儀式の間
一幕欠けた芝居のように、アディにはまるで状況が理解できなかった。師の喉元に突き付けられた切先を呆然と見つめ、ようやく助けを求めて見渡せば、マリエル、コルベットもラエルの背に刃を押し当てていた。
二人の目にも動揺はあったが、行動には迷いがなかった。キャスロードが命じるまでもなく、まるで申し合わせたかのように、二人は王女の行動に連携していた。アディの知らない条件が、例えばラエルを怪しいと示す行動のようなものが、何処かであったのかも知れない。
コルベットは短剣を翳したまま、空いた手でラエルの背から杖を奪った。施術を圧縮する術具がなければ、剣は詠唱より遥かに迅い。工房に篭る魔術師の体力で、従騎士に敵うはずもない。
「少し、誤解があるようですね」
何よりアディが驚いたのは、ラエル表情だった。喉元の切先を知覚しているはずなのに、一切、動じた様子がない。アディが的外れな質問をした際に見せる、困惑と寛容の口許をしていた。
「第三市環跡の隆起も、黒い獣の大量発生も、全く私たちの預かり知らぬこと、むしろ、私はその要因を知りたいとさえ思っています」
アディはその言葉に安堵したものの、気づいて思わず問い返した。
「私たち?」
ラエルはアディに顔向け、指先で自分のこめかみを叩いた。
「カーディフはここに、彼の記憶は確かにあります、一〇年前から」
殊更、大した事でもないように、ラエルは呆気なくそう答えた。
キャスロードが喉の奥で唸るような声を洩らした。握り直した斧槍の先が、ラエルの喉の前で小さく上下する。それでもラエルは表情を変えない。そのまま、再びキャスロードに向き直った。
「人格は、今となってはわかりません、記憶と人格は不可分です、それは私の中でひとつになってしまった、どちらでもあり、どちらでもなし、もう分かつことはできないでしょう」
「だが、王印を剥奪することはできる」
ラエルの言葉に被せるように、キャスロードが声を上げた。対峙するキャスロードは、構えた得物の重さにではなく、押さえ込んだ感情に震えているように見える。堪えているのは焦りと怒りだ。
ラエルは広間の先に向けて、微かに顎を上げて見せた。
「あの王笏ならできるでしょう」
ラエルは口許に困惑を表している。白板に描いた戯画のように、わざと表情を作って見せている。言葉は平板で、意思疎通には補完が必要だ。例えそれが本心でなくても。王女のような素直な表情は、もう無意識に作れない。
「殿下がそこまで知り得たとは驚きました、その上、その王権武具で私を試すようなことまで、ああ」
言葉を切って、ラエルは嘆息を挟んだ。魔術の知覚はキャスロードの頬を這っている。そこにある微細な動きは、言葉よりも正確に情動をラエルに伝えた。
「クランに会えたのですね、殿下」
キャスロードは歯を食いしばって沈黙を保った。呼吸さえ止めてラエルを睨む。だが、ラエルの知覚は容赦なく、押し隠した表情から事実を引き摺り出した。
「でも、消えてしまった」
マリエルとコルベットが息を呑む。キャスロードに目を遣り、言葉を無くした。堪えようと吸い込んだ息が、キャスロードの喉で、きゅう、と鳴くような音を立てた。ラエルを睨め付けたまま、頬にぼろぼろと涙が零れ落ちる。
「返せ、クランを今すぐ」
堰を切ってキャスロードが叫んだ。第一市環の西翼、拘留棟の外でラエルと会った時から、ずっとその言葉を堪えていた。この場所に、王笏の前に誘い込むまで必死に隠して来たのだ。
ラエルは表情なく首を振った。
「今はまだ、あと少し古魔術を研鑽すれば叶うでしょう、ですが」
喉が裂けそうな呼吸の音を立て、キャスロードの斧槍の先が大きく揺れた。
「モルダス老師もあなたの仕業ですか、アル・ラース」
コルベットが慌てて言葉を挟んだ。切っ先の危ういキャスロードを見て、思わず話の先を奪った。マリエルも同様に感情が振れている。迷いのおかげで、まだラエルを斬らずに済んでいる。
杖を奪ったとはいえ、ラエルに油断はできなかった。彼は魔術師である以前に、人の感情を読み取り、駒のように操る。コルベットには何よりも、誰よりラエルを知るラディが、この状況に呆然として役立たないのが腹立たしかった。
「モルダス老の封印は失敗でした、対抗され、施術も完全ではなく、何より彼の招致を阻止できなかった、やはり大魔術師は偉大だ」
「クランのことか、貴様はクランの友ではなかったのか」
キャスロードが唸る。
「殿下、理解は望みません」
平坦な声のラエルの目許に、アディは稀有なものを見た。無意識の情動だ。正確には、情動を取り繕う肌の騒めきだ。ラエルは説明を拒んだのではなく、その答えを持ち合わせていないのだ。
