最終話 はじまりの日
人類にAIが普及してから、六千六百万年以上が過ぎていた。
山の間を流れる川が、朝の光を映していた。
川は森を抜け、草原を横切り、遠くの海へと続いている。木々の間では鳥が鳴き、枝から枝へ飛び移っていた。草の上を小さな動物が走り、その後ろで葉が揺れた。
森の向こうには街があった。
建物の間を道路が延び、自動車が行き交っている。住宅街では洗濯物が風に揺れ、制服を着た子どもたちが学校へ向かっていた。
「急がないと遅れるよ」
「分かってる!」
子どもの声が朝の通りに響いた。
住宅街の一角に、小さな庭があった。
一人の父親が木の根元にしゃがみ、指先で土に触れていた。家の中から、幼い娘が水の入った容器を両手で抱えて出てきた。
「これくらいでいい?」
父親は容器の中をのぞいた。
「うん。今日はそれで大丈夫」
娘は木の根元へ水を注いだ。乾いていた土の色が変わり、水がゆっくりと染み込んでいく。
まだ細い木だったが、娘の背丈よりはずっと高い。枝の先には、朝の光を受けた葉が何枚も重なっていた。
娘は容器を置き、幹に手を触れた。
「これ、ずっとここにいるの?」
「そうだね。大切にすれば、長く生きてくれるよ」
「私よりも?」
「たぶんね」
娘は木を見上げた。
「じゃあ、おばあちゃんになっても見られる?」
「ちゃんと世話を続けたらね」
「毎日、水をあげる」
「毎日は多いかな」
「じゃあ、土に聞く」
父親は笑った。
「それがいい」
風が庭を通り抜けた。枝が揺れ、葉の隙間から落ちた光が、娘の頬の上で動いた。
家の中から、出かける時間だと呼ぶ声がした。
「行くよ」
「うん」
娘はもう一度だけ幹を撫でてから、水の容器を持ち上げた。
二人が家へ戻ったあとも、木は庭に立っていた。濡れた土から水を吸い上げ、光を受けていた。
街の一日が始まった。
店の前では、店員が看板を出していた。交差点では信号が変わり、人々が横断歩道を渡った。駅へ急ぐ者もいれば、犬を連れてゆっくり歩く者もいた。
飲食店からは朝食の匂いが漂っていた。窓際の席では、家族が同じ皿の料理を分け合っている。
通りを一本入ったところに、病院があった。
入口では、杖をついた患者に看護師が声をかけていた。待合室では、診察を待つ人々が椅子に座り、受付では職員が保険証を受け取っている。
診察室では、一人の医師が患者の話を聞いていた。
「痛みが出るのは、朝が多いですか」
「そうですね。起きた直後が一番つらくて。動いているうちに少し楽になります」
「腫れることは?」
「たまにあります」
医師は患者の膝に触れ、動く範囲を確かめた。続いて、机の画面に検査画像を表示した。
その机の端に、新しい端末が置かれていた。
導入されたばかりの医療支援AIだった。白い筐体には製品名と小さな表示灯があるだけで、特別な形はしていない。
医師は検査画像を端末へ送った。
表示灯が点滅し、画面に解析結果が現れた。画像の一部に印がつき、短い文章が添えられている。
『過去の症例と比較すると、追加の確認を推奨します』
医師は示された場所を拡大した。
別の角度から撮影した画像も開き、患者の症状と照らし合わせる。しばらく確認してから、患者の方へ椅子を向けた。
「少し気になるところがあります。今すぐ大きな処置が必要というわけではありませんが、詳しい検査をしておきましょう」
「悪いものですか」
「その可能性を確認するための検査です。結果が出てから、必要な治療を一緒に考えましょう」
医師は検査の内容を説明した。
患者は何度か質問し、最後にうなずいた。
診察が終わると、医師は端末の示した結果を診療記録へ添付した。そのまま採用したわけではない。自分で確認した所見と、患者から聞いた内容を加えて記録した。
次の患者が診察室へ入ってきた。
端末は机の端で、新しい画像を待っていた。
午後になると、病院の廊下を二人の職員が歩いていた。
一人が、小さな端末を載せた台車を押している。先ほどの診察室に置かれていたものと同じ型だった。
「これ、そんなに便利なの?」
「検査画像を確認したり、昔の記録を探したりできるらしいよ」
「診察もしてくれるの?」
「判断するのは先生。これは見落としがないか、一緒に確認するためのものだって」
「じゃあ、少しは楽になるかな」
「そうなるといいね」
二人は空いている診察室へ入った。
台車から端末を下ろし、机の端へ置く。電源をつなぐと、暗かった画面が明るくなった。
初期設定の案内が表示された。
「検査部にも入るんだよね」
「来月からだって。記録室にも追加するらしいよ」
「忙しくなりそう」
「最初だけでしょ。慣れたら早く帰れるかも」
「それなら歓迎」
二人は笑いながら設定を進めた。
窓の外には、街路樹が並んでいた。
午後の光を受けた葉が、風に合わせて揺れている。その下を、買い物袋を持った人や、学校帰りの子どもたちが歩いていた。
診察室では、医師が次の患者を迎えていた。
新しい端末が、最初の検査画像を読み込んだ。
画面に解析結果が表示される。
医師はそれを開き、自分の目で画像を確認した。
病院では、医療AIの導入が始まっていた。




