第七十三音 カナミ一音還身
桜色と紫の光が、白い空間の中で人の形を結んだ。
最初に見えたのは髪だった。
ピンクと紫が混ざる長い髪。
次に、白と淡紫の装束。
そして、右が深紅、左が藍の瞳。
カナミが、そこに立っていた。
完全な肉体ではない。
光で編まれた、一音だけの姿。
それでも、詠の目には確かに人として見えた。
「カナミさん」
詠が呼ぶ。
カナミは振り返らず、ディスコードを見上げていた。
「久しぶり」
その声は、震えていなかった。
ディスコードの巨大な白い気配が揺れる。
「カナミ」
呼び返す言葉には、初めて明確な乱れがあった。
「お前は、消えたはずだ」
「消えてない」
カナミは右手を上げる。
指先に、一本の弦が光として巻きついた。
かつて《咒縛弦》と呼ばれた祝具の残滓。
堕ちた名前の奥に残っていた、祝音少女だった頃の一音。
「私は、あの子たちの中にいた」
カナミは詠たちを振り返った。
「しつこく呼ばれたしね」
「ごめん」
詠が言うと、カナミは少しだけ笑った。
「謝るな。助かった」
その一言だけで、詠の胸がいっぱいになる。
けれど、カナミはすぐに前を向いた。
「一音還身は長く保たない」
ミヨリが低く言う。
「カナミ、無理をすれば」
「わかってる」
「なら」
「わかってるから、今やる」
ミヨリは言葉を止めた。
カナミの輪郭は、白い大否律に削られながらも立っている。
それは弱々しい光ではなかった。
数百年、誰にも届かない場所で鳴り続けた音の、最後の強さだった。
「詠」
カナミが呼ぶ。
「はい」
「泣くな」
「まだ泣いてない」
「泣きそうな顔をするな」
詠は唇を噛んだ。
カナミはそれを見ずに続ける。
「私は一人で前に出るわけじゃない」
彼女は《祝華》の弦を指さした。
「そこに、あなたたちの音がある」
澪が《音幻》を構える。
「支える」
琴羽が《花奏鍵》の光を広げる。
「包む」
天音が低く拍を置く。
「足元は任せろ」
理央が譜線をカナミの周囲へ伸ばす。
「一音還身の維持時間を観測する。可能な限り補助する」
「堅苦しい」
カナミが少し笑った。
「でも、頼む」
ミヨリの鈴が鳴る。
「ワシも律を開く。行くなら今じゃ」
カナミは頷いた。
詠はその横顔を見て、初めて気づいた。
カナミの手は震えている。
声は強い。背筋も伸びている。いつものように少し意地悪で、強がった言葉も出てくる。
それでも、指先は震えていた。
数百年ぶりに自分の姿で立ち、音を否定する存在の前へ向かおうとしている。
怖くないはずがなかった。
「カナミさん」
詠が呼ぶと、カナミは横目だけを向けた。
「何」
「震えてる」
「見ればわかる」
「止めないの」
「止めたら、もっと怖くなる」
カナミは小さく息を吐いた。
「だから、震えたまま行く」
その言葉に、詠は何も言えなくなった。
怖いまま行く。
その音は、ここまでずっと続いてきた。
そして、ディスコードへ歩き出す。
白い空間が彼女を押し返そうとする。
大否律が、光の体から意味を削ろうとする。
それでもカナミは止まらない。
「私はね」
カナミが弦を弾いた。
一音。
それだけで、白い空間に亀裂が走る。
「数百年、あなたの元で音を鳴らし続けた」
「音は無意味だと、何度も聞かされた」
「信じかけた。何度も」
弦がもう一度鳴る。
今度は、詠の《祝華》の中に宿ったカナミの残響が応えた。
「でも、信じきれなかった」
ディスコードの気配が沈む。
「なぜだ」
「私の音が、消えなかったから」
カナミの声はまっすぐだった。
「あなたがどれだけ否定しても、私の指は音を覚えていた。誰にも届かなくても、弾きたいって気持ちは残っていた」
「それは執着だ」
「そうかもしれない」
カナミは認めた。
「でも、執着でも、残った」
彼女は弦を強く弾く。
桜色と紫の音が、白い空間を切り裂いた。
その音は五人の音と違う。
七つの祝音とも違う。
一人分の音。
カナミだけの祝音。
「これが私の音」
カナミが言う。
「一人分でも、本物だから」
ディスコードが揺れた。
「一人では世界は変わらない」
「知ってる」
「なら、なぜ鳴らす」
「届けたいから」
カナミは少しだけ詠を見る。
「あの子たちに教えてもらった。届かなくても、届けたいって気持ちが消えないなら、まだ終わりじゃない」
詠は涙をこらえられなかった。
カナミは苦笑する。
「泣くなと言っただろう」
「無理」
「なら、あとで怒る」
「うん」
カナミは再びディスコードへ向き直った。
「あなたに言いたいことがある」
白い空間が静まる。
「数百年、言えなかった」
カナミの一弦が、朝の空へ響く。
その響きに、詠は第三譜の灰色の戦場を思い出した。
届かない音に意味なんてない、とカナミは言った。
また失うだけだ、と突き放した。
けれど、本当はずっと言いたかったのだ。
否定の言葉の奥に、別の言葉を隠していた。
数百年、誰にも届かなかった一言。
それを今、ようやく鳴らそうとしている。
「でも今日、言う」
ディスコードは動かない。
カナミの光が、さらに強くなった。
「逃げるな」
その声に、ディスコードの白い気配が初めて後退した。
カナミの一音還身は、まだ続いている。
けれど、その残り時間が短いことを、誰もが感じていた。
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