした雰囲気が漂っていた。
それを遠くの部屋――中庭を挟んだ向こう側からびくびくと小夜は見ていた。
小夜と同じように その様子を廊下から覗き見ている親戚の子たちは、なぜだろうか、怖がってなどおらず。彼らは「私があれをほしい」 「僕のだよ」と――こちらはこちらであまりよい雰囲気はなく揉めていたのだ。
――アレがほしい。
それがなんのことだか分らなかったが、小夜には関係ないと思っていた。
だって母は――とても気まずそうな顔をして部屋の 隅っこで彼らの会話をただ聞いているだけのようだったから。
父親は一緒に来れなかった。
母はそのことを「お仕事の関係で 一緒に来れないのよ」と悲しそうに、 そして苦しそうに言っていたが、 後になってあの親戚たちが入れなかったのだと気づいた。
毎年、母方の田舎へは父も一緒に来ていたのに。
他の親戚は疎らだったけれど、小夜たちは毎年決まって挨拶に訪れていた。
けれど、その年だけは来れなかったのだ。
彼らが一同に集まったその年だけは。
そうして話し合いは夜遅くまで続いた。
深夜まで続いている会話は、段々と眠気により遠くに聞こえた。
がらんとした大きな和室。
夏の夜風に揺れ、ざわざわと音を立てる草木から薫る緑の匂い。
真っ暗な部屋から、 少しだけ障子をあけて外を見れば、暗い闇を煌々と光るまぁるい月と小さな無数の星が地上を照らしていた。
暗闇は苦手であるはずなのに、母の家では全く怖いと感じなかった。
それどころか時折吹く風が、 どこからか聞こえる小川のせせらぎ。
虫たちの鳴き声が優しく小夜を包んでくれているようで安心して眠れた。
その時もそうだった。
小さなタオルケットに包まって、うとうとしていたのだ。 その場所に安心しきっていて、忘れていた。寝るときは母と一緒に、夜は一人になってはだめだと。
泊まりに来るたび、言われていたことを。
ざわりと草木が揺れる。
風が吹いたのだろうと思ったのに、開かれた戸からは風が吹いてきていなかった。
ならば、野生の動物か野鳥が揺らしたのだろうか。
うつらうつら眠気でぼんやりする思考でそんなことを考えていると、その音に混じる声があった。
『愚かしい』
低い、しわがれた老婆の声で吐き捨てるように呟かれた言葉。
聞いた事もない声だった。
先ほどまで聞こえていた親戚たちの声は掻き消え、それが近くに聞こえる。
この声は、どこからするのか。
ひやりと肌が粟立つ。
初めてだった、この家で怖いと感じたのは。
眠い目をこすり、誰かいるのか確かめようと重い瞼を開けようとした。 眠気のせいで開かない瞼の先、 見えないのに、遠いところに確かに無数の影が見えた気がした。
『なぜ人は、どの場所でも変わらず争うのかね』
『面倒な言の葉を持つ者たち、あのような者たちにあの要を守ることなどできはしないだろうに』
『どうしてあの中に包んでしまわれたの、我らが親愛なる……』
ざわざわとざわめく草木に混じり、聞こえる声は幼い子供のような声から青年の声、少女の声と様々だった。 まるで歌うようにあちらこちらから囁かれる言葉は、どれも温かみを感じない冷たい声音だった。
囁きはゆっくりゆっくりと草木の音に混じりながら更に大きく近くなる。
思わず息をのもうとして「っ」と小さな声が漏れた。
すると、ひやりと空気が揺れ動いた。
『おや、この小娘はワシらの声が聞こえるようだ』
『人でありながら聴くことができるとは珍しい、もしやこの童……いや、 そんなことよりも、この童に我らの声を被せてしまってはどうか』
『それはいくらなんでも無理だわ、私たちの声は人には強すぎる』
『きっとこの子は、声に埋もれて消えてしまうだろうよ』
ざわり、草木が大きく揺れ動く。どくり、どくりと心臓が大きな音を立てて脈を打つ。 この声の主たちは、何を言っているのだろう。
なぜ、彼らの声が辺りに響くたび、こんなにも室内は冷えて闇が 深まっていくように感じるのだろう。
きんっと冷えていく室内はまるで冷凍庫の中にいるようで、体が震えた。
何か見えぬものが小夜の体に重くかかってきている。
『小娘、目を開けよ、目を開けよ』
ぐわんぐわんと、頭の中に直接響く声。開けたくても目が重く開けられない、体が固まる。
ついっと、それは小夜の髪を引っ張るように触れた。
『お前に、被せ託してみようか……我らの望み』
あぁ、頭が痛い。冷たく、重い。ぐるぐる頭の中が回る。 彼らの言葉が、重く体にかかってきている、そう、何故か思った。
押しつぶされる、重みに苦しみに耐えかねて意識を手放そうとしたその時だ。
あの声が響いたのは 。
(止めよ、それ以上かけてはその娘は潰れてしまうだろうに――)
凛と、響いた声が室内の空気を換えた。
ざわめいていた声は消え、普段と同じ空気が戻ってきたのがわかる。 眠気とは違う意味で意識が霞む中、 再び誰かが小夜の髪にさわりと触れた。
それはまるで落ち着かせるように、優しくゆっくりと髪を梳いてくれた。
(大丈夫だ、落ち着いて、もう重くない)
ふわりとその声とともに、軽くなる体に小さく息が漏れた。
(すまない。けれど――お前ならば……)
それは何と言っていただろう、急速に沈む意識で声は次第に聞こえなくなった。
翌朝、目覚めたときに親族たちの甲高い悲鳴と苛立った声、そして小夜の手に握られていたあのひしがたの玉。
母が顔を真っ青にして抱きしめてきた。
それが小夜の人生を変える第一歩となることをその時は思いもよらなかった。
そうだ、何故、あの声を忘れていたのか。
(娘、やはりそなたに預けてよかった、頼む……を)
一層眩しくなる光の中、またあの声は霞んで消えていった。




