虎と羊の小冊子 その八
虎と羊の小冊子 その八 です。
由里子が立ち上がり千弦さんと拳を交えようとしたが、決着は一瞬だった。由里子が左足を蹴り出すよりも先に、千弦さんは由里子の軸足となった右足を蹴り飛ばし重心を崩した。バランスを崩した所へ下顎に右の掌底を突き上げると、がら空きになった胴体に右肘を入れて由里子の顔を歪ませた。最後の決め手は由里子のこめかみ目掛けて打ち込まれた左手の掌底だった。揺れに揺れた由里子の脳は意識を絶たれた。
中村さんは動かなくなった由里子の体を足蹴にして次は依里子と言わんばかりに近づく。
依里子は悪魔を見るような目で怯えながら後退りして、ベッドの縁に引っかかってそのまま倒れた。
「なんで、あんたはいつも邪魔をするの」
「なんでもなにも、全部あんたたちが招いた種でしょう?」
「お願い。やめて」
消え去りそうな依里子の声が聞こえる。その直後、鈍い音と共に短い悲鳴が上がる。
中村さんが依里子の顔面に右掌底を打ち込むと、ズルリと白目を向いて、鼻が潰れて鼻血を垂れ流した依里子の顔が見えた。
ベッドを赤く染めながら、依里子はぴくりとも動かなかった。
「あ、やばい。このままだと窒息死する」
女の顔を潰しておいておきながら変な配慮をする千弦さんだった。
ともあれ、僕らは助かった。安堵すると急に腰が砕けてしまいそのまま座り込んでしまった。もうこのまま立ち上がれないのではと思えるくらいの脱力だった。
指一本を動かすのも億劫な僕に桜子ちゃんが手を握ってくれる。変わらずこの子の手は暖かかった。
「なしてあんな無茶なことをしたん? うちは大丈夫ってゆったが?」
目を潤ませながら僕に説教する桜子ちゃんに、君を守りたかったからとは言えなかった。由里子が言っていたとおり僕は恥ずかしい男だ。
「桜子。井上さんを責めるんじゃなくて、まずは褒めてやれよ。井上さんが頑張ってくれたから、こうして俺達がいるんだぞ」
加藤が入らぬフォローを入れる。僕はただがむしゃらになって足掻いただけだ。助けたのは君だと言いたかった。
「井上さん」
僕を呼ぶ桜子ちゃんの頬は少し赤かった。僕が中村さんみたく強い男であれば、こんな顔にならなくて済んだのにと、またへこんでしまう。
「守ってくれて嬉しかったで。だんだん」
桜子ちゃんに優しく抱きしめられる。僕のしょうもない小さな劣等感は綺麗に消えた。
「桜子が感謝の言葉も言えたし。ここから出るとしますか。次はどこだ?」
加藤が調子よく言う。
次の小冊子もそうだけど、その前に確かめないと。
「春生は何処だ? あいつが加藤たちを助けたんだろう?」
「そげだ。お兄ちゃんも一緒におるんでしょ?」
「春生くんが? それどういうこと?」
中村さんが驚いて僕らを見る。加藤も思い当たることがないみたいで、首を傾げた。
どういうことだ?