アディの目がラエルと合った。師の頬に朱を垣間見た刹那、アディは破裂するような耳鳴りに襲われた。頭の中で大きく膨らんで、内側から圧迫される。遠くに囁くような声は、まるであの時の。
「アディ」
コルベットが焦って名を呼ぶと、アディは膝から崩れ落ちた。皆が身動ぎ、視線を巡らせた瞬間、ぱん、と大きく空気が弾けた。まるで巨人が腕を薙ぐように、身体が宙に飛ばされた。
鏡のような床石を滑り、転がる。マリエルは咄嗟に風に身を任せ、誰よりも早く身体を起こした。斧槍を抱えたキャスロード、杖ごとひっくり返ったコルベットは無事だった。辺りを見渡し、確かめる。
ラエルは何事もなく佇んでいた。足許にアディが蹲っている。目指して駆け出すマリエルの前を、黒い突風が掠めた。反射的に飛び退る。霧か、煙か、黒々とした霞が眼前を埋め尽くして行く。
広間の奥、檀の上の王笏を見つめるラエルの姿が、黒い壁に立ち消えた。
しくじった。マリエルが呻く。躊躇わず足の腱を切るべきだった。剣の一振りでこの事態を阻止できたはずだ。師匠ならそうしていただろう。知人であれ、魔術師ならば喉まで掻き切ったに違いない。
ラエルを追おうとしたマリエルは、眼前の黒い霧に触れる寸前、転がるように跳び退いた。身体の方が先に気づいた。思い至ったのはその後だ。これは黒い獣と同じ霧に違いない。否、黒い獣そのものだ。
視界を黒く塗り潰した塊には、人を束ねた太さの四肢と、小屋ほどの胴体があった。頭は遥か上だ。燃え立つような鬣が、蛇のように畝っている。その全容を見渡すには、数歩下がっても足りなかった。
キャスロードを目指してマリエルは駆けた。刹那、粟立つ感覚に身を伏せれば、黒い塊が宙を薙いで行く。体を返して斬り上げるも、泥に刃を埋めるような感触があった。束の間は散るが、すぐに戻る。
粘性の霧、物質化した炎、巧い例えが見つからない。ただ、影の濃さで剣の手応えが変わるようだ。濃度を維持した動作は鈍いが、その巨体は、速さを埋めて余りある。何より、黒い残滓に触れただけで、無数の針で刺されたように身体が痺れた。身を躱す動作は、思いのほか大きく取らねばならない。
「殿下、退きましょう」
マリエルが叫んだ。
「駄目だ、ラエルを追う」
キャスロードは駆けながらそう返した。とはいえ、自身はマリエルに目を遣る暇もなく、ただ攻撃を避けるのに精一杯だった。前を塞ぐ黒い獣を躱し、走り抜ける隙も、隙間も見つけられない。
「やっぱり、そう言うと、思いました」
前肢を避けながらマリエルが応えた。大振りなのが幸いだが、体躯の差があり過ぎて避ける距離が尋常ではない。このままでは、じき体力が尽きる。脚が縺れようものなら一撃で終わりだ。
「コルベット」
「無理」
背中から即答された。離れて獣を睨みながら、コルベットは詠唱を繰り返している。まだ准魔術師の従騎士は、防御、治癒、回復が本分だ。使える戦魔術は趣味の域でしかない。
「殿下」
キャスロードの周囲が陰った。獣の前脚は辛うじて避けたが、勢い余ってたたらを踏む。その背に大顎が迫った。風に打たれた帆布の音と、青臭い刺激臭がする。身体を捻って斧槍を斬り上げた。
黒い霧の塊は、思いの外に硬かった。刃が下顎に食い込んで、柄ごと身体を持って行かれる。獣が頭を振る動作に乗って斧槍を返し、そのままの勢いで床に飛び降りた。転ぶように走って逃げる。
「我を喰おうなど、百年早いわ」
上擦った啖呵を切って、必死に走った。
駆け回る二人を遠目に、コルベットは詠唱を重ねている。物理保護と心肺強化だ。いずれ、黒い獣に対する直接的な対抗手段はない。今の施術さえも、杖に収めた予備詠唱を使い尽くせばお終いだ。魔術師が実戦に堪えるのは、事前の予備詠唱があればこそ。序文から延々と術式を詠む間、相手が待っていてくれるはずもない。
詠唱するたび杖が軽くなる気がする。勿論、それは錯覚だ。詠唱管を排出するような、機械式なら兎も角も。コルベットの杖は定難易度の記憶式だ。
「あ」
コルベットは慌てて辺りを見渡した。ラエル師から取り上げた杖は何処へ行った。持ち去られはしなかった、はずだ。出現した黒い獣に撥ね飛ばされたとき、確かに胸に抱えていた。
黒い獣に押し返されて、皆は広間を後退している。コルベットは獣の奥に目を凝らした。黒い霧の先に蹲るアディが垣間見え、その手前、獣の後肢の近くにラエルの杖が見えた。
「マリエル」
