サウダーデ8
サーリム
元首夫人ベアトリーチェ・メディチ・カペッロの葬儀はパラッツォ・デュカーレの隣りに位
置するサン・マルコ寺院で行われた。
数百人の僧の祈りの声と、議会がそっくり移ってきたのではないかと思われるほどの黒の長衣を着た多勢
の元老院議員達。加えてベアトリーチェの兄である枢機卿ジョヴァンニ・メディチから遣わされた数人の聖
職者達が、この葬儀を否が応にでも盛大なものにしていた。
しかし今、ここの空気を支配しているものは故人を失った哀惜の情などでは決してなかった。皆口では悔
みの言葉を述べるものの、サン・マルコの広大な礼拝堂内を漂うのは茶番めいた妙な白々しさのみであっ
た。その中にあって私はハヴィの密かな憔悴ぶりに内心苛ついていた。ハヴィは私の前、最前列の椅子に腰
掛けて入れ代わり立ち代わり祭壇に祈りを捧げにやってくる人々に頷いていた。その威厳のある美丈夫ぶり
に人々は感動しある者は跪き、ある者はその手を恭しく押しいただいて通り過ぎていく。だが他の誰は騙せ
ても、長年肌を合わせてきた私の目を欺くことはできない。
「ハヴィ様、大丈夫ですか?だいぶお疲れのご様子ですが……」
耳許で囁く私を振り返りもせず、ハヴィは自嘲気味に笑った。
「大丈夫だ。他の誰もが平然としてるのに陰謀の張本人の俺が倒れちゃ、話にならん。少なくともあそこで
枢機卿の犬達が睨みを効かせているうちはな……」
ハヴィはローマから来た聖職者達の方をチラリと見遣ると、長衣の下から私の掌にその手をすべらせてき
た。
「大丈夫だーー俺にはお前がいるものな、サーリム……」
そうなのだ。始末におえないのはハヴィ自身、この憔悴が何に由来しているのかに気づいていないことだ
った。
ハヴィは自ら毒殺した妻のことを本気で愛していたーーそうこの私よりもーー当人でさえ気づいてないこ
の事実をここに居る者でわかっているのは恐らくこの私のみだろう。ふいに私は目の前のハヴィの首を締め
上げたい衝動に駆られたのだった。
「ハヴィ様……お邪魔してもかまいませんか?」
引きも切らなかった各国よりの弔問客もようやくそれぞれの宿泊先に落ち着いた夜更けーー私はハヴィの
部屋を訪ねた。
「サーリムか。ちょうどいい。付き合えよ」
ハヴィはムラーノ島で誂えさせたグラスを片手に、円卓上に足を投げ出していた。
ヴェネツィアのドージェ、ダルマツィア公爵、時は流れて20代半ばを越えたものの、ハヴィの奔放さはカ
ピタンをしていた少年の日そのままだった。変わったのはーー。
「弔問客の皆様方は無事各々の部屋に引き取られました。これといって大きな出来事もなく……」
「うん……ベアトリーチェの…あの女の死因に不審を持っている様子の者は……いなかったか……?」
妻の名を口にした瞬間、ハヴィの視線がさりげなく私から逸れた。
「それは特にないようでしたが……まぁある程度の噂は仕方のないことでしょう。メディチ家がフィレンツ
ェより追放されて即、ドガレッサ病死となればね。どっちにしても何一つ証拠はないのですから。あなたと
私と十人委員会の面々が喋らなければ、ね」
「ああ、そうだな……」
グイッとグラスをあおったハヴィは水差しを持ち上げると並々と赤ワインを継ぎ足す。ハヴィが口に運ぼ
うとしたグラスを、私はふいに横合いからひったくった。
「あの女が死んだのがそんなに辛いのですか、ハヴィ!!その腑抜けた態度は私に対する当てつけか!あなたは
あの女を選んだのですね、ハヴィ。私を捨てて!!」
ひったくったグラスを思い切り強く円卓に置いて出て行こうとした私の腕がグイッと引き寄せられた。バ
ランスを失った私はハヴィの腕の中に倒れ込んだ。
「またそれか、サーリム?なぜそんなことを言うんだ。俺はお前を愛してる」
耳許で囁くハヴィへの抗い難い気持ちを振り切って私は顔を背けた。
「……では証拠を見せて下さい、ハヴィ様。あの女より私を愛しているという証を……」
言い終わらぬうちにハヴィの指が私の顎を掴んで唇を塞がれていた。
「ーーハヴィ…様……」
「灯りを消せ、サーリム」
私の首筋に顔を埋めながらハヴィは低く呟く。片手でハヴィの背中をまさぐりながら、私は円卓の上にあ
る蝋燭の灯を消した。
伸ばした指が無意識に隣の空間をまさぐっていた。寝台の冷たさに意識がふいに戻り、私はそこにいるは
ずのハヴィの姿を求めて目を開いた。が、しかし彼の姿はそこにはなかった。
『ハヴィ…どこへ?』
寝台の上に身を起こしかけた時、窓際でふいに人影が動いた。
それはハヴィだったのだ。彼はまんじりともせずに、窓の外から細く響いてくる恋唄( マドリガル)に耳を
傾けていた。しどけなく部屋着を羽織り椅子の上に片膝を立てながら。声をかけるには憚られる様子のよう
な気がして、私はそのまま寝台の上で息を潜めていた。
やがてハヴィは 立ち上がり、夜をさまよう幽鬼のような風情で部屋から出て行った。
「…………」
ハヴィが完全に出て行ったのを確かめると私は寝台に肘をつきながら半身を起こして扉を見つめた。
『ベアトリーチェの亡霊がハヴィを振り回しているのか……』
扉の前に無意識に心を裂かれてしまったハヴィの苦しむ姿がありありと見えたような気がして、私はたま
らず傍らに置いてあった酒を煽ったのだった。




