対決
暗い直線の通路の奥、開け放たれた扉の向こうで声がした。
低く通る冷厳な声、気怠くも恬然とした男の声、健気に強がる幼い声に、エレインの身体が反応した。戸口に潜んだラルクとラエルは、辛うじて彼女を押し留め、室内の様子を探った。
通路から壁一枚を隔てた部屋には、魔術装置と思しき真鍮と硝子管が積み上げられている。天井の薄明り、装置群に灯る青い灯、奥の隣室はさらに明るい。その前に、人影があった。
カーディフとキャスロードだ。痩身の影が身を屈めるように立ち、その脚の中ほどに小さな影が藻掻いている。二人の背後の隣室からは、青い光と時計仕掛けの音が漏れ出していた。
カーディフがキャスロードの腕を掴んで後退る。王女はクランに向かって手を伸ばし、振り払おうと藻掻いている。対峙するクランは、擦り切れた外套を翻し、憮然とした顔で立っていた。
「あまり騒ぐと手が抜けるぞ、キャス」
埃と傷に塗れていたが、クランの飄々とした姿は変わらなかった。
「カーディフ、今さら何の意味がある」
抗う王女に声を掛け、変わらぬ口調で大公に問う。なぜ殿下を連れ回すのか、そう訊ねている。キャスロードの王印が目的ではなかったのか。それとも、この問いは時間稼ぎか。
「確かに、もう無意味かも知れないね、先生」
大公の声には、どこか厭世的な響きがあった。
「よもや、ここまで追って来るとは思わなかった」
聞き耳を立てるラルクは、大公の肉声に場違いの感慨を覚えている。カーディフは厨房には遠い存在だ。だが、クランに対する呼び掛けは、モルダスの招聘した学士ゆえか。思えば大公も大魔術師の弟子だ。
「そりゃあ、同感だ」
クランの間延びした声に、大公がまた後退る。エレインが身じろいだ。大公が隣室に逃げようとしている、そう見えたからだ。だが、ラルクはまだエレインの肩を押さえたまま動かない。
大公とクランの間に、薄く黒い影が佇んでいた。その気配の薄さに、ラルクにしては珍しく、微かな怖気を覚えている。
クランを向いて立つそれは、どうやら黒い獣と同じ組成だ。ただ、両の肘から先だけが白い。身の丈は人とそう変わらず、獣のような嵩もない。だが、明らかに気配が異なっている。
「殿下を放せ」
だが、ラルクの耳元に、予想もしない上擦った声がした。
大公が反射的に王女の手を引いて身を翻した。追って飛び出したクランの前を、人の姿をした影が阻む。
ラエルがラルクの脇を駆け抜けた。ラルクの予想の外だった。もしかしたら、自身にさえそうかも知れない。焦りと自身への怒りに感情が堰を切った、それも後の分析に過ぎない。
振り切れたラエルに、影が向きを変えた。だが、その一拍の隙に、ラルクは影に追い付いた。ラルクの一閃が辛うじて影の白い腕を掠め過ぎる。影はその場に佇んで、ラルクに初めて注意を向けた。
術式に組まれた条件付けだろうか。あるいは別の理由か。いずれにせよ、影はラルクの対応に優先順位を高めた。勢い、ラルクはその気配に止められ、ラエルを追えなかった。ラルクを値踏みする影の仕草は、まるで人のようだ。
隣室の前で、ラエルは大公に組み付いた。王女を押さえる手を振り解くも、ふたり縺れて隣室に転がり込んだ。宙を泳ぐ王女にクランが届いた。抱えて転がり、戸口に身体を打って声を上げた。
石の扉板が戸口に落ちて、不意に隣室の光が立ち切れた。悲鳴が上がった。今まで誰も聞いたことのない、エレインの悲鳴だ。この部屋に取り残されたのは、呻きと薄明りと新たな焦燥だった。
「そいつは呼び損ないの英雄の影だ、説得は無駄だからやめておけ」
王女を抱え込んだクランが、ラルクに役に立たない情報を投げて寄越した。
当のラルクに余裕はない。黒い獣とは正反対の理由で、相手が読めない。傍目にはゆるりと映る動作だが、剣筋が尽く阻まれる。その白い腕で、影は難なくラルクの刃を弾き落とした。
ラルクの剣戟の無意識に潜って、エレインは悪夢の中を泳ぐように王女を目指した。ラエルはカーディフと共に隣室に閉じ込められた。クランはキャスロードを抱えたまま蹲っている。
影がエレインに意識を向ける。ラルクがその一瞬に死角を穿つ。だが、それも何事もなく弾かれた。ラルク自身さえ思いもよらず、仄かに口許が綻んだ。こうも軽くあしらわれるのは、師匠との初戦以来だ。
「エレイン」
キャスロードが名を呼んだ。蹲るクランにしがみついたまま、体を捻って手を伸ばす。
「早く、殿下をここから」
クランは片手で王女を抱えたまま、壁に打った半身を擦り上げるように立ち上がった。キャスロードはしがみついたまま離れない。エレインはクランを急かしたが、彼は首を振った。
「この扉はキャスにしか開けられない」
クランの言葉に息を呑み、エレインは背中の打ち合いを振り返った。素人目にも、ラルクが押されているのはわかる。あれは獣の比ではない。王女を連れて逃げるのが最優先だ。
クランはしがみつく王女に声を掛けた。
「キャス、扉を開けて」
「や」
キャスロードは叫んでクランの胸に顔を埋めた。顔を擦るように何度も首を振る。大公に寝所を連れ出され、何度も同じように扉の解錠を強要されたに違いない。嫌がるのは当然だ。
「クラン、今は」
エレインは焦って叱咤した。吐息でクランの髪が揺れる。彼女の指を握る小さな手がクランの胸にあるせいで、頬が触れるほど近かった。間近に深淵を覗くようなクランの黒い瞳がある。
「キャス」
クランはエレインの指ごとキャスロードの手を掴み、扉の中ほどにある紋に寄せた。
「うー」
王女が真っ赤になって抵抗する。
クランはエレインの肩越しにラルクを探すと、剣戟の最中に目を合わせ、しばらくそいつを押さえていろ、と視線で伝えた。この状況で、と叫び返すのを堪え、ラルクは影の頸を切り上げた。
払う腕に合わせて捻る。剣先が折れ飛んだ。刀身が空を切り、勢いラルクは影の懐に転がり込む。半身が黒い霧を掠めた途端、無数の針を突き立てられるような痛みが走った。
一拍、影と目が合った。その黒い塊に目など見当たらなかったが、そう感じた。折れた剣を握る手は大きく空に弧を描き、折れ飛んだ切先を受け止めた手は、影の脇腹を突き上げた。
「頑張れキャス、そうしたら褒めてやる」
小砂の擦れる音がした。落とし扉が持ち上がり、足許に青い光が噴き出した。先とは違う、焼けつくような閃光の奔流だった。それは光で部屋を埋め、そして出し抜けに消え失せた。
光に焼き払われたかのように、影は一片もなく消え失せていた。ラルクは独りで立っている。隣室から悲鳴が流れ出た。ラエルの悲鳴かカーディフの声か、その判別はつかなかった。
戸口に肩を突いていたクランは、扉が失せると同時に、王女を抱いたまま隣室に転がり込んだ。引かれてエレインも折り重なる。白煙と青臭い刺激臭が、辺りを霧のように埋めていた。
魔術装置の立てる音が、ひとつひとつ小さくなって、やがて、その部屋には大空洞の風の音だけが残った。