思わず名を呼び、杖を指さす。持って来て、と叫ぶより前に、マリエルはコルベットの意図に気づいた。一方的な防衛戦の間に、床を舐めるように探るコルベットの姿が見えたからだ。ラエルの杖は、マリエルの視線の先にあった。だが、黒い獣の前肢の向こうだ。
マリエルはコルベットに文句がましいひと睨みをくれた。キャスロードが安全圏に退いてくれることを祈りながら、剣を逆手に替え、大きく息を吸い込むと、獣の懐に向かって駆け込んだ。
黒い獣がマリエルを捉えた。
目の前の前肢が僅かに退いて、波が巻くように杖が逃げた。刹那、前肢がマリエルに向かって薙ぎ払われた。太さは身の丈ほどもある。それはマリエルの眼前を真っ黒に塗り潰した。
仰け反り、膝を折る。脛で滑って、肢を潜った。胸先がチリチリと黒い霧に痺れ、息が止まりそうになる。鼻先の黒を抜けると、杖が膝に触れた。身体を捩じるように転がって、杖を掴む。
剣と杖を左右に握り、マリエルは拳を突いて身を起こした。黒い獣と目が合った。目などないが、マリエルを向いて吠えた。この体勢には逃げ場がない。
キャスロードが間に駆け込んだ。黒い獣が返す肢を、銀の一閃が受け止める。
斧槍は黒の濃い部分に沈み、食い込むように止まった。踏ん張ったキャスロードの両足が、獣に押されて床を滑る。マリエルが駆け出したのを見て取ると、キャスロードは刃を返して跳び退った。
「策はあるのか」
キャスロードが走りながらマリエルに問う。
「コルベットが直ちに」
マリエルが叫び返した。杖を低く構えて勢いをつけ、コルベット目掛けて滑らせる。コルベットは、ぎゃあ、と声を上げ、矢のように走る杖に飛びついて、そのまま床を転がった。
コルベットの悪態に背を向けて、マリエルはキャスロードに駆け寄った。
「殿下は後ろに」
「馬鹿を言え、我の斧槍しか刃は通らん」
ここは堪える一択だ。コルベットに策が出るまでは、黒い獣を押し留めねばならない。
「うわ、何だこれ、ぜんぜん解らねえ」
背中にコルベットの不穏な呟きが漏れ聞こえた。微妙な視線を交わして、キャスロードとマリエルは左右に駆け出した。大広間の壁はもう近い。押し潰される前に、相互に獣の気を引いて進行を止める他なかった。
コルベットは唸った。魔術師の杖は詠唱の補完だが、個人仕様で造られている。下敷きの型はあるはずだが、ラエルの杖には跡形もなかった。幸い、頻繁に手を入れる癖があったのか、分解だけは容易にできる。
とはいえ、コルベットは中を見て頭を抱えた。機構の半分も理解できない。機械化詠唱のあちこちに、体系の異なる術式が混じっている。大公を名乗るもむべるかな、大空洞で見たあれだ。
理解するのは後だ。魔術師のやり方ではないが、それがどうした。髪を掻き毟りながら、コルベットは微細な刻印を辿る。組み換えた術式を符に書き殴り、杖に貼りつけて行く。今は動けばよい。
キャスロードとマリエルは獣の両手を走っている。一方が留める隙に獣を抜けば、ラエルに辿り着ける。だが、容易にはいかなかった。獣の攻撃を振り分けたところで、巨体は容赦なく二人を押し返した。だが、壁際に離れたコルベットも、すぐ背中にいる。これ以上は退がれない。退がる余地がない。
銀の斧槍は刺さるが故に、キャスロードを翻弄した。食い込めば悪戯に振り回され、跳ね飛ばされる。相手はまるで城のようで、キャスロードの一撃は何の致命傷にさえなり得なかった。
キャスロードはとうに息が上がっている。薄くとも幾重に触れた霧が、全身を針で包むように蝕んでいる。それはマリエルも同じだ。互いに無駄なく獣の注意を奪って、時間を稼ぐ他にない。
「そいつを押さえといて」
不意に届いたコルベットの声に、マリエルは一直線に飛び出した。捨て鉢に笑うコルベットと交差する。だが、策も理由も問う時間が惜しい。黒い獣を横切って、キャスロードの許に走った。キャスロードは鼻面に食い込ませた斧槍を、黒い獣と引き合っている。
獣の顎が高く仰け反り、天井に吊られた照明を粉々に砕いた。キャスロードが斧槍ごと跳ね飛ばされ、端切れのように宙を舞う。剣を投げ捨て、マリエルはキャスロードの下に疾り込んだ。
辛うじて抱き留め、もんどりを打つ。
頭を床に振り下ろした黒い獣は、懐に走り込むコルベットに気がついた。鼻面で追うが、近すぎる。だが、爪も牙も必要ない。この距離ならば、身動ぎひとつで黒い霧に埋まるだろう。
だがそれは、自ら獣の身体に飛び込んだ。無数の符で巻き固めた二本の杖を頭上に掲げ、コルベットは引鉄の詠唱を口にした。すでに身体は麻痺していたが、機械式の杖は歪な時計の音を立て、残った詠唱管を吐き出した。