僕らはお互いに抱いた疑問を話しあいたかったが、いつまでもこの部屋に留まることは出来なかった。依里子が気を失ったためホテルに張られていた結界が消えてしまうからだと中村さんが教えてくれた。
部屋を出る間に僕は振り返って無残な姿で意識を絶たれ姉妹を見た。
「渡辺姉妹はどうするんですか?」
「あいつらはうちの上司に任すよ」
「吉田さんですか?」
「どうせ暇しているんだし、ここを出たら連絡しとくよ」
連絡するのはすげー嫌だけど、と中村さんは付け足した。
「ほんに中村さんって何しちょらい人だで? 手榴弾を持っちょったり、格闘技もなんかすげーの身につけとらいし。したら泥棒の上司もおらいが? マジで意味がわからんわ」
桜子ちゃんの問いに中村さんはくすりと笑った。
「なんだで?」
「ごめん。やっぱり兄妹なのかなーって思ったんだ」
当然、そんな曖昧な答えに納得しない様子の桜子ちゃんだったが問い直す気にはなれなかったらしい。
「唯一、言えるとしたらさ。女なんて謎めいたところがあると魅力的じゃない? 三代目泥棒アニメに登場する謎の女スパイみたいにさ」
海外でもアニメは有名だしなーと妙に納得する僕がいた。
廊下に出てエレベーターまで一直線だったが、思った以上に僕の体はボロボロで歩くこともままならなかった。そんな僕を加藤と桜子ちゃんが支えてくれる。情けないけれど、これがいつもの僕だ。なにかに憧れることなく自分を受け入れよう。
亀の歩みでエレベーターを目指しながら、僕らがどのような状況に置かれていたのか話し合った。
僕らは由里子の話からして春生が加藤と中村さんを助けに来ていたのだと推測していた。
ところが加藤と中村さんの話では個室の中に捕らわれていたが、自分たちの行動を縛る本の力が解けたことで脱出に成功。そして、由里子を見つけたが、依里子の力によって移動するところだったという。
つまり、加藤たちは僕らが依里子を窮地に追いやったから、由里子を呼び出したことに成功したと思っていたらしい。
「中村さんたちを縛っていた本の力を打ち破ったのは誰かとか気になったんじゃないんですか?」
「ううん。あの縛りを使ったのは依里子だと思っていたの。三ヶ月前に本の管理をしていたのは依里子だからね。だから縛りが解けたのも井上さんたちがひと暴れしてくれたおかげかなーって」
前を歩く中村さんは僕のほうを見ないで一人エレベーターの方へと歩みを進めていく。
それに、と僕の右隣にいる加藤が口添えしてきた。
「由里子が消えたからこれは緊急時だと考えたわけさ。厄介なのは依里子が瞬時移動の本を持っていることだった。きっとあんたらを連れて逃げるつもりだと踏んで、移動先の札は千弦に任せた。そして俺だけが先に部屋へ到着というわけだ」
「でも、実際は、春生が加藤と中村さんの縛りを解いた。そして由里子は春生が来たことを伝えようとしていた所に、依里子に呼び出された」
辻褄が合っている気はするんだけど腑に落ちない。由里子は僕らに向かって全部知っていた、嵌められたとも言っている。それに、僕らの突き合わせた会話の中で矛盾しているところがあった気がする。あの時、僕も必死だったか上手く思い出せない。
「あんな。そんなんはどげでもいーわ。肝心なんはお兄ちゃんがなんでここにおらんってことじゃないだーか」
「それは多分、だけど」
三○一号室から出てようやくエレベーターの前に立ち、下りボタンは中村さんが押してくれた。
「多分?」
桜子ちゃんが覗きこんで聞いてくる。
「春生はこんな形で見つかることを望んでいなからじゃないかな。あくまでも、見つけるのは僕らの役目であって自ら姿を表したくなかった、とか」
「お兄ちゃんらしいっちゃーらしいけど。そこまで徹底する理由がどこにあんの?」
エレベーターの扉が開く。
「本当はあたしらに見えないだけで、すぐそばにいるかもね」
「姿を消すような技術書もあるんですか?」
「ないと思う。春生くんが単独で見つけていたら別だけど」
中村さんが一階のボタンと閉ボタンを押す。
春生が助けに来てくれたと話をした時から中村さんの態度に違和感があった。一週間も行方をくらましていた春生が今になって現れたのにどうしてこんなにも落ち着いているのか不思議なのだ。もっと驚いていいのでは無いだろうか。
「なんていうかさ。もう、ここまで徹底して姿を見せないでいると怒るとか呆れるとかそんな悪い感情すべて飛び越えてすごい男だなって感心しちゃってんだよね。いまのあたし」
僕の抱いた疑問を見透かしたかのように中村さんが呟く。この人もこの人で上手く春生と付き合ってきたのだなと思い直した。
エレベーターから降りてエントランスに出ると、中村さんはホテルから出ようとせずに受付カウンターに繋がっているドアの前にたち、鞄の中から金属の道具を出して鍵を開けた。
中に入る中村さんに続いて僕らも受付カウンター内に足を踏み入れた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
虎と羊の小冊子 その八 は如何でしたでしょうか。
楽しんでもらえたらありがたいです。
あと二日くらいで『虎と羊の小冊子』の章は終わります。
明日も投稿します。
よろしくお願いいたします。




